前回読んだ位置に戻りますか?

Teach!

 夜に濡れた街に微かな歌声が聞こえ、トム・マールヴォロ・リドルは反射的に懐の杖に手をやった。辺りに人影は見えなかったが、彼の緊張は解けなかった。じとりとして、一秒一秒が過ぎていく。彼の背後で靴音がひとつ響いた。彼は振り向きざまに杖を抜き、突き付ける。「あー!」。喜色満面の声。一瞬わけがわからず、張り詰めた力が緩んだ。

「トム・リドルじゃーん!ひっさしぶりー!」

 場違いなほど明るく、警戒心の感じられない声だった。リドルは怪訝に眉を顰め、しかし杖腕は下ろさない。頭上で仄かに光っている街灯の元に、人影が浮かび上がった。ふらふらと覚束ない足取りで、今にも転びそうである。リドルはこの歩き方を見たことがあった。とてつもなく、見覚えがあった。

「まさか、ローレン・ブラケットか?」

 猜疑をこめて囁いたのに、人影は「そうだよう」と間抜けな声を上げ、その姿を露わにした。その顔に張り付いているのは確かに見覚えのある、意味を持たない笑顔。弛緩しきったその表情は、今日も彼女が酒に酔っていることを表している。「なぜここに?」。杖腕を下ろさぬまま、リドルは鋭く囁いた。パチリと杖の先から火花が爆ぜる。しかし彼女はリドルのそんな様子にもお構いなしで、ふらふらと近寄ってくると、彼の肩をぺしぺしと叩いた。

「リドルはあ、何、してるのおー?」

 問いかけてきたのに、返事も待たずローレンは口を開く。

「わたしはねえ、そこの酒屋で飲んでたんだけどねえ、もう飲ませられないっていうから、出てきちゃった!」

 きゃっきゃと嬌声が夜に響く。リドルはしつこく突き付けていた杖を遂に下ろし、頭に手をやった。なぜ、今夜に限って、この女に。間が悪いにもほどがある。リドルリドルとローレンは意味なく彼を呼び、手を取ってみたり腰に手を回してみたりしている。「僕、行くところがあるんだ」。リドルは彼女の手を遮り、踵を返そうとした、が。

「リドル、行っちゃ駄目だよう。折角会ったんだから、一緒に飲もうよ。もったいないじゃない」
「君は一人でだって飲むじゃないか。僕がいようといまいと、勝手に飲んだらいい」
「そんなさみしいこと言わないで」

 子犬のような目で見つめてくるローレン。リドルは鬱陶しく、伸ばしてくる手を払った。ローレンはしゅんとして、俯く。リドルはふんとひとつ息を落として、今度こそ踵を返そうとした。そのときだった。

「リ、リドルう」

 情けない声が背中を追いかけてくる。それでも無視して進もうとしたら、ジャケットの裾を掴まれた。「ブラケット」。いい加減にしろと叫ぼうとした唇は、結局空気を食んだだけだった。
 おげええー!と喉が鳴る音に、びちゃびちゃと粘着質な物体が地面に叩きつけられる音。ツンとした臭いが鼻腔を刺して、生温いものが手のひらに触れた。見れば、ジャケット一面に白味がかった液体が付着している。ローレンの体はそのままリドルにしだれかかり、彼は特大のため息を落として、それを受け止めた。



 ローレン・ブラケットとの縁は、アルバス・ダンブルドア教授によって作られた。何のことはない、変身術が異常なほど下手糞だったローレンに教えてやってくれと頼まれたのが始まりだった。学生時代、リドルは完璧な優等生を装っていたから、その依頼にも二つ返事で了承した。しかし、今になって思えば、アルバス・ダンブルドアはローレン・ブラケットの性質を理解した上で、あえてトム・マールヴォロ・リドルにそれを依頼したのであろう。ローレン・ブラケットは、『変』だった。



 洗面所でジャケットの汚れを落としていると、背後で彼女が起きあがる気配がした。リドルはあえて反応せず、ジャケットの汚れに腐心したふりをした。「リドル」。囁くような声が聞こえてくる。そこでリドルはようやっと、振り向いた。

「目が覚めたかい。『酔いどれ』ブラケット」

 ローレンは辺りを見回してから「うん」と小さく返事して、冷蔵庫に向かった。中からビールの瓶を出してくる。栓を抜くとぷしゅりといい音がした。

「どうしてわたしの家がわかったの?」
「『杖占い』って知ってるかい?こうやって杖を地面に立てて、倒れたほうへ進めば行きたい場所に辿り着ける」
「ふうん」

 ローレンは考えることも煩わしそうな、面倒くさいからという理由で本気で信じかねないような、やる気のない返事をした。リドルは仕方なく「嘘だよ」と首を振った。

「悪いけど君の手帳を見たんだ。それだけ」
「リドルは相変わらず親切だね。家まで送り届けてくれるなんて」
「気まぐれさ」

 リドルはべとべとに濡れたジャケットをぽいと脇へ放り、冷蔵庫を勝手に開けてビールを取り出した。きんきんに冷えている。ぞくりと背中が粟立った。

「君は今、何やってるの?」
「わたし?わたしは少し向こうのバザールで売り子をしてる」
「マグルの店?」
「そう」
「こんな時間まで飲んでていいの」
「飲んでないよ。知ってた?ビールってアルコールじゃないの」

 ローレンは悪びれることなく言って、ぐいと瓶を煽った。リドルは自分の持っていた瓶をしげしげと眺めてみたが、どう見てもラベルにはアルコール四パーセントと書いてあるのだった。リドルは首を振り、「それにしても」と続けた。

「学生時代、僕が君に教えた『変身術』は、全く役に立っていないということだね?マグルの店で働いてるなんて」
「そんなことないよ。ツケにした店に行くときに使ってる」
「ホグワーツがそんなことの為に開かれていたなんて、知らなかったな」

 リドルは大袈裟に嘆息してみせ、瓶を置いた。まだ中身は半分以上残っていたが、これ以上飲む気になれなかった。ローレンは目ざとくそれを見つけ、リドルが置いた瓶を掻っ攫っていった。

「ホグワーツの存在理由は人によって違うのよ。わたしにとっては、『気ままな酔いどれ人生をどうやって続けるか』の為に開かれていたけど、リドルにとっては違うでしょ?」

 リドルは数秒声をなくした後に、やっと、「そうだね」と答えた。

「少なくとも酒を飲む為にあそこにいたわけじゃない」
「わたしはお酒の為にいたけどね」

 リドルは少しの沈黙の後、口を開いた。

「僕にとってホグワーツはホームであったし、思う通りの未来を実現する為の方法を探す場所であった。僕はホグワーツで『アバダ・ケダブラ』のことを知ったし、それ以外の禁じられた闇の魔法についても知った。ブラケット、君は知っているかわからないけど、僕は人を殺せるんだ」
「知ってるよ」
「なら、いいんだ」

 ベルトに差していた杖に手を伸ばす。彼には確信があった。きっとこれを引き抜いてローレンに突き付けても、彼女は欠片だって動揺したりしないだろう。だからだ。だから、今、杖を抜いてもいい。彼女に突き付けたっていい。
 ぴたりとローレンの鼻先にリドルのイチイの杖が突き付けられる。やはり、ローレンは動じなかった。邪魔そうにその杖先を脇にやり、飄々とビールの続きを飲んでいる。リドルは逸らされた杖も下げることができず、「僕は」と小さく呟いた。

「さっき、スミスという婆さんを殺してきた」

 告白に、ローレンは「そう」と無感動に頷いただけだった。

「僕は誰だって殺せる。知ってる奴も知らない奴もみんな殺せる。だけど、君だけは殺せない」
「うん」
「何度もやってやろうとしたことがある。だけど駄目だった。僕は君を殺せない。なぜだろう。ずっと考えてたけど、わからないんだ。さっきもそうだった。君に呼び止められたとき、君が吐いて倒れてきたとき、僕は本気で殺意を覚えたんだ」
「うん」
「君は、君自身が思っている以上に、この上なく厄介な人なんだよ。ブラケット」

 リドルは杖をぽいと脇に放った。「自分の杖がこんなにも役立たずに思えることって、そんなにないんだ」。「うん」。ローレンは神妙な顔をして頷いて、「わたしの杖はいつでも役立たずだわ」と言った。

「だから代わりに酒瓶を持ってるの。これのほうが役に立つことがずっと多いから」
「君が酒好きがそんな理由からとは、ついぞ知らなかったよ」

 そのとき瞬間的に衝動が沸き起こって、リドルは気づけば彼女の瞼に唇を押しあてていた。恐らく反射的に閉じられていた瞼がゆっくりと開き、ローレンがリドルを見る。リドルは慎重に、彼女から距離を取った。ローレンはしばらく考え込むようにして、口を開かなかった。何秒後か、何分後か、ローレンがようやく口を開いたとき、リドルは緊張に疲弊を覚えていた。

「リドル。わたし多分、あなたがわたしを殺せない理由を知ってる」
「教えて」
「わたしといることが楽しいからだと思うの、リドル」

 呆気にとられて、沈黙した。ローレンはなぜかまだ真顔で、リドルを見返してくる。普通はそこでにっこりと笑ってみせるものじゃないのか、とリドルは思案し、そして数秒後に煩悶した。顔に出さなかったが、彼は大いに煩悶した。自分の中にもローレンの言うような感情が生まれうることに、彼は今まで気づかずにいたのだ。
 リドルは己の尊厳をかけて、表情を動かさなかった。ローレンもまた同じように、表情を変えなかった。つまり彼女はちょっと、変わっているのである。

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