瘡蓋剥がし遊び
女は仕事ができない。不可能という意味の『できない』ではなく、能力がないという意味の『できない』だ。ただし、限りなく前者に近いのであったが。
頭から茶をかぶせられて、サソリは嘆息しながらしっとりと濡れて垂れかかる前髪をかき上げた。腰を下ろしたまま女を見上げると、女は俯いて唇を噛んでいた。俯いているのでサソリからは女の表情がよく見える。床の一点を見つめ、合わせようとしない女の目をねめつけて、サソリは声を絞り出した。
「これで何度目だ」
女の肩が震えた。女は本当に仕事ができない。茶汲みを言いつければこのように茶を溢し、湯のみを割る。荷を持たせれば、どんなに軽いものであっても必ず一度は落っことし、果てに壊してしまうこともある。勿論、傀儡など触らせようならとんだ大惨事だ。しかし、これでも女が大蛇丸のところにいたころには、毒薬の研究をしていた。大蛇丸が組織を抜けた際に置いてけぼりにされていたのをサソリが拾ったのだ。
「これじゃあ、大蛇丸もお前を捨てるはずだ。なァ」
サソリはいやらしく語尾を上げた。女の肩は大げさなほどに震え、唇はますます白くなる。その内ぶつりと切れてしまいそうだ。
「大蛇丸は薬師カブトを連れていった。お前ではなかった。お前は捨てられたんだ。苑」
「それでも」
苑はようやく唇を噛むのを止めて、サソリを見た。目はぎゅうとサソリを睨みつけている。
「それでも大蛇丸はあんたよりかは、優しかったわ」
「それがなんだ」
唾を吐き捨てるように言えば、苑は目に見えるほどにたじろいだ。
「大蛇丸がどんなに優しかろうが何だろうが、お前は今ここにいる。違うのか?」
「でも、大蛇丸はあんたよりずっと、ずっと」
「いくら優しくとも、ここにいなけりゃ意味がねえ。捨てられちゃあ意味がねえさ。違うのか、苑」
苑の瞳から涙が溢れた。嗚咽を漏らすまいとまた唇を噛んでいる。涙は拭われず、床の上の冷めた茶の上にぽつりぽつりと落ちるだけだった。
「お前は、大蛇丸に捨てられたんだ」
わかってる、と苑が弱弱しく言った。涙がほろほろと落ちる。
「今は誰に使われている」
「赤砂の、サソリ」
「ならば主人に被せた茶の始末をしねえのか」
「します。今します」
苑は泣きながら懐の手拭いを手にして、そっとサソリの濡れた髪に手を這わせた。怯えた手つきで髪を拭き、濡れた頬を拭った。苑の口からは嗚咽が漏れ始め、サソリは黙ってそれを聞いている。
不意にサソリは手を伸ばしてがしりと苑の顎を捕らえた。指先に涙が滴る。
「手前、大蛇丸に惚れてんのか?」
口を開けて、苑はそんなことはない、と言おうとする。けれど言葉にはならなかった。サソリの指先を伝って、また大粒の涙が流れていく。
「お前は捨てられたんだよ」
苦々しく思いながらも、サソリは言った。苑の目が見開かれ、また涙が溢れた。サソリは何度でも繰り返した。
「お前は、大蛇丸に捨てられたんだ」
すてられたのだ。
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今少し、補足しておくことがある。
まず、苑の生まれは比較的温暖な地方の山深い村であった。が、今はもうない。苑はその村で唯一の生き残りであり、その村一番の薬師であった。村の秘伝とは、独自の薬の製法だった。それも毒を専門とした。
大蛇丸はその村の技術を大層欲しがり、果てに手に入れた。大蛇丸が欲したほどであるから、その村の製薬技術は本に素晴らしいものだった。毒の精製に関してのみなら、村一番の薬師であった苑の技術は、サソリを軽く凌いでいる。だから決して、大蛇丸の方は苑を捨てたわけではないのだ。組織から抜け出す際に、彼女を泣く泣く置いていくしかない状況へ、サソリが追い込んだ。
苑ほどの頭脳を持った女が、その事実に気づかぬわけがないのは自明の理である。しかし苑は、サソリが言う『捨てられた』という言葉を否定したことがない。むしろ、肯定しているような節さえある。
大蛇丸が暁を抜ける前、苑は大蛇丸に対する態度を軟化させていった。大蛇丸の姿を見ても、恐怖や憎しみの感情を見せず、また大蛇丸が苑の作った毒を褒めると瞬間、喜悦の表情さえ見せた。しかし、彼女にとって大蛇丸は、好意を持って良い対象ではない。
山深い村一番の薬師は、両親も、姉も弟も、親類縁者全てを失くしてしまっていた。村の技術を欲した大蛇丸に全て殺され奪われてしまったからだ。だからそんな女が、惨殺者に惚れてよいはずがなかった。
けれど苑は、大蛇丸を好いていたのだろうと、サソリは考える。大蛇丸は確かに、サソリよりも優しい。邪は欲望に裏打ちされたその優しさは、ひとりぼっちの少女の心にひどく染みたであろう。初めてサソリが苑を大蛇丸の元で見たとき、彼女はまだ華奢な身体の子どもだったのだ。悲しみを押し殺して大蛇丸に付き従う姿に、哀れみを覚えた。そして大蛇丸から苑を引き離した罪悪も感じていた。だから今も、サソリはこんなふざけた苑の問答に付き合っているのかもしれない。
苑にとってあの問答が罰であるのか、それとも大蛇丸を忘れぬ為の呪いであるのか。サソリは知らない。けれど直りかけた傷を苑はああして抉る。茶を溢す。椀を割る。傀儡の肌に亀裂を走らせる。それらのことを苑がわざとやっていることは、サソリは知っていた。知っていてああ言ってやるのは、苑に少なからずの弱みがあるからに相違ない。罰ゆえかはたまた呪いの為か、苑が己の瘡蓋を剥がず手伝いを、サソリはさせられているのだ。
また一度甲高く、陶器の割れる音が耳に響く。サソリは細い刃物で削っていた女の目尻から目を離して、ひとつ嘆息した。ゆっくりとそちらへ足を向けながら、出口のない輪を歩むような心地を味わっている。いつまでも、いつまでも終わらない。居た堪れなさの中で途方に暮れていると、ふと、サソリはある悪意を悟った。思わず閉じた瞼の裏側で苑の顔がにこりと笑う。痛がる人の瘡蓋を無理矢理剥がして遊ぶ、子どものような顔だった。つまり、そこにあったのは、何も纏わない愛情の成れの果てだったのだ。
あいしていたのかおろちまるを。
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