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命の更新

 一回目に子どもができたとき、わたしはフェイタンに腹を思いっきり蹴られた。腹を抱えて蹲ったわたしを無理矢理仰向けにして、フェイタンは何度も何度もわたしの腹を蹴り付けた。わたしの悲鳴を聞いたマチが様子を見に来て、慌ててクロロを呼んできてくれるまで、フェイタンはわたしの腹を蹴り続けた。
 二回目に子どもができたとき、わたしは真っ先に医者へ行った。闇医者だ。モーニング・アフター・ピルをいつも常備していたけれど、ちょうどそのとき切らしていたのが運のつきだった。医者のにやけた「どうされますか」という問いに、わたしははっきりと「中絶します」と答えた。
 三回目に子どもができたとき、雪の降る日だった。毎日規則正しくピルを飲むのを忘れがちなわたしは、それでも寝た後、必ずモーニング・アフター・ピルを飲んでいたのだけど、その朝、自分の中で何かが結ばれたことが、夢のようにくっきりとわかった。



 わたしはベッドを抜け出して、床に散らばった服を見た。フェイタンはいつもわたしの服を無茶苦茶にしてしまう。そのときも着れる服なんて一枚も残っていなくて、わたしはベッドの毛布を裸の上に巻きつけた。カーテンも引いていない窓の外では、ひらひらと雪が降っている。まだ猫のように丸まって眠っているフェイタンに分厚いキルトを被せて、わたしは階下に降りた。下の階ではフェイタンに惨殺されたこの家の住人が、血をあちこちにへばり付かせて、死んでいた。老人とその妻、それに一匹の犬だった。犬は黒い毛並みのラブラドール・レトリバーで、優しくて賢そうな目をしていた。わたしはそれぞれに近づいていって、彼らの眼を閉じてやる。濁った彼らの瞳は、わたしに瞼を閉じられたことで、やっと役目を終えて安らげたように見えた。
 暖炉には燃え滓の黒い炭が残っている。火の気は感じられない。わたしはひとつ身震いして、外へ続くドアを開けた。二階の窓から見るよりも、ずっと雪はこんこんと振っていた。空は薄い薄い灰色で、雪と同化してしまいそうな色だ。家の外に広がる針葉樹の森は、天辺のほうから雪を積もらせている。
 玄関の小さなポーチの、まだ降る雪から身を避けられるぐらいの場所で、わたしはしゃがみ込んだ。冷たさはあっちこっちから染みてきて、隠れられそうにない。少しでも温もりを逃さないように、わたしは肌をぴったり合わせて蹲る。早くピルを飲まなければならない。二十四時間以内の服用で九十五パーセント、七十二時間以内の服用で七十五パーセントの効果があると言われている。わたしは、朝起きたらすぐに飲むようにしていた。けれど服用後に子宮内膜が一掃される出血が確認できないまま、またフェイタンと寝たりするので、わたしがあれ以来妊娠していないのは、奇跡に近い。
 フェイタンとの間に子どもが欲しいと思ったことはない。一回目の妊娠だって、産むことを期待してフェイタンに告げたわけではないのだ。ただ、できたと言っただけ。フェイタンのあの行動は、全くのわたしの想像外のことだった。
 いや、あるところでは、フェイタンの行動は想像がついていたのかもしれない。子どもを殺すときには、一番先か一番最後かに必ず選んで殺していたフェイタン。わたしとしかセックスをしなかったフェイタン。セックスをするときも、すごく嫌々するように乱暴に抱くフェイタン。
 フェイタンは子どもを恐れていた。多分一番恐れているのは、自分の血を引いた子どもなのだろう。なのにセックスはするなんて、矛盾もいいところだ。わたしは毛布を抱き込んで、ふっと笑った。なんで彼はセックスをするんだろう。そう考えたけれど、わたしにはわからなかった。クロロならわかるかもしれない。でも人の心を解釈するなんて無粋な真似をフェイタンが許すとは思えなかったし、クロロがそんな無粋な真似をするとも思えなかった。

 二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント。

 それでも妊娠する確率は残るのだ。予定日に月経がなかった時点で、わたしは妊娠検査薬を使う。それで陰性と出て、その後月経があれば何もしない。それでも、その後月経が二カ月なかった時点で、わたしは医者へ行く。闇がつく医者へ。

 二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント。

 絶対という言葉は存在しないのに、わたしがなんだかんだとピルを服用しないのは、アングラな自分の生業だけが理由ではないと思っていた。確かに、定期的に薬を飲めない。だけど、本当にフェイタンの子を妊娠したくないなら、無理矢理に時間を作ってだって飲むだろう。それにフェイタンにコンドームを付けてくれと頼むかもしれない。結局それをしないのは、わたしの甘えであって、フェイタンの甘えだ。お互いに甘やかしあって、それでいて子どもができたら困ると思っている。

 二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント。

 わたしが二十四時間以内にモーニング・アフター・ピルを飲んでも、たった五パーセントの確率で子どもができることはある。そんな確率でできた子どもを、わたしはまた堕ろすのだろうか。フェイタンはわたしの腹を蹴るだろうか。

 二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント。

 フェイタンがどうしてそんなに子どもができることを恐れているか、きっとわたしはわかっている。それでいて、彼に子どもを持ってほしいとも思っている。そして彼の子どもを産むのが自分であったらいいと、思っている。わたしは多分、心の一番底の部分では、フェイタンの子どもが欲しいのだ。

 二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント。

 フェイタンは自分がどうしてそんなに子どもを恐れているのかわかっているだろう。そしてそれでいて、子どもを欲しいと心の中では思っているかもしれない。そしてそれを産むのがわたしであったらいいと、思っていてくれるだろうか。

「二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント」
「何が」

 ばさっと頭の上から何かが落ちてきた。重たいそれを掻き分けて上を見ると、上半身裸でフェイタンが立っていた。開けっ放しだった家の中には、吹きこんだ雪が散っている。

「お前、変態か。裸で雪に降られて、何がしたい」
「フェイタンだって、半分裸じゃない」

 そう言うと、フェイタンはフンと鼻を鳴らした。「フェイタン」。わたしは彼を呼んで、被った毛布とキルトを広げる。フェイタンは動かない。「早く」。急かすと、やっと彼はわたしの隣に屈んだ。
 フェイタンの肩まですっぽり覆って、毛布とキルトを着込む。ダブルサイズの寝具は大きくて、温かくて、強靭だった。きっとあの老夫婦の冬の夜をずっと守ってきたのだろう。ずっしりとした重みに、そういう自信があるように感じられた。

「昔、フェイタンにお腹を蹴られて流産したことあったね」

 わたしの言葉に、フェイタンは何も答えなかった。ちらりと横を見ると、フェイタンは地面に積もっていく雪をただ見ている。

「二回目に妊娠したときはね、ごめんね。何も言わずに、中絶したの」
「お前、見せたのか」

 フェイタンがわたしのほうを見た。何をと思ってわたしは首を傾げる。フェイタンはいつもの鋭い目で、わたしを見ていた。

「ワタシ以外の男の前で、足、開いたのかと聞いている」

 そう言われて、わたしは少し笑ってしまった。フェイタンの目線から逃れて、空を見上げる。空は高いようで、やっぱり低くも見えた。雪の日はいつもそうだ。空が降ってきそうだと思う。

「そうしないと中絶できないじゃない」

 わたしは笑いながら言った。それに対してフェイタンが何か行動を起こす前に、わたしは素早く言ってしまうことにする。

「三度目は、どうしようか」

 腹を思いっきり蹴られる覚悟はあった。雪の中に叩きつけられる覚悟も。それを思って目を閉じたわたしに、けれど何も衝撃はやって来なかった。不思議に思って、隣のフェイタンを見る。フェイタンは少し驚いたような顔で、わたしを見ていた。

「妊娠したのか」

 フェイタンの問いに、わたしは答えた。

「二十四時間以内で九十五パーセント、七十二時間以内で七十五パーセント」
「何ね、それ」
「わたしがこの後ピルを飲んだとして、避妊できる確率」
「・・・飲まなかたら」

 わたしの答えに、注意深くフェイタンが聞いた。わたしはしばらく答えなかった。また空を見上げる。

「きっと、妊娠するよ」

 やっとそう言ったとき、どれだけの時間が経っていたのかわからなかった。ただ、泣きだしそうだと思った。フェイタンに腹を蹴られても、さっさと堕ろせと言われても、わたしはきっと少しだけ泣くだろう。少しだけしか泣かないだろう。隣のフェイタンが身動ぎする。立ち上がるようだ。毛布とキルトの中から出て立ち上がった彼は、じっとわたしを見た。

「お前、馬鹿か」

 フェイタンがわたしを見て言った。下から見上げているので、フェイタンの表情がよく見えた。フェイタンのほうだった。泣きだしそうな顔をしているのは、フェイタンのほうだった。

「何をわざわざ、体、冷やすことしてるね」
「・・・雪がきれいだったから」

 わたしの答えに、フェイタンはぐっと唇を噛みしめた。

「お前、馬鹿ね」

 断定の口調でフェイタンが言う。わたしは立ち上がって、毛布とキルトを広げる。それでフェイタンの体を包み込むと、わたしは彼を抱きしめた。

「そうだね、馬鹿だね」

 彼の耳元でそっと囁く。フェイタンの震える体に、自分の体をぴったりとくっつける。温もりが逃げないように。フェイタンはただ、わたしに抱きしめられるままになっていた。堪えるように何度か息が漏れて、遂に彼は観念したかのように、嗚咽を漏らし始めた。そんな彼の首筋に、そっと腕を回している。フェイタンは絶対に謝らないし、わたしに子どもを産めとは言わないだろう。だけど、わたしにはわかった気がした。あの頃より、わたしたちがちょっとだけ大人になって、何かを許せるように、思いやれるようになったこと。フェイタンが何度もわたしを求める意味。わたしがフェイタンを受け入れる意味。
 殺された老夫婦と黒いラブラドール・レトリバーと、殺したフェイタンとわたしとその腹の中の卵。矛盾を抱える世界は今日も回って、更新する。殺し殺され、産まれ死に、人を助け、そしてまた殺す。何度も何度もそれを繰り返す世界の一端に、わたしとフェイタンが加わっていけないはずがないのだ。
 苦しそうに泣くフェイタンの頭を撫でながら、わたしは親になれるだろうかと、わたしを産んだ人のことを思った。それは遠い昔のことで、とても思い出すのは困難に思えたけれど、親とは、泣いたときに頭を撫でてくれた人のことなのかもしれないと思った。そう思えば、思い浮かべることのできる人は、幾らか、いる。
 それはきっと、フェイタンにも。
 わたしも母親になれたらいいと思いながら、わたしは泣くフェイタンの手を引いて、殺された老夫婦たちの家に入った。

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