前回読んだ位置に戻りますか?

花粉症女と五条悟

 春先の風なんて全然心地よくない。
 彼女は不織布の下で盛大に顔を顰めながら、肩で風を切って歩いていた。肩をいからせたような歩き方は彼女の先輩の男たちがよくしているもので、彼らに憧れた彼女も同じようになりたいと、無意識に歩き方まで真似るのだった。
 同級生の七海などは子犬が吠えるような彼女を見て、呆れたように溜息を落とす。彼女はと言えば理知的な同級生の溢す溜息の意味をあまり理解しておらず、今日も七海くんはなんだか疲れているなあ、などと、呑気に見ているばかりだった。
 今年の春は中々温かくならず、三月に入る頃になってようやく分厚いコートを脱ぐことができた。春めいた季節に明るい色の服が着られると喜んだのも一瞬、この学校に通っている限りではあまり着る機会もないことに気づき嘆く。ついで、毎年悩まされているあの黄色い靄。つまり花粉の襲来が始まり、彼女は不格好なマスクの装着を余儀なくされた。
 そう花粉である。あの忌々しい、スギだとかヒノキだとかのあの樹木。入学当初もまんまと花粉にやられたままで同級生との初対面を果たし、マスクの下を鼻水でべとべとにした彼女の「スギだかヒノキだか知らんが風呂の底に沈んでろ」と言う意味不明な文句を聞いた灰原は、意味不明さに笑い崩れて使い物にならなかった。灰原はゲラであるし、彼女は子犬のような見た目ながらも口が悪かったし、七海は「なんだかな……」という気分を二人を見て味わっていた。まあファーストインプレッションとしては悪くなかった。
 で、花粉である。
 彼女は今年も花粉の襲来に寄せてくしゃみ鼻水咳が止まらなくなり、アレルギー薬を飲んでマスクをし、顔を顰めながら歩くことを余儀なくされた。元々薬でも抑えきれずくしゃみや鼻水もひどかったのだが、今日は体が臨界点を突破してしまったようで、べしょべしょとくしゃみが止まらない。今日に限って山の近くの現場へ行くというので、さすがに見かねた七海と灰原に止められて、一人で居残りをしている始末。私だって二人と一緒に行きたかった! その憤懣を抱えながらドシドシと肩で風を切って子犬が歩いていると、少し向こうに二年の先輩の姿が見えた。

「あ」

 せんぱぁい!と子犬がキャンキャン鳴こうとした瞬間、目に見えない大きさの花粉のあん畜生が彼女の鼻腔を擽る。せんぱぁいという可愛い鳴き声は、そのいたずらな花粉によって「せ、ぶえっくしょぉい!!!」という汚ぇくしゃみに取って代わった。尚、先輩たちは振り向いてくれたので、結果としては変わらない。

「せん、ブシ、へぶしっ、おつ、へっくじょ、ィ、ひぶっ」
「エなんて」
「おや高崎は花粉症かい?」
「そ、ぶし、へぶシ、そ、でしゅ、へっぶしょッッ」
「ウウェー鼻水ぐしょぐしょじゃん、キタネー」
「へ、ヘブシっっ」
「こらこら悟、彼女苦しんでるんだから。高崎、薬は飲んでるの?」
「は、はい、へぶッ」
「煙草もダメかな、消すよ」

 家入が気を遣って点けたばかりの煙草を揉み消してくれた。お礼が言いたかったが、くしゃみばかりでそれもままならず、彼女はぐじゅぐじゅ泣きながらあまりに花粉症が酷いせいで、今日の実習任務は七海と灰原の二人で行ったことをなんとか説明した。五条と夏油は顔を見合わせ、家入はヨシヨシと嘆く彼女の頭を撫でた。実家の犬にするような仕草だった。

「それだけくしゃみが止められてないと、不如意に呪霊の注意を引きかねないだろうからね。二人の判断は正しいよ」
「そ、そうですけ、……ヘブシュっっ」

 夏油にはそう諭されたが、それでも彼女は顔をべしょべしょにして実習に置いて行かれたことの文句を垂れ流した。五条はそんな彼女が何かに似ているなあと考え、少し経ってからいつかネットの面白動画で見たパグのひしゃげた顔だと思い出す。お前の顔ひしゃげたパグみたいだな!と持ち前の無神経さと明るさで口にしようとしたが、夏油がその前に彼の尻肉を掴んだ。「イっ」と小さく悲鳴を上げて夏油を睨む。窘めるような視線に、五条は首を傾げながらも、多分パグは言わない方がいいことだったのだろうと納得する。いやいやなんでわかったよ。

「んーでも、花粉てそんなに辛ぇの?」
「個人差があるからね。薬もあまり利いていないところを見ると、多分彼女は特別ひどいんだろうけど」
「フゥン」

 五条は鼻で息を漏らし、夏油から差し出されたティッシュで鼻を噛んでいる彼女を見た。背負っていた鞄の中にはボックスティッシュがいくつも入っており、鼻のかみ過ぎで鼻の頭の皮が少し剥けている。面白がった家入に鼻の頭を突かれて、くしゃくしゃの顔で泣いているのが、ますます哀れであった。
 五条はサングラスをずらして周囲の流れを見た。六眼の解析解像度を上げていくとマイクロ単位の塵のようなものが確かに存在している。なるほどこれかと頷きながら、今度は無下限を起動してその花粉を遮蔽するような術式を組んだ。自身に触れる前にその花粉が弾かれていく。問題なく起動できていることを確かめると、五条は「おい」と彼女に声をかけた。

「無下限で遮蔽できるみてぇだから……」

 ちょっと待ってろと言うつもりだった。しかし驚いたことに、それよりも早く彼女が飛び上がり、五条に飛び込んでくる。驚きと油断に反応が間に合わず、衝撃を受け止めてたたらを踏む。彼女は五条の長身の首に腕を回し、腰に足を回してしがみつくとスン、と哀れっぽく鼻を鳴らした。発達途中の女の、細く小さくそれでも柔らかい体が、ぎゅうっと五条に密着する。驚いたままの流れで、無下限術式は彼女を押し返すのではなくそのまま内部に取り込んで、二人の表層を覆った。

「ほんとだ! くしゃみ止まりました!!」
「……お、おう…………」
「さすが五条先パイ、最強です!!」
「……だ、だろ?」

 意外にもに力のある彼女は五条の首にしがみついたままで、ずり落ちる気配もない。自分の腰を挟む柔く張った太腿の感触と、胸元に押し付けられるぐんにゃりしたものの感触が悪くなくて、五条は考えることを放棄した。マいっか。

「悟……」
「いや抱き着いてきてるのコイツだから」
「スケベ馬鹿」
「だからしがみ付いてるのコイツ!! 俺は何もしていない!!」

 彼女には指一本触れていないと主張するように五条は腕を振り、その五条にしがみついたままの彼女は「なんの話だろう?」と首を傾げた。察しの悪いガキのような女である。
 結局彼女は五条悟に抱きついたまま二年の授業に潜り込み、任務から戻って来た七海に見つかり引き剥がされてくしゃみを周囲に吹きかけた。五条はと言えば、子犬のような後輩が衒いなく抱き着いてくることと、後輩の七海の冷えた目線に愉悦を感じてしまったせいで、後輩の彼女がコアラのようにしがみついてくる度に無下限を発動して花粉遮断装置をしてやっていた。
 そういう阿呆らしい騒動が、約二か月ほど、続いた。







 その日曜日は初夏の風が吹き抜け、爽やかな陽気であった。まもなく梅雨が始まってしまうだろうが、いつまでもこの陽気ならいいのに、と夏油は開けた窓から野外を見て思う。弾けるような青さの新緑が日の光に瞬いており、桜の花も散って久しい。これからどんどん暑くなっていくのだろうという辟易さと、それでも今の環境であればその辟易ささえ、きっと愉快だろうという展望に少し胸が騒いだ。
 天気がいいから、洗濯をしたら五条を誘ってどこかへ出かけようか。家入や一年の後輩を誘ってもいいかもしれない。そんなことを思いながら、洗濯物を抱えて自室へ戻る。洗いあがった洗濯のかごからは、洗剤の香りが少しだけしていた。
 戻る途中の談話室に、その思い浮かべていた五条の姿を見つける。「悟、出かけないか、いい天気だし」 そう言おうと口を開くと、その前に五条が携帯で誰かと喋っている声が聞こえた。

「うんそう、その山でいい。俺の名義で買い上げて、あとこっちの山も。価格は気にしてない、なんでもいいから広さが欲しい。
 あと研究所は? うん、うん、へえいいじゃん」

 …………山?
 夏油は開きかけた口を戻し、五条が談話室のテーブルに広げた資料を覗き見た。どうにも、不動産系の土地価格の資料に見える。あまり投資には興味のない男だと思っていたけれど、目覚めたのだろうか? それにしては違和感がある。そう思っていると、五条が談話室の入口に立っていた夏油に気づいた。相手と数度やり取りをしてから、通話を切る。夏油は違和感を抱いたまま、「や」と小さく眉を上げた。

「天気がいいから出かけないかと聞こうと思ったんだが、忙しいかい?」
「いやもう終わったよ、俺は指示するだけだから」
「ふうん?」
「でどこ行く? 硝子も誘うか、七海たちも?」
「そうだね……」

 夏油は眉を持ち上げたまま息を漏らし、五条がぱたぱたとまとめる資料を見た。山、不動産、時価、ゴルフ場、植林、樹木交配。そんな言葉が資料内に散見される。夏油は洗濯かごを抱え直し、垂れた前髪の隙間からちらりと親友を見た。五条はまとめた資料を茶封筒の中に放り込み、どこへ行くか何をするかとブツブツ案を上げている。

「買うのかい?」
「ん?」
「山」
「んーああ、買った」
「……なんで」
「木、植えようと思って」
「木?」

 こないだ見た映画でさ、と五条が話し始めたのは日本の面積の半分の森林伐採がどうたらという話で、いかにも語る五条のイメージとはそぐわない。それは何の映画?と聞けば、この間パンダと一緒に見たという。思い出した、このところ夜峨はパンダへの情操教育に青ダヌキの映画を見せていた。この永遠の五歳児のような男も、パンダとまとめて情操教育プログラムに放り込まれたのだろう。

「そんで木を植えてさぁ、地球上の緑地を少しでも回復するんだ」
「へぇ……」

 生返事の後に、悟らしくないね、と言おうとしてふと気づく。先ほど見ていた資料の中に、植物の交配研究施設のものもなかっただろうか。緑地回復というが、交配研究などしてどうするつもりなのだろう。効率的に成長する樹木でも開発するつもりか? この男が?

「……何を植えるんだい?」

 夏油が聞くと、五条はにかりと太陽のように笑った。後ろ暗さなどない、思っていない。眩しい眩しい笑顔だった。

「スギとヒノキ!」
「……交配研究施設の資料もあったろ。どうするの?」
「年中受粉させることができれば、苗ができていくスピードもダンチだろ?」
「つまり…………」

 後輩の子犬は、花粉が飛ばなくなったので五条へ抱き着きに来なくなった。もう抱き着かなくていいのか、と腕を広げ構えて聞いた五条に、後輩の彼女は「花粉がいなくなったので! ありがとうございました!」と弾けるような笑顔で言った。七海は深々と溜息を落とし、灰原は笑っていた。

「花粉が飛んでたら、またあいつが来るだろ?」

 五条は小学生のように目を輝かせて、小脇に抱えていた資料を掲げてみせる。夏油は少し虚をつかれた気持ちになったが、多分これは見たままの、小学生のような気持ちなのだろうなと知って、苦笑いを返した。

「七海が怒るよ、また」


一作品のボタンにつき、一日10回まで連打可能です。