厨房より愛をこめて
彼が相楽由希子に出会ったのは、雪の降る晩だった。彼は仕事からの帰り道だった。奇しくも、その夜はイエス・キリストの生誕祭の前夜だった。街は煌びやかに装飾されており、彼はそれを睥睨しつつ一人きりで歩く。明らかに異質だった。「やっていられない」。彼は思った。それは今夜がお祭りの前夜だったからではなく、この装飾された雰囲気と自分との差異がやっていられないと思ったのだ。
彼は生誕祭なんてどうでもいいと思っていたし、実際に予定もなかった。仕事がなければ自室でお気に入りの小説を読み、熱いコーヒーを飲んで過ごしていただろう。それがどうしたことか。寒空の下、仕事を終わらせて、煌びやかな街を睥睨しつつ歩く。中学校時代の彼に言わせるならば、「群れるとかみ殺すよ」と言ったところか。もちろん大人になった彼はもうそんなことをあまり頻繁には言わなくなったのだけど。
はらり、と視界を舞うものがあった。その瞬間、彼は本当にいやになってしまう。急ぎ足を進めるが、自宅までまだ距離がある。あいにくと傘の持ち合わせはなかった。彼以外の数少ない道行く人は、むしろ嬉しそうにその雪を甘受している。「やっていられない」。遂に彼は口に出してそう言った。そのときだった。
「何が?」
女の声がした。空からはぼたん雪がもうもうと降ってきて、視界はすごぶる悪い。目を凝らして声のしたほうを見ると、コックコートを着た女が一人、メニューの書かれた黒板を抱えながら、こちらを見ていた。
「今、君が言ったの」
「そうよ。何が『やってられない』の?」
女は黒板を抱え直しながら言う。彼女の背後のリストランテの照明はもう落ちて、仄暗い。女は返事を待たず黒板を抱えて踵を返し、「気が向いたら入ってけば」とつっけんどんな口調で言った。彼は少しむっとして、それなら帰ってやろうと思ったのだが、雪がますます猛威を奮ってきたことと、リストランテの中から漂ってくるどこか懐かしい匂いにつられて、敷居をまたいだ。そう言えば、日本語を喋っているなと思いながら。
由希子がじっと自分を睨んでいるのがわかる。しかし雲雀は敢えて何も言わなかった。何かをいったところで彼女の機嫌は直らないし、事態が快方に向かうとも思えなかったからだ。
それよりも、今日の由希子はうつくしいと雲雀は思った。いつもは化粧っ気なく放られている貌には薄らと化粧が施してあるし、色気なくひっつめられている髪は緩く流されている。
「どうして今日は化粧をしているの?」
雲雀は純粋な疑問から聞いた。「コンサートに行く予定が」。彼女は少し言い苦しそうな表情で言った。
「コンサートに行く予定があったのよ。だからいつもみたいな格好はできないでしょう?」
「それって誰と行くつもりだったのか、聞いていいかい?」
「店のお客さんよ」
そう言って由希子は目を逸らす。告白したも一緒だと、雲雀は思った。それでも敢えて聞いてやる。もちろん、彼女を甚振るためだ。
「それって男?女?」
「あなたわかってて言ってるんでしょう?」
由希子がぱっとこちらを睨んで言った。「大体」。
「あなたが悪いのよ。一か月も連絡がつかないと思ったら、入院して暇になったから、本を買ってこいなんて」
「仕方がないじゃないか。仕事だったんだ」
「連絡ぐらいしなさいよ!わたしがどれだけ・・・」
そこで由希子は言葉を切り、唇を噛んだ。
「『どれだけ』、何?」
雲雀は淡々と彼女を問いつめる。
「わたし、あなたのそういうところ、本当に嫌いよ」
由希子は言いつつ、椅子から立ち上がった。
「そろそろ行くわ。コンサートには間に合わないけれど、その後に食事をする約束をしているの」
「ああ。御苦労様」
「ええ。お大事にね」
由希子はそう言い捨てて、病室を出ていった。雲雀は彼女が持ってきた本屋の紙袋を開けて、中身を見る。どれも店頭にに平積みされている大衆文学ばかりで、雲雀の好みに合いそうなものはひとつもない。はあ、とため息を溢して、雲雀は彼女がこの本たちを買ったときのことを思った。窓の外を、憤然と由希子が歩いていく。雲雀は窓に頬杖をついて、ぼんやりとそれを見ていた。
「今日は仕事が遅くなったから、まだ夕食を食べてないのよ」
そう言いながら、彼女は厨房の中に入っていった。そこは家庭的な雰囲気のあるリストランテで、今日はもう終業らしく、客室の照明は完全に落とされていた。厨房の中からのみ、明るい蛍光灯の明かりが漏れ出てくる。
「お腹空いてる?」
彼女は聞いた。「少し」。雲雀は答えた。頭や肩についた雪を払って、コートを脱ぐ。「コート掛けはそこ」。厨房の中から彼女が指さした。彼は丁寧にコートの雪を払い、コートを掛けた。その間に彼女は立ち回って、何かを盛り付けているようだった。彼はそんな彼女を横目に見つつ、店内を見回す。オーナーらしき人物の写真が飾ってある。誕生日の写真だろうか。ケーキには蝋燭がともり、孫に囲まれて、嬉しそうだ。その隣を見ると、コルクボードにスナップ写真が何枚も飾ってある。オーナー夫妻らしき人物が写っているものが大半だったが、その中に彼を店の中に招き入れた彼女の写真も混じっていた。写真が苦手なのかぎゅっとカメラを睨んでいる。写真うつりの悪い子だなと思った。
「できたわよ」
振り向くと、彼女がカウンターの席にプレートを二つ置いたところだった。
「作りすぎたの。よかったら食べていって」
彼女はそう言い、コックコートの衿元を緩める。「遠慮なく」。彼は頷いて、カウンターへ近寄った。醤油と味噌の匂いがした。
「なんでイタリアのリストランテで和食?」
「食べたくなったのよ」
彼女は恥ずかしさを隠すように乱暴な口調で言い、席についた。
「あなたも座れば?」
やはり少し乱暴な口調で言われたが、彼は気にしないことにして、彼女の隣に掛ける。メニューは本当に一般家庭の夕食のようで、白いご飯に味噌汁、アジの干物とかぼちゃのそぼろ煮、ほうれん草のおひたしだった。
「いただきます」
そう言って彼女は手を合わせる。最近終ぞ見なかった習慣だと思いながら、彼もそれに習う。彼女はそれを横目で見て、少し笑った。
「どうして見ず知らずの男に夕食食べさせてるの?」
彼はかぼちゃのそぼろ煮に箸をつけながら聞いた。彼女はちょうど味噌汁を飲んでいたところで、眉を上げて少し待ってという風に合図すると、それを嚥下してから言った。
「言ったでしょう。作りすぎたのよ」
「ふうん」
彼は息を溢し、味噌汁を一口飲んだ。具の玉ねぎはとろけそうで、熱くて、体の芯から温まりそうな味噌汁だった。
あれから由希子に連絡が取れない。彼女が持ってきた大衆文学も読みつくしてしまった。雲雀はぼんやりと窓の外を眺める。今日も由希子は病室に来る気配はない。
僕が悪いと言っているのか。
雲雀は窓の外を見つつ思った。時折同僚が病室を訪ねてくるものの、彼はとても暇だった。灰色の髪の同僚に、本の達を頼んでもよかったのだが、彼は雲雀のことをなぜか毛嫌いしている。それを思うとどこか億劫で、結局頼むことはやめた。
僕が悪いのか。
雲雀はもう一度同じことを思った。直属の上司からも事務処理まで取り上げられてしまったので、本当に暇である。だから同じことを何度も考えてしまうのだ。由希子なら生産性がないと言って怒るのだろうけど、あいにくと雲雀はそう思わない。生産性がないことが大切なのだと、雲雀は思う。
僕が悪いのだろうか。
だから彼は何度も同じことを繰り返し考える。由希子が病室へ来ないのは、忙しいのではなくて、きっと怒っているからだ。怒らせるようなことをしただろうか。しかし、病室から出ていくとき、由希子は確かに怒っていた。そうだ、「嫌い」とまで言われた。
僕は好きなんだけど。
由希子の顔を思い浮かべる。どこかむすっとした顔をしていることが多いのが由希子だ。表情があまり表に出ない自分と並ぶとかなりの迫力が出るらしく、すれ違った子どもが泣きだしたときがあった。あのときは流石に雲雀も困ったし、由希子は苦笑していた。そう、初めて一緒に出かけたときのことだ。
それから彼は時折、その店に顔を出すようになった。彼女はまだメインシェフではないようで、イタリア人の痩せて背の高い老齢のシェフが料理を作っていた。アルバイトらしきウェイトレスもいたけれど、手が足りていないと彼女も客席の方まで足を伸ばし、ときどき雲雀のテーブルにもやってきた。
「君っていつが休みなの?」
何度目か顔を合わせたときに、彼はそう聞いた。彼女はひとつ瞬きをしてから、「水曜日」と答えた。
「じゃあその水曜日。一緒に出かけないか」
「どうして?」
彼女は皿をテーブルに置きながら聞く。「どうしてだろう」。彼は椅子の背もたれに凭れつつ言った。
「君の作った味噌汁が美味しかったからかな」
「理由になってないわ」
彼女は素気無く言う。「つまり」。彼は言葉を重ねた。
「お礼がしたいってこと」
そう言うと、彼女はくすりと笑った。「そういうことなら、いいわよ」。そう言って、サロンのポケットからメモ帳を取り出して、何か書きつける。
「携帯の番号。連絡して」
そう言ってメモを彼に渡す。彼はそれを受け取ると、大事にスーツの内ポケットにしまった。
「それにしても」
彼女が言う。
「あなたがこんなイタリア男みたいな真似、すると思わなかったわ」
ふっと彼女が笑う。初めて真正面から笑う顔を見たなと思いながら、彼は「僕もだ」と答えた。
着替えて病院を抜け出して、電車に乗った。行き先はもちろん由希子の働くあのリストランテで、そこが今ディナータイムの真っ最中だろうと、関係なかった。
リストランテはほとんど満席で、雲雀が店内に入ったとき、一瞬だけ由希子がこちらを見た気がした。しかしそれだけで何も言わない。ウェイトレスに奥の席へ通された。雲雀はコース料理を頼み、入院中だという事実を見なかったことにして、赤ワインを注文する。ウェイトレスが慌ただしくワイングラスとボトルを持ってきた。自分でワインをグラスに注ぎながら、雲雀はそっと厨房を伺い見る。厨房の中は忙しそうで、きっと由希子にこちらを気遣っている余裕などないだろう。そう勝手に解釈して、雲雀はワインを一口口に含んだ。
『前菜です』
やがて運ばれてきた前菜の盛り合わせを食べながら、雲雀はワインを飲んだ。彼は酒に強くて、ボトル一本くらいでは全く酔いが回らない。着々とボトルを空けていくうちに、パスタ、メインディッシュの魚と肉が運ばれてきて、雲雀は着々とその皿を空けていった。
「まるで入院患者と思えない食べっぷりだな」
メインディッシュの肉料理を食べ終えた後で、雲雀が思わず呟くと、皿を下げにきたウェイトレスがそれを聞きとめて「Oh?」と聞き返した。
『何でもないよ』
首を振って言うと、ウェイトレスは不思議そうな顔をしたまま、厨房へ戻って行った。次は確かドルチェだな。そう思ってグラスに残っていたワインを飲み干す。全く平素と変わりがない。雲雀は少しつまらなく思った。
『スープです』
ウェイトレスがやってきて、皿を置く。次はドルチェでは?雲雀が思わずウェイトレスの顔を見ると、彼女はにっこりと笑ってウインクした。そのまま何も言わず立ち去ってしまう。不思議な匂いがする。そう思ってスープ皿を見ると、盛られていたのは、味噌汁だった。
・・・なぜ。
雲雀は思わず厨房を見る。客は引けてきて、厨房の中もそう忙しそうではない。しかし由希子は頑としてこちらを見なかった。雲雀は仕方なく、添えられていたスプーンで味噌汁を掬う。スプーンで味噌汁を食べるなんて、なんて不思議な気分なんだ、と思った。
味噌汁を飲み干したところで、ウェイトレスが伝票を持って席にやってきた。
『伝票です』
『デザートはないの?』
『はい』
雲雀が伝票を受け取ると、ウェイトレス『それから・・・』と続けた。
『由希子から言付けを預かっています。【サッサトカエリヤガレケガニン!サケノムナ!】』
雲雀は苦笑して、『由希子に伝えてくれないか』と言った。
「味噌汁おいしかった」
「『ミソシルオイシ』・・・?」
「み、そ、し、る、お、い、し、か、っ、た」
『わかりました。【ミソシルオイシカッタ】ですね』
雲雀は頷き、伝票を取って立ち上がった。ウェイトレスにそれを渡しながら、厨房を見る。厨房の中の由希子はやはり雲雀を見ない。しかし、明日は病室に来てくれるのではないかと思う。そうしたら、今度はもう少し雲雀の趣味に合った本を買ってきてくれるように頼もう。そうしたらまた、由希子は病室に来てくれるはずだから。
そのとき、謝ろう。あんな本を買わせて悪かったと。雲雀はそう思った。味噌汁を飲んで、少し反省したのである。
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