前回読んだ位置に戻りますか?

Every J has his J

1

 急に来られたら困ると何度も言ったのだけれど彼は返事ばかりで聞く耳を持たず、ユウは後ろ髪を引かれる気持ちで実験室を後にする。今調合していたのは彼らから依頼されたものではないし、企業秘密というものがある。しがない会社員にそれを破る意気も道理もなく、また相手の来訪を知らぬ存ぜぬで断る勇気もなく、ユウはしぶしぶ内線電話の受話器に今から向かうと吹き込んだ。
 恩師のクルーウェルや母校のナイトレイブンカレッジも懇意にするこの製薬会社は、魔法薬科大を卒業したあとに就職して五年ほどになる。米国と似通っているこの世界の教育仮定で薬学の勉強をするには、まず日本でいう大学や短期大学を卒業しなければならず、保護者のいないユウには到底難しい話に思えたのだが、最終的にはNRCの学園長―ディア・クロウリーがかなりの面倒を見てくれた。学園を卒業するユウに戸籍と学歴を与え、学園の外で溺れてしまわないように見守ってくれた彼には、父親とも兄ともつかない、不可思議な情を感じてしまっている。
 魔導式と電動式の混じった機器を手繰り、自身のオフィスのある上階から客室のある下階へのボタンを押せば、エレベーターに似通った箱は音もなく滑り出した。地域差はあるが、死者の国に近いこの場所は魔力だけでないエネルギーの入り混じった施設や機器の設置が多い。元の世界と似通った設計や設備はこの世界では前衛的とされていても、ユウに取っては馴染みやすいものだった。
 ぽんと軽い音を立てて扉が開く。いくつも応接室が立ち並ぶフロアで、内線の受付スタッフから聞かされた部屋番号を探す。何分彼らと契約するまで、下っ端のユウにはこのフロアにはとんと縁がなかったのだ。部屋の並びなど熟知していないし、示された部屋番号がどの辺りかなんて、知るはずがない。ようやっと目的の部屋番号を見つけると、ユウは大きく息を吸い込み、口先を湿らせてから扉をノックした。
 果たして彼は、応接室の革張りのソファの上でその長い足を優雅に組んで、ユウを待っていた。資料に伏せていた目を上げて、ちらりと微笑む。ユウはなるべく苦々しい顔を作って、その正面のソファへ腰を下ろした。

「今日に面会のご予約ってありましたっけ?」

 顔を顰める自分に正面の彼は取って付けたように申し訳なさそうな顔をしてみせる。学生時代と変わっていない。ジェイド・リーチは水底のような美貌を綻ばせて、「申し訳ありません」と形ばかりの謝罪をしてみせた。

「新しい資料ができたので。なるべく早くあなたのお目にかけたいと思い、駆けてきました」
「メールでお送りいただければ結構です。リーチさんもお忙しいでしょうし」
「おや。リーチだなんて。昔のように呼んでくださっていいのですよ、ジェイドと」

 色味の違う両目は、まるで宝石のようだ。特に明度の高い左側の瞳は、深くまで覗き込まれるかのようで居心地が悪くなる。ユウはそっと目線を外し、根負けを認めた。

「……『ジェイド先輩』は」
「はい」

 弾んだ、喜色にまみれた声音。ため息を吐きたくなって、堪える。何を言われるか、わかったものじゃないからだ。



 アズール・アーシェングロットはあちらこちらで名を聞く実業家として、名前が売れ始めていた。はじめは様々な分野へ手をだす『奇才』としてイロモノ扱いされていたが、テンポよく展開する事業や練り上げられた商品、タイミングよくまたターゲット層に確実に刺さるマーケティングなど、その手腕はいまや『鬼才』扱いされている。その両脇を今も固めているのが、リーチ兄弟だ。最もメディア露出の多いアズールと違ってリーチ兄弟の顔はあまり売れておらず、その辺りを歩いていても騒がれることも少ない。その容貌故に、人目を引くところは相変わらずなのだけれど。
 いつの間にかユウの個人研究室へ直接案内されるようになり、やがて入館許可証のみを携えてやってくるようになったジェイドは、今日も勝手に簡易キッチンで茶葉を蒸らしている。コーヒーサーバーと挽いた豆、専用のフィルターとマグカップひとつきりしかなかったこのキッチンには、今では数種の紅茶の茶葉と専用ポット、砂時計やティーコジーまでが完備されている。使用済みのカップは洗って帰るような甲斐甲斐しさだ。断る理由が「食器を洗うのが面倒くさい」以外の思いつかない自分の善人性には、ほとほと嫌気がさす。

「今日はダージリンです。そろそろ休憩されては? 一緒にサンドイッチも持ってまいりましたので」

 そう言われて、そういえば昼食をまだ摂っていなかったことを思い出す。練っていた鍋に時間停止の魔法をかけるスイッチを押すと、ユウはジェイドのほうへ向かった。

「サンドイッチの具はなんですか」
「スモークチキンと香味野菜です。クレソンも入っていますよ」

 お好きでしょう?と見透かしたように言われたのにむっとしたのも一瞬で、すぐ目の前の食事に気を取られてしまう。どこで買ってきたのか、洒落たクレソンのサラダの映えるサンドイッチは見るからに美味しそうだ。合わせて出てきたヴィシソワーズはよく冷えていて美味しかった。一人用のテーブルセットでジェイドの持ってきた食事に舌鼓を打っていると、簡易キッチンに立てかけてあったスツールに腰掛けて、にこにこしながらこちらを見ている。学生時代は下ろしていた前髪も今は柔らかく撫で付けてあり、昔より額がよく見える。

「なにかありますか」

 あまりに見てくるので、口の中のものを嚥下したタイミングで聞けば、ジェイドは「いいえ」と首を振るばかりで答えようとしない。ただこちらを見てくる瞳がやわらかすぎる気がして、とても居心地が悪かった。







2

 ナイトレイブンカレッジのオンボロ寮の監督生。その名前を聞けば、脳裏には小柄な体躯の背中と、無防備な微笑みが蘇ってくる。対外的に彼女をハイスクール時代の学友だとか、NRCの後輩だとかと呼ぶことは適わないけれど、ジェイドに取って彼女はずっとハイスクール時代の後輩で、少々特別な少女だった。少なくとも、一晩だけを共にした女性よりは彼女のほうが特別だ。だからアズールが彼女の勤める会社との提携を言い出したときはその調整役を買って出たし、その権限を活用して今回の提携事業に彼女を担当として宛てさせたのも、ジェイドだ。恐らく、自分の感情がティーンの呼ぶような恋だとか、好意だとか、そういう類のものであることは理解している。随分久方ぶりに彼女と目を合わせたとき、ジェイドの心臓が跳ねた。あの熱を、口の中の乾きを、また感じたくてジェイドは彼女の元に通っている。

「さっさと恋人関係でも、プロポーズでもなんでもすればいいでしょう。監督生―ユウさんが元の世界へ帰ることができないのは学生時代にわかった話ですし、聞く限り、彼女のほうに脈がないだとか他に恋人がいるだとか、そんな様子もない。現状の、おまえのどこに不都合があるというのです? まさか、『そんな勇気が出ない』だなんて、青臭いことをい言い出しますか」
「まさか」

 辛辣な上司の言葉に、ジェイドはおやおやと笑みを深める。対照的にアズールは眉間の皺を深めて、不快そうにジェイドを見た。彼がジェイドを捕まえようとすると、たびたび、就業中だというのに提携先のユウの会社へ『遊びに』出かけているのだ。今はまだ提携事業についての相談という名目で時間を割けるが、この先も同じことが続けば、相手企業に何を言われるやら。その辺りの常識と良識を、アズールはジェイドに期待していない。

「恋愛の駆け引きや、恋のはじまりは得がたいものでしょう。それを楽しんでいるだけですよ。僕も、ユウさんも」
「その前に誰かにさらわれたって、知りませんからね」

 辛辣な物言いは、古馴染なりの心配の言葉なのだろう。ジェイドは目を細め、そっぽを向いてしまったアズールへ紅茶をサーブする。ユウの研究室には、紅茶はひとつも見当たらなかった。昔はよく好んでいたようにだったのに。

「ともかく、次週以降のユウさんの現地視察では、そのにやけた顔をしまって来るように。我が社にとってもそれなりに重要な事業なのに、おまえのそのにやけ面のせいで『従業員の色恋のために事業を申し出た』などど思われたら、目も当てられません」
「かしこまりました」

 ジェイドはにこやかさの裏に表情を隠して、アズールの執務室を辞した。今回のアズールの事業では、『美容と健康』をテーマに据えたリゾートホテルを出店の予定で、その中のエステやアメニティでの使用、または島内限定品として販売予定の基礎化粧品の開発を、ユウの勤務先の製薬会社と提携契約したのだ。立地は珊瑚の海に浮かぶ小島を用意しており、そのうちの諸島で採れる地産品をその基礎化粧品に使用してもらうため、材料探しを実地で行うことになっている。今のアズールは提携事業を増やして、協力企業やいわゆる『横の繋がり』というものを作ることに腐心しており、恐らくなにがしかの展望があるのだろうと思うが、ジェイドにはまだ思いつかないので詳しくは考えていない。思ってもみなかったところでアズールの根回しが実を結ぶのは、面白いのだ。それよりも、ジェイドが『腐心』しているのはユウのことであった。
 きっと一生懸命不機嫌そうな顔を作って南の島に現れるのだろうと思うと、そしてその不機嫌も非日常の中では続かず、あの無防備な笑顔をみせるのだろうと思うと、今からでもジェイドの胸は高鳴るのだ。



 島の人口は三十万人にもいかない島だが、歴史は古く、多種多様な人種が住んでいる。自分のような人魚もいれば、獣人も人間も暮らしており、ただ、観光客じみた女性のユウを一人歩きさせるのは憚られるような一般的な治安だ。必然的にジェイドかフロイドが彼女に付き添い、島の市場や植物園を見て回ることになった。
 久しぶりに長く時間を過ごす学友に、フロイドも大層喜んで―調整役はジェイドが勤めていたため、彼は初回に顔を合わせたきりだった―小エビちゃん小エビちゃんと彼女を呼んではべたべたと抱きついてみたり、抱えて走り出そうとしてみたり。学生時代に戻ったかのような兄弟の振る舞いをジェイドは微笑ましく思っていたけれど、ユウと一緒にやってきた相手会社の役員の目に、アズールはだいぶ肝が冷えたようだ。なんとか『学生時代の旧知の間柄』、『叔父のディア・クロウリーに会いに来た彼女とNRCで知り合った』『昔から兄妹のように仲がよかった』などと取りなし窮地を抜け出したが、役員の目があるうちはフロイドにはユウへの接触禁止令を出す羽目になった。フロイドがぶすくれたのも無理はない。
 ユウははじめこそ島の光の量や気候、南国特有の住人の雰囲気に気圧されていたようだが次第に羽を伸ばし、生き生きと研究用の素材を探し回っている。それにジェイドやフロイドが付いて回ることにも慣れたようで、学生時代のように先輩と呼ばれると、ジェイドの胸の内はむず痒くなるのだった。



 その日も朝から素材を探し、即席で作った魔法薬工房で簡易な効能実験を行っていた。ほとんどの植物や生物は素材としての効果が調べ尽くされ、効果や相乗作用などは図鑑で調べれば一目瞭然なのだが、匂いや手触り、実際の色味など化粧品として使う場合には、実際に触れてみないとわからないことが山ほどある。
 ジェイドなどは効能がよければそれでよいと思うのだが、美的感覚の鋭い人々―女性に多い―はそうでもないらしく、気に入った香りやよい手触り、見目のよい色味にこだわりがあるのだという。学生時代にアズールが開発しヴィルに売りつけた化粧水も、最終的には見目を変えるために更に実験を重ね、現在ではこの会社のトップセールスを張る商品になった。あのままの見た目や手触りではとてもそうならなかったと、アズールは言う。
 花の蜜を絞ったり、花片を煮出して染料を抽出したり、作業をしているユウは真剣で学生時代から変わっていないように思う。集中すると飲食を忘れる癖も昔のままで、ジェイドにはそれが愛おしくてたまらない。そうやって彼女を見ていると、ユウは怪訝そうに鍋から顔を上げた。

「外には出ませんし出るときはジェイド先輩かフロイド先輩へ連絡しますから、出ててくださっていいですよ」
「いえ」

 ジェイドは言葉少なく答えて、そのまま彼女の手元を見つめている。ユウはため息をおとして、花片と付近の海水から抽出したミネラルとの攪拌作業を再開した。島特有の花とミネラル分との相性が知りたいらしい。

「ジェイド先輩は魔法薬を作ったりとか、もうされないんですか」
「最近はとんと。必要なものは購入したほうが早いですからね。僕はこれでも、筆頭社長秘書ですし」
「その筆頭さんはどうしてしょっちゅう、うちの実験室に入り浸っているんでしょうか」
「いやですね、あなたがいるからですよ」

 そう言ったジェイドをユウはうさんくさそうに見て、鍋に視線を戻す。黒髪から少しだけ見える耳が赤く見えるのは、自分の気のせいなのか、それとも。
 この柔らかい恋のかけひきを、どうかやり直したいと思っているのはきっとジェイドだけではないのだ。そう思いたかった。






3

 その日の夕暮れは血のような赤色で、ユウは身震いをして図書館からの道のりを歩いたことを覚えている。グリムはその頃マジフトにはまっていたからいなくて、彼女はひとりきりでオンボロ寮までを急いで歩いた。いやな予感というものはそんなに当たるわけではないのだけれど、それでも足は勝手に早くなってしまうのだ。ただ、そのときはそれが功を奏した。植物園近くのその茂みに目を向けたのは本当に偶然で、その中のトルコ石のような鮮やかな青をなぜ見つけることができたのか、ユウ自身もわからない。ふと気を取られてそろそろと茂みに近づくと、その向こうでは青い表皮を露出させて大柄な人魚が倒れていた。ジェイドだ、と理解したときにはユウは踵を返して植物園の中に駆け込んでおり、その中から台車を一台拝借すると、倒れ込んだジェイドをその荷台に載せてオンボロ寮へ急いだ。呼吸ができているのかだとか、きっと無意識にそういう心配ごとがあって、そんな突飛な行動に出たのだと思う。意識のないジェイドの体は重く、荷台に載せるにも、寮の庭先で水をかけて意識を戻したジェイドをベッドへ運び込むにも、大層苦労したけれど彼女はそれをやりきった。自分にはそうするだけの理由があると、ユウは思っていた。
 ベッドに運び込んでから茂みに戻ってジェイドの衣服や荷物を回収したが、ジェイドらしからぬ茫洋とした様子にユウは気が気ではなかった。ジェイドはそのとき四年生に進学しており、本来であれば学園内にはいないはずの人物だった。それなのに急に現れて、人魚姿で人気のない場所に倒れている。明らかに異常だと理性は訴えたが、結局彼女がその異常を教師や然るべき人間に告げることはなく、荷物を手に戻ったユウに、ジェイドは変身薬を飲むので荷物がほしいと言って、ユウに退出を促した。戻ったときにはジェイドの姿はなく、次にジェイドを見たのは月の明るいあの晩で、それからもユウは長く、ベッドに残った潮の残り香に悩まされることになる。

*

 フロイドの無邪気さは年を重ねても相変わらずで、悪意や邪気はあるのだが彼の笑顔を見ると『無邪気』としか形容することができない、とユウはいつも思う。思うまま、気の向くままに市場を散策し見て回る彼は、多様な人種のいるこの島でもよく目立っていた。

「小エビちゃん、これ見てェ、オモロクねーえ?」

 南国特有の変わった工芸品を差して笑う彼はご機嫌で、この島で再会してからフロイドはずっとこの調子だった。提携事業開始の挨拶で顔を合わせた際は遠くからで言葉を交わす余裕もなく、それからはずっとジェイドがアズールからのメッセンジャーを勤めてきた。なので、フロイドとの実質的な再会はこの島の空港で上司と共に迎えてもらったときである。フロイドは「久しぶり」と嬉しそうな声を上げてユウを離そうとせず、アズールがユウの上司に慌てて旧友だと説明する声が聞こえていた。ジェイドは困ったように笑うだけで止めもせず、変わらないなと胸の奥が締め付けられた。
 フロイドもジェイドも、島内では絶対にユウから離れようとはしなかった。一人になるのは危ないからと、今もフロイドの左手はユウの右手と繋がっている。大きな手のひらはジェイドとそっくりだったけれど、細かな力の込め方や指先の触感が違うことに、人体の神秘を感じている。

「小エビちゃんはさー、いつジェイドとツガイになるの?」
「さあ。全然、わかんないです」
「そっかー。ジェイドも気が長ぇよなあ」

 バカみてーとフロイドはやわらかく語尾を伸ばして、ユウの手を引く。次に興味があるものを見つけたのだろう。彼の興味は移ろいやすい。同じ顔の兄弟とは、大違いだ。

「ジェイド先輩って、私に気があるんでしょうか」
「どっからどー見ても、そーだろうね」
「私、先輩の考えていること、よくわかんないんです」
「んー、アズールもそう言ってた」
「いえ、そうではなくて」

 首を振ったユウに、フロイドがちらりと振り返る。市場の端の木陰のベンチに連れ立って座り込むと、喧騒が少し遠くなったように聞こえた。

「ジェイド先輩は多分、やり直そうとしてくれるんだと思うんです」
「そーだねぇ」
「でも、それがなんで私なのか、わからなくて」

 ジェイドの瞳の中には親愛と情愛と恋しさがあって、きっと自分は満を辞して彼に囚われたのだろう。学園を卒業しても、ユウは恐らくずっとジェイドの手の内にあったのだ。それ自体に忌避感はないし、彼ならやるだろうと思う。けれどそれがどうして自分なのか、わからないのだ。

「んー、じゃあさ、小エビちゃんは同じことを俺にされたら、どう思うの? アズールでもいいし、ウミヘビくんでもラッコちゃんでもいいよ」
「さあ…。びっくりして、それから、…どうするでしょうか。とりあえず怖いので逃げますね」
「小エビちゃんだもんねぇ」

 学生時代と変わらないフロイドの物言いに、ユウは少し笑ってしまう。息をこぼしたユウに、フロイドは「ジェイドもじゃねぇの?」と付け足した。

「ジェイドも多分、なんで自分なら許してくれるのか、逃げずにいてくれるのか、わからないんだと思うよ。小エビちゃん」
「…それは」

 そんなの、決まっていると言おうとした瞬間に、「ジェイドもわからない」というフロイドの言葉の意味を理解して、ユウは赤面する羽目になった。
 ユウがそれを許すのは、ジェイドだから、に決まっているのだ。






4

 恋とはどんなものかしら、への回答とするに、ジェイドは締め付けられるような胸の痛み、軋みと答えるだろう。果てない夜空への憧憬に似ていると答えてもいい。手が届いたなら、握り締めて、潰してしまいたくなる。
 あの感情が監督生への幼い恋だと自覚するには、ジェイドは子どもで、ひねくれすぎていた。四年生のあの頃、インターン先で初めてアズールともフロイドとも別れて、ひとりきりで行動をした。自分の判断を肯定し、行動に反応をくれる存在はなく、自分の行いが正しいのかもわからなかった。自分はそんなに脆くはないと思っていたから、アズールにもフロイドにも必要以上の連絡は取らなかった。そんな折、オクタヴィネルのモストロ・ラウンジから連絡があった。新しい寮長や後輩に任せてきた店だが、何分初めての引き継ぎで慣れない部分もあったため、どうしても対処に困るトラブルに見舞われたということだった。別にアズールでもフロイドでも解決できたのだろうが、たまたま連絡が取れたのがジェイドだったのだ。ジェイドは請われてモストロ・ラウンジに舞い戻り、発生したトラブルを簡単にいなして、こう言った

「またなにかあれば、ご連絡くださいね」

 純粋に口からこぼれたセリフで、新しい寮長は驚いたあと「是非」と固く頷いた。ジェイドはにこやかに挨拶をして鏡を潜り、そのまま羞恥に任せて鏡舎を出、走りだした。インターンではうまくいかないことも多く、睡眠時間を削って方法を模索していた。こんな結果になると思わなかったと身につまされることも何度かあった。自分はもっと、上手に円滑に物事が運べると思っていた。そうではなかった。疲れていた。自分が疲れを感じるとは思っていなかった。自分がモストロ・ラウンジの、過去の栄光に縋って、『以前にこなせたこと』で自己肯定感を高めるような、普遍的な行為を求めるなんて、思ってもみなかった。
 走って走って、足がもつれた。睡眠時間を削って調べ物をしていたせいで、変身薬を飲むのを忘れていたのだ。体が重い、死ぬことはないだろうが、起き上がって薬を探す気力が出ない。植物園の近くの茂みだろうが、しばらく誰にも見つかるまい。ジェイドはそう判断して、重く伸し掛る睡魔に身を任せた。

 次に目を覚ましたのは、ごとごとと鳴る車輪の音と振動だった。薄く目を開ければ、オンボロ寮の監督生が必死な顔をして台車を押していた。どうやら、自分は彼女に運ばれているところらしい。こんな無防備の塊に触れられて目を覚まさなかったことも、台車で運ばれていることに気付かなかったことにも嫌気が差して、ジェイドはまた目を瞑った。それから彼女はジェイドにオンボロ寮の庭先で水をかけ―呼吸に支障が出ていると思ったらしい―、ご丁寧にも彼女のベッドまでジェイドを連れて行き、ジェイドの落としてきた荷物を回収に出向く始末で、一体どこまでお人好しなのだと叱り飛ばしたくなった。彼女のベッドには水に濡れた自分の体液がべったりとついてしまったし、そもそもジェイドはここにいないはずの生徒だ。それだというのに、教師を呼びに行く気配もない。変身薬を飲んで着替えるからと彼女を部屋から出して、その隙にオンボロ寮を抜け出した。その後も学園からはジェイドの奇行についての音沙汰はなく、出会う誰の目にも伺いの色はない。ユウは、あの出来事を誰にも言わなかったのだろう。なぜ。
 ジェイドの心に疑問と疑心が首をもたげた。インターンの合間を縫って再度彼女へ会いに行ったのは、月の明るい晩のことだった。

 訪れた先の窓辺で、ユウの瞳は驚くほど透き通って見えた。咄嗟に叫ばれると困ると抑えつけた唇は空気を吸い込むだけで音を発することはなく、ただ見開かれた瞳だけが雄弁に彼女の驚きを伝えてくる。「どうして、」 ジェイドの声は囁くように震えていた。

「どうして、僕のことを誰にも話さなかったんです? なぜあのとき、誰も呼ばなかったんです」

 声音はつい詰るような響きになってしまった。ユウはジェイドの制服の袖に手を伸ばし、抑えられていた手のひらを外す。

「ジェイド先輩が、誰にも見つかりたくないんじゃないかと思って。でも放っておくことはできなかったから」
「なぜ」

 詰問するジェイドの響きに、ユウは顔色を変えない。透き通った瞳には自分の情けない顔が映っていて、こんな自分を見られたくないと思うのに、この場から離れることができない。

「なぜあなたはそんなことをするんです? メリットなんてないでしょう。それとも、なにかを要求するつもりですか」

 いっそそうであればいいと思って聞くのに、彼女は首を振る。そしてしとやかに、しめやかに、唇の端に慈愛を載せて、彼女は笑ってみせた。

「ジェイド先輩だからです。他の人にはしないけれど、ジェイド先輩だったから」

 そう聞いた瞬間になにかが弾けて、まるで溺れる中でしがみつくように彼女の体をかき抱いたこと、その体がひどくちっぽけで、頼りなくて泣き出しそうになったこと。それをよく覚えている。貪るように合わせた唇も、頬をくすぐる髪も驚くくらいにやわらかく、ジェイドがユウの体を暴いている間、彼女は欠片も泣かなかったけれど、終わったあとにジェイドは一粒だけ、泣いた。
 彼女とはそれきりで、会話も交わさないまま学園を卒業した。しばらくは彼女を想起させるものを見るとひどく苛立って、顔も見たくないと思っていたのだが、カレッジを卒業してアズールが企業し、二十も半ばが近づく頃になってやっと思い至った。あのとき自分がしたことは、何者でもなく、何者にもなれない自分を認められず、ただ暴れただけだ。そしてそれを最低な形の暴力で、ユウへぶつけたのだ。なのに彼女はそれを受け入れてくれたから、『ジェイドだから』と彼女は許したから。
 そう自覚したとき、ジェイドは途方もない後悔と罪悪感と、そしてとてつもない胸の痛みと軋みを覚えた。星空へ抱いたような、空を仰ぎ見る憧憬とそれを握りつぶしたい征服欲。
 ジェイド・リーチはそれを、恋と定義づけた。

*

 夜更けになれば遠くに人のさざめきと潮騒が聞こえて、アズールの商才はとどまることを知らないと思う。中心地からほどよく離れたこのホテルの立地は、人気が出る条件を十分に満たしている。ほぼ完成を迎えた宿泊設備の中で、ユウの部屋は上階に位置しており、女性ということも踏まえて同フロアに他の招待客は入れていない。オープン前のホテル内は人気も少なく、安全面で十全とは言い難い。それをいいことに、夜な夜な彼女の部屋を訪れているのだから、ジェイドも『ワルモノ』の一人だ。
 スマホを鳴らしてから、部屋のインターホンを鳴らすとかちゃんと開錠の音がして、中からユウが顔を出す。彼女はジェイドの姿を認めるとなにも言わず部屋の中に戻っていき、ジェイドはたまらずその無防備な背中を抱きしめた。

「…先輩。ドア閉めてください。誰かに見られたら、困る」
「あなたは」

 背後でドアが静かに締まり、勝手にロックがかかる音がする。ユウは無防備で、ジェイドと密室に二人きりなのに、嫌がる素振りもない。

「嫌だと言わないんですね」
「いやではないので」

 素っ気ない物言いをするけれど、ユウの首筋も耳も、赤い。手を回してこちらを向かせれば、蒸気した頬で目を潤ませて、ジェイドを見ていた。手のひらを握れば、指を絡ませれば、されるがままになる。

「昔、あのときは『いやだいやだ』と繰り返していました」
「あれは…」

 ユウは言いづらそうに目をそらし、ジェイドの指先を弄ぶ。指先の熱が爆発しそうだった。

「あの、恥ずかしかったから『いや』はたくさん言いましたけれど、『やめて』とは言っていないです。今も、言いません」

 そう言って、ユウは目線をジェイドに向けた。困ったような、挑むような、揺れる目つき。彼女も十分、熱に浮かされているのだ。

「ジェイド先輩だから、ですよ?」

 試すようなユウの言葉にジェイドは堪えることができず、その唇に噛み付いた。噛み付いて、そのまま離せなかった。






5

 人は声から記憶を失っていき、また人の記憶を最も想起させるものは、匂いだという。
 いつかきっと自分は故郷の大切な人の声をなにひとつ思い出せず、消してしまうのだろう。そう思うとやるせなくて、涙が止まらなかった。学園長の前では泣くもんかと意地を張ったけれど、きっとあの大人にはそんなこともお見通しだったから、ただただ自分だけが情けなくて仕方ない。校舎から飛び出た先のグラウンドの隅でわんわんと泣いて、気が付けば日はとっぷり暮れていた。グリムもお腹を空かせているに違いないと、オンボロ寮への道をとぼとぼ歩いていると、向こうからランタンを持った人影が歩いてきた。大きな人影はオクタヴィネルのジェイドだった。

「おや。どうしました、監督生さん。こんな日暮れに」
「いえ…」

 夏は過ぎ去り、虫がりんりん鳴くこの頃には日が暮れるのも早い。ジェイドはウィンドブレーカーに登山靴と明らかに山登りの装備を整えていて、どこへ行くかは一目瞭然だった。元気で羨ましいなあとぼんやり思ったユウに、ジェイドはふむと唇に手を当てると、そのままにこりと破顔してユウの手を取った。

「これから山を登りに行くんです。買い出しも済みましたし、一緒に行きましょう」

 今思っても、あれは本当にジェイドの気まぐれだったのだと思う。ユウとジェイドに共通項はなく、個人的な会話をしたこともない。ただその場でたまたま会ったのがジェイドで、ユウだった。それだけだったのだ。
 そのまま有無を言わさず鏡をくぐり、着いた先の山は高くなかったものの制服姿のままだったユウはそこそこ苦戦しながらジェイドと共に山を登りきった。山頂でジェイドはリュックの中からマグと紅茶の缶やミルク、洋酒の瓶を取り出し、途中の沢で汲んできた水を魔法で沸かすと地上でするのと変わらないように紅茶を淹れて、ユウに振舞った。紅茶は熱く、腹の底に染みた。

「上を見てください。そろそろ時間ですよ」

 そうジェイドが空を差すので見上げれば、満天の星空があった。準備のいいジェイドがビニールシートを敷き、そこに二人揃って寝転ぶ。やがてしゅるしゅると星が流れ始め、ジェイドはこれを見に来たのかと得心した。

「なんで、私ここに連れて来られたんですか」
「気まぐれですね。フロイドではありませんが」
「それに付き合わされたってことですか」
「まあ、そうなりますね」

 たまには誰かと喋りながら星を見たいときもあるんです、とジェイドは悪びれもせずに言うので、ユウはそれが事実で本音だとわかって、笑ってしまう。本当にこの学校の人って、自分のことしか考えていない。

「じゃあ、着いてきてしまったものは仕方ないので、対価をくださいよ」
「おや、僕にそんな要求をしますか。怖いもの知らずですねぇ」
「そんな大したものじゃないです。ジェイド先輩が思うようにでいいので、ちょっと慰めてもらえませんか。私、傷心なんです」

 そうユウが冗談めかして言えば、ジェイドもなにかに勘づいたらしい。しばらく黙ってから、その長く白い指先で空を差した。

「僕は空を見上げると、自分がとてもちっぽけに思えていろんなことがどうでもよくなるんです。自分がいようがいまいが、空には関係なくて、ただそこにある。それが随分救いに思います」

 そういうことって、ありませんか、と少し恥ずかしそうに呟いてこちらを見たジェイドは、そのときばかりは年相応の少年のように見えて、ユウはそうかと嘆息した。
 自分がどうなろうと、きっと世界は変わらないのだ。ユウはちっぽけで、なにも変えることができない。ならば、できる範囲で自分の思うように、あがいて生きればいいだけなのかもしれない。星空の下で、確かに自分はちっぽけなのだ。だけど、ユウもジェイドも、空を見上げて言葉を交わしている。それはそうすることがユウとジェイドの意思で望みだから、できることだ。
 だからこのままでいいのだと、そう言われた気がして、それからもユウはそのときの星空とジェイドと彼の紅茶に救われて生きてきた。人は声から忘れていき、またもっとも記憶を想起させるものは、匂いだという。

*

「…先輩がなにも言わずに卒業してから、紅茶が飲めなくなりました。胸が苦して」

 夜明けに淹れたティーバックの紅茶をちびちび啜りながら、ユウは呟いた。強請って淹れてもらった紅茶に設備が整っていないとジェイドは不服そうだっただけれど、ユウはジェイドなら、なんでもいいのだ。

「紅茶のかおりがすると先輩を思い出して苦しくなるから、好きなんだなあって」
「ごめんなさい」

 ジェイドは後ろから手を回して、ユウの剥き出しの肩口に顔をうずめる。小さな子どものようだ。その鼻筋に額を擦り付ける。そうすることが許されたことが、本当にうれしかった。

「もうあんなことはしません。あなたに甘えて八つ当たりもしません。だから、あなたに触っていいですか。あなたに触るのは僕だけにしてもらっても、いいですか?」
「いいですよ」

 十年前より大人びて研ぎ澄まされた体、容貌。でも、甘えるような仕草も許しを乞う瞳も、十年前にはなかった。あのときの幼さは、幼稚にも彼の素顔を隠していた。きっとジェイドがなぜ自分を選んだのか、なぜ自身を差し出したのか、理解するときは来ないのかもしれない。けれどあのときのジェイドの言葉と、星空と、紅茶に救われてユウは生きてきた。それを彼に返したいと思うのは、愛情を注ぎ続けることは、彼女にとってはごく当たり前のことなのだ。
 それはきっと、空を見上げれば星があるのと、同じように。





6

「アズール、なに見てんのぉ?」
 
 間延びした声に振り向くとフロイドがチンピラのようなシャツを着て、チンピラのようにポケットに手を突っ込んで立っていた。

「やめなさい。品位が疑われる」

 そういったけれど彼には梨の礫で、改善が見込めないのはわかっている。仕方なしにため息を落とし、その間にフロイドはアズールが見ていた階下の景色を認めたようだった。ふうんとつまらなさそうな声を上げて、アズールの向かいのテラス席に座る。まだプレオープンもしていないが、スタッフの教育のために宿泊施設やレストランなどは関係者専用として、開放している。このカフェもその内のひとつで、研修の傍らに淹れてもらったコーヒーを飲みながら、仕事をしていたところだった。設備はほぼ揃ったので、これから人材や細かい内装、備品の調整に入らなければいけない。その辺りはほぼは部下たちに任せているが、要所要所では口を出したい。出させてもらいたい。それには現状把握が必要不可欠であるし、そのための資料を作ったのは、階下のジェイドだ。
 ジェイドは今日は休みだったかどうか、スケジュール管理ソフトを立ち上げればいつの間にか半休に書き換えられている。まあいい、まあいいがと思いながら、そのにやけた面を見て、苦々しく思うのだった。

「あの間抜け面、どーにかなんねえの」

 片割れの色ボケした態度に、フロイドも口を尖らせる。全くだと嘆息しながら、アズールは冷たいコーヒーを啜った。周囲にはそうは見えていないのだろうが、アズールとフロイドにはわかる。あのウツボ、色ボケてやがる。

「まァ、わかんねーでもないけどサ」

 確かにジェイドの執着心というか、ユウへの偏愛ぶりは見ていて気味が悪く、ユウには何度も同情した。ユウが異性と付き合えばなるべく早く別れるように手を回していたことを知ったときなど、「正気かコイツ」とドン引きしたものだ。そんな回りくどいことするぐらいなら、さっさと抱きに行けよ。なんのためのそのツラだよ。
 と思っていたら、学生時代に一度手を出して、そのままフォローもせずに学園に置き去りにしていたと酒の席で聞いて、さらに引いた。最低すぎるだろ、ジェイドリーチ。なぜその仕打ちをした女にまだ執着できるジェイドリーチ。もはや万に一つもおまえに望みはないぞリーチ。そう思っていた。思っていたのに。
 再会したユウのほうも満更ではない態度だと聞いて、嘘だろコイツらと思った。なぜヤリ逃げした男を律儀に待てるのか、馬鹿なのか? 馬鹿だった。そういえば監督生は他人のイソギンチャクを引っこ抜くために住居を差し出すような、筋金入りの馬鹿だった。

「お似合いですよ。『割れ鍋に綴じ蓋』、どんな男ににもジルは存在するものです」

 アズールの言葉にフロイドが「あーあ」と声をあげる。片割れが先に番を見つけて、さみしい気持ちもあるのだろう。いい大人なのでそんなことはもう言わないが。アズールだって、そう感じないと言ったら嘘になる。
 テラスの下では仲睦まじそうに、ユウとジェイドが顔を寄せ合ってなにやら喋っている。ユウの笑い声が時折聞こえ、楽しそうだ。二人の手元にはドライ加工した島特産の花片があり、二人でそれをほぐしているのだろう。きっと化粧水の調合に使うのだ。

「今度、二人で見合いパーティでも行きますか」
「やだよ、今のアズールに寄ってくる女、ロクなのいねえじゃん」
「…違いない」

 アズールはやさぐれた様子のフロイドに同意を返し、読みかけの資料を閉じた。ブルーライトで焼けたような目頭を抑え、NRC時代、部活で会うたびに聞いていたオタク先輩の口癖を思い出す。

「…爆発しろ」

 夏の日差しの中、ぐったりとラップトップに伏せた独り身のアズールに、「同意ー」とチンピラ陽キャ(同じく独り身)の悲鳴が重なった。

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