月の縁(moon edge)
月蝕があるんだと言ったのはクロロだった。月蝕がどういうものか知らなかったわたしたちは、きょとんとして彼を見た。そんなわたしたちを見て、クロロはふっと笑った。見てみればわかるよ、と。
月蝕があるのよとわたしが言ったとき、フェイタンは拷問具を磨いている最中で、胡散臭そうにわたしを一度睥睨したあと、何も言わずにまたテーブルの上の拷問具に目を戻してしまった。
「フェイタン」
わたしはもう一度呼んだ。
「月蝕があるんだってば」
「だから、何ね」
フェイタンが住処としている洋館は古く、電気も通っていない。蝋燭の元にぼんやりと浮かぶ様々な拷問具は、一層気味悪く見えた。
「だから、一緒に月蝕を見に行こう」
「なんで行く必要があるか」
ソファにかけて拷問具を磨くフェイタンの返事は素っ気ない。「フェイタン!」。わたしは少し大きな声で彼を呼んだ。
「一緒に月蝕見に行くの 。ね、月蝕なんて数年に一回しかないんだよ?見とかなきゃ損だよ」
「ワタシはここから離れるのが損ね」
「そんなこと言わないでよう」
わたしはフェイタンの服の袖を掴んで、言った。フェイタンは鬱陶しそうにそれを払おうとしたけれど、わたしは放さなかった。無言の攻防が数分続く。結局折れたのは、フェイタンのほうだった。
「着替えてくる。お前はその間にこの拷問具磨いておけ」
「わかった!」
わたしは元気よく返事して、拷問具をひとつ手に取った。いっぱい棘が付いている。グロテスクなそれを見て顔を顰めたあと、部屋を出て行こうとしていたフェイタンの背中に言った。
「逃げたらどこまでも追いかけて行くからね。それと服は目立たないものでよろしく」
フェイタンは「フン」と鼻を鳴らして部屋から出て行った。
十分後、部屋にフェイタンが戻ってきた。黒いパーカーに白いTシャツ、黒っぽいジーンズにスニーカー姿の彼は、どこにでもいる普通の青年に見えた。後ろ手に髪を纏めようとしている。その仕草をじっと見守っていたら、「磨き終わたのか」と鋭い目で睨まれた。
「い、一応」
わたしが答えると、フェイタンはこちらに近づいてきて、わたしの座っているソファの後ろから手を伸ばして、拷問具をひとつ手に取った。ほんの少しだけ香った血錆の匂いに、わたしは眩暈を起こしそうになる。
「これではワタシ、結局後でやり直す羽目になるね」
そう言って、フェイタンは拷問具をテーブルの上に戻す。ごとんと音がした。「行くんじゃないのか」。フェイタンが言った。「え?」。わたしが顔を上向けると、ソファの後ろでフェイタンがわたしを見下ろしていた。
「行くと言てなかたか。それとも行かないのか。そのほうが、ワタシ、助かるね」
「い、行く!行くよ!」
わたしは慌てて言ってソファから立ち上がった。フェイタンはそれを見て、また「フン」と鼻を鳴らした。
車に乗り込むとすぐにフェイタンは俯いて目を瞑ってしまった。眠るつもりなのだろうか。わたしは声をかけなかった。いつもより丁寧な運転で夜の道を走り、高速に乗る。向かうのは、隣のまた隣の市の海だった。
車内は暑くも寒くもない。一度だけサービス・エリアで車を止めて、コーヒーを買って戻ってきたら、フェイタンは顔を上げて窓の外のライトを眺めていた。
「起きたの?」
わたしが聞くと、フェイタンは「最初から寝てないね」と素っ気なく言った。
「コーヒー買ってきたよ。ブラックでいいんだよね?」
わたしの問いに何も答えず、フェイタンはわたしの差し出したコーヒーの缶を取った。カシンとプルトップを押し上げて、缶を開ける。熱くて苦い液体を一口飲むと、それを車のドリンクポケットに置き、わたしは車を発進させた。フェイタンは窓の外を眺めたまま、手の中で未開封のコーヒーの缶を弄んでいた。
高速で車を走らせていると、ごうごうと音がする。ライトの光が遠くに見え、次の瞬間には過ぎ去っている。人は結局、どんなに速いスピードで移動しようと、歩く速さでしか過ぎていく風景を認識できないんだと言ったのは、わたしに車の運転を教えたクロロだった。認識にずれがあるから、車を走らせるときは周りに気を配らなければならない。クロロはそう言った。わたしたちは人を殺すことなんて何とも思っていなかったけれど、それは流星街の中での話であって、外に出ればそうではないとそのときもう知っていた。交通事故は面倒だぞと、クロロはいやに真面目な口調で言った。
ポンコツの車をみんなで交代しながら走らせた後、わたしたちは瓦礫の上に登った。クロロが月蝕があるんだと言ったから。月蝕がどういうものか知らなかったわたしたちはわくわくして、瓦礫の上に登った。クロロはどこからか拾ってきて修理した腕時計を見た。もうすぐだぞと言う。そのときわたしの隣には、フェイタンがいた。
着いた海には、ぱらぱらと人影があった。わたしはぎりぎりまで海岸に車を近づけて、路上駐車した。そういう車は他にも何台かあって、みんな考えることは一緒なんだなあと思った。
車から降りて、少し冷たい海風に煽られる。砂浜に下りて行きながら、フェイタンを手を取ると、フェイタンは意外にもすんなりと手のひらをわたしに預けた。手を繋いで、砂の上を歩いていく。そういうカップルはわたしたちの他にもいっぱいいて、でもこんなことしているのに恋人同士じゃないのは、わたしたちぐらいだろうなと思った。どの人たちの群れもテリトリーを守るように、一定の距離からは他人に近づいていかなかった。さり、さりと、スニーカーの裏で砂が鳴っている。わたしたちは波打ち際まで歩いていって、黒い海に浮かぶ月を眺めた。
「いつから始まるのか」
しばらくそうして海の月を眺めていると、囁くような声でフェイタンが聞いた。わたしは手を繋いだまま左腕を持ち上げて、腕時計を確認する。
「もう少しだよ。本当にもう少し。あと五分にも満たないくらい」
そう言うと、フェイタンは返事もせずに黙った。わたしも特に言うことがなかったので、黙っていた。そのうちに五分くらい経って、徐々に月が欠けていくのが見えた。
段々と欠けていく月に、みんなはっと息を止めた。それは異常な出来事だった。月は日によって満ち欠けするけれど、それがこうやって欠けていくのを見るなんて、初めてだった。わたしの前で、マチがパクノダの服の裾を掴んだのが見えた。ふと、わたしの指の先に何かが触れる。なんだろう、そう思ったときには、腕を引かれていた。
瞬間的に近づいて、離れる顔。そのときフェイタンの瞳には月は映っていなくて、わたしだけがいた。わたしの瞳にも、フェイタンしか映っていなかった。
フェイタンはわたしの腕を放すと、何もなかったかのようにまた空を見上げた。わたしもそれに習って、空を仰いだ。月はもう半分以上も欠けていた。マチが震える声でこの現象の原因をクロロに問うていた。クロロが少し面白がっているような口調でそれに答える。クロロが月蝕が起こる仕組みを説明していた。その内容を、わたしはもう覚えていなかった。
顔が近づいて、離れる。フェイタンの瞳に月は映っていなくて、ただわたしだけが映っていた。わたしの瞳にも、フェイタンだけが映っていた。傍らの月は欠けて、きっともう細い縁を残すだけになっているだろう。二人見つめ合いながら、わたしたちはその細い縁の上を歩いているようなものだと思った。恋人でもなく、友人でもない。細い細い月蝕で欠けた月の縁を、二人で歩いている。どちらかに落ちたら、それでお終い。片方に落ちればフェイタンは最も苦しい方法でわたしを殺すだろうし、もう片方に落ちればもう二度と二人で月蝕を見に行くなんてしないだろう。
「フェイ、タン」
わたしは彼を呼んだ。フェイタンはわたしを見つめたまま、わたしの手を放す。わたしたちはお互いに、どちらかに落ちることを望んでいるわけではないのだ。
ただ、二人で月の縁を歩きながら、欠けていく月を見ていたかった。
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