前回読んだ位置に戻りますか?

桔梗咲いたら

 あるじ、と息を吸い込んで、止めた。彼の年若いあるじは、文机に突っ伏して、すやすやと寝息を立てている。無理もないと、へし切り長谷部は息をこぼした。彼女はここのところずっと、新しく顕現した刀剣に関してのレポートを記していた。その刀剣に関してはまだ上層部にも詳しい資料が揃っていないために、顕現に成功した彼のあるじが補足としてその刀剣の資料を、上層部への提出用に作っていた。
 年若いと言っても、あるじはもう二十半ばを越えている。ここに来る前には、商社で働いていたのだという彼のあるじは、長谷部がいうのもなんだが、仕事中毒のきらいがある。真面目だと、彼女を見て長谷部は思う。ほんに、真面目だと。
 長谷部は持っていた盆を脇に置き、あるじの肩にかけられるような薄手の毛布を探しに、部屋を出た。もう夏も終わる。虫の音が、庭先からは聞こえていた。



 さきりさまと、短刀の幼子たちが無垢にあるじを呼ぶ声が聞こえる。小越さきりと、あるじは自分の名を隠さなかった。古来から、神の前では名前は隠すものであると言い伝えられているのだが、あるじの彼女曰く「隠すと余計に欲しくなる」とのことで、あるじは自らの名を隠さない。実際、名を知って本当に『神隠し』ができるのかなんてことも、長谷部にはわからなかった。『へし切り長谷部』が末席といえど神の格を得たのもいつからかなんて覚えておらぬし、いわゆる『自我』を持ったのはこの戦争が始まってからだった。故に、長谷部は神としてはなにも知らないし、あやかしとしても、なにも知らなかった。知っていたのは、ただ刀の振るい方だけで。
 あるじは短刀の子どもらに手を引かれて、庭の生垣の端を覗き込む。短刀たちの華やかな声に、一体なにがあるのだろうと、長谷部は首を傾げた。

「桔梗の蕾を小夜が見つけたらしいよ」

 非番故に暇を持て余しているのか、涼しくなった縁側でえんどうの筋を取りながら、歌仙が言った。見やると、短刀の子らの中でも一等ちいさな青色の髪の子どもが、愛染に背を押されて戸惑っている。その髪を、あるじのてのひらが撫でた。

「咲くまで摘み取らずに、あとで根は少し採ると薬研が言っていたよ。桔梗の根は生薬になるからね」

 そこまで言ってから、ああと、歌仙は顔を上げた。

「君は嫌いだったかな? 桔梗紋は」
「……いや」

 言葉を濁した長谷部に、歌仙は薄く笑って、暇なら君も筋取りを手伝っておくれよと言った。あるじの初期刀であるこの刀は、この本丸の中で一等、あるじに似ている気がする。竹で編んだざるの中からえんどうの鞘をひとつ取りつつ、つっとその上部に爪を食い込ませる。肉体を持ってから筋の取り方を長谷部に教えたのは、小夜左文字であったと、長谷部は記憶している。
 きっと今夜は、この豆の煮物か炒り物かが卓に並ぶのであろうと、ぶつり、ぶつりと途中で途切れる筋を取りながら、長谷部は思った。



「どうでしたか?」

 就寝前に執務室に訪れるようにと言い含められていた長谷部は、まだ白い立ち襟のままであるじの部屋を訪れた。常時と居住まいを変えぬ近侍に、あるじは薄く微笑んだ。

「暇でした」
「そう」
「戦にも出ずあるじの手伝いもなく、あてもなく過ごす一日は長く、暇でした」
「そうでしたか」

 ふふふっとあるじは笑う。そして文机に立てた帳簿の中からひとつを抜き出し、そこに現世の筆でなにかを書き記した。

「あなたは顕現してからずっと、わたしの近侍か、戦場に出てもらっていましたからね。今回が初めての『おやすみ』でしたでしょう? みな、そうだったわ」

 ふふっともう一度、あるじは笑う。

「初めて『なにをしていてもいい』と言うと、大抵みんな困った顔をする。歌仙のときは、一緒に街に出て、買い物をしたわ。小夜のときは、弁当を持って、暮れるまで野道を散歩した。ほかの子も、一緒にいろいろなことをした。長谷部、おまえは、なにがいい?」

 もう湯は使ったあとであろう。薄化粧もないあるじの頬は、いつもの粉がないぶんだけ、幼く見えた。

「わかりません」
「好きなものは?」
「わからないです」
「そうね」

 みんな、最初はそうよ。柔らかく、あるじは言った。

「おまえは最初に『おやすみ』をあげるまでに時間がかかってしまった。申し訳ないわ。立て込んでいたというのは言い訳なのだけれど、許してちょうだい」
「褒美でしょうか」

 唐突な長谷部の問いに、あるじは問い返すように首を傾げる。

「『やすみ』とは、下賜される褒美なのでしょうか?」
「そうでしょうね」
「では、俺には『やすみ』は無用です。褒美は、武勲を立てたものに与えられるものだと。一等、いいものだと聞きました。けれど、俺には『いいもの』だと思えませんでした」

 長谷部は俯いてそう言った。『やすみ』は嫌いだと思った。全く落ち着かず、そわそわとする。

「なぜかしら?」

 問い返したあるじを、長谷部は縋るように見る。どうか、どうか、あたえてくれと思った。

「なにか、とても、よくない気がしたのです。自分がここで呆けている間にも、なにかできるのではと思ってしまう。例えば鍛錬するだとか、戦術を学ぶだとか、某かができるのではと」
「鍛錬や戦術が、おまえは好きですか?」
「……わかりません」

 あるじの問いに、長谷部は再び俯いた。「へし切り、長谷部」 あるじが自分の名を呼んだ。

「よく働く、いい付喪神であると聞いています。けれど、おまえと過ごしていて、おまえはわたしと似ていると思った」
「俺が……ですか?」

 あるじと似ていると言われて思い浮かぶのは、柔らかな紫の髪の、初期刀だった。穏やかなその表情は、あるじと似ていると思っていた。

「わたしも仕事が好きでね。仕事をしていないと、罪悪感を覚えるのよ」
「罪悪感……ですか?」

 あるじは困ったように笑んで、頷く。「ここに来たばかりの頃、こんのすけに叱られたわ。前の職場でも、同じことでよく叱られていた」 遠くを見るように、あるじは言葉を紡ぐ。

「仕事は逃げないし、息抜きをしろとね。こんのすけには、追加で、周りを見ろと言われたわ。見れば歌仙も小夜も、黙々と仕事と食事と睡眠だけをして、他にはなにも知らなかった」

 わたしはね、長谷部。あるじはゆっくりと囁く。夜半の虫の音に負けそうなほど、そっと。ちいさく。

「おまえと同じ。休んでいても、いいと思えない。幸い、歌仙も小夜もほかの子らも、『おやすみ』を好んでくれるけれど、わたしひとりだったら、途方にくれてしまうわ。だって、なにをしたらいいか、わからないんだもの。自分の好きなものなんて、わからないわ」

 困ったように目の前で笑っている彼女は、同じなのだと長谷部はそこで悟った。仕事を取り上げられるとなにをしていいかわからない、仕事をしていなければならないと思う自分と、同じであると。

「この本丸の初めの『やすみ』は二日だと、聞きました」
「ええ」
「一日目のやすみは一人で過ごす。二日目のやすみは、あるじが一緒に『好きなこと』を探してくれるのだと」
「ええ、そうよ」

 『やすみ』は『褒美』だとあるじは肯定した。しかし、長谷部にとって今のところ、『やすみ』は褒美ではない。ただひたすらに、心苦しくなるだけである。ならば。
 腹に決め、つと顔を上げる。見上げた先のあるじは、少しだけ目を見開いた。

「俺は二日目の褒美を返上します。その代わり、別のものがほしいのです」

 長谷部の言葉に、あるじは目を細める。長谷部の心を見るように。長谷部のその目の奥を見るかのように。

「あるじの好きなことを探すときには、俺を共にしていただきたい」
「なぜ?」
「俺の好きなものも、そこにあるかもしれないから。あるじは、俺とあるじが似ていると言いました」

 そこまで言い切ると、あるじは少し沈黙してから、ふと笑いをこぼした。おまえはと呟かれた言葉の先は、一体なんだったのか。長谷部にわかりはしない。

「いいでしょう。許可します。長谷部は好きなものをわたしと一緒に探す。これがおまえの望む褒美ね」
「はい」

 あるじは帳簿にまたなにやら書き付けると、困ったものねと呟いた。

「ワーホリが二人で、一体どんな息抜きが見つかるやら」
「わーほり?」

 聞き慣れぬ言葉を繰り返すと、「ワーカーホリック。仕事中毒。わたしやおまえのような、仕事人間のことだよ」と教えられた。

「ああ、それから」

 帳簿を閉じて元の場所に戻すと、あるじはにやりと悪戯をする子どものような顔をして、言った。

「さきりと、名で呼んでいいのよ。あるじ、あるじと、刷り込みのまま繰り返されるのでは、まるで面白みがない」

 これが先ほど、自分と似ていると言った人間だろうか。その表情と言い分を以て、長谷部は考えた。こんな表情も、言振りも、きっと自分はしないし、できないだろうと思うのだが。

「承知しました。さきりさま」

 しかしその言葉を飲み込んで、ただ頭を下げた自分に、さきりはやはり自分と似ていると笑った。



 後日、小夜が摘み取った初秋の桔梗は、暫くさきりの部屋に飾られたあとで長谷部のものとなった。まるで長谷部のような花だと呟いたさきりに、そのときの近侍であった歌仙が、プリザーブフラワーにしてはどうかと勧めたらしい。きっとそれは、君たちの趣味づくりの一端になるんじゃないかなと。
 歌仙のその言葉が発端となり、仕事中毒のふたりはお互いの予定のないやすみの度に、一緒に『好きなこと探し』をする運びとなった。ときにふたりで、ときに他のものも交えて。

 長谷部はなかなか気付かなかったが、一番最初にできた長谷部の好きなことは、彼女と枯れない花を作ることだった。
 彼がそれに気づくのは、彼がもう少しこの本丸に馴染んでからの話であったし、たくさんのことを試しては首を傾げる彼のあるじはなかなか好きなことが見つからず、共に『好きなこと探し』をするのが彼の『好きなこと』である長谷部は、まだもうすこし、彼女の好きなものが明確にならなければいいと、悪戯に笑っている。そのことを、仕事中毒の審神者はなかなか気づかないのであった。それは悪戯に笑う長谷部、その彼自身でさえも。

 周りの者はその様子を見ては、やはり似たもの同士の仕事中毒だと、当人たちには知られぬよう、ひっそりと笑っていた。
 二度目の桔梗の花が咲くのも、きっとまたもうすぐ、差し迫るだろう。似たもの同士のふたりを見て、周りの者は思いいたり、そして笑う。
 薬研は根を『少しだけ』しか、採らなかったのだから。

一作品のボタンにつき、一日10回まで連打可能です。