月がないとなくブルー
「マタニティー・ブルーなんです」。そう言うとサソリさんは訝しげに眉を顰めて、「マリッジ・ブルーの間違いだろ」といやに冷静な声で言った。わたしはとにかく、こくこくと頷く。サソリさんは、はあとひとつため息を落として、体をずらして家の中にわたしを招き入れた。それに甘えてわたしはずうずうしくもサソリさんの家に上がり込む。
「オレのところに来なくてもいいだろ」
かけていた眼鏡を外し、目頭を揉みほぐしながらサソリさんが言う。「だって」。わたしは小さな子どものように言い訳した。
「他のところへなんて行けなかったんです。サソリさんのところしか行けないと思ったんです」
わたしが尻ごみつつ言う間も、サソリさんは目頭に手をやってしばらく俯いていた。そして顔を上げたと思うと、何も言わずに廊下を進んでいってしまう。どうしたらいいのか一瞬わからなかったけど、わたしも黙ってサソリさんの後に続くことにした。ぎしぎしと廊下が鳴る。サソリさんの住んでいるこの家は、昔サソリさんのお祖母さんが住んでいたらしい。そのお祖母さんは今は海外旅行に明け暮れる毎日で、滅多に家には帰ってこないらしい。だから代わりにサソリさんが住んでいるのだそうだ。サソリさんが生業としている人形作りの工房もここにある。
多分サソリさんは仕事をしていたのだろう。サソリさんの後をついて歩きながら、そう思った。申し訳なかったな。そんな思いが一瞬過る。居間に着くと、サソリさんは「座ってろ」と言い捨てて、奥へ行ってしまった。わたしはその言葉に従って、座布団を引き寄せて座る。テレビもない部屋の中にはあちらこちらに色んな種類の本が積みあがっていて、今にも崩れそうだ。実際に、ここにいるときに本の山が崩れたことが何度もある。それでもサソリさんは平然としていて、雪崩れた本が邪魔になったりすると無碍に足で蹴るのだ。
「拭け」
サソリさんが戻ってきて、わたしにタオルを投げた。うまく受け取れずに、ばさりと頭からかぶってしまう。かっこ悪かったけど、サソリさんが少しも笑ってくれないので、仕方なくそのまま頭を拭いた。
「マタニティー・ブルーだか何だか知らねえが、雨も降ってる夜道を一人で出歩くんじゃねえ」
内容に比例せず、まるで突き放すような口調でサソリさんは言った。わたしは髪を拭く手を止めて、小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。そろそろと顔を上げる。サソリさんは部屋の入り口に立って、じっとこちらを見ていた。
「何が不安だ」
唐突にサソリさんが言った。わたしはタオルの端を握りしめ、また俯く。「わからないんです」。小さな声で言ったわたしに、サソリさんはため息を落とした。
「ごめんなさい」
思わず言ったわたしに、サソリさんは「いや」と返事して、それからしばらく黙った。本当にわからないのだ。わたしは思った。わたしがこういう人生を辿るのは、ずっと決まっていたことなのだと、思っていた。動かしようのない事実であって、後も先もないのだと。だけど今になって思う。わたしは本当にこれいいのかと。
「・・・コーヒーでも淹れてきてやろうか」
ややあってサソリさんが言った。珍しいこともあるものだ。わたしは思わず笑いそうになって唇を噛む。俯いたまま頷くと、サソリさんは部屋を出ていった。わたしは頭かけられたタオルを取って、周りを眺めた。そしてころりと転がる。初めてここへきたときのことを思った。それは春の、よく晴れた日で、サソリさんの家の庭にはたんぽぽがたくさん咲いていた。デイダラの髪みたいだと思ったことをよく覚えている。
そもそもよく考えてみれば、デイダラとサソリさんがどうやって知り合ったのか、わたしは知らない。サソリさんと会ったばかりの頃、サソリさんはデイダラの大学の同期かそれに準ずる人なのだと思っていた。あとから本当の年齢を聞いて、とてもびっくりした。
サソリさんの家へ行こうとデイダラが言ったのは、そのときわたしたちがとてもとても暇だったからだ。デイダラとわたしは大学の春休みで、大学生のカップルがやる大概のことをやりつくしてしまったあとだった。散歩も遊園地もカラオケも粘土をこねるのも漫喫も買い物も飲み比べも料理も花で冠を作ることもセックスもお互いの似顔絵を描くのも旅行も洗いあっこもファミレスで無駄に粘るのも。ついでにお金が尽きて食べるものがなかった。
二人でアダムとイヴごっこをしたあとの布団の上で、デイダラが言った。「そうだ、サソリの旦那の家に行こう」と。そのあと「うん」と。わたしは返事していなかったけど、あまりに暇だったので何も言わずに着替えを始めた。それが返事の代わりだった。
わたしたちはサソリさんの家のチャイムを連打した。チャイムの線が切られて音が出なくなると、今度は戸を叩いてサソリさんを呼んだ。何度も、何度も。「しつけーんだよてめえら!」。そう言ってサソリさんが玄関の戸を開けたのは、二十分くらい経ったあとだった。わたしもデイダラも喉がからからだったし、お腹がとてつもなく空いていた。
玄関先でわたしたちの訴えと飢えを聞くと、サソリさんは「よしわかった」と言って、靴箱の上から財布を取った。
「金やるから帰れ」
言いきって一万円を差し出したサソリさんに、「それはない」とわたしとデイダラは口々に叫んだ。勿論一万円は受け取ったけど。そしてサソリさんの隙をついて家に上がり込んだ。
「出てけ!」
怒鳴るサソリさんを尻目にわたしとデイダラは台所を目指し、冷蔵庫の中にあったミネラルウォーターを勝手に開けて飲んだ。喉の渇きが癒されると、今度はお腹が空いてきて、また冷蔵庫の中を漁ったのだけど、何もめぼしいものは見つからなかった。
「旦那っていつも何食って生きてんの?うん」
不思議そうにデイダラが言った。サソリさんはむすっとした声で「ほっとけ」とひと言。わたしとデイダラは顔を見合わせ、最初はグーとじゃんけんを始めた。勝ったのはわたしのほうだった。ぶつぶつと文句を言いながらスーパーへ出かけていったデイダラを笑いながら、そういえばサソリさんと二人だけでいるのは、これが初めてだと思った。
ふっと柔らかい毛布の感触がした。積み上げられた分厚い雑誌の山が目に入る。のろのろと起きあがると、頭がぼうっとした。どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたようだ。わたしが放りだしたはずのタオルは消えていて、代わりに毛布と布団が重ねて掛けられていた。
「サソリさん・・・?」
部屋は暗く、サソリさんの気配はない。わたしは布団から抜け出し、居間を出た。廊下の奥の部屋から明かりが漏れているのが見えた。「サソリさん?」。そっと廊下を進んで薄く開いた襖を開けると、電気スタンドだけの明かりの中で、サソリさんはこちらに背を向けて何か作業をしていた。
「サソリさん?」
声をかけると、サソリさんは作業の手を止めて、こちらを振り向いた。「ああ」。
「目、覚めたのか」
「はい」
頷くと、サソリさんは「そうか」と言ってまた机に向き直ってしまう。
「すみません、毛布ありがとうございました。帰ります」
言うとサソリさんが背を向けたまま、「今何時だかわかってんのか」と言った。「すみません」。わたしはもう一度謝ると、サソリさんははあと息を落として、「送っていってやるから少し待て」と言った。
「重ね重ねすみません」
サソリさんはもう何も言わずに机に向かっている。わたしの存在はとても迷惑だろう。わたしは後悔した。どうしてサソリさんのところへ来てしまったんだろう。来るときは、サソリさんのところへ行くしかないと思っていた。友達のところへは行きたくなかったし、実家は帰るには遠すぎる。明日も仕事で、一人で逃避行なんて怖くてできない。サソリさんのところへ行くしかないと思った。だからサソリさんのところへきた。そして広くて古い家の中でサソリさんのため息を聞き、山積みになった本を見ていたら、何だか安心して眠ってしまったのだ。安心したら眠るとか、まるで小動物みたいだ。
「やる」
不意にサソリさんが言った。わたしは俯けていた顔を上げて、サソリさんのほうを見た。サソリさんが何か白いものを差し出している。わたしはそろそろとサソリさんのほうへ近づいていって、それを受け取った。人形だった。白いドレスを着ている。
「ウェディングドレスですか・・・?」
聞いてもサソリさんは何も言わなかった。暗い中で目を凝らして人形を見る。どこかで見たことあるような、でもきれいな顔の人形だった。白いウェディングドレスは本物のレースの手触りで、少し重たい。わたしは声をなくして、ただただ人形を見つめた。
「これ・・・」
やっと発した言葉は、そんな情けないものだった。サソリさんの顔を見る。逆光でよく見えないけれど、わたしのほうを見ていた。
「これ、サソリさんが作ってくださったんですか・・・?」
「どうしてオレがわざわざ他人の作ったものを買わなきゃなんねえんだよ」
サソリさんは素気無く言い放つ。わたしはもう一度人形をまじまじと見つめて、そして、やっと言った。
「ありがとう、ございます・・・」
「気に入らねえのか」
サソリさんが言った。わたしは慌てて首を振る。
「違うんです。サソリさんが人形作ってくださるなんて、びっくりして、嬉しくて」
それで。わたしは言うべき言葉を見失って、やっぱり人形を見つめた。言葉は薄っぺらで、わたしのこの感動を伝えてくれそうにない。それでも、他に伝えられる方法を見つけられない。
「本当に・・・」
涙が出てきた。恥ずかしくて慌てて拭うけど、隠し切れていないのは明白だった。
「・・・泣くほどのことか」
やや呆れたように、サソリさんが言った。「だって・・・」。わたしはまた小さな子どものような文句を口にして、慌てて閉じる。「嬉しいんです」。わたしはやっと言った。
「本当に嬉しいんです。サソリさんがこんな素敵なものをくれるなんて、本当に。本当に・・・」
「もういい」
わたしの言葉を打ち消すように、サソリさんが口を挟んだ。怒っているのだろうか。そっと顔を上げると、サソリさんも顔を背けていた。
「送る。先に荷物持って玄関に行け」
そう言ってサソリさんはまたわたしに背を向ける。わたしは「はい」と小さく返事をして、仕事部屋を出た。大事に人形を抱えながら。
サソリさんがくれた。
わたしは人形を抱えながら思った。サソリさんが作ってくれたんだ、わたしのために。そう思うとどきどきとして、うまく人形を見ることもできなかった。だけど玄関についたところで、上り口に腰かけて、ようやっと人形をよく見てみる。人形はそっと微笑んで、わたしを見ていた。もう一度見てもどこかで見たことのあるような顔で、触れば触るほど、ドレスに使ったレースの高級感が伝わってくる。サソリさんは一体この人形にどれだけの手間をかけてくれたのだろう。わたしは他のサソリさんの作品を知らないけれど、かなり手をかけてくれたような気がしていた。やっぱり、サソリさんにもう一度お礼が言いたいと思った。サソリさん。わたしは立ち上がって、廊下を戻った。
「サソリさん!」
仕事場の襖を開くと、そこは暗くてサソリさんがいる気配はなかった。
「サソリさん?」
廊下を見回してみるけれど、サソリさんはいない。どこへ行ってしまったんだろう。そう思ったとき、部屋の奥でがたんと何かが倒れた音がした。
「サソリさん?いるんですか?」
声をかけるけれど、返事はない。わたしは不思議に思って、部屋の中に入り、電灯の紐を引いた。ややあって、ぱっと蛍光灯の明かりが点く。浮かび上がったのは、大量の人形だった。
「うわ・・・。すごい・・・」
部屋の壁は棚で埋められていて、そこには色々な顔をした人形が鎮座している。男、女、鬼、子ども、多種多様、様々だ。人形を眺めていると、この部屋の奥にももうひとつ部屋があることに気付いた。襖は開け放たれていて、明かりが忍びこんでいる。何気なくひょいと覗きこんで、わたしは絶句した。そこにあったもの、それは夥しい量の等身大の人形で、その顔は・・・。
「鳥子」
不意に声をかけられて、わたしははっと後ろを振り向いた。見れば上着を着たサソリさんが車のキーを持って立っている。
「見たのか」
低い声でサソリさんは聞いた。じっと目がわたしを見ている。わたしは、わたしは、どうしたらいいかわからなかった。足が勝手に後ずさろうとする。怖い。怖い。怖い。そう思った。サソリさん、なんで?
サソリさんの仕事場の奥の部屋にあったもの。それは夥しい量の等身大の人形で、その顔は、わたしにそっくりだった。
「なんで・・・」
喘ぐように言うと、サソリさんは少し笑った。「なんで?」。
「なんでって、なんでだろうな」
かしりとサソリさんが持っている車のキーが擦れて鳴る。サソリさんの笑みは深くなっていく。まるで、鬼みたいだ。さっき見た、鬼の人形みたいな顔だ。悲しくて、苦しそうな。
「なんでなんだろうな、本当に」
サソリさんは左手を目に当てて、俯く。わたしはそのとき、自分が何を抱きしめているのか気付く。サソリさんの作った人形だ。人形の顔を見て、やっとわかる。このドレスを着た人形は、わたしだ。わたしに似ていたのだ。
「・・・気持ちを抑えるために作ったんだ」
サソリさんが掠れた声で言った。
「気味が悪いというなら、全て焼く。所詮作る過程以外に何の意味もない人形ばかりだ」
「そんな・・・」
わたしは呟いて、隣の部屋の人形たちを見た。どの人形もガラスの眼でわたしを見つめてくる。微笑んで、わたしを見つめてくる。
「デイダラに連絡してやる」
唐突にサソリさんが言った。
「デイダラに連絡して、ここへ迎えに来るように言ってやるから、お前はここにいろ。オレはお前が帰るまで、出てくるから」
「そんな、大丈夫で・・・」
言いかけたわたしを、サソリさんは乱暴に遮った。
「黙って聞け!」
そしてそのまま踵を返してしまう。
「・・・デイダラが迎えに来るまで帰るんじゃねえぞ」
言い捨てて、サソリさんは出て行ってしまった。ぴしゃんと玄関の戸が鳴る。わたしはへたへたとその場に座り込んで、両手で顔を覆った。涙が出るのかと思ったけれど、一粒だって涙は出なかった。
――なんでだろうな。
サソリさんの声が耳の奥で木霊する。なんででしょうね。わたしはその声に囁き返した。
なんででしょうね。
「その人形、あなたに似てるわね」
白いウェディングドレスを着た人形を眺めていたわたしに、お母さんが言った。「うん」。わたしは顔を上げて頷く。
「サソリさんにもらったの」
「サソリさんって、確かデイダラくんのお友達の人形作家さん?」
「うん、そう」
もう一度頷くと、また人形に目を戻す。お母さんは少し呆れたようにため息を溢した。
「どうしたの、今日はその人形ばっかり見て。もうすぐ式だっていうのに、少し浮かない顔ね」
「わたし、マタニティー・ブルーなの」
「マリッジでしょ」
お母さんが少し笑う。ここ一か月くらい恒例になった冗談で、この文句を口にできるのも、今日で最後だ。
「デイダラくん、顔を出しに来るって言ってたのに、遅いわね」
時計を見ながらお母さんが言う。わたしは人形に目をやったまま「うん」と頷いて、そして顔を上げた。
「お母さん。ちょっとの間、一人でいさせて」
結婚式の当日に、夫となる人以外の人のことを考えているのは、きっと罰あたりなんだろうと思う。一人きりになった部屋で、わたしは人形を眺める。サソリさん。あれから一度も会っていなかった。
サソリさんはどうして、あんなにもわたしの顔の人形を作ったのだろう。考えなくても、あの光景を見ればわたしは自ずと理解してしまっていた。サソリさんは、サソリさんは・・・。
そのとき、部屋のドアがノックされた。わたしははっと顔を上げて、問う。「デイダラ?」。
「オレだ」
しかし聞こえてきたのは、デイダラの声ではなかった。きゅっと肩が強張ったのがわかった。人形をぎゅっと握りしめる。
「どうぞ。開いてます」
わたしは硬い声で言って、ドアを見つめた。ドアがきいと音を立てて開く。サソリさんが、普段は見たことのない上等なスーツを着て立っていた。サソリさんの目はまずわたしの顔を見つめて、それからゆっくりと下に降りていき、そしてわたしの膝の上の人形を見つける。
「・・・捨てなかったのか」
小さな声でサソリさんが呟いた。
「入ってください」
わたしは椅子にかけたままで言う。サソリさんは何も言わずに部屋に入り、ドアを閉めた。
「家族は?」
「一人にしてってわたしが言ったんです」
沈黙が部屋を支配する。何を言えばいいのかわからない。自分の気持ちもよくわからない。だけど、ひとつだけはっきりしていることがある。わたしは、サソリさんのことが好きだ。
わたしは人形を見つめ、それからそれを大事に抱えて、椅子から立ち上がろうとした。
「一人で立てるのか」
それを見たサソリさんが慌てたように言う。「できれば、手伝ってください」。わたしは転びそうになりながら、言った。
サソリさんがそっと手を差し出す。まるで恐れるように。わたしはその手を取って、椅子から立ち上がる。ハイヒールを履いているので、足元がおぼつかない。サソリさんは心配そうにわたしを見ていた。
「お前、式の間大丈夫なのか」
「リハでは三回転びました」
正直に白状すると、サソリさんは呆れたようにわたしを見る。わたしはそんなサソリさんに、笑いかけた。サソリさんはいつもそうだった。わたしのことを、こうやって心配そうに見ていてくれた。
「サソリさん」
わたしは言った。
「サソリさんはどうして・・・」
「オレは」
わたしの言葉を遮って、サソリさんが言った。
「・・・オレは」
サソリさんは言いづらそうに、言葉を切る。そして顔を伏せて、サソリさんの腕につかまっているわたしの手を見た。
「今日で最後にするから、聞き流してくれ」
そう言って、サソリさんはわたしを見た。
「お前が神の前でデイダラと愛を誓う前に、どうかこれが重荷にならないように」
らしくないことをサソリさんは言って、わたしを見る。サソリさんにつかまっているわたしの手を、サソリさんが強く、握る。
「一度だけでいい。言わせてくれ」
わたしは目を伏せる。サソリさんの手を握り返す。今この間だけでいい。わたしは思った。目を開くまでの一瞬だけでいい。どうかこの人のものになることができたらいいのに。
「好きだ、お前が。ずっと昔から」
わたしは今日、デイダラと結婚する。
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