前回読んだ位置に戻りますか?

美しく燃える森

 慰み者にされるということの、まさにお手本のような状態だった。ぐっと髪を掴まれ、体をベッドの上に引き上げられる。ぶちぶちと切れた髪を鬱陶しそうに男が払った。その手で己の金髪を掻きあげる。気だるい仕草だった。

「目ぇ覚めたのか」

 ぼんやりと空を見つめるわたしの目を覗き込んで、男が問う。わたしは返事をしなかった。デイダラ。男は周りからそう呼ばれていた。彼の経歴をわたしは何も知らない。知っていることと言えば、彼が恐れ、憎んでいるもののことぐらいだ。
 打たれた太腿や腰の辺りが鈍く痛んでいる。目を向けると、黒く変色を始めていた。また痣になるのだろう。体を動かすと、足の付け根が引きつった。精液が乾いてこびりついている。
 どろりと、奥から生ぬるいものが溢れ出てくる。こんな無茶苦茶をしておいて、よく妊娠しないものだと思う。もしかしたら、食事の中に何か薬を混ぜ込まれているのかもしれない。生理もここに来てから止まっている。もう二年近くあの臭う血を見ていない。
 視線を感じてそちらを向くと、覆い被されて口付けられた。口腔内に男の舌が侵入してくる。逃げるでも応えるでもなく、それを甘受していると、再び乳房を掴まれた。まだやるのか、と思ってしまう。この男がこの部屋に来てから、どれぐらいの時間が過ぎただろう。
 肌の上を舌が這う。わたしはベッドの上からぼんやりと天井を見上げていた。浮き出た染み。それが徐々に広がっていっていることを知っているのは、恐らくわたしだけだろう。腹の上のこの男も、この部屋とベッドの本当の持ち主も、そんなことに興味を持たないし、そんなものを見つめている時間も持っていない。
 天井から目を逸らして顔を横に向けると、ちょうど南向きの窓が目に入った。明るい日差しがふんだんに零れ出てくる。茂った木々には、白い花が咲いていた。あれは何の花だっただろうか。確か、わたしたちの故郷にも咲いていた。春の暖かい日に見た花。
 ややあって、わたしは花の名前を思い出す。ハナミズキ。あの花はすぐに散ってしまうのだ。じいっと窓の外を見ていると男が気がついて、わたしの目を手のひらで覆った。男の手のひらは汗ばんで、温かかった。
 不意に思う。この部屋の持ち主はあの花のことを知っているのだろうか。毎年毎年、あの窓の向こうにハナミズキが咲いていることを知っていただろうか。今年はもう、見ただろうか。吐息が漏れる。それは声にならず名前を紡いでいたようだ。
 イタチ。



「イタチ」

 名前を呼ぶと彼は、後ろ手に束ねた髪を揺らし、肩越しにわたしを見上げた。

「鳥子か」

 読んでいた本に栞を挟んで、体をこちらに向ける。イタチの頭上では白い花が咲いていた。緑色の葉に交じって、白色が見え隠れする。名前は知らなかった。

「どうした、こんなところまで」
「イオリとキイチ、やめるって」

 そう言っただけで、聡明な彼には伝わったようだ。「そうか」と残念そうに眉を下げた。うんと返事をして、わたしは彼の隣に座り込んだ。

「とうとう二人っきりになっちゃったね」
「そうだな」

 今日、アカデミー時代からの同級生だったイオリとキイチが三代目に辞表を提出した。忍であることをやめ、一般人として暮らしていくという宣誓である。これでわたしと同年代の忍は、イタチ一人っきりになってしまった。イタチにとっても同様だ。

「二人に、あんたが悪いんだって、言われちゃった。あんたたちと比べられてたら、先に進もうっていう気が、なくなるって」
「そんなことを?」

 イタチが訝しげに眉を寄せる。
 偶々火影様のところに用事があったのだ。それで偶然、部屋の前で出くわした。好かれているとは思っていなかったが、ああも剥き出しの感情を晒されるとやりきれないものが残る。
 ごろりと草の上に横になる。芳しい新芽の匂いが鼻腔を擽った。木の葉に透かされ、どこか青みを帯びた光が柔らかく降り注ぐ。白い花弁に手を伸ばせば届きそうだ。

「別に誰かに好かれたいと思うわけじゃないわ。だけど、人から憎しみを向けられるのは、とても疲れる」
「忍とは元々、そういうものじゃないのか。人を騙し、殺し、暴き、壊し」
「そうね。だとしたら、わたしはきっと忍に向いていないのだわ」
「愚考を。お前が向いていないのだったら、里中の忍にはなる資格もなかったことになる」
「買いかぶりすぎよ。それに、身体能力やチャクラコントロールが上手かったって、それはきっと忍の資質にはならないのだわ。本当に、本当に必要なのは、憎しみに忍び耐えることなのかもしれないと、最近よく思うのよ」

 瞼を閉じてみると、視界は真赤く染まった。腕で瞼を覆う。それでも完全な闇は訪れず、わたしは赤い闇の中で立ち止まっている。

「疲れているんだ、お前は。先日の任務も楽な仕事ではなかったんだろう?」
「この仕事に、楽なんてありゃしないわ。全部が全部、臭くて汚くてきついものばかり」
「そう思うのなら、お前はやはり疲れているんだ」

 額と髪を撫ぜられる。腕を退かして見上げると、イタチはまた本を開いていた。いつの間に、とわたしは思う。才覚というものは止まることを知らない。望む望まざるに関わらずそれは堰を切って溢れだし、全てを飲み込もうとする。時に、己さえも巻き込んで。
 イタチを見上げているわたしにイタチも気がついて、困ったように微笑んでくる。ひたりと額に当てられた手は、ほどよく冷たかった。
 わたしとイタチは俗にいう、懇ろな関係ではない。彼はわたしに必要以上には触れてこないし、わたしは彼に口付けをせがんだこともない。ゆっくりと退廃的な空間を共にしたこともなければ、睦み合う喜びさえ知らなかった。
 ただ、同士だとは思っていた。わたしと彼は似ていた。才覚の奔流に飲み込まれまいと、足を張って立ち続けているところが、とても。

「イタチは、そうじゃないと思うの?忍の仕事の全部が全部、臭くて汚くてきついものばかりではないと?」
「否定はしない。けれどその先に、それ以上に得られるものがあるのではないかと思っている。守るべきものを守り、希望を見出せるような。武力とは本来傷つける為のものではなく、守るためのものだ」
「諸刃の剣とも、言うわ」
「そうだとしても・・・」

 その時遠くで呼び声がした。「兄さーん!」。まだ甘い、男とも女とも判別がつかぬような、子どもの声。それを聞いた瞬間イタチの頬が緩むのを感じた。

「兄さん!」

 やっと見つけたと小さな子どもはイタチに駆け寄った。駆け寄ってからわたしの存在に気づいたようで、「わあ、鳥子もいたのか」と驚いている。うちはサスケ。イタチの弟だ。

「いたよ。いちゃ悪い?」
「わ、悪かないよ!気付かなかっただけだ!」 
「まだまだねえ、サスケ。わたしの存在ぐらい、十町向こうからだってわかるぐらいにならないと」
「鳥子。それはオレでも無理だ」

 やけにきっぱりとイタチが言うと、サスケが「兄さんでもできないことがあるの」と驚いた面持ちで彼を見上げた。

「ああ、そりゃああるさ。日向の人間ならできるかもしれないが、オレにはできないな」
「じゃあ、兄さんよりも日向の奴らの方がすごいってこと?」

 サスケは恐る恐るというように聞く。自分の兄さんが一番でないと知って、悲しくなったのだろう。わたしは「そうじゃないよ」と口を挟んだ。

「確かに日向の人間なら一里先からだって、わたしのことが見つけれるかもしれない。だけどイタチのように、瞳だけでわたしに幻術をかけることはできないわ」
「・・・まだ根に持っているのか」

 ふうとイタチが嘆息した。先日手合せしたときに、わたしはまんまと奴の車輪眼が仕掛けた幻術の術中にはまった。それで大敗したのだ。あんな反則技、根に持つなという方が間違っている。睨みつけてやると、仕方がないだろうというように、イタチは肩を竦めた。仕方なくなど、ない。

「ねえそれで、結局どっちがすごいの?」

 水面下で探り合っているわたしとイタチを引いて、サスケが聞いた。イタチは手を伸ばしてサスケの頭を撫ぜる。イタチは存外に、人に触れることが好きであるようだった。

「どちらが優れているとか、そういうことじゃないんだ。日向が持っているものを、オレたちうちはは持っていない。しかしうちはだけが持っているものもある」

 サスケは首を傾げる。彼にはまだ難しかったようだ。わたしは笑って、サスケを覗き込んだ。

「つまり、助け合えばいいってことだよ。足りない部分を補って、そうやって生きていけばいいの。誰が一番優れているかなんて、些細なことだよ。イタチが持ってないものをわたしは持っている。わたしは持ってないものを、サスケは持っている。誰が一番じゃなくて、わたしがイタチを助けて、サスケがわたしを助けてくれればいいの」
「オレが鳥子を助けるの?」
「そうよ。あんただってうちはなんだから、期待してるからね。こーんな偏屈なんかに負けないで」
「おい。聞き捨てならないんだが」

 じろりと横目で睨んだイタチを、わたしは鼻で笑う。今にもクナイを投げ合いそうな刺々しい空気が流れているのをよそに、サスケが「ようし!」と大きな声で叫んだ。

「オレも兄さんに負けないように修行する!そうだった!兄さん、手裏剣の修行見てよ!」
「ああ、それで探しに来てたわけね」

 早く早くとサスケはイタチの手を引く。やれやれと立ち上がったイタチは「お前も来るか」とわたしに聞いたけれど、わたしは首を振った。

「ううん、いいわ。火影様に調べ物頼まれてるから、それ終わらせなきゃ」
「ええー。鳥子来ないのー?」
「そんなこと言って、あんたイタチと二人だけの方がうれしいんじゃないの?大好きな兄さんを独り占めできて」
「そ、そんなことないよ!」

 顔を真っ赤にしたサスケをからからと笑って、わたしも木の下から立ち上がった。ふわりと風が揺れて、白い花弁が落ちてきた。家路に向かい、先に歩きだした二人を見て、わたしは微笑んだ。守るべきもの。あれが彼にとってのそれなのだろう。

「得られるといいわね。わたしもそう思うわ」

 背中に向かって言うと、イタチは振り返って笑った。そのイタチに手を引かれていたサスケは、不思議そうにわたしとイタチを見比べている。

「得るさ、きっとな」

 それから一年後、わたしは上忍となり、イタチは既に暗部の中隊長となっていた。そしてさらにその三ヶ月後、わたしはもう二度とイタチと笑いあえなくなってしまったことを知る。サスケが笑わなくなってしまった日でもあった。




「来ていたのか、デイダラ」

 部屋に入ってきたイタチは、顔色一つ変えずに言った。わたしを組み敷いていたデイダラが、嫌そうに顔を歪める。デイダラはイタチの、この超然としたところが嫌いなのだろう。
 下から掬い上げるようにしてデイダラがわたしに口付ける。上着を肩にかけ、「じゃあな」と言って出て行ってしまった。イタチはそれを見送って、それからやっとわたしを一瞥する。今日も何も言わなかった。
 わたしは床に剥ぎ棄てられた服を取って、身につけようとする。乾いた涙が引きつって、頬がぴりぴりとした。体中が薄汚れている。シャワーを浴びたいを思ったけれど、わたしにはそんなことも許されていない。わたしは彼らの犬で奴隷で、取るに足らないものだった。妊娠をすれば面倒だという理由で薬を投与されているだけ。わたしをここに連れてきたイタチは、手を出しもしなければ口を出しもしなかった。
 イタチが外套を脱ぎ、傘を脇に放っている横で、わたしも服を着ようとしていた。もはや羞恥など感じられなかった。汚された下着に足を通そうとする。しかし、どうしても足が上がらなかった。体が重たく、床にぺしゃりと座りこんでしまう。急激な眠気に視界が回り、四肢がずるずると力をなくしていくのがわかった。
 死ぬのかもしれないと、目を閉じて思った。不思議と恐怖はなかった。崩れ落ちた床はひんやりとしていて気持ちがいい。埃の臭いがほんの少しだけ鼻腔を過ったが、不快だと思う気力さえなかった。
 落ちていく。
 意識が段々と形をなくしていく。朧げに、名前を呼ばれた記憶を思い出した。鳥子。イタチは存外人に触れることが好きであったけれど、わたしは存外人に名を呼ばれることが好きだった。
 そんな、遠い日の記憶だ



「鳥子」
今思えば、あれはイタチだったのだろう。うちは一族が殺された日、わたしは一人の暗部忍と遭遇した。遭遇したというほどのものではないかもしれない。闇に紛れて、ぼうと浮き上がった白い面を見ただけだ。わたしは夜警の途中だった。暗部と遭遇してしてしまった場合は、知らぬ振り見ぬ振りが基本であるから、ふいと目を逸らして先を急いだ。その時声が聞こえたのだ。 
 掟も何も、忍としての矜持を捨ててでも、引き止めればよかった。これほどまでに悔やむことは、他にない。

「さよなら」



 そして再会したのは、イタチが里抜けして二年あまりが経った頃だった。
 わたしは単独任務の帰りで、森の中を疾走していた。軽く木の枝を蹴る。その時、少し離れた場所から血の臭気が香った。一人分のものしかしなかったが、失血死するには十分な量が流れている。追剥の類か、それとも同業者か。一瞬の逡巡の後、わたしは血の臭いがする方へ向かって足を蹴り出した。結局それが間違いであったのだ。
 近づくにつれて、チャクラの気配が感じられるようになってきた。二人分ある。覚られないように気配を殺して、離れた場所で足を止めたが、向こうが腕の立つ忍なら、そんなものは気休めにもならないだろう。ホルスターからクナイを一本抜き取る。じっと身を潜め、数を数えて三秒。何の前触れもなくそれは急襲した。
 カンと甲高い音が周りに響く。弾いたものはクナイだった。枝を蹴って、地面に降り立つ。ごうと襲ってきた炎の渦に同量のチャクラをぶつけて無効化すると、素早く印を組んだ。手のひらの術式からずるりと双錘を取り出した。持ち手についた飾りの鈴がリンと鳴る。
 踵をダンと踏み鳴らす。地面から水がじわじわと浮き出、辺りは大きな水溜りのような様相になった。片方の錘を下ろして、先端を水に差し向ける。とろりと青く澄んだ水が重りの周りに絡みついた。
 ごう、再び空が燃える。ぶうんと風を切って大きく錘を振りかぶると、地面に溜まっていた水が水流となり、周りを巻き込んで燃える炎に襲いかかった。平たく尖った水の刃は風を裂き、炎の中に食い込む。大きな炎の渦は一瞬でかき消えた。錘を逆手に地面を蹴る。先を行く水流の後を追いかけ、パアンと水の刃が炎の術者を直撃したのに間髪入れず、錘を振りかぶった。木の枝が砕かれる鈍い音がする。弾けた水滴がざあざあと辺りに降り注ぐ。水煙の向こうに人影が見えた。動くつもりはないようである。相手の顔でも見ておこうという腹か。わたしも錘を下ろして、相手の顔を見やった。
 細かな水滴が晴れていく。段々と露わになるその影に、わたしは息を吸い込んだ。相手が、相手の男が、髪をかき上げる。だらりと濡れそぼった髪は美しい黒色だった。その下で瞳が爛々と輝いている。瞳の色は、血のような赤だった。

「久しぶりだな、鳥子」

 目を見ては駄目だったのだ。それでいつもわたしは大敗を記していた。ぐらりと視界が傾ぐ。樹上から対の錘が落ち、鈍い音を立てて地面に突き刺さった。脂汗が背筋を通る。吐き気を覚えて膝を折った。
 イタチの足もとで炎が燃えている。わたしが消し切れなかった火だ。



 次に意識が戻ったときわたしは、草の上に横たわっていた。反射的にホルスターやウエストポーチを探るが、それらは無くなっていた。懐に隠していた千本までだ。体を起こして、辺りを見回す。焦げくさい臭いが充満していた。ぱちぱちと向こうの方で炎が燃えている。消さなければ、と思ったが、立ち上がることができなかった。チャクラも練れない。麻痺毒でも嗅がされたか。

「おや。お目覚めですか」

 気づくと背後に男が立っていた。ビンゴブックが何かで見たことがある顔だ。確か、霧隠れの、
「イタチさんの同僚だったんですってね。私は干柿鬼鮫と申します。以後、お見知りおきを」

 こんな風に捕えておいて、何がお見知りおきを、だ。わたしが答えもせずに後退りすると、男はくつくつと喉を震わせて笑った。

「そんなに警戒しないでいただきたい。イタチさんに、あなたの命までは取らないようお願いしたのは、他でもない私なんですよ?あなたのような水術遣いが木の葉にいるとは知らなかった」
「・・・あんたたちは一体、ここで何をしているの」
「そんなに警戒しないでください。私たちはまだ、情報収集ぐらいしかしてませんよ」
「血の臭いがしたわ。人を一人、殺したでしょう」
「やはりそれで気付かれたんですね。ああ、鮫肌で殺して正解でしたね。あなたのような方に出会えた」

 いつまで喋っていても埒が明かない。相手の腹を探るよりも、どうやってここから逃げ出すかを考えた方が良さそうだった。鬼鮫と名乗った男は一見人格者を装ってはいるが、明らかに血の臭いに酔うタイプだ。わたしの術が気に入ったのか何が気に入ったのか、今は好意的な態度である。が、こういうタイプは何が切っ掛けで豹変するかわからない。鬼鮫一人のときに逃げ出してしまったほうが得策だろう。

「あんたが殺したのね?」
「如何にも。私の鮫肌が削りたい、削りたいと騒いだものでね。イタチさんはやめておけと仰ったんですが、どうしても我慢できなかった」

 鬼鮫はぺらぺらと一人で喋っている。わたしはじりと足を動かした。どれぐらい前に毒を投与されたのかはわからない。が、毒の抗体はある程度持っている。その中に当てはまるものがあったのだろう。もう体が動くようになってきた。この分ならチャクラも練れる。

「イタチとあんた二人だけなの?」
「いや、他にも同志はいますがね。ここにいるのは私とイタチさんだけですよ」
「あんたたちは何をしているの?」
「九尾に関する情報収集ですかね。今のところは。さっきの男は突っかかられたので思わず殺してしまいましたが、普段は血も見ない、穏やかな仕事ですよ」

 ふとわたしは違和感を覚えて眉を顰めた。なんだ、なぜこの男はこうもぺらぺらとよく喋る。わたしが眉を寄せたのに気づいたのか、鬼鮫がにやりと笑う。わたしが強く地面を蹴ったのと、鬼鮫が背中の大刀を振るったのは同時だった。

「ねえ鳥子さん!なぜ私がこうも気前よく喋ったと思います?!」

 木々を避けて駆けるわたしを鬼鮫が追ってくる。彼が刀を一薙ぎすると、木がめきめきと音を立てて倒れた。びゅうと風を切って迫ってくるそれを、体を浮かして避ける。一度でも触れたら足ごともがれるだろう。

「それはね!あなたを逃がす気なんて全くないからですよ!」

 狂いか。
 鬼鮫は狂喜の声音で捲し立てている。わたしは大きく跳躍すると、樹上に降り立った。追って、鬼鮫も樹上に上がってくる。わたしから少し離れた位置の木の枝に立った。
 手のひらの術式は線を引かれ、無効化されている。雷遁の印を組むと、手のひらからチャクラを鞭状にして放出させた。パンと振るう。そばにあった白い花に当たり、はらりと散った。目の端でそれを捕えて、見覚えのある花だなと思う。が、一秒後にはそれもかき消える。
 鬼鮫の目がぎらぎらと燃える。振りかぶった刀を避け、鬼鮫の肩を蹴り、背後に回り込んで鞭を刀に絡ませた。ぎりと音が鳴る。大刀を封じることができた、そう思ったときだ。シュウと音を上げて手のひらの中のチャクラが消えてしまう。鬼鮫は肩越しに笑って、刀の面でわたしの頬を打った。バランスを崩し、樹上から落下する。首を掴まれ、上に乗りかかられ、重力に従って地面に叩きつけられる。どおんと地響きがした。喉奥から呻き声とも吐息ともつかないものが漏れる。

「いいですねえ、その顔。実にそそられる。削りがいがありそうだ」

 鬼鮫が下卑た笑い声を上げる。片手に持っていた大刀を持ち上げ、わたしの喉元に突きつけた。パキパキと何かを食んでいるような音がした。
 せめて横っつらを張ってやろうと腕を持ち上げたが、振りかぶることもできず、手のひらにクナイを突き立てられた。

「あ、っく!」

 押し殺した悲鳴が漏れる。手のひらはクナイで地面に縫いとめられいて、片手では抜くことができそうにない。痛みに顔が歪み、鬼鮫が哄笑する。その笑い声に誘われたように、頭上の木々から白い花弁が何枚か降った。そうだあの花の木の下に、昔よくイタチがいた。そこでよく本を開いて、
「何をしている」

 無視することが許されないような、低い声が辺りに響いた。彼が持っている炎とは逆に、氷のように冷やかな怒気を孕んでいる。わたしの上に馬乗りになっていた鬼鮫は、やれやれと息を吐いて、そこからどいた。が、未だ刀は突き付けられたままだ。刀の向こうには、瞳を赤くしてこちらを睨んでいるイタチがいた。

「何、暇だったんでね。あなたが戻ってくるまでの間、鳥子さんと鬼ごっこに興じていただけですよ」

 飄々と鬼鮫は言う。イタチは鬼鮫を一瞥すると、嘆息して首を振った。

「この女の命乞いをしたのは、お前ではないのか」
「いやあ。彼女の寝顔を拝見していましたら、削りがいがありそうだなと、つい」
「さっきやったばかりだろう」

 手のひらのクナイを引き抜く。血が勢いよく噴き出したが、構わなかった。わたしはのろのろと体を起こし、血が溢れ出る右手を庇うように、胸の前で両手を組んだ。まだ刀を突き付けられている。どう逃げるか。思案するその間にも、はたはたと白い花弁は降ってくる。イタチは目を細めてそれを見、「ハナミズキか」と小さく呟いた。

「イタチさん知ってみえます?ハナミズキのこの白いのは花弁ではなく・・・」
「苞葉なのだろう。そんなことはどうでもいい」

 相変わらず博学だと、わたしもずれたことを思った。イタチはやはりイタチなのだ。「何で」と思わず声が漏れていた。

「何で、里を抜けたりしたの」

 聞いてもイタチは、眉ひとつ動かさなかった。頭上の花を見上げていた目を下ろし、わたしを見る。はらはらはらと白い花弁が舞った。そうか、あの日から、もう三年が経っているのだ。

「お前には関係がない」

 短く言って、わたしの目をじいっと見る。心の奥底まで覗き込むように。失った意識の隅で、赤い炎がまだ燃えていた。



 覚醒は、日が暮れ始めた頃のことだった。柔らかく髪を撫でられている。その心地よさに、わたしは開こうとした目を細めた。長い間夢を見ていたような気分だった。恐ろしく、終わりのない輪廻のような夢。罵られ蹂躙され侵食されまた罵倒され殴られ犯され。しかし一秒後、それが現実であることをわたしは思いだす。目を開けると、枕元に無表情のイタチが腰かけて、わたしの髪を撫でていた。
 わたしの記憶は、床の上に倒れこんだところで途切れている。今までにも似たようなことはあったが、イタチがこんな風にわたしに構ったことはない。どうやら衣服もきちんと身に付けているようだ。じっとりとした肌の不快感もなくなっている。イタチがしてくれたのだろうか。起き上がろうとすると、イタチは髪を撫でていた手を引いた。二年ぶりほどに、視線がかち合う。イタチの黒い瞳を見るのは随分久しぶりのことだった。

「なぜお前は逃げようとしない」
「ならどうしてイタチはわたしを放そうとしないの?」

 問いに問うて返すと、イタチは黙り込んでしまった。彼が、イタチがわたしに無関心を決め込んでいるくせに、一方ではじいとわたしを凝視していたことを、わたしが知らないとでも思っていたのか。そうだとするなら、見くびられたものだ。

「・・・お前には悪いことをしていると、思っている」
「だからわたしに関わろうとしないわけ?矛盾していない?」
「オレにはお前をここから逃がしてやることはできない。お前は組織のことを知りすぎた。そしてオレはお前に情をかけるような行動を取ることができない」
「『非情』を演じなければならないということ?」
「そうだ」

 五年前に何があったのか、わたしは知らない。聞いてもイタチは教えてくれないだろう。だから推し量ることしかできない。五年前の凶行は、イタチの本意ではなかったのだと。

「昔、話したことがあったな。忍としての生き方の先に、得られるものがあると」
「ええ。よく覚えているわ」
「オレは、得たかったんだ。守りたかった」

 彼が守ろうとしていたもの。彼が見出そうとしていたもの。それを思ってわたしは、瞑目した。わたしたちは愚かだ。もっと他にやりようがあったのではないのか。もっと他に、考えるべきことがあったのではないのか。

「サスケは大蛇丸の元に下った。遠からず、またオレの前に姿を現すだろう。オレはその時を、ずっと待っている」

 抱き寄せると、彼はすんなりと腕の中に収まった。懺悔するように、わたしの腕の中で俯いている。わたしは強く強く彼を抱いた。この為にいたのだ。逃げもせず、帰りもせず、イタチを抱きしめる為だけにここにいた。それがわたしが得たいものだった。

「オレはサスケに殺されるその日を、待っている」

 窓の向こうで空が燃えている。ハナミズキの木が黒い影を落としていた。
 わたしたちは互いに助けあって生きていく。才覚の奔流に飲み込まれそうだったわたしをイタチが救い、飲み込まれた彼にわたしが付き添った。わたしでは、彼の炎を消し止めることができなかったのだ。

「・・・オレがお前を放せないのは、何も組織のせいだけじゃない。オレ自身が放せなかったんだ。木の葉の、故郷の、幸せだったの頃の匂いがするお前が、どうしても」
「いいわ。わたしはここにいるわ。イタチの側にずっといてあげる。だから大丈夫よ。ちゃんと最後まで歩ける」

 これは睦み合いなんてものではない。わたしたちの間の感情は、恋なんて愛らしいものじゃない。依存して依存されることにまた依存する。これでは二人で手を繋いだまま闇に落ちていくだけだ。

「イタチがサスケを守ったのよ」

 彼の才覚が火をつけた。消さなければと思うのに、イタチは火を煽り、炎に育てることを余儀なくされた。わたしは消す術を持ちながら、消すことができなかった。夜の森に炎が燃え上がる。ぱちぱちと音が爆ぜる。
 あの夜の森はどうなっただろう。イタチを抱きしめながら、わたしは思う。消しとめられなかった炎。きっと森は美しく燃えたことだろう。わたしとイタチがここにいるのだから。

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