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必要性と不必要性

「お前にしよう」

 目の前の黒髪の男は、無感動な瞳でそう言った。わたしにはその言葉の意味がわからない。ペーパーナイフの柄をぎゅっと握りしめる。冷や汗が背筋を流れていくのがわかった。噛みしめた唇は今にも切れてしまいそうだったし、あまりの緊張に視界はけぶっていた。

「ペーパーナイフなんかでオレに対抗しようと思いつくところがいい。この状況で懇願するでも、腰を抜かすでもなく、抵抗を見せるってのは面白い」

 そう言って男はわたしのほうに近づこうとする。

「来ないで!」

 わたしは震える手でペーパーナイフを突き出す。この男がこれ以上近づくなら、刺すつもりだった。この男は屋敷中の人間を殺して回り、たった一人生き残ったわたしを殺そうとしている。皆殺しにしようとしているのだ。
 しかし次の瞬間には、わたしの手からペーパーナイフは弾き飛ばされていた。

「お前にはもっと似合う武器を探してあげる。あれはもう要らないよ」

 耳の後ろで声がした。目の前にいたはずの男の姿はもう見えず、代わりに背後に人の気配があった。

「行くよ」
「・・・行くって、どこに」

 震えそうになる声を必死に押し留めて、聞き返した。

「オレの家」

 男がそう言った瞬間、首筋に痛みが走り、視界はブラックアウトした。



 目が覚めたのは、天蓋のあるベッドの上だった。体を起こし、メイド服のままの自分の姿を見た。そのメイド服の白いエプロンに血の染みらしきものが付着しているのに気付いて、それからやっと目が覚める前の出来事を思い出した。
 辺りを見回す。豪奢な装飾の部屋だった。しかし、生活感はない。

「目、覚めたみたいだね」

 後ろから声がした。全く気配に気づかなかった。はっとそちらを見やれば、わたしの勤めていた屋敷の人間を殺して回った殺人鬼が、窓を背にして立っていた。窓の外は暗く、木のシルエットが月光に浮かんでいた。

「お前にはこれから花嫁修業をしてもらう。母さんも、一応はお前のことを認めた。母さんに習って、ゾルディックの人間になるんだ」

 男が言っていることの意味が、わたしにはわからない。ゾルディック?それは確か、クルルーマウンテンを本拠地とする、暗殺一家の名前ではなかったか?
「・・・わたしは一体どこにいるんです」

 胸の前でぎゅうっと手を握る。わたしの問いに、男は少しだけ目を見開いた。

「クルルーマウンテン。お前はもっと賢いかと思ったんだけどね」

 見込み違いだったかな?
 男は落胆も何も見えない無感情な声で言った。

「わたしはなぜここに連れてこられたんですか」

 男の瞳は揺るがない。黒一色の瞳。その奥には闇が広がるばかりで、何も見えない。

「母さんにそろそろ嫁を娶るべきだと言われたんだ。それにいい女を探して来いと。それでたまたま仕事の最中に君を見つけた。なかなかいい素材になりそうだから、殺さずに持って帰ってきた」
「・・・つまり・・・わたしは・・・」

 認めたくない。しかし男の話す言葉からは、それしか思いつかない。答えを言わないことで抵抗を示そうとしたわたしに、男は無情に告げた。

「お前はオレの妻になるんだ。そして子を産む。ゾルディックの人間になるんだ」
「・・・もしも嫌だと言ったら?」

 問うたわたしに、男は酷薄に言った。

「殺すよ。オレの妻にならないと言うなら、ここにいる理由がない」

 自分が予断を許されぬ立場だということを、わたしは理解した。生きていたいのならば、この男が言うとおりに、この男の妻となるしかない。

「・・・あなたの、名前は?」
「イルミ。イルミ=ゾルディック」

 是と言う代わりに問うた名を、彼はいとも簡単に答えた。「お前の名前は?」。今度は男が逆に問う。わたしは息を吸い込み、覚悟を決めた。

「カヤよ。・・・イルミ」

 男―イルミ―は無感情な瞳でわたしを見つめて、言った。

「これから君はカヤ=ゾルディックだ。よろしくね、カヤ」

 それがわたしの地獄の日々の始まりだった。



 最初の試練は、食事だった。イルミの父や母や祖父や曾祖父などの家族が揃う食事の席は居心地が悪かったけれど、出された料理は一流だった。見た目も味も申し分ない。殺し屋ゾルディックの人間に囲まれながら食べる食事は、味がしないほどかと思っていたのに、わたしの味覚は正常に機能して、美味しいと脳に伝えた。
 しかし、食事を始めて五分でわたしの体に異変が起きた。胃が痛い。異常なほど、燃えるように、胃が痛む。思わずスープを飲んでいたスプーンを離して腹を押さえたわたしに、隣のイルミが無感動な声で言った。

「残さないでよ。まだいくらも食べていないじゃないか」
「お腹が痛いの。ものすごくお腹が痛い」
「まだ少しの量しか入れてないんだから、食べなきゃ駄目だよ」

 ――少しの量?
「一体、何が入ってるの」

 わけがわからず胃を押さえたままイルミを見たわたしに、イルミは一欠けらも表情を変えずに言った。

「毒だよ。致死量じゃない。ほんの少しの毒だ。こんなもので苦しんでいたら、何もできない。さっさと食べるんだ、カヤ」

 さあっと顔が青くなっていくのがわかった。胃はどんどん痛みを増し、わたしは今にも吐きそうだった。

「食べるんだ、カヤ。全部食べ終わるまで、席を立つことは許さない」

 それとも・・・。イルミがちらりと母親を見てから、言った。

「死ぬかい?君が耐えられないというなら、殺してあげてもいいよ」

 わたしは必死で頭を振った。わたしとイルミ以外の人間は淡々と食事を続けている。わたしは痛む胃を押さえながら、スープスプーンを取った。

「そう、いい子だね」

 震える手でスープを掬って、飲み下したわたしを見てイルミが言う。吐き気を堪えて全ての食事を終えた頃には、他の人は皆席を立ってしまっていた。一人きり残された食堂で、わたしは涙を堪えて、手を握った。ぎゅっと唇を噛む。そうしないと、自分の舌を噛み切りそうだった。ここで生きるのと死ぬのと、どちらがいいだろう。死ぬ方がましかもしれない。そう思う頃には、堪え切れず涙が溢れていた。



 その次の試練は花嫁修業と称された、義母からの拷問だった。

「あなたは花嫁となるのですから、痕が残るようなものは避けるべきですわね」

 ゴーグルをかけ、瀟洒なドレスを着た義母は言ったが、実際には手首に縄で縛られた痕が残ったし、鞭で叩かれた肌は赤く染まった。悲鳴を上げるだけ上げて、「だらしがない」と義母に叱責される。もう死んでしまう。もう死んでやる。何度そう思ったかはわかならない。けれど彼らに屈服することはどうしてもできなかった。この家で生きることを決めたわたしの決意だけが、わたしを支える全てだった。



 三度目の試練は、イルミと寝ることだった。
 わたしはイルミと同じ部屋を宛がわれ、昼間の拷問の痕が見えないように、メイドたちにきれいに身支度をされた。通された部屋には、イルミがベッドに腰掛けて待っていた。

「じゃあ、始めようか」

 ドアの前で固まっていたわたしに歩み寄りながら、イルミは言った。胸の前で握った腕を取られ、ベッドのほうに引きずっていかれる。ベッドの上に投げ出され、その上にイルミが被さってきた。レースをふんだんに使ったネグリジェの裾から手を差し込まれ、足を撫でられる。ひっと体を竦めたわたしに、イルミはいつもの無感動な瞳で聞いた。

「処女なの?」
「どっちでもいいでしょう、そんなの」

 せめてもの虚勢で言ったわたしの頬を撫でながら、イルミは言った。

「まさか妊娠してやしないだろうね。最後に月経があったのはいつ?」

 かっと顔が赤くなる。思わず振りかぶった腕を、イルミはいとも簡単に止めて、「いつ?」と再度聞いた。掴まれた腕に力がこもる。痛いと声を上げたいけれど、それで事態が好転するとは思えない。

「・・・二週間前よ」

 顔を背けて言ったわたしに、イルミは息を溢して、腕を離した。

「じゃあ大丈夫だね。他に精子を入れなければ、お前はオレの子しか産めない」

 イルミはそれだけ言うと、わたしの首筋に顔を埋めた。うなじの側を舌先で舐め上げられて、息が詰まる。こんな男にいいようにされたくない。そう思うのに、体がいうことを聞かなかった。わたしはイルミに散々嬌声を上げされられ、泣いて懇願さえした。
 そんな屈辱的な夜が、幾夜も続いた。



 子どもができたのは、ゾルディック家で暮らし始めて半年が過ぎた頃だった。定期的にわたしの体を検診していた医師は、わたしの月経が止まったのを確認して、おめでとうござますと言った。

「ご懐妊です」

 わたしの検診にいつも付き添っていたイルミは、「そう」といつもの無感動な声で言って、それからわたしに言った。

「よかったね、カヤ。これで母さんも喜ぶ。花嫁修業も、少しは優しくなるかもしれないよ」

 全然よくないと思っていたわたしは、後ろに立っているイルミを見上げた。わたしを見ていたイルミの瞳は、やっぱり何も見えない黒色だった。



 十月十日の間は、少しだけ義母の拷問が緩くなった。ショックで子どもが堕胎するようなことがあってはいけないと思ったらしい。けれど、少し緩んでも拷問が苦痛なことには変わりなかった。
 子どもができたのがわかってから、わたしとイルミは形ばかりの結婚式を挙げた。と言っても、わたしがウェディングドレスを着て、イルミがタキシードを着て、写真を一枚撮っただけなのだけれど。昔ウェディングドレスに憧れていた頃のわたしは、こんな形でこのドレスを着ることになるなんて、これっぽちも思っていなかっただろう。憧れたウェディングドレスはとてもきれいだったけれど、わたしの心は全く晴れなかった。



「名前を決めないといけないね」

 お腹が大きくなるにつれて、イルミは少しだけわたしを労わるような素振りを見せるようになった。

「男の子だろう。どんな名前がいいかな」

 ベッドにごろりと横たわって、名づけ辞典を捲りながらイルミは呟く。

「どんな名前でも、あなたに任せるわ」

 わたしは慎重に布を縫いながら、言った。産まれる子どものために、手袋を作っているところだった。赤ん坊が小さな爪で自分の肌を傷つけないようにするための手袋。例え父親がこのイルミであっても、子どもに愛着が湧かないわけではなかった。

「産まれるまでに、考えておくよ」

 そう言ってイルミは本を閉じた。

「そろそろ寝よう、カヤ」

 そう言って、イルミがベッドから起きあがる。イルミはわたしが広げていた裁縫道具を片付けながら、ふとわたしに言った。

「丈夫な子を産んでね」
「ええ」

 頷くと、イルミの顔は少しだけ満足そうな表情になった気がした。しただけだった。裁縫道具を片付けてしまうと、イルミは電気を消しに行った。わたしはベッドへ向かい、シーツの中に入る。

「消すよ」

 電気は消され、部屋は暗くなる。イルミの影が迷いなくベッドに近づいてきて、わたしの隣に滑り込む。腹を圧迫しないよう上向きに横たわるわたしの膨れた腹を、イルミの手が撫ぜた。

「丈夫な子が産まれるといい」

 撫でられる腹は、心地よかった。



 子どもを産む痛みは、義母の拷問に比べれば生易しいものだった。産まれた男の子は皺くちゃで猿みたいだったけれど、愛しいと素直に思えた。抱いた子どもを見て、ゾルディックの家族は口々に「おめでとう」と言ってくれた。この家に来てから、初めて嬉しいと思った。
 イルミは子どもに『トルテ』と名付けた。ケーキみたいな名前ねとわたしが言うと、イルミはそう言えばそうだねと、やっぱり無感情に言った。
 子どもに乳をやる。そのときは仕事が入っていない限り、イルミはわたしと子どもを見ているようになった。何を思ってわたしたちを見ているのかわからなかったけれど、イルミが見ていても不思議と嫌な気持ちにはならなかった。だから安心していた。イルミがどういう人間だったか、忘れてしまっていた。



 イルミが行動を起こしたのは、子どもが離乳食を食べ始めるようになった頃だった。「オレがやるよ」。そう言って離乳食を持ってきたイルミは、子どもをあやしながら、子どもに離乳食を食べさせた。

「ほら、美味しいだろう?」

 そう言いながら子どもに離乳食を食べさせるイルミは、全く普通の父親に見えた。わたしは子どもとイルミから少し離れたソファにかけて、その様子を見ていた。幸せだった。信じたくなかったけれど、わたしはそのとき幸せだった。しかし次の瞬間に、それが大きな間違いだったことに気付いた。
 ぎゃあああんと子どもが泣き始めた。どうしたのかと思って、ソファを立ち、ベビーベッドに近づく。

「食べないと駄目だろう」

 イルミは淡々と言って、子どもの口にスプーンを運ぶ。子どもはもがくように暴れ、両手両足を無茶苦茶に振る。

「どうしたの?」

 わたしが近づいていって聞くと、イルミは「離乳食をあげているだけだよ」と言った。

「ほら、トルテ。食べるんだ」

 そう言ってイルミは子どもの口にスプーンを押し付ける。

「今はあげなくてもいいんじゃない?泣きやんでからにしましょうよ」

 わたしが言ったのに、しかしイルミは首を振った。

「ちゃんと食べないと駄目だ。じゃないと、ゾルディックの子にはなれない」

 その言葉を聞いて、わたしははっと閃いた。イルミがわたしをこの家に連れてきたときにしたこと。それを思い出した。

「イルミ。まさか毒が入っているんじゃないでしょうね・・・?」

 恐る恐る聞いたわたしへの返答は、簡潔だった。

「入ってるよ」

 わたしは何を考えるよりも早く、イルミの手から離乳食の入った皿を叩き落としていた。カランと器が床に落ちる。イルミが、黒い瞳で、わたしを見ていた。

「この子はゾルディックの子だ。こうやって育てるんだ」
「まだ赤ん坊よ?抗体だってない!死んだらどうするの!?」

 激昂して言ったわたしに、イルミのほうは至って冷静だった。

「オレは死ななかったよ。他の兄弟も死ななかった。少しずつ与えれば、体が慣れる。早いうちからやったほうがいいんだ」
「早いうちにって、そんなこと・・・」

 怒りに目の前がちかちかする。イルミの行動の意味がわからなかった。どうしてそんなことをするの?自分の子どもに、どうしてそんな仕打ちができるの?わけがわからない。わけがわからなかった。

「この子はゾルディックの子なんだ」

 再度イルミは言った。

「暗殺者として育てるために産まれた子だ。その訓練をするのに、何の疑問があるの?」
「・・・それでも、わたしの子だわ・・・」

 やっとそれだけ言ったわたしに、イルミは瞳を瞬かせた。

「オレの子でもある」
「わたしは許さないわ。暗殺者に育てるなんて、そんなこと、許さない」
「なら、君が死ぬしかないね」

 あっさりとイルミは言った。

「君がこの子を暗殺者にさせないと言うなら、オレは君を殺すしかない。邪魔なものは排除するように育てられたんだ」

 そう言われて、わたしは今までの怒りが一瞬で消え去っていくのを感じた。殺す?殺すと言った?わたしを?イルミの妻であるわたしを?わたしを殺すの、イルミ?
「子どもも産まれた。オレ一人で育てられないわけじゃない」
「大事じゃないの?この子が、大事ではないの?」

 震える声で聞いたわたしに、イルミはやっぱりいつもの無感動な目で言った。

「大事だよ。だから大事に死なないように教育する。それが必要なことだから」
「・・・愛してないの?」

 わたしの声はもう、囁くようなものだった。イルミは真っすぐわたしを見て、言った。

「情は教育に必要ない」

 幸せだと知らないうちに信じていた。そのときわたしは初めて自分がイルミを愛していることに気付き、同時に自分がイルミに愛されていないことを悟った。悲しみはなかった。ただただ、虚しかった。



 毒を与えられて育った子どもは、それでも順調に育っていった。はいはいができるようになり、掴まり立ちができるようになり、一人で歩けるようになった。少しだけ喋れるようになった。初めての言葉が『イルミ』だったのには、笑っていいのか泣いていいのかわからなかった。わたしがイルミのいないところで、子どもを抱きながら、彼の名前を呼んでいたから覚えてしまったのかもしれなかった。



 天気が良かったので、わたしは子どもを連れて庭に出た。イルミは仕事でいない。最近、イルミは少しずつ子どもに拷問の訓練をするようになった。袖から覗く腕や足には、鈍く打たれた痕が見える。少し向こうで遊ぶ子どもを見ながら、わたしは自分の中の諦めを眺めていた。イルミが暗殺者を育てるために子どもを必要とし、それを産む女を必要としていたのは、もはやわかりきった事実だった。「丈夫な子が産まれるといい」。そう言ったのは、子どもへの愛なんかではなくて、冷徹な暗殺者としての言葉だったのだ。裏切られたという気持ちは不思議と起きなかった。イルミは裏切ってなんかいない。わたしが勝手な期待をしただけだった。

「ま、んま」

 庭先に咲いた花を摘み取って、子どもが笑う。「トルテ」。笑い返して、子どもが覚束ない足取りでこちらに近づいてくるのを見ていた。

「まんま」

 子どもがよちよちと歩いてくる。大丈夫かしら、転ばないかしら。少しひやひやしながら見ていると、案の定子どもは石に躓いて、体勢をぐらつかせた。慌てて駆け寄ろうとする。間に合わない。転んでしまうだろう、そう思ったとき。

「危ないな」

 転びかけた子どもの腹に腕を回して抱きとめながら、イルミが言った。

「君も何をぼうっと見てるんだ。転ぶところだったじゃないか」

 イルミが少し怒ったように言う。わたしは呆然として、ただ呆然として、イルミと子どもを見ていた。

「・・・どうして、抱きとめたの?」

 わたしの問いに、イルミは眉を顰めた。

「転びそうだったからに決まっているじゃないか」
「転びそうだったら、なぜ抱きとめるの?」

 イルミはわけがわからないと言う顔をしている。ねえ、なぜ?わたしは思った。なぜこの子を抱きとめたの。

「転んだ痛みなんて、何ともないわ。あなたがこの子にしている、拷問の痛みに比べたら。なぜ抱きとめたの」
「転びそうになった子を放っておく親なんていないだろう」

 ますます不可思議そうに、イルミは言う。わたしは思わず口元を押さえる。ねえ、イルミ。それは。それは。
 ――あなたが必要ないと言った、愛情ではないの?
 心の中で問うた。聞いたらイルミはきっと否定するから、聞けなかった。だけど答えはわたしの中にあった。

「そうね。あなたは父親だものね」

 涙が頬を伝っていくのがわかった。それを見たイルミが、微かに狼狽するような表情を見せた。初めて見た、彼の人間らしい表情だった。わたしは堪え切れず、両手で顔を覆って涙を流す。「カヤ」。イルミがわたしを呼んで、こちらに近づいてくる足音が聞こえる。

「何泣いてるの、カヤ」

 呆れたような声でイルミが言う。わたしは顔を上げて、イルミと、イルミが抱き上げた子どもを見た。

「あなたの中に、不必要なものが見つかったからよ」

 きょとんとした顔でわたしを見るイルミの顔は、彼の腕の中の子どもとよく似ていた。

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