sweet rotten smell
桃子は黙ってテレビを見ている。薄暗い部屋だ。もう日も暮れるというのに、明かりも点けていない。「目を悪くしますよ」。そう言ってスイッチを入れたけれど、桃子は振り向きもしなかった。
蛍光灯を点けてみれば、外はより一層暗く見えた。僕は黙って窓まで歩き、雨に濡れた緑色をしたカーテンを閉めた。雨に濡れた緑の色とは、このカーテンを選ぶときに桃子が言った。「まるで、雨に濡れた緑の色ね」。
「ねえ、骸」
買ってきた夕食をテーブルに並べていると、桃子が呼んだ。桃子はもう僕らの食事を作ろうとしない。彼女自身の食事や、僕の食事を作ることはあっても、僕らの食事は作ることはない。
「なんですか」
僕は返事をしながらも、彼女の方を見なかった。大きな画面の中では、延々と海が映し出されていた。朝の海、月明かりの海、嵐の海、鯨と海、人々が戯れる海。ずうっと海ばっかりだ。
「骸」
「なんですか」
もう一度、桃子は僕を呼ぶ。僕はやっと桃子のほうを見た。だけど桃子はテレビを見つめるままで、僕を見ない。
「なんですか」
僕ももう一度聞いた。桃子は答えない。吐きだしたため息は、部屋に響き渡ってしまった。「ひどいのね」。やっと桃子が言った。「ため息を吐くなんて、ひどいわ」。
彼女の言うことと、態度は、ひどくちぐはぐだ。僕は何も答えなかった。買ってきた食事は桃子ダとミネストローネスープとリングイネ・ジェノベーゼ、それから食後のプラム。全部出来合いのものだ。パスタを茹でることさえ面倒なのだ。
僕はキッチンから揃いのフォークとスプーン、それからグラスとフェッラッレッレの瓶を取ってきて、桃子を呼んだ。フェッラッレッレは炭酸が弱いから、いくらでも飲めてしまう気がする。
テーブルについた僕は、彼女が僕の向かいに座ることを、期待していなかった。フォークを桃子ダに突き刺す。ざくりと音がした。咀嚼して飲み込むと、オリーブオイルがぬるりと喉に纏わりつく。瞬間、僕は食事をする気をなくしてしまって、口の中の桃子ダは何とか飲み込んだものの、そのままフォークを放り出してしまった。
「食べないの?」
桃子が聞いた。大きな目でこちらを見つめている。「ええ」。「勿体ない」。桃子は言ったけれど、そんな風になんか、欠片も思ってなかったと思う。
僕はテーブルの上のプラムを突いた。まだ硬かった。手に取ると、しっとりと重たい。表面のさらさらした感触が好きだった。僕は何をするでもなく、それを弄ぶ。本当はしなければならない仕事もあったし、食事をしに帰ってこないという方法もあった。だけど僕は、それができない。桃子はそれが余計に嫌なようだった。
「それ、ちょうだい」
ふいに桃子が言った。はっとして僕は顔を上げる。桃子がこちらを見ていた。正しくは、僕の手のひらの上のプラムを見ていた。
手渡すのは躊躇われた。だから僕は、ひょいとそれを放り投げることにした。プラムは弧を描いて落ちていく。桃子は上手にそれを受け取った。
桃子はしげしげとプラムを見つめている。赤黒いプラムの実は、彼女の手のひらの中で、とても卑猥に見えた。
僕はそのとき思い出した。まるで紅茶に浸したマドレーヌを口にしたときのように、まざまざと。この部屋が光で溢れる午後のこと。まるで水槽の中のようだった、僕ら二人の、守られた時間のことを。
ノスタルジーに浸ることは、マドレーヌを紅茶の中で溶かしてしまうことのように、とても簡単なことだ。難しいのはそこから抜け出し、先へと進むこと。そんなこと、誰もが知っている。誰もが知ってるのに、それを上手にできる人は、とても少ないのだと思う。
「剥いてちょうだい」
桃子が言った。僕はキッチンからナイフを取ってきて、彼女の手からプラムを取り上げる。ナイフを入れると仄かだった桃の甘い匂いが強くなった。皮を剥がれたプラムの実は薄いピンク色をしている。きれいに剥き終えた実を、僕は桃子の手に落とした。手のひらが果汁でべたついて、不快だ。桃子はまるで宝石を見るように、裸のプラムを見つめている。
停滞する感情たちを、多くの人々はどのように処理するのだろう。先へ進まねばという、義務感で全てを、全ての痛みを請け負うことを決意するのだろうか。僕にはわからない。
がじゅり、と桃子がプラムに噛みついた。瑞々しい音だった。部屋の中は甘い若い匂いで満ち、テレビの画面はまだ海の光景を映し続けている。
このままだったらよかったのに。僕がついにそう思ったとき、同時に桃子が「これのままだったらよかったのに」と言った。胸がはち切れそうになった。僕らはとても久しぶりに目を合わせた。
「終わりが、わからない」
桃子は言う。手のひらに薄ピンク色の、肉の色をした果実を乗せて、桃子が言う。「始まりはあんなにも明確だったのに、どこが終わりなのか、わからないの」。するりと一粒、桃子は涙を瞳から溢れさせた。瞬く間にそれは慟哭へなっていく。うえっ、うえっ、うえっ。まるで子どもみたいな泣き方だった。
桃子の大きな目には見る見る間に涙が溜まって、涙はぼたぼた音を立てるように、彼女の頬を滑り落ちていく。彼女はプラムを持っているので、自分の涙を拭うことができない。僕の手のひらも、プラムの果汁で汚れているので、桃子の涙を拭うことができない。
うえっ、うえっ、うえっ。
桃子が泣いている。彼女が両手を突き出したまま、ついには腕に顔を伏せてしまったのを見て、僕はやっとその手からプラムを取り上げた。バスルームからタオルを取ってきて、彼女に渡そうとする。桃子は、自分の手が汚れているのも構わずに涙を拭ったらしい。瞼や頬が、てかてかと光っていた。
「ひどいわ」
タオルとプラムを手にした僕を見て、桃子は再度言った。憤慨したような、呆れたような、悲しんでいるような、そんな様子だった。ひどいひどいむくろなんてひどいの。そう言ってまた顔を覆ってしまう。僕とタオルとプラムは途方に暮れて、そんな桃子をただ見ていることしかできなかった。
僕がひどいのを、僕はよく知っている。だけど僕にも、どうしたらいいのかわからなかった。僕は、桃子と僕を、どうしたらよかったのだろう。
わからないので結局僕は、がじゅり、とプラムに噛みつく。プラムはまだ若く、やはり少し硬かった。そして瑞々しく甘かった。
このままだったらよかったのに。僕も、泣いている桃子も、思っている。このプラムのままだったら。
咽かえるような、甘い腐臭がしている。
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