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雪融恋来

1.
 一歩、一歩と踏み込むごとにくるぶしまで雪に埋もれていく。一面の白の中で切り結ぶ鋼の音はひどく大げさに聞こえた。そろそろけりを付けねばならず、実弥は何度目かに相手へ踏み込んだ。赤い肌に太鼓腹、目はぎょろぎょろと大きいが血走って濁り、口がぱっくりと割けて覗く口腔内は、毒々しい紫をしていた。醜悪な見た目の大柄な鬼は力こそ強かったが、賢いわけではない。持久戦に持ち込まれるほうが厄介であった。どこで仕掛けるか。実弥はじりじりと間合いを図りながら、鬼の様子をうかがった。降り始めた雪は瞬く間に視界を埋めていき、周りの杉やら欅やらは葉を重たげに撓ませている。ずるり。視界の端で雪が滴り落ちた。おそらく鬼は雪が落下するその音に、微かでも気を取られるだろう。その瞬間に自身の腕を切りつけ、血を流すつもりだった。ちょうど治りかけの傷があるので、都合もいい。雪が落ちる、落ちる、落ちる。それを待っていたはずだった。

「お、鬼ー-!! ひええ!!!」

 雪が落ちるのを待っていた。しかし飛び出してきたのは苛立たしいほど気の抜けた声。突如現れた声の主に、鬼がそちらを振り返る。は叫んだまま躓いて尻もちをついたようで、鬼は見る間に距離を詰めた。ぐわり、と異形の鬼の口が開く。女は愚かにもぎゅうっと目を瞑って身を縮こまらせ逃げる素振りもない。実弥は無理やり飛び上がり、鬼の太い首にとりついた。刀が軋む。ぐうっと刃と骨が削りあう嫌な音がし、鬼がとりついた実弥の足を掴む。満身の力を込めて振りぬけば、足の骨を砕かれる前に鬼の首は血しぶきをあげながら、地へ落ちた。
 ぼたぼた、ぼた。
 女の頬を、降り注ぐ鬼の血が染める。女は子どものように閉じていただけの瞼を押し上げ、鬼の体に取りついている実弥を見上げた。女の白い肌を鬼の血が染めていく。女は子どものように実弥を見上げ、それからぽっかりと笑って見せた。

「さすがです、風柱様!」

 実弥は鬼の体を足蹴にし、大きく舌打ちをした。隠の女は「ワ、わわ、」と間抜けな声をあげ、倒れてきた鬼の体は避けたようだった。ざくり、ざく。降り積もった雪に降りたつと、足が沈む。

「風柱様! お怪我の手当いたします!」
「いらねェ」
「ですが」
「必要ねェ、触んなァ」

 伸ばしてきた腕を払い、ざくざくと雪を踏みしめ山を下り始める。鎹烏の爽籟が舞い降り、実弥の先を行って先導を始める。実弥が殺した鬼の後始末を始めた隠の女が「ふもとの里に宿をご用意しましたぁ!」と大きな声で叫んだ。そこを使おうと使わまいと、あの女はどうせ実弥を見つけて追いかけてくるのだ。舌打ちも溜息も隠すことなく、実弥は山を下った。



 ふもとに用意した宿とは、何をどう言って用立てたのか。用意されていた部屋は丸きり夫婦用のもので、並べられた布団に米神がひきつった。一組の布団は部屋の隅へ蹴りだし、無駄に華美な布団の上に胡坐をかく。爽籟は実弥をここへ案内してから姿を消し、おそらく任務完了の報告と次の辞令を受け取りに行ったのだろう。少しでも体を休めるべきか、と目を閉じれば、宿の廊下からはどたばたと足音が聞こえる。掛け声もなにもなくばしんとふすまを開けて現れたのは、やはりあの隠の女であった。何をどうしたのか、頭から足まで鬼の血と泥に塗れている。曲がりなりにも隠としての自覚はあるのかと頭を抱えたくなったが、女は実弥のそんな様子は気にも留めず、下げていた風呂敷を掲げてにかりと笑った。

「風柱様! 遅くなりましたが夕餉をお持ちしました!」

 もちろんだが、女が持ってきた鍋はひっくり返っており、濃い色の煮汁はすべて風呂敷から滴り落ちていた。実弥は何もかもを見なかったことにするため、布団を頭から引っかぶると、彼女を視界から追い出した。



 女は、風柱専属としてつけられた新任の隠であった。隠であるということも信じがたいような能無しだが、驚くことに元々は剣士志望だったのだという。あまりに出来が悪く、育み手が匙を投げたというのだから知れたものだ。このとぼけた女を自身の専属としてつけると耀哉に言われ、実弥はもちろん丁重に辞退した。世話をしてもらわなくても自身のことは自分で賄えるし、常に他人が周りをうろついているのには虫唾が走る。しかしお館様は是とは言わず、最終的に女は実弥の周りをうろちょろするようになった。
 こんな役立たずな女であれば、隊から放り出してしまえばいいと思ったのが、女の唯一の取柄として、非常に体が丈夫だったのだ。実弥と同じか、もしくはそれ以上に丈夫な体で、鬼に殴られた程度ではぴんぴんしており、実弥の周りをうろちょろしていても大きな怪我を負ったことはない。戦闘中に顔を出して鬼に殴られたり、攻撃を受けたところは幾度か見たがかすり傷で済んでいる。そして実弥が腕に付けた傷も薄くなっていった。ここに来て、実弥は耀哉の真意を悟った。あの女が鬼の注意を引き付けるために、実弥が自身の血を流して注意を逸らすことが格段に減ったのだ。先だっても胡蝶に傷の多さについて苦言を呈されたばかりだから、ついに強硬な手段に出られたということだろう。
 しかし、それにしたってこの女をつけるとはいささか意地が悪すぎるのではないか。実弥は部屋の反対側で鍋を抱えたまま布団をかぶって寝息を立てる女を見る。その健やかな寝息にむかむかとして、実弥はちっとも寝付けそうになかった。






2.
 女は実に奇妙な人間だ。まず第一に、いくら何でも体が強靭すぎる。今日も実弥の後をついて野山を駆け回っていたが、鬼を殺し終わって気づけば女の姿がなく、気まぐれに探してみれば崖下でひんひんと泣いていた。どうやら実弥の後ろをついて走っていた際に、足を滑らせて落ちたらしい。

「何度も風柱様を呼んだんですよぅ。でも、欠片もお気づきになりませんでした…」
「そうかァ」

 鬼を追い詰めている最中に隠が邪魔をしてどうすると思ったが、実弥にそれを指摘するような気力はもうない。そのまま見捨てて山を下りようとすれば、後ろからいかにも物悲しげな鳴き声が聞こえてくるので、実弥は仕方がなく女を背負った。普通は逆だと思うのだが。ひんひん背中で泣いているが、どうせ一日もすればぴんしゃんとして実弥の周りをまたうろちょろとするのだ。実弥がとやかく言うのを止めてからしばらく経つが、とやかく言おうと言わまいと、女が崖から落ち、鬼狩りの邪魔をし、変なところで顔を出してきて実弥に切られそうになる。その間の悪さや要領の悪さには、改善の気配がなかった。ゆえに、とやかく言うことを止めたのである。無駄なので。

「私だって、風柱様のお役に立ちたいとその一心で頑張ってはいるんです。少しでもこの愚図で駄目な私が、風柱様のお役に立てればって。でも、今日も結局このありさまで」
「そォかい」
「私、自分が情けなくて」

 ひんひんひんと背中から鳴き声が聞こえる。一応この女にも自分が役立たずであるという自覚はあるらしい。しかし、全く以てその自覚が行動に反映されていない。実弥は深々と息を吐いた。それを聞いた背中の女が、一瞬息を止めてからさらにひんひんと泣き出す。背中が濡れて冷たかったし、なんなら里についてから見れば、羽織に女の鼻水と涎までついていた。さすがに殴った。



 また、女は食い道楽だ。実弥に付きまとうという任務内容のみは今のところ完遂している彼女だが、食い物には目がなくあちこちの郷里で珍しい料理や出店があれば実弥を引っ張って連れていき、鬼を追うためにしばらく野山へ籠れば、腹が減ったとひんひん泣く。そのせいで実弥は各地の名物に詳しくなったし、三食きちんとまでとはいかなくても、ある程度のところで食事かそれに類するものを口に入れるようになった。女は自分が食べたいとひんひん泣くくせに、上司である実弥が食べないと自分も食べられないとまたひんひん泣いて理不尽を言うのだ。

「おいしいですね、風柱様」
「そォかよ」

 饅頭を口いっぱいに頬張ったは女は、実弥を見上げて能天気に笑う。実弥は押し付けられた自分の分の饅頭をかじり、嚥下した。蒸し立ての饅頭には甘い餡がぎっしりと詰まっていて、なるほど、美味であった。実弥が美味いと思ったのを悟ったかのか、女はふふんといささか自慢げな顔をする。その顔にイラっとして殴ろうとしたとき、それよりも早く女の腕の辺りを過ぎ去ったものがあった。見れば、トンビに饅頭をさらわれている。だだっ広い農道の中、ぼやぼやしている女は、トンビにしてみれば絶好のカモであろう。女は呆然とそれを見送ったあと、はっとした顔をして奇声をあげてトンビを追いかけ始めた。実弥がゆっくりと饅頭を食べ終わるころにひどくしょげたような、しわしわの顔で帰ってきたので饅頭は取り返せなかったのだろう。実弥は彼女の前で、饅頭の最後の一口をこれ見よがしに口に放り込んだ。女は泣いた。



 女は頑固者だ。今回の鬼は上弦の鬼との噂もあったため、流石についてくるなと言っても、聞きやしない。自分の仕事は風柱のそばに如何なるときも控えることで、それに対して危険の度合いは関係がないと言って憚らない。お館様へ上申しても下賜された命の内容が変わることはなく、女はむっつりと押し黙りながら実弥の後をついてくる。いっそ自分が殺してしまえばいいのではないか、と思い至ったのは女が自発的に囮になり鬼を引きつけて嬲られた後のことで、流石の女も血を流してぼろ雑巾のようになっていた。今までと同じように女を背負って山を下り始めるが、根雪も深い山での歩みは遅く、女の体温は吹き付ける風と雪に奪われていくばかりだった。結局、たまたま見つけた洞の中に火の気を炊き、天候が回復するまで待つことにする。女が出てきて囮にならなくてもあの鬼は上弦ではなかったし、実弥は今回も血を流していない。女の代わりに実弥の血が流れたほうが、事はうまく運んだだろう。しかし女は勝手にしゃしゃり出てきて、勝手に実弥の目の前で傷つき、倒れていく。

「風柱様、さむい……」
「だろうよォ」

 外は吹雪で、吹き付ける風の音がうるさい。実弥は女を腕の中に抱き、ぎゅうっと力を込めた。折れそうなくせに、折れない。殺されそうなくせに、殺されない。なら、自分が折って、殺せばいいのではないか。自分の腕の中で雛鳥のように自分を見上げる女を見て、実弥は思った。どうせ、今までだって壊してきたのだ。今更壊したものがひとつ増えたところで、変わりもないだろう。実弥は、この女が嫌いである。






3.
 彼女が付くことになった風柱というのは、実に粗野に見える男であった。服は着崩されて胸板が覗いており、口調は荒々しく目つきが悪い。周りの隠は彼にこわごわ近づいている様子をみて、彼女は狂暴な野良犬に餌を投げていた近所の子どもを思い出した。
 しかし彼が野良犬と違ったのは、威嚇の声ばかりが大きくて実際にはかみついてこないところだった。ぐわりと大きな口を開いて脅かしてみせるくせに嚙みついてはこず、彼女がへまをして動けなくなっていればおぶって連れて帰ってくれるのだ。きっと彼は怖いのだろう、と彼女は思った。何が怖いのかは知らないが、怖いのだ。だから周りを威嚇する。手負いの獣だった。

 風柱はいつも彼女を自分のそばから離して遠くへやろうとしていた。今回も彼女が目覚めれば蝶屋敷で眠り溶かされており、周りに聞けば風柱はもう次の任務に発って久しいという。体はすでに動くようになっており、蟲柱からの許しも出たのでお館様へ風柱の行方を尋ねれば、彼は少し困った顔をして見せた。

「実弥が君を絶対に寄越してくれるなと言って出て行ってね。今回ばかりは、お館様の命と言えど、聞きかねるなどというんだ」
「左様でございますか。で、風柱はどちらへ?」
「君たちって、似たもの同士だろう。なぜそうも反駁しあうのか」
「反駁しあっていますか? 私は風柱様のために動いておりますが」
「彼女、君、わざとしているだろう。実弥が嫌がりそうなことを」

 そういうつもりでもなかったが、彼女は少し図星をつかれた気持ちになりお館様を見上げた。やや考えそれから、「だってね、お館様」 自分のお師匠や、隠の先輩が聞いたら目を剥いてぶち殺されそうな口調で、彼女はお館様へ話しかけた。

「あの方、わざといつもご自身が痛めつけられるような、自分の身を犠牲にするような、そんな行動ばかりなさるんです」
「そうだね、私もそう思うよ」
「ならあの方も、同じ気持ちをなさればいいんです。私やお館様や他の皆さんと同じ、ひどい傷口を見て目を顰めるようなそんな気持ちを、あの方も味わえばいいの」
「それを私達は、言葉でやり合ってくれないかなぁと思うところなんだが」

 呆れかえったようなお館様の物言いに、彼女は堪えた素振りもなくにこりと笑った。

「手負いの犬に、そんなものは通用しませんよ」






 今回担当した山の中で子を攫って消えていくという鬼は、強くなかったが逃げることと隠れることばかりが巧妙だった。結局かつての山村の跡地でさらった子どもを大人になるまで奴隷としてこき使い、子を孕ませてその赤子を食う。そんな醜悪を、もう十年近くも続けていたようだった。かつての子どもたちは鬼の元で大人の体つきになってはいたが、精神はまるきり子どもだった。連れてきていた隠は非常に困り切った顔をして、鉄烏で連絡を取り合っている。
 鬼を殺したはいいが、この元は子どもだった者たちはこれからどうなるだろうか。痛ましい、という気持ちで眉間がぎゅうっと詰まる。顔を顰めて突っ立っている実弥を、鬼に飼われていた者たちは恐々と遠巻きに見つめていた。

「風柱様ぁー!」

 遠くから聞こえてきたのは、あの間抜けの声だった。思わず舌打ちした実弥に、今回連れてきていた隠がびくりと震える。女は実弥の形相に怯える素振りもなく駆け寄ってくると、実弥の手前、およそ三尺ほどのところで派手にずっこけた。溶けかけの雪に頭から突っ込んだ彼女は泥とぬかるんだ雪塗れになっており、額が土色に染まっている。実弥も一緒にいた隠も呆れてあんぐりと開いた口が塞がらなかったが、彼女は呑気に笑うのみだった。

「いやぁ、春も近いですからねぇ。雪もぐちゃぐちゃ、道もぐちゃぐちゃで」
「そんなこけ方するのはお前ぐらいだろォよ」
「ええー、そうですかぁ?」

 女は地面に尻もちをついたまま、間延びした声で言う。そしてふと思いついたように、まだ溶けていない近くの雪をむんずとっ掴むと、それをぎゅっと握った。なんだ、と思っていれば。

「風柱様、えいっ!」
「は?」

 べしゃ、とか、べちゃ、とか音がして実弥の額に彼女の握った雪が当たる。雪玉を投げられたのだ、と理解したときには彼女は笑って駆け出していた。なんだあいつ、という疑問と疑念と、苛立ちと不満と、最後に彼女を見たときの血の赤さが脳裏に過る。少し向こうまで走った女は、はぁ、と息を吐いて隠の覆面を外した。笑っていた。
 実弥は屈んで同じく雪を掴むと、それをぎゅうっと握って女へ向かい投擲した。雪玉は過たず女に頭にぶち当たり、女がまた地面に転がる。転がってから起きた彼女は、またこちらへ向かって雪玉を投げた。避けると、連れて来ていた隠に当たった。女の先輩らしいその隠は、呆然とした顔をしている。隠が雪玉を握る。投げる。女に当たらず近くにいた山村の子どもに当たる。女が子どもの雪を払ってまた雪玉を投げる。実弥に当たる、投げる。雪玉を握る。雪が降りかかる。
 結局山村の子ども巻き込んだ雪合戦の様相になり、そのまま仕方なしに山村へ一泊することになった。女は台車で幾らかの物資を抱えて持ってきており、もう一人の隠が破損していた風呂窯を修理して湯を沸かした。山村の子どもを手分けして湯に入れてやってから、適当に女が鍋に放り込んで煮た煮物と粥を食わせる。
 女はここへ来る前に、お館様と山村の子ども達の引き取り先を探して来ていた。元の家に戻れそうな者は戻ればいいが、そうでない者に関してはお館様配下の村で面倒を見ることができそうとのことだった。
 別に珍しいことでもなかった。鬼のせいで一つの村が瓦解し、人間たちが生きていけなくなっている。そういう有様は珍しいことではなかったし、鬼など関係なくても、生きていくことは優しくない。気づけば隣の誰かは死んでいるし、愛しい者は簡単にいなくなってしまう。そういう儚さを、実弥はよくよく知っているはずだった。
 雨風がしのげるだけという態の朽ちた家屋の中で、子どもたちは寝息を立てて眠っている。女が雪合戦などを始めたせいで、子どもたちはきゃらきゃら笑って雪を投げ合い、久しぶりに温かい飯を満腹まで食べて湯に浸かり、健やかに眠っている。明日には山を下って鬼の支配からは解放される。
 実弥はそっとその場から抜け出し、家屋から出た。まだ空気は冴えて冷たいが、どこからか梅の香が漂ってきている。もう冬も終わる。小さく息を吐き出しながら月を見ていると、近くでべしゃ、とまた何かがすっ転げる音がした。見ればやはり、女だった。

「風柱様、寝ないんですかぁ?」
「…………はァ」

 実弥は大きく息を吐くと、すっ転んだままこちらを見上げる女に手を差し出した。女はきょとんと目を丸くしてから、ようよう実弥の手を取る。女の手は小さく、皮膚はあかぎれだらけでざらついていた。

「お前、いやに早かったァ」
「何がです?」
「ここの子どもたちの行く先を決めて、ここまで来る。いくら何でも、早すぎんだろォ」
「いやぁ、ははぁ」

 実弥は常々思っていた。女がとぼけているのも、間抜けなのも、無駄に頑丈なのも事実だろう。しかし本当に、『それだけ』だろうか。あのお館様が『それだけ』の女をこんな風に自分に張りつかせておくだろうか、と。
 女は起き上がって服に付いた雪を払うと、近くに転がった丸太を指した。座れということだろう。大人しくそこに腰かければ、女も隣に座った。

「先輩からの烏が飛んできたとき、偶々お館様のところにいましたので。多少、無茶や無理をしなかったと言えば嘘になりますが」
「そォか」
「お館様に、お説教されていまして」

 いやいや何してんだコイツ、と実弥は女をねめつける。温和なお館様に説教されるなぞ、よっぽどのことではないかと思うのだが、女は逆に意味ありげにこちらを見た。

「私たち二人のことについて、お説教されてたんですよ?」
「……二人ってェと」
「私と風柱様ですね」

 痛ましいので、いい加減にしなさい、だそうです。
 女はにへら、と笑っていい、実弥は頭を抱えた。この女と同列扱いされたことに関して、である。女はぼやぼやと空を見上げ、その頬を月明りが白く照らしている。ざっと吹き抜けた風は、少しだけ生暖かった。

「私も痛ましいものを見るのは、確かに苦手です」

 女はじっと空を、月を見上げている。女の来歴を実弥は知らないし、実弥の来歴を女はきっと知らないだろう。けれど『痛ましいもの』をこれ以上見たくない、増やしたくない、掬い上げて拾い上げて笑ってほしい。そう願うその感情について、きっと実弥も女も、よくよく心の底から、知っている。
 女が雪玉を投げて、鬼に恐怖に凍えていた子どもが無邪気に笑った。そうして少しでも笑ってくれればいいと、実弥も思っている。震える恐怖も優しくなさも、この世からなくなりはしない。けれど怯えて震えていたものがいつかやがて、楽しそうに笑ってくれることも、なくなりはしない。それを信じて、それを守るために、刀を握って振るっている。

「私たちにも、そう思ってくれる誰かがいるみたいです」

 そう言ってはにかんだ女に、実弥はそうだな、と思った。痛ましいという感情を持って自分が眉を顰めるのと同じように、自分が血塗れの女を見て眉を顰めると同じように、自分が眉を顰められることもあるだろう。実弥はむず痒さに後頭部に手をやり、がしがしと爪を立てた。だからと言って行動は変わらない。けれどお館様が女を自分に付けた理由を、魂胆を、やっと理解してしまったので。
 きょろきょろと周りを見渡していた女が、あっと声を上げて指をさす。小さく膨らんだ梅の枝が、月明りに白く淡く光っていた。風に乗って流れてきた甘く爽やかな梅の香りに、春が来る。それを思った。

「そう言えば風柱様、お館様が戻ったら『実弥もお説教だね』って」
「早く言えェ……!」



雪融恋来(いつか春は来るみたい)



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