前回読んだ位置に戻りますか?

days in Inferno

 水の中に潜っていた体が浮上する。そんな風に覚醒はやってきた。わたしは白い天井をぼんやりと見つめ、ゆっくりと体を起こした。隣から微かな鼾が聞こえている。随分よく眠っている。男の寝顔を一瞥すると、わたしは裸のまま部屋を横切ってバスルームに入った。



 わたしが髪を拭きつつバスルームから出てきても、男は起きていなかった。その方が都合もいいと思ったので、わたしはなるべく静かに、身支度を整えた。誤魔化しが効く程度に化粧をし、髪を整える。どちらにしろ一度、アパートに戻るつもりなので、電車に乗れる程度であればよかった。そんな程度の化粧なら、ものの十分もあればできてしまう。
 部屋を出るとき、わたしはもう一度、ベッドの男を振り返った。やはりまだ鼾をかいている。鼾をかく男というものは、わたしにとって少し珍しい存在だった。あの人は、まるで死んだように眠る人だったから。
 廊下に出ると、窓から昇りはじめた日が見えた。鞄を肩にかけ直し、わたしは目を細めてそれを見た。こつこつと絨毯にくぐもるヒールの音を鳴らして、歩いていく。ホテルの廊下に人気はなく、しんとしていた。エレベーターは一機しか稼動しておらず、ボタンを押すとすぐにするすると止まることなく上がってきた。エレベーターの中の鏡でわたしはもう一度身だしなみを整える。ぽんと音がして、扉が開く。眠たそうに礼をする受付嬢を一瞥して、わたしはエントランスから出た。

「カヤ」

 ホテルを出たところすぐで、呼び止められた。こんな時間にこんな場所で、一体誰が?振り向くと、シャルナークがホテルの脇の植え込みのそばに立っていた。

「やあ」

 少しやつれた顔で、シャルナークは笑った。わたしは驚いたのと困惑しているのとで、何を言ったらいいのかわからず、ぎゅうっと眉を顰めた。

「一晩ここにいたんだ。すっかり体がガチガチ。カヤ、君の家に招待してくれない?」
「いいけど、電車で帰らなきゃいけないから、少し時間がかかるわよ」
「いいよ。構わない」

 シャルナークはにっこりと笑って、歩き出した。わたしも一歩遅れて、彼の後に続く。朝焼けの白い光が、目に痛かった。



 部屋に戻るとわたしはまずお風呂を沸かした。シャルナークは本当に言葉通り、一晩あの場所にいたらしく、すっかり体が冷え切っていた。お湯が出ている風呂場が一番温かいので、そこにいるようにシャルナークに言って、その間にわたしは化粧をし直すことにした。それが終わるとクローゼットの中から彼の着替えを出してきて、脱衣所に置いておいた。言わなくてもわかるだろう。出勤までまだ時間があったので、わたしは朝食を作ることにした。冷凍していた白飯を温め、味噌汁を作る。あとは卵焼きと、漬け物があればもう朝食と言って差し支えないだろう。くるくると卵を巻いていると、そのうちにシャルナークが風呂場から出てきた。

「オレ、カヤの卵焼き、好きなんだ」

 わたしが卵焼きを作っているのを見て、嬉しそうにシャルナークは言った。やっぱり着替えはシャルナークには少し小さくて、袖の辺りや裾の辺りが足りていない。つんつるてんの服を着ている彼がおかしくて、わたしは少し笑ってしまった。

「今日も仕事なんでしょ?」

 一緒に朝ご飯を食べながら、シャルナークが聞いてきた。「そうだよ」。頷いて、わたしは胡瓜の漬物を口の中に放りこむ。ほりほり音がした。

「待ってるからさ、残業なしで帰ってきてよ」
「いいけど、本当に残業なしで帰ってこれるかは、わからないよ」
「いいよ」

 シャルナークはご飯茶碗を片手に笑った。

「オレがおいしいご飯を作って、待っててあげる。だからまっすぐ帰ってきてね、ダーリン」
「わたしが旦那なんだ」

 思わず飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。



 こつこつこつとヒールの音を響かせて、わたしは道を歩いていく。周りは同じように通勤する人や通学する人で溢れている。その中にわたしも上手に溶け込めていると思う。ずっと、憧れだった。
 始めはただ、羨ましかった。
 ブラウン管の中に観た、きらきらと楽しそうな女の人たち。きれいな色の爪。美味しそうなランチ。上司の悪口をみんなで言ったり、恋を失って泣いたり。そういう生活にわたしは、瓦礫の中で憧れていた。他のみんなの興味は違うことに向いていた。だけどわたしはただ、ああいうテレビで観たみたいな生活がしてみたかった。それだけのためにハンター試験を受けた。
 変だと言われた。あんな生活、すぐにつまらなくなるに違いないとも言われた。しかしわたしは一人流星街を出て、普通のどこにでもある会社に、事務として就職した。十八のときに就職して、一度転職し、今年で二十三になる。
 続くものだ。
 五年の月日を思って、わたしは少し微笑む。絶対につまらなくなって帰って来るに違いないと言われたけれど、わたしはここでの生活をもう五年も続けている。毎日毎日、同じように繰り返される生活を、わたしは五年も続けてきたのだ。時折、幻影旅団のニュースを耳にしながら。
 人がどんどんどんどん無尽蔵に吸い込まれていく駅の改札をICカードでパスして、わたしは今日も電車に乗り込む。満員電車の窮屈さに悩まされながら、伸びてくる痴漢の手に耐えながら。
 そして、会社へ行く。



 定時では終わらなかったけれど、それでも早めに仕事を終わらせてアパートに戻ると、シャルナークは本当に夕飯を作って待っていた。

「お帰り、ダーリン。今夜はダーリンの好きなハンバーグシチューよ」
「わたしは『ただいまハニー』って言うべきなの?」
「どっちでもいいっちゃ!」

 昔一緒に観たアニメの女の子の真似だ。苦笑しながら、わたしは靴を脱いで、着替えに一度奥の寝室へ引っ込んだ。シャルナークは昼間のうちに自分の服を『盗り』に行ってきたらしい。もう寸足らずの服ではなくなっていた。

「カヤー。どれくらい食べれる?」
「あんまりいっぱいは食べれないよ。太るし」
「女の子は大変だねー」

 シャルナークはからからと笑った。部屋着に着替えて、キッチンから続いているリビングに戻る。テーブルの上には二人分の夕飯が行儀よく並べられていた。

「昼間から煮込んでたんだ。オレのお墨付き」
「それは楽しみ」

 目の前に置かれた皿を前に二人でいただきますをして、スプーンをつける。デミグラスソースのいい匂いがした。

「シャルナークはいいお嫁さんになれるよね」
「もらってよ、カヤ」
「いいけどわたし、薄給よ?」

 じゃあ共働きだねとシャルナークは言って、それから少しの間、黙った。皿にスプーンがぶつかる硬い音が、いやに大きく部屋に響いていた。

「オレ、しばらくここにいてもいい?」

 しばらくして、シャルナークが言った。「一緒のベッドで寝ることになるけど、それでもいいなら」。そうわたしは答えた。シャルナークは困ったような、そんな顔をしてわたしを見ていた。わたしは良く煮込まれたハンバーグを一口サイズに切り取って、口に放り込んだ。

「オレ、悪いけど、でかいよ。とてもカヤのベッドに収まるとは思えない」
「大丈夫よ。シャルナーク、添い寝するの上手だもの。昔一緒に寝たときだって、わたし一度も起きなかったわ」
「あのときは寒かったから」

 言い訳のようにシャルナークは言った。「寒かったから、眠りが深かったんだ」。「普通、逆でしょう?」。シャルナーク自身も言っていることがおかしいとわかっているくせにいうものだから、おかしくて仕方なかった。ばつの悪そうな顔をしている。

「オレ、その辺で雑魚寝するからさ」
「予備の布団なんかないわよ。そんな何日も床で寝たら、体がおかしくなっちゃう」

 だって、二、三日で帰る気なんてないんでしょう?
 そう聞くと、シャルナークはうっと言葉に詰まった。わたしはにっこりと笑って言った。

「じゃあやっぱり、一緒に寝るしかないわね」




「カヤは相変わらず押しが強い」

 ベッドの中でぴったりと密着して横になりながら、シャルナークが言った。

「昔からそうだった。普段はあんまり自分の意見を言わないくせに、いざ主張をすると、梃子でも動かさない」

 わたしの部屋は電気を消してしまっても、向かいのビルのネオンが遅くまで届いてくる。その中でシャルナークを窺い見ると、彼はじっと天井を見つめていた。重力に従って脇に流れた前髪が、いつもより彼を幼くみせた。

「シャルナークは、人の気持ちを察するのが得意だったわね。シャルには隠し事ができなかった」
「それは、オレが人一倍臆病だったからだよ。常に人の顔色を窺ってないと、不安だったんだ」
「とてもそうには見えなかったけれど」

 わたしが言うと、彼は少し笑ったように見えた。

「本当は、そうなんだ」

 それっきり彼は黙って、目を閉じた。わたしもそれを倣って、目を閉じた。毛布の中で、手の甲と甲がこつりとぶつかる。そっと擦り寄せると、彼はそれに応えてわたしの手を握ってくれた。瞼の奥がきゅうっと熱くなった。



 シャルナークは太陽の匂いがする。きれいな金色の髪をいつも見ているせいかもしれない。目が覚めたときにはもう、シャルナークはわたしの隣にいなかった。眩しい朝の光が、カーテンの隙間から漏れている。ベッドを抜けてリビングへ行くと、テレビの前の小さなソファの上で、シャルナークは大きな体を丸めて寝ていた。わたしはそろそろと足音を殺して、彼に近づく。屈んで寝顔を覗き込むと、昔見た寝顔よりもずっと、『男の人』になっていた。彼の頬を突こうとして、やめた。そろそろと音を殺したままキッチンへ行って、朝食を作りはじめることにした。
 シャルナークは鼾をかかない。



 瞼に光を感じる。ごうごうと音がする。体がたゆたっている。抵抗は感じない。時折さららと指の合間を抜けていく感触がする。わたしは息を吐き出した。ごぼりと水の動く音がした。苦しくはない。消えていく、消えていく、消えていきたい。不意に体がぐうっと押し出されていって、顔の周りの水が捌けた。わたしは瞼を持ち上げる。白い光。
 朝だった。わたしは天井を見つめ、それから起きあがった。まだ肌寒いので、ベッドから出ると寝巻の上にカーディガンを羽織って、リビングに行く。リビングの小さなソファの上では、シャルナークがテーブルの上のノートパソコンに突っ伏して寝ていた。画面では幾何学模様のスクリーンセーバーがくるくると回っている。肩からずり落ちていた毛布をかけ直してやって、キッチンに入った。パンを焼いて卵を焼いてお湯を沸かしてインスタントのスープを作ってコーヒーを淹れる頃に、シャルナークは起きた。ごしごしと目元を擦る仕草が昔と変わっていない。

「ご飯、食べれる?」
「・・・うん、食べる」

 まだ寝惚けたような目でわたしを見上げて、シャルナークは言った。テーブルの上のパソコンをどかして、場所を開ける。シャルナークはぼうっとそれを見てからやっと気付いたように「ごめん」と言って、のろのろした動作でパソコンの電源を落とした。

「今日は、何時に帰ってこれる?」

 朝の決まり文句になった問いを、シャルナークは口にした。まだ目が覚めきらない様子で、彼は炒った卵をスプーンの上に乗せようとしている。あまり上手くいっていない。

「今日はカンファレンスもないから、七時くらいには」
「わかった」

 そこまで聞いて、シャルナークはついに諦めたようだ。スプーンを置いて、「寝る」とひと言。「わたしのベッド使っていいよ」と言ったら、「大丈夫」と欠伸で潤んだ目で返された。
 洗い物は置いておいていいというシャルナークの言葉に甘えて、シンクの中に汚れた皿を置き、顔を洗って化粧をする。出かける際には、シャルナークはもうソファの上で丸くなって寝ていた。毛布を抱きしめるようにしている。わたしは少し笑って、自分のベッドから毛布を取ってきて、彼にかけた。無防備な頬があどけない。小さな声で名前を呼んでも、彼は起きなかった。
 屈んで、彼の頬にキスをする。塗ったばかりの口紅の跡が残って、慌てて指先で拭った。わたしがキスをしたと知ったら、きっとシャルナークは怒るに違いないと思った。



 昼休みに食事も終わって一人で雑誌を眺めていると、後輩の女の子がぱたぱたと寄ってきた。

「カヤ先輩、今日って何かご用事ありますか?」

 そう聞いてきたのは、二期下の後輩だった。いつも唇がピンク色のグロスで潤っている。「用事は特にないけれど」。答えると、彼女は「じゃあ」とうれしそうに言ってきた。

「今日、合コンをすることになってたんですけど、どうしても一人女の子が足りないんです。カヤ先輩、もしよかったら来てくださいませんか?」

 長い睫毛に縁取られた目がわたしを上目遣いに見上げている。わたしは少し逡巡した後、「じゃあ、行かせてもらおうかな」と返事した。彼女はうれしそうな顔で目を伏せて、「ありがとうございます」と言った。
 待ち合わせ場所と時間を聞いて彼女と別れてから、わたしはシャルナークにメールを送った。きっとまだシャルナークは眠っているだろう。あんなに体を丸めて寝て、痛くないのかしら。そのときふと眺めた雑誌の誌面に、ベッドが乗っていた。もうひとつベッドを買おうかな。ふっとそんな思いを過らせた自分がいて、わたしはそれを小さく笑った。



 定時に終業すると、わたしは化粧を直しにお手洗いへ行った。周りには似たようなことをしている子がたくさんいて、色々な香水の匂いが混じり合っている。漫然と口紅を塗り直していると、隣にいた子が「あれ?」と声を上げた。

「カヤさん、口紅変えたんだね。ずっとシャネルの同じ色使ってたのに」
「長い間使ってたから、いい加減飽きちゃって」

 それにしてもよく見ていると、わたしは少し笑いながら答えた。

「口紅って飽きるよねえ。わたし最後まで使いきったことないもん。カヤさんはいつも同じのを最後まで使っててえらいなあと思ってたんだけど」
「何年も使ってたから、流石にね。新しいのはどこのを買うか、すごく悩んだの」
「いいなあと思うのはいくつもあるんだけど、いざ買うとなるとどこのにするかって、すごく迷うよね」

 他に当たり障りのない近況をつらつらと喋って、その子とは別れた。会社を出て、待ち合わせ場所へ行くと、わたしが最後の一人だった。五人いるうちで、年はどうやらわたしが一番上のようだったけれどまちまちで、今年入社したばかりの子もいる。どういう基準で選んだのだろうと思ったけれど、特に気にしないことにした。 
 連れていかれた店は、スペイン料理のレストランだった。年齢層は高めで、騒がしくない。案内された個室では、相手の方はもう席についていた。ぱっと見た感じでは、職業はどうもばらばらなのではないかと思った。実際自己紹介を聞けば、その通りであった。外資系保険会社の営業が二人、広告デザイナー、研究所勤めの薬剤師、司法書士。どうやって集めたのだろうというようなメンツだと思っていたら、大学のサークルが一緒だったと向こうから言ってきた。
 甘いカクテルで乾杯して、初めのうちはみんなで雑談に興じていたのだけど、そのうちに別れて座っていた席はばらばらになっていった。わたしの隣には、保険会社の営業の一人がやってきた。彼はサーフィンが趣味らしい。確かにきれいに日焼けしていて、鍛えられた体つきをしている。波の読み方や、今までに乗った波の話を聞きながら、わたしは海のことを思った。そうだ、海だ。このところよく見る夢は、海だ。たゆたっていた体が急激に上昇する夢。どうしてだろうと思っていた。
 その後、広告デザイナーの人とも少し話をした。店を出る頃には、その広告デザイナーがわたしの隣にいた。すらりと背が高くて、鼻筋の通った顔つきをしている。もてるだろうなと思っていたら、「カヤさんはよく異性に好意を持たれるでしょう?」とわたしが思っていたのと同じことをそのまま言われた。

「そんなことありません。あなたのほうが、よく女性に好かれていそうだわ」

 少し笑って返すと、彼も同じように少し笑った。

「オレは外面がいいだけだから。でもあなたは何だか、内面がきちんと磨かれている感じがする。それが雰囲気や物腰に滲み出ているんです」
「お世辞がお上手ですね」

 ふふっと笑って、わたしは彼と並んで道を歩いた。これから少し先のバーに異動して、飲み直すらしい。

「二人で行きませんか?」

 少し沈黙した後、広告デザイナーが言った。

「このまま二人でふけちゃいません?オレはあなたと差し向かいでもう少し話がしてみたい」

 わたしは少し困って、彼の顔を見上げた。彼は微笑みを浮かべて、わたしを見ている。わたしたち以外の四人は少し先を歩いていて、消えてしまおうと思えば気付かれずにできるだろう。

「・・・そうね」

 肯定の意を返そうとしたときだった。

「カヤ」

 鋭く呼ばれて、わたしは振り返った。手首を掴まれる。「シャルナーク」。わたしは困ってしまって、ただ彼の名前を呼んだ。

「どうしたの」
「帰るよ」

 シャルナークはにべもなく言って、わたしの手を引いた。「知り合い?」。広告デザイナーが困ったように聞いた。

「ええ、友達です」

 わたしは彼に答えて、シャルナークに向き直った。

「どうしたの、こんなところまで。ちゃんとメールはしたでしょう?」
「もう食事は終わったんだろう。じゃあ、帰ってもいいじゃないか。カヤ、オレと一緒に帰るんだ」
「そんなこと、無理よ」
「どうしたの、カヤさん」

 先を歩いていた四人もわたしたちの問答に気付いたらしく、幹事の女の子が少し向こうから呼びかけてくる。「大丈夫よ」と言い返そうとしたとき、それよりも早く、シャルナークが少し大きな声で言った。

「連れて帰りますから。この人、朝から具合が悪いんだ」
「本当なの?」

 広告デザイナーが驚いたように聞いてくる。わたしは仕方なく曖昧に頷いて、「悪いけれど言っておいてもらえるかしら」と彼に言った。

「カヤさん、これ」

 彼がスーツのポケットを探って名刺を取り出した。「カヤ」。苛立たしそうに、シャルナークがわたしを呼んだ。

「連絡先です。よかったらまたお話してください」
「喜んで」

 わたしは微笑んでそれを受け取った。「行くよ」。そこでもう限界というように、シャルナークはわたしの腕を引き、わたしは広告デザイナーに小さく手を振って、駅の方へ歩き出した。

「ちゃんとメールを送ったでしょう?」

 わたしの手首を掴んだまま、ずんずんと歩くシャルナークの背に、わたしは話しかけた。シャルナークは答えない。どうしてわたしの居場所がわかったの?と質問を重ねようとして、やめた。シャルナークほど情報の収集に長けた人を、わたしは他に知らない。

「さっきの名刺、貸して」

 駅についたところで、シャルナークがやっとわたしを振り返って言った。そうしないと梃子でも動きそうにないので、わたしは大人しく、彼に名刺を渡した。彼はそれをびりびりと破って、駅のゴミ箱に捨ててしまった。

「必要ないでしょ?」

 そう言う彼の目には、少しだけ怯えが混じっていた。



 翌日会社へ出社すると、予想していたことだけど、すぐに昨日の合コンに誘ってくれた後輩が寄ってきた。

「カヤさん、体調はもう大丈夫なんですか?」
「そんな心配するほどのことじゃないの。それより昨日は急に帰ってしまって、ごめんなさい」
「大丈夫です。あの後は三次会まで行きました」

 にこにこと笑って彼女は言うけれど、わたしが誘われることはもうないだろうなと思った。

「それとこれ、カヤさんに渡してくださいって頼まれてきたんです」

 彼女が差し出したのは、昨日の広告デザイナーの名刺だった。昨日もらったものとは、少し書式が違う。どうやらこちらがプライベート用のものらしかった。

「昨日のあの方は、随分カヤさんのことが気に入ったみたいでしたよ」

 後輩の彼女は悪戯っぽい目でそう言う。わたしは曖昧に笑って、お礼を言った。



「あの男、本当に恋人じゃないの?」

 わたしがピアスをつけ直している後ろで、ベッドの上から男が言った。わたしは鏡越しに彼を見て「違うわ」と首を振った。形の崩れた髪が揺れる。わたしはそれを両手で撫でつけた。ふと、手首の少し下の辺りに淡くついた、擦傷痕が目に留まる。指先でそれを辿ると、ぴりりと痛みが走った。

「それにしたって、尋常じゃない様子だったじゃないか」
「彼、昔から心配性なのよ」

 クラッチバックをぱちんと閉じて、わたしはドレッサーの椅子から立ち上がった。彼はベッド脇の背広を引きよせて財布を取り出すと、そこから一万ジェニー札を取り出してわたしに差し出した。

「朝までいればいいのに」
「あいにく、心配性の幼馴染が待ってるから」

 わたしはお札を受け取ると微笑んで部屋を出た。一か月くらい前だったなと思う。こんな風にホテルの廊下を歩いていたのは、一か月くらい前のことだった。あのときはエントランスから出たら、シャルナークがいたのだ。今日はエントランスを出ても、シャルナークはいなかった。ホテルを出てすぐのところで客待ちをしていたタクシーを捕まえて、アパートの住所を告げる。アパートの少し手前で下ろしてもらい、一万ジェニー札で割増になっていた代金を払った。
 タクシーから降りると、北風が薄着の肩に冷たかった。風に煽られる髪を押さえ、アパートを仰ぎ見る。こんな時間でもわたしの部屋の明かりはまだこうこうと点いていた。やっぱりなあとわたしは少しため息混じりの笑みを落とし、あまり上等でない造りの階段を上っていく。バックから鍵を取り出して部屋に入ると靴をしまってから、リビングに向かった。彼はこの一カ月で彼の定位置となったソファの上で膝を抱えて、じっと床を見ていた。珍しくパソコンの電源もついていない。

「ただいま。シャルナーク」

 わたしが声をかけると、シャルナークはのろのろとした動作で顔を上げて、わたしを見た。目が落ちくぼんでいる。昨日から寝てないのかもしれないと思った。

「どこへ行ってたの?」
「友達と食事よ。着替えに寄ったときにシャルナークがいなかったから、書き置きをしていったでしょう?」

 シャルナークは返事をせずに、じっと黙ってわたしを見上げていた。そして沈黙の後、覚悟を決めたように言った。

「バッグ、わざと違うのを持っていったんだろう?」

 シャルナークの目がじっとわたしを探る。わたしは微笑んで、コートを脱いだ。「ほら」。

「こういう服を着ているから、いつもと同じバックじゃあ、変でしょう?」
「違う、君は、気付いていたんだ。気付いてたけど黙っていた。なのに今日は違うバックを持っていった。なぜだ?オレは考えてみたけど、答えはひとつしか見つからなかったよ」
「なあに?」

 わたしはクラッチバックとコートを床に置きながら聞いた。

「オレに邪魔されたくないことが、今日あったんだ」
「そうね」

 シャルナークの目はぎらぎらしている。「カヤ」。鋭い声で、シャルナークはわたしを呼んだ。

「どこへ行ってたんだ」
「シャルナークに報告する必要なんてないと思うけれど」
「聞き方を変えるよ。何をしてたんだ。GPSが仕込まれたバッグを置いて、何をしに行っていたんだ」

 わたしは薄らと笑みを浮かべた。シャルナークはそれを見て眉を顰めた。ぎゅうっと。「ねえ、カヤ」。先ほどよりも幾分柔らかい声で、彼はわたしを呼んだ。

「カヤ。もう、やめよう。オレはそんな君を見たくない」
「シャルナーク」

 彼にわたしは微笑んだ。

「・・・その顔はやめてくれ!」

 不意に彼は首を大きく振って、大きな声で言った。ソファから立ち上がって、わたしの腕を掴む。

「まるで死んでるみたいだ!君だって自分でわかってるんだろう?クロロと別れてから、随分痩せただろう?そして何をしていた?どうしてオレがここへ来たか、わかってるんだろう?なのにどうして何もリアクションを起こしてくれないんだ、何も感じてないような顔をするんだ。君は本当にオレの顔を見ても何も思わないのか、オレは、オレは・・・」

 片手でわたしの腕を掴んだまま、シャルナークはもう片方の手で自分の顔を覆った。

「もうやめようよ、カヤ」

 腕を引かれ、シャルナークの腕の中に閉じ込められる。ぎゅうぎゅうと。汗の匂いがした。ずっと、大きい。彼は、彼よりも背が高くて、がっしりしている。

「変な男と簡単に寝るのやめてよ。どうして自分を大切にしないんだ」
「シャルナーク」
「手首の傷にオレが気付かないはずないって、君、わかっててつけてきたんだろう?オレをからかってるの、オレは君に何をしたらいいんだ?」
「シャルナーク」

 わたしはつま先立ちして、彼の耳にキスをした。彼の体が一瞬震えて、力が抜ける。その隙にわたしは彼から少し距離を取った。シャルナークの顔が見れるだけの。シャルナークは今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「見ないで」

 小さな声でシャルナークは言った。「見ないでくれ」。顔を背けてわたしの背中から腕を離して、顔を覆ってしまう。

「オレ、ちょっとおかしいんだ、今日は寝てないし、君は帰ってこないし」
「わたし、シャルナークのこと、好きよ」
「簡単に言わないでよ」

 シャルナークは泣き笑いのような声でいい、「寝る」と言って顔を覆ったまま、ソファの上で丸まってしまった。わたしは彼に毛布をかけてから部屋の電気を消して、寝室に引っ込んだ。クローゼットを開けて、ワンピースを脱ぎ、皺を伸ばしてハンガーにかける。そういえばコートをリビングの床に置きっぱなしだったが、戻るわけにはいかないので、そのままにしておくことにした。
 スリップ一枚になって、わたしは脇の姿見を見る。髪をぐしゃぐしゃにした女が無表情な顔でこちらを見ていた。スリップを脱ぎ、下着だけになる。肌の上にぶたれた赤い痕があちこちに浮かび上がっている。明日になれば、赤黒く痣になるだろう。
 姿見に向き直って笑うと、色のない唇が目に入った。わたしは指先でそれをなぞると、クローゼットの奥にしまった箱を引きだしてきて、箱の中の一本を取り出す。ぽんとキャップを外したけれど、口紅はどれもきれいに最後まで使い切ってあって、わたしはただぼんやりと、なくなってしまった口紅を見つめていた。



 浮上する。光が差す。わたしは肺一杯に空気を吸い込む。笑うあの人の顔が見えた。これは過去の記憶だったのだと、もうわたしも理解し始めていた。ずっと昔、昔。まだあの街で暮らしていた頃の記憶だ。
 二人で海へ行ったことがある。初めて見た海は大きかった。海を目の前にしたわたしは思わず泣きそうになった。彼は、そんなわたしの手を引いて、駈け出した。
 起きたのはシャルナークのほうが先だった。次の日は会社が休みだったので、一度起きたのにまた眠ってしまったことも原因だったかもしれない。再び起きたときにはもうコーヒーのいい匂いが漂ってきていた。わたしは起きぬけに昨日の痣に触ってしまい、響く鈍痛に顔を顰めていた。

「カヤ。起きてる?」

 ドアの向こうからシャルナークの声が聞こえた。いつも通りの声だ。

「起きてるわ」

 わたしは答えて、ベッドから起きあがった。シャワーも浴びていなくてぼさぼさの髪をゴムで縛り、カーディガンを羽織る。リビングに行くと、シャルナークはキッチンで何か料理をしていた。「おはよう」。真剣な表情で何か作業をしながら、シャルナークは顔もあげずに言った。

「おはよう。何してるの?」
「弁当を作ってるんだ」

 やっぱり顔を上げないままで、シャルナークは答えた。しばらくまともに返事をしてもらえそうになかったので、わたしは先にシャワーを浴びることにした。シャワーを浴びたら、あちこちの傷に染みて、散々な思いをした。

「カヤ。動物園に行こう」

 浴室から出てきたわたしに、シャルナークは満足そうな顔で言った。どうやらお弁当は上手く作れたらしい。「動物園?」。聞き返したわたしに、シャルナークは頷いた。

「いい天気だし、平日だからそんなに混んでないと思うし」
「いいけど」

 動物園なんて、何年ぶりだろう。考えを巡らしたら、昔、最後に動物園へ行ったときのことが思い起こされて、わたしは少し笑った。

「どうしたの?」

 笑ったわたしを見て、シャルナークが聞いた。

「昔行ったときのことを思い出したの。二人とも初めて動物園へ行ってすごく興奮して、終いにはクロロが虎を盗むって言いだして。わたしはそれを止めるのが大変だった」
「団長はその後結局、虎を盗んでたよ。しばらく飼ってたけど、そのうちに餌やりを忘れて、最終的には餓死した」
「馬鹿ね」

 わたしは一頻り笑って、それからシャルナークと二人で朝ご飯を食べ、出かける準備をした。口紅もきちんと塗った。



「そういえば、一緒に出かけたことって、なかったね」

 いつかのように並んで電車の席に座って、シャルナークが言った。

「どこかで待ち合わせて会ったり、一緒にアパートまで帰ったりはしたけど、一緒にどこかへ行くってことはなかったなあ」
「そういえばそうね」

 シャルナークは向かいの窓の外をじっと見ている。膝の上にはお弁当の入った鞄が抱えられている。この人が幻影旅団の一員なんて、誰も信じないだろうなあという格好だった。

「・・・シャルナークのこと、好きよ」

 ふとわたしは言った。シャルナークは窓の外を見ていた目を一瞬わたしにずらし、そしてまた窓の外に戻した。

「知ってるよ」

 シャルナークは言った。

「カヤはオレのことが大好きだって、知ってる。昔からカヤと一番仲がよかったのは、パクノダよりもマチよりも、オレだったんだから」
「うん」

 わたしは頷いて、シャルナークがお弁当を抱えている手に、自分の手を重ねた。大きくてごつごつした手だった。彼とは違った。わたしは瞑目する。シャルナークと一緒にいたって他の男と一緒にいたって、わたしはどうしたって何をしてたって、比べてしまう。思い出してしまう。あの人の手のひらの大きさ、腕の力の強さ、わたしの名前を呼ぶ響き。

「もういい加減、わかっただろう」

 目を瞑ったままのわたしに、シャルナークは突き放すように言った。わたしはまだ瞼を閉じたままでいる。

「君が捨てようとしたものは、必要なものだったんだ。だからオレは何度も言ったのに。カヤは外の世界では暮らしていけないって」
「そうかな」
「そうだよ。観念して、こっちの世界で生きていくといいよ。会社を辞める必要はないかもしれないけど、『普通』で『一般的』な暮らしはできないだろうね」

 シャルナークは意地悪げな口調でいい、彼の手のひらに重ねていたわたしの手のひらをどかした。そして目を閉じたままのわたしの膝の上に、お弁当の鞄を置いた。

「落とさないでね。一生懸命作ったんだから」
「うん」

 わたしは頷いた。彼が隣から立ち上がる気配がする。鼻の奥がつんとした。それでも瞼は開けなかった。馬鹿だなあと思った。失速した電車に重力がかかり、体が傾ぐ。目を開けて、シャルナークと名前を呼びたかった。だけど、できなかった。わたしはひどい女で、わたしは奪うばかりで、彼に何も与えられなかった。
 チャイムが鳴って、ドアが開く。わたしは閉じていた瞼を開けて、眩しい光の中で彼の背中を探す。シャルナーク、名前を呼ぼうとする。それよりもただ、速く。わたしの瞳は彼を捉えた。シャルナークと入れ替わりに、車内に入って来る彼の姿を。

「シャルナーク」

 呼んだのに、彼は行ってしまう。わたしは膝の上のお弁当箱を抱えて、彼を見上げている。わたしはひどい女だ。何度も何度も繰り返し、思った。

「馬鹿だな」

 さっきまでシャルナークが座っていた席にクロロは座って、小さく呟いた。「本当に」。わたしは泣き出しそうになりながら、答えた。シャルナーク、シャルナーク。何度も思った、何度も呼んだ。

「結局駄目なら、離れた意味がないな。シャルには迷惑をかけた」

 わたしは答える言葉を持たず、しばらく沈黙した後、まるで思い出したように言った。

「あなた、あの後結局虎を盗んだですって?それで餓死させたって」
「そうなんだ。そういえば、そのときも後始末はシャルにさせたな。あいつには本当に迷惑をかけてばかりだ」
「そんなんじゃ、いつか、愛想つかされるわよ。団長さん」
「お前だって人のこと言えないだろう」
「そうね」

 わたしは小さく返事をして、お弁当を抱える腕に力を込めた。クロロはぼんやりと窓の外を眺めていたけれど、「そういえば」と、思い出したようにジーンズのポケットを探った。

「なくなっただろうと思って、買ってきた」
「ありがとう」

 わたしはそれを受け取って、箱を開ける。ハンカチで唇を拭うと、鏡も見ずに口紅を塗る。シャネル 73 ストレーザ。もう少し大人になったら、使えなくなるような色。そのときはまたクロロが新しい色を選んでくれると思う。
 口紅を塗り直したわたしを、クロロはちらりと一瞥しただけで、何も言わなかった。ジーンズに白いシャツを着た彼も、やっぱり幻影旅団の団長には見えない。

「お弁当、何が入ってるんだろうね」
「そうだな」

 楽しみだなと小さくクロロは笑った。わたしたちはこれから二人で動物園へ行く。二人で動物園へ行くのは、これが二度目のことだ。

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