うつくしく静かに終わりを迎えるために
とあるパーティーに出席する要人を暗殺するという仕事が終わったのは、午前一時を過ぎた頃だった。暗殺だが、『その場』で『時間を置かず発覚し』に『他殺であることがわかるように』殺せとの依頼だったので、殺人が起こったことでパーティ会場に駆けつけた警察に、わたしたちは長い時間拘束されていたのだ。一通りの身体検査を受けて―証拠が見つかるはずもない―、本来なら存在しない身分証を警察に提示して、やっとわたしとイルミはホテルの駐車場の中の車に戻ってきた。
「警察の捜査っていや。どうしてあんなに要領が悪くて、頭が悪いんだろう」
「そうだね」
着ていたスーツのジャケットを後ろへ放り、アイドリング状態の運転席でモバイルをいじっていたイルミは、いつもの通り感情の篭らない声で言った。モバイルの光に照らされたイルミの頬や額が白く光っている。それに比べて、瞳や睫や後ろで纏められた髪の黒い輝き。わたしがぼうっとそれを眺めていると、ふとイルミが目をこちらに向けた。
「オレ、明日は・・・っていうかもう今日か。休みもらえた。明日からはまた一週間の出張だ」
「じゃあ、今日だけでも休みで、よかったわね」
わたしはなんとはなしにイルミを見ていた目のまま言った。「嫌になるわね」。わたしは頭(かぶり)を振る。
「ゾルディックと違って、うちはなんて暇なんだろう。わたしはあと三日は仕事がないわ」
「そう」
イルミはまた無感動に言ったきり、黙った。男女で潜入してこなさなければならない仕事がゾルディックに舞い込んだときによく呼ばれるのが、わたしだった。ゾルディックほど高名ではないが、うちも一応暗殺という家業を商っているし、それなりの実力もあると自負している。イルミとは年の釣り合いがいいから、こういう仕事はわたしが呼ばれるのだ。
イルミは口数が多いほうじゃない。というか、必要なこと以外、喋らない。表情も変化しないから、よく感情が読み取れない。いいや、感情自体存在していないのではないか。わたしはよくそんなことを思った。
「ねえ」
そう思って、気づいたら言っていた。
「朝焼けを見に連れて行ってよ」
けれどそう言ったわたしの中では、イルミはこの言葉をきっと断るだろうという相反した思いが存在した。だから、ただの言葉遊びのつもりだったのだ。イルミがあまりに仕事以外のことを喋らないから、少しでもそれ以外の言葉を吐かせたくて。
「いいよ」
なのに戻ってきたのはそんな返事だった。ぎょっとしてイルミを見る。イルミはもう目をモバイルに戻していて、何かを検索しているようだ。驚いているわたしの目線に気づいているのか、気づいていないのか。十中八九、気づいていて知らないふりをしているのだろうと思った。
「ここから三時間走った山の中に展望台がある。そこへ行こう」
「わかった」
わたしがそう言ってシートに身を沈めるとともに、イルミはサイドブレーキを外し、シフトレバーに手を伸ばす。丁寧に、滑らかな動きでゾルディクの執事が用意したマセラティ・グラントゥーリズモは走り始めた。
黒いスポーツカーで深夜のハイウェイを駆ける。イルミの運転は決して高圧的ではない。追い越し車線を爆走したりなんてしないし、前の車を煽ったりなんてこともしない。あくまで坦々とした走りだった。
車の中にはゾルディックの執事たちが用意したのだろう音楽のディスクが揃っていたし、カーラジオも搭載されていた。けれど、車内は真新しいスポーツカーのうつくしいエンジン音が響くのみだ。わたしもイルミも、何も話さなかった。
窓の外の繰り返し過ぎていくライトポールを眺めながら、わたしはイルミと初めて会ったときのことを思い出していた。イルミは十歳で、わたしは八歳だった。わたしは初仕事を終えたばかりの頃で、ゾルディックに赴くのにも、その名前の恐ろしさ―同業のわたしたちの間でも、ゾルディックの名前は恐怖と共にある―に怯えていた。あとあと、役立つからね。父はわたしがイルミと会うことを、そう言った。今思えば、その後わたしとイルミの間に存在することになる仕事上の関係は、そのときから決まっていたのだろう。
『よろしく』
そう言って、わたしより二つ年上の少年はわたしに手を差し出した。彼の猫のような目は確かにわたしを捉えているのに、わたしを『見て』いない。そんな気がした。怖い。そう思ったのを押し殺して、少年の手をわたしは取った。ゆっくりと握る。そのとき初めて、少年がわたしを見た気がした。
『オレはイルミ。君は?』
そのときの心臓の鼓動を、わたしは今も覚えている。
世界を濃く支配していた夜の色が徐々に薄くなっていく。イルミの運転する車はひどく複雑な山道を登っていて、けれど、運転するイルミに緊張なんてものは感じられない。ヘッドライトが照らす道の先には白いガードレール、その奥に暗い木々が見える。
たとえば。
例えば、今、この車がガードレールを突っ切ってその木々の中に落ちたとして、わたしとイルミは死ぬのだろうか。
イルミは死ぬことを自分に許すだろうか。
そんなことを思った。そしてわたしは、イルミと共に死ぬことを自分に課すだろうか。
複雑な山道を登りきる頃には、東の空は白み始めていた。キっと音を響かせて、イルミは展望台の駐車場に車を止めた。わたしは何も言わず、ドアを開けて車外に出る。イルミもエンジンを切ってから、車を降りた。車の中はエアコンを点けていなかった。むき出しの腕に、夏の朝の少しだけ冷えた空気が染みた。そう、わたしもイルミも、パーティに出席したままの格好だった。アイボリーのドレスの生地に施された銀色の刺繍が、明け始めた空の光に、きらりと光る。わたしとイルミは会話なく、展望台のほうへ進んだ。
展望台には誰もいなかった。東屋が三つ点在していて、一番奥には落下防止の柵。そこに手をつくと、わたしは隣に手をついたイルミを見て、「運転お疲れ様」と声をかけた。実際、疲れたことなんてひとつもなかっただろうけど、イルミは「うん」と頷いた。
風が少ないので、イルミは後ろで纏めていた髪を下ろすようだった。髪留めから開放された髪が、ネクタイを緩めた白いシャツの上に広がる。「君はさ」。空を見たままで、イルミは言った。
「どうして人を殺す?」
「それが仕事だから」
間髪いれずに答えたわたしに、イルミは何も言わなかったし、表情も変えなかった。わたしもイルミが見つめる先の空を見る。東の空から、光が生まれてくる。
「イルミはどうして人を殺す?」
イルミを見ずに、決してイルミを見ずに、わたしは聞いた。イルミは答えない。イルミを見てはいけないと思った。きっと今イルミを見たら、わたしはイルミに殺される。そんな気がした。
イルミは答えない。答えなくていいのだ。わたしはイルミに答えを期待していない。わたしはイルミに何も期待しない。それでいい、それでいいはずだった。
心臓が高鳴った。
イルミが柵を掴んだわたしの手の上に自分の手を重ねたのだ。イルミを見ていると、体温がないようにみえるのだけど、彼にはちゃんと体温があった。彼はちゃんと体温を持っている。それは彼が人間だという証だった。殺人マシンではなく、一人の人間。感情を持つ一人の人間。
イルミを見て心臓が高鳴ったあの日のことがありありと頭に浮かんでくる。初めてイルミに見られたあの瞬間。わたしは欲しいと思ってしまっていた。だけど得られるはずがないということも、同時に悟った。だから期待しなかった。期待をしてはいけないとずっと言い聞かせてきた。
「寒い?」
わたしの手が冷えていたのだろう。イルミが聞く。わたしが小さく頷くと、イルミは何も言わずにわたしの体を引き寄せて、片腕で抱いた。温かい。人の温もりがした。
「また、朝焼けを見に連れてきてくれる?」
わたしが頭上のイルミを見上げていうと、わたしを見下ろしたイルミは、「この日が昇りきったらね」と抑揚なく言った。
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