前回読んだ位置に戻りますか?

目隠し

 それは、堪えているような夕暮れ空の色をした日だった。

 砂世は初めに、ぱちんと表口の戸が開く音を聞いた。表の敷居は、先日ロウを少し塗りこんだばかりなので、異様に滑りがよい。何気なく開ければ、ぱしゃん!、と音がする。だから、何となく居地ちの悪い思いをするお客様がいくらかばかりか見えた。
 ――あらあら。
 だから砂世は初めにそう思った。また誰かしら、居心地の悪い思いをされたのかしらね。そんなことを考えながら、砂世は袂を押さえ、朱塗りを椀を膳に置いた。慎重に、音を立てぬよう。

「近海で捕れた鱈の、おろし汁でごさいます。どうぞお好みで、ミツバを散らして、お召し上がりください」

 すらりと手を引き、狂いの許されない微笑で言いきる。膳の向こうのお客様方は椀を開けて、「ほお」と、感嘆の声のようなものを上げられた。朱塗りの椀と白い鱈の身、そして緑のミツバの色どりは、今日の料理長の自信作だ。

「どうぞごゆっくり、ご賞味くださいませ」

 砂世は膝を立て、その場を辞そうとした。この客には控えておらずともよいと、支配人からのお達しだった。砂世はしずしずと下がる。そして腹と足に力を込め、立ち上がろうとしたとき、しかし「まあ、待ちなさい」と声がかかった。

「もう少し、ここにおってくれてもよいじゃないか」

 だらりと相好を崩した客は、空の猪口を差し出している。砂世はため息を押し隠し、冷やの徳利を手に取る。透明な液体を、下品にならない程度で猪口に満たし、またしずしずと下がった。

「申し訳ございませんが、下がらせていただきます」

 控えずともよいと言われているのだから、何か大事な商談なのだろうと思ったのに、変な客である。何せ、まだ名残惜しそうな顔を彼らはしているのだから。砂世は首を少し傾げる。注文は、いつの間にか反故になっていたのか。一度支配人に確認しなければならない。「失礼いたします」。どちらにせよ、下がらなければならないことは確かなので、砂世は今度こそ、身を引こうとした。そのとき、またぱしん、と小気味よい音が聞こえた。今度は、砂世のすぐ背後で。

「天誅にござる!」

 声と共に、どっと脇へ押しのけられる。砂世はよろめき、膝をついて倒れた。その拍子に、行燈を倒した。ちろちろと燃えていた火が零れ、砂世の袂に燃え移ってくる。「ひい!」。砂世は小さく悲鳴を上げ、慌てて燃える袂を、もう片方の袂で叩いた。炎はじりじりと砂世の肌を焼いたが、何とか消せた。

「何を・・・」

 ようやく顔を上げた砂世の目に映ったのは、煌めく白刃であった。

「民を喰らい、私腹を肥やす悪人共!もはや許しておける所業ではない!」

 ぱあっと、血が舞った。赤だった。朱塗りの椀よりも遥かに鮮やかで、艶やかで、梅を描いた襖によく映える、本物の赤であった。

「痛みを知れ!」

 どう、という音。それが肉を刃で裂く音であったと気づけたのは、いつもぶつくさと文句を言いながら、肉の塊を捌いていた料理長の後姿を見ていたからだった。無理矢理に肉の繊維を断ち切る、どう、という音。

「貴様ら・・・!」。怒号が聞こえる。悲鳴が聞こえる。うめき声が聞こえる。血が噴き出す音が聞こえる。

「あ・・・」

 よくもそんな騒がしい状況で、己の小さな声が聞きとれたものだと思う。「あああ・・・」。砂世は意味もなく、声を上げていた。上げようと思ったわけではなく、喉の奥から溢れてきたのだ。
 先程まで給仕していた男が、だらしなく砂世に相好を崩していた男が、砂世の横を駆け抜けようとして斬られた。その背から血が噴き出す。ぱあっと、まるで、打ち水のように赤は散り、砂世の頬に散った。空を舞い、冷えた、血の感触。まるで水のようであった。砂世はそっとそれに触れる。しかし赤はぬるりとして、水とは言い難かった。もっと多くのものを含んでいるようだった。

「私が何をしたという!」

 叫ぶ声が部屋の奥でした。

「皆することだ!それだけの責任を我々は・・・!」
「果たしたと言えるのか!この世が!天人の諂うだけの貴様らが!」
「ではどうしろと言うのだ!」
「この国は、星は、我らのものだ」
「わかっている、そんなことは私も重々、そのために・・・」
「そのために、何をした?何が変わったのだ?」
「時間をくれないか、もう少しだ。君達が思うように、物事は簡単では・・・」
「もう充分に待った!」

 ばっと白刃が振り上げられる。刀を向けられた蒼白な顔の男は、一瞬、刃越しに砂世を見た。確かに目が合った。どうか、とその目は言っていた。一遍の願いを砂世への目に込めた。しかし、砂世は何もできなかった。指先一つ、動かすことさえ。
 刃が振り下ろされる。ゆっくりと。それはまるで、やさしかった。砂世にも理解できるよう、易しく。ぶしゅりと、音がした。
 だが、その時、砂世は刃も男の蒼白な顔も、赤も、見てはいなかった。ほの暗い黒を見ていた。

「目を瞑っておいでなせェ」

 耳元で声がした。そして額から鼻にかけて、誰かの手のひらの感触がする。

「そんなにじいっと見る程、興あるものではねェでしょうに」

 砂世は言われた通りに、瞼を閉じた。首筋をとんと打たれる。一瞬にして視界が黒に覆われる。先程よりもずっと濃く、濃く。一遍の赤を含まぬ、漆黒だった。



 マヨネーズ善哉を、とその人は言った。
 砂世は「はいはい」と返事して、冷蔵庫からマヨネーズのチューブを取り出し、ぶちゅりと中身を押しだす。善哉の黒い椀は、瞬く間に淡い黄色となった。

「ゲエエェー!」

 カウンターの向こうでそれを見ていた銀髪のお侍が、どこか悲しげな悲鳴を上げた。砂世はそれに構わず、ぶりゅぶりゅと中身を全部押し出してしまうと、「お待たせしました」と黒い隊服の警察官に椀を差し出した。

「おう」

 土方は心なし満足そうにその椀を見つめ、箸入れから割り箸を一つ取り、パキンと割る。「サイテー」。女が男に言うような軽薄な響きで、銀時が言った。

「何がだ」

 憮然として土方が返す。

「お前のその、クリーム塗れの善哉よりは百倍美味そうだろうが」
「あのねえ、多串君。知らないようだから僕、教えてあげるけど。善哉にクリームは正しい組み合わせだから。善哉にマヨネーズの百倍は正しい組み合わせだから」
「じゃあ俺もお前が知らねえようだから教えてやるよ。餡が見えなくなるほどクリームを絞るのは、クリーム善哉じゃねえ」
「君だって人のこと言えてないでしょおおおぉぉぉー!」

 乳白色と淡い黄色。それぞれ椀につんと渦を巻いて山盛りになったクリームとマヨネーズの前で、二人は声を張り上げる。砂世はそれを快い気持ちで見ていた。
 
 新しい職場を見つけてくれたのは、この土方であった。土方が見つけてきてくれた職場は個人経営の甘味処で、店の主人はホモセクシャルでスカトロ好きな、とても気のよい人だ。

「目隠すのもタショウの縁だろう」

 聞いてもいないのに、土方は言い訳がましく言った。タショウが多少なのか他生なのかは知らない。

 一方の銀時は、砂世がこの店で働く前からの常連客であった。一週間に一度ほどふらりと現われて、甘味を何か一つ注文する。その際に必ず、「クリーム大盛りで」と、注文をつけるのだ。
 砂世は初め、この男のいう大盛りの具合がわからず、普通よりも少しだけ多く盛り付けて、皿を出した。すると男は見る見る眉尻を下げ、「足りない、足りないよお」と叫ぶのだ。

「オレはあと一週間、このクリームで生きていかなきゃなんねーのよ、お姉さん。それなのに、たったこれぽっちなんて!」

 それは砂世の目から見れば、『たったこれっぽち』とは形容しない量のクリームであったが、男の目は本気で潤んでいた。

「いいよ、砂世ちゃん。好きなだけ絞ってやんな」

 店の奥から、主人が言った。男の目は、今にも泣きだそうなほどに潤んでいる。砂世は慌てて厨房に戻り、クリームの絞り袋を取ってきた。

「よいと言ってくださいね」

 砂世はそう声をかけておいて、クリームを絞り出した。袋一杯に入っていたクリームは、見る見るなくなっていく。けれど、男は一向に「よい」とは言わなかった。砂世は意地になってクリームを絞った。それはもう、ぎゅうぎゅうと。そして袋の中のクリームがなくなってしまってから、男はやっと、「あんがとさん」と礼を言った。

「お姉ちゃん、入ったばっかなのにわかってんじゃん。やっぱクリームはこれぐらいねえとなあ」

 その時の脱力感と言ったらなかった。砂世は今でも覚えている。

「お二人とも、早く召し上がらないと、溶けてしまいますよ」

 砂世は、クリームがどうの、マヨネーズがどうのと言い合う二人に口を挟んで言った。以前働いていた料亭では到底考えられないことだ。二人は、はっとしたようにそれぞれの椀に向きなおり、匙を手に取り「いただきます」と言った。同時だった。

「「気持ち悪ぃんだよォー!」」

 これまた声が重なる。こうなっては何を言ってももう無駄。砂世は首を竦め、誰もいない座敷に腰かけた。二人は、カウンター席でまだ言い合っている。店主はデートに出かけた。砂世は手持無沙汰なってに、点けっぱなしのテレビに目をやった。ちょうど今夜から始まるドラマの前宣伝をしているところだった。ふうん、見てみようかな。砂世は思った。月9なんて、ここ何年も見てなかったから、何となく。
 ドラマは、引き裂かれた男女の愛を語るようだった。

 三十分ほどしてドラマの宣伝番組は終わった。砂世は、そろそろ二杯目の善哉でも二人に作ってやろうかと立ち上がった。善哉は言い合う二人の前で、見る影もなくしている。まあ、いつものことだ。砂世は少し微笑んだ。
 そのとき、入口からの光が翳った。人影だ。砂世は振り向き、口を開く。「いらっしゃいませ」。そして、相手が言う。「土方さん」。柔らかなテノール。ゆっくりと呼吸が、止まった。

「局長が探してやすぜ」

 鴨居にだらりともたれかかり、男は面倒臭そうな口調で言う。そしてふと気付いたように砂世を見、「悪ぃね」と続けた。

「客じゃねえんで・・・」

 しかしその次は、続かなかった。男の眼は見る見る広がる。キっと一度、カウンターの方を睨むと、男は踵を返して駆け出した。

「待って!」

 砂世は叫んだ。勿論彼は立ち止まらない。砂世も駆けだした。

「待って、沖田さん!」



「全て消せ」

 一番隊が出る前に、土方がそう囁いた。

「全てだ」
「重ねずとも、わかりまさァ」

 沖田は、鬱陶しくそれを払ったと思う。土方も、それ以上言うことはなかった。ただ、全てと言われれば、全てを消せばよいのだ、己らは。望まれるままに、それが幕府のためと信じるから。局長がが「それ」を知らずとも、己らは。
 だけどできなかった。
 沖田には、できなかった。

「お待ちください!」

 女の声がする。沖田は駆けながら、ちぃと舌打ちした。馬鹿だった。車に乗ればよかったものを、わざわざ足で逃げるなんて。
 ――逃げ?
 沖田の中で誰かが囁く。逃げているのか、今、オレは。なぜだ?なぜ逃げる?こんな女から、なぜ、逃げなければならない?
 ―全てだ。―
 土方の声が木霊する。しかし、沖田はその通りにすることができなかった。
 弱さ、と彼はそれを解いた。



 走っても走っても、沖田との距離は一向に縮まらない。真撰組一番隊隊長沖田総悟と、一人の町娘の追走劇を、周りの人々は物珍しそうに見た。けれど、砂世にはそんなことに構っている暇はない。ただ、沖田を追いかけるので精いっぱいだった。
 沖田はどんどん、どんどん遠くへ行ってしまう。「待って!」。声を張り上げた。だけど、彼は止まってくれない。呼吸が乱れ、視界が滲み始める。そして遂に砂世の体は前のめりに倒れた。びたんと、体全体を打った音がする。

「待って!」

 硬いコンクリートの地面に爪を立てながら、砂世は叫んだ。「待って!」。まってまって、置いて行かないで、待っていて!立ち上がろうとする。だけどできない。

「待って・・・」

 痛む手のひらに構わず、砂世はコンクリートに爪を立てた。がりがりという音。鈍い痛み。足はひねったかもしれない。情けなかった。折角土方がわざわざ呼び寄せてくれたのに、何にも言えない。情けなくて、涙が出る。
 だけど、どうしても言いたかった。あの人に、どうしても言いたかった
「沖田さん!――待って!!」

 自分に出しえる限りの声で叫ぶ。周りの人たちが、ぎょっと、砂世を見る。だけど砂世はそんなものを、見ていない。沖田を見つめている。沖田だけを見つめている。

「・・・何を、してんでィ」

 ゆっくりと沖田が振り返った。極まりの悪そうな顔。薄茶色の髪。聞いていたより、幼く見える。

「あなたに、お礼が言いたくて・・・」

 砂世は泣きそうになる。嬉しいからじゃない、悲しいからじゃない。楽しいからでも苦しいからでも辛いからでも痛いからでもない。涙とは、感情の奔流なのだ。

「あなたに・・・」

 何とか体を持ち上げると、やはり右の足首が傷んだ。ぐじっと鼻を啜る。じゃりとコンクリートの砂を踏む音がして、砂世の目の前に沖田が立った。見降ろされている。

「転ぶまで走りなさんな。そんなことをしても、意味はねえだろうに」

 努めて無感動な口調だった。そう砂世は感じた。「いいえ」。砂世は答える。沖田を見上げて、涙混じりの瞳で、答える。

「いいえ。あります」

 きっぱりと砂世は言い切った。沖田は少し目を細める。砂世は痛む足首に手のひらを押し当てた。少しだけ痛みが和らぐ。「何が」。ぶっきら棒な口調。砂世はそっと目を伏せた。暮れていく日が、瞼を照らす。夕暮れの匂いがした。

「あなたが戻ってきてくれた」

 そろりと目を開ける。沖田は相変わらず、砂世の目の前に立っている。逆光で表情は見えない。だけど、その口元はぎゅっと引き結ばれている気がした。

「わたしは嬉しかった。銀さんや土方さんの善哉を作れて嬉しい。ありきたりな恋愛ドラマが見られて嬉しい。夕日が見れて嬉しい。朝、起きることができて、嬉しい。生きることが、嬉しい」

 涙がまた一筋零れた。するりと落ちる。た、と小さな音を立てて、雫は着物に吸い込まれていった。人々はもう、砂世と沖田に注意を払わない。過ぎ去っていく。

「殺せばよかった」

 沖田が言った。静かな、しかし絞り出すような声だった。

「オレは、あんたを殺せばよかったんだ」

 沖田は俯く。「ごめん」。零れ落ちる。

「いいえ」

 砂世は答えた。踝に手のひらを当てたまま、地面に座り込んだまま、沖田を見上げたまま。

「いいえ。ありがとう」

 砂世は囁く。小さな声だったが、その慈しみは、確かに沖田へ伝わった。砂世にはそれがわかった。

「生かしてくれて、ありがとう」

 優しい夕日に、雫が瞬く。



「まずい」

 どろどろに溶けた善哉を突きながら、銀時が言う。土方は煙草に火を灯しながら、同じことを思った。

「帰って来ねえなあ」

 男はぼんやりと、息を吐くように、言う。土方は何も言わない。肺一杯にニコチンを吸い込み、吐きだした。
 これでよかったのかどうか、土方にもわかりかねる。どうすれば最善か。そんな答えはないのかもしれない。それは悲しいことだ。そして、尊いことだ。
 溶けたクリームを啜りながら、銀時は呟く。土方に向けての言葉ではない。

「女は強いよ」

 テレビが五時半からのニュースを映す。土方は、ぼんやりとそれを見つめていた。

 ――先日起きた**料亭への襲撃事件ですが、事件の際に行方不明となっていた従業員の女性の死亡が確認されました。女性従業員の氏名は幸田砂世さん。年齢は二十歳。警察は、彼女は事件とは無関係であり、襲撃の場に居合わせたため、巻き込まれたものと考えられるとの見解を・・・・・・――

 本当に、女は強い。声に出さぬよう、土方も口にする。

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