注意事項
- 当作品は村上春樹著『ファミリー・アフェア』のパロディです。
- クロロ=ルシルフルがモブ女と無節操に致してます。
スタンドアローン
I am standing alone as a honest human.
アジトにしている廃墟でノブナガやらウヴォーやらフィンクスやらと楽しく飲みかわしていたら、「クロロ!」と怒りに満ちた声がオレの耳朶を強かに打った。煽ろうとした杯を止めて振り向けば、カヤが真っ赤な顔をしてこちらを睨んでいる。「こんな遅くに来たのか」。オレは渋面を作って、彼女を見返す。「ちゃんと『テレポーテーション』で来たわよ」。彼女は怒りの表情を崩さないまま、言った。カヤは座軸から座軸への移動という念能力を持っているのだ。
「それよりもクロロ。わたしのほうこそあなたに聞きたいわ。どうしてまだこんなところで酒なんか飲んでるわけ?」
つかつかと彼女は歩み寄ってきて、瓦礫にかけたオレを見下ろす。「なぜって・・・」。オレはあまりにも自明のことに首を傾げながら答えた。
「いい酒があったんだ。ウヴォーが取ってきた。そりゃ、飲まないわけにはいかないだろ?」
「あなたは!」
カヤは苛立たしげに歯を食いしばって、オレを睨んでいる。「明日の予定をすっかり忘れてしまったみたいね」。「何だっけ?」。オレがとぼけてみせると、カヤは一層眉間の皺を深くした。
「明日はあの人と一緒に昼食にしましょうって言ってるのに!」
「あの人って、誰だっけ?」
「クロロ!」
カヤがあまりに鋭く叱責を飛ばすので、周りの奴らも迷惑そうな顔をし始めた。そりゃそうだ。オレだったら、「外でやって来い」って言うね。だって、読書の為に静寂を好むクロロ=ルシルフルだからさ。その点、こいつらはそこまで静寂を愛してはいないんだろう。
「嘘だよ。お前の婚約者に会えばいいんだろ?そんな砂糖を吐きそうな真似、絶対に嫌なんだが、お前のこと愛してるから承諾したんだ。それぐらいわかってほしいね」
「白々しい。それに『お前』っていうのやめてっていつも言ってるわ。わたしはあなたの年老いた妻じゃないのよ」
カヤは鼻息と共に吐き捨てた。「『君』の婚約者に会えばいいんだろ?」。オレは律義に訂正した。最近、彼女は『お前』と呼ぶと妙に怒るのだ。つまり距離感の問題なんだろう。『お前』ではまるで所有物で、近すぎると彼女は思っているのかもしれない。いや、カヤはどちらかといえば感覚的な人間だから、そこまで考えていないのかもしれない。どちらでもいいことなのだが。
カヤはオレを見下ろしたまま、腕を組む。カツカツカツと靴の先で地面を叩く。苛立っているときの彼女の癖だ。
「『君』、その癖やめないか?品がなく見えるぞ」
カヤはさっと顔を赤くして、地面を叩くのをやめた。
「こんなところで酔いつぶれるような人に言われたくないけどね。あなたに騙される女の子たちに、その姿見せてあげたいわ」
「いやに絡むね」
ひょいと首を竦めて、彼女の鋭い目線から逃れた。「生理か何か?」。「最ッ低!」。ヒールの爪先が飛んでくる。オレはそれをぎりぎりで避けながら、「何を恥ずかしがるの?」と問い返した。
「何を今更気にするんだ?オレは『君』の生理がいつ始まったかだって知ってるのに。『あそこから血が出るの。死ぬかもしれない』って『君』がオレの袖を泣きながら引っ張ったこと、ちゃんと覚えているよ」
「なぜそんなことをここで言えるの?あなたにはデリカシーってものがないの?」
「どうやら生まれつき欠如しているようだな」
周りで地蔵のように大人しくしている連中三人を見回して言うと、彼女の眉が鬼のように釣り上ったので、オレは大人しく押し黙った。
「あなたって昔からそう。本当に、デリカシーってものがないのよ」
カヤはぎゅっと眉を顰めて言った。「例えば?」。オレが挟んだ口に彼女は一瞬勝ち誇るような顔をして、それから言った。
「例えばね、マスターベーションの後の片づけってしないでしょ、あなた」
「マスターベーション?」
オレは驚いて聞き返した。
「そうよ。いつも丸めたティッシュをそこら辺に置いておくじゃない。誰が片づけてると思ったの?妖精さん?そういうのって、すごくデリカシーに欠けてると思うのよ」
「・・・以後、気をつける」
オレはオレを見つめる三つの視線に耐えながら、言った。
「そうしていただけるとありがたいわね」
彼女は素気無く言い放ち、「とにかく」と再度オレを睨みつけた。
「早く帰って寝てちょうだい。あなたがしつこくベッドの中で惰眠を貪っていたせいで、彼との待ち合わせに遅れたなんてことになったら、立場ないでしょう?」
「善処するよ」
オレは肩を竦め、ため息を落とした。「うんざりしてるのはこっちなのよ」。カヤは憎々しげに言い、それからこれ以上言いあうのは不毛だと思ったのか、「帰るわ」と踵を返した。
「言い飽きた文句だが、こんな時間に一人で・・・」
オレが慌ててその背中に声をかけると、カヤはもう呆れたような顔をして振り返った。
「あなた、わたしを何だと思ってるの?プロハンターよ。夜道で変質者に会ったって、ちょん切るぐらいのことはできるわよ」
「だがヒソカのような奴なら・・・」
「じゃあ、あなたが一緒に帰ってくれるの?そうじゃないでしょ?無理に大人ぶらなくていいのよ。あなたって結局そういう人なの。もうちょっとましな考え方をして、ましな生活をしようって心が全くないのよね。いつまで経っても子どもみたい」
カヤは再度ため息と共に首を振り、今度こそオレに背を向けた。歩き方や後ろ姿がパクノダに似てきたなと思った。
カヤが行ってしまってからも、オレたちの輪には沈黙が下りて、そして明らかにその原因であるオレは、居心地の悪さに遂に立ち上がった。
「女のところでも行ってくる」
そう言い捨てて、歩きだす。「いいのかよ、カヤは」。フィンクスの声が追いかけてきたが、「そんなに時間かからねえよ。なんせ早漏だから」としか返事しなかった。ああ、あの酒、本当に美味かったんだがな。
カヤがオレのことをそういう風に思うようになったのは、いつ頃からだっただろう。流星街にいた頃や、彼女がハンター試験に受かって一緒に暮らし始めた頃は、そんな風に考えていなかったと思う。彼女は彼女なりにオレの刹那主義的な生き方を面白がって一緒になってやっていたし、また憧れていたと思う。少なくとも、オレはそう感じていた。
あの婚約者と付き合い始めてからだ。オレはアストンマーチンDBS V12のドアロックを開けながら、そう考える。艶やかな黒のそのスポーツカーのシートに沈みこんで、オレは携帯電話を取り出した。かちかちといじって、目に付いた名前を開く。住所を確認するが、そんなに遠くはない。コールしながらもしかし実は、相手の顔が思い出せなかった。だが金髪美人のフォルダに入っている番号だったから、外れはないだろう。オレの審美眼はいつでも一流である。ちなみにフォルダ名は他に、『黒髪可愛い系』と『美人だが雑多』と『名器』、ついでに『団員』がある。本当はパクノダを『金髪美人』のフォルダに入れたいところだ。シズクは『黒髪可愛い系』。マチは『美人だが雑多』。旅団員の女性はみな麗しくお陰で仕事も捗るので、いい事である。
スリーコール目で相手が電話に出た。もう十一時も回っているのに、律義なことである。
「クロロ?こんな時間になあに?」
「飲みに行かないか?」
「もう夜中の十一時よ」
相手は非難がましく言った。
「もう化粧も落としちゃったし、お風呂にも入っちゃったわ」
「見たいな、君の湯上り姿」
彼女は少し笑って、「エッチね」と囁いた。
「オレ、今少し離れた場所にいるんだ。今から飛んでいくから、その間に準備できるんじゃないかな?」
「そんなにわたしがいいの?」
「飛べるくらいには、君に会いたいよ」
「わかったわ」
彼女は笑い声と共に通話を切った。オレは助手席に携帯を放りだして、車のエンジンをかける。ぶうんとアイドリング音が暗闇に響いて、きっと今頃ノブナガ達はオレのマスターベーションネタで盛り上がっていることだろうと思った。
どうも釈然としない。運転しながら、オレは思う。オレはカヤのことを二十年近く知っている。流星街で出会ったときから、オレたちは一緒にいたのだ。さっきも言った通り、オレは彼女の生理がいつ始まったかを知っているし、それの対処方法についてだってオレがレクチャーしたのだ。彼女がオレの使ったティッシュを片づけてくれているのなら、彼女はオレがどのくらいの周期でマスターベーションを行うかを知っているはずだし、彼女は多分オレが初めてコンドームを買ったときのことを知っているだろう(残念ながらオレはそのとき既に童貞ではなかった)。オレは彼女がハンター試験で知り合った男のために、初めて受けた仕事で稼いだ金で、初めて女の子らしい下着を買ったことを知っているし、相手の勢いが余ってきれいなレースがついたパンツを破かれてしまったことも知っている(きっと相手も童貞だったのだ)。
一年。彼女があの婚約者と出会ってから、たったの一年だ。そんな短い期間で、オレが知っていた彼女がすっかり変質してしまったことが悲しかった。同時にとても腹立たしい気分になった。これはもう、さっきの金髪美人と寝ないと収まりがつかない。金髪美人のことを思うと、口の中にじゅるりと唾が溢れた。
マンションにつくと、再度オレは金髪美人にコールした。すると彼女はすぐに下まで降りてきてくれて、完璧な笑顔をオレに振りまいた。ハート型の顔を彩る金色の髪が、街灯の仄暗い明かりの中でも、きらきらと瞬いている。彼女が助手席に回り込んで車に乗ってくると、オレはすぐさま彼女の腰を引き寄せて、キスをした。甘いチェリーの味がした。きっと口紅だろう。
「甘くておいしいでしょ?」
口を離した彼女は、オレの唇についた彼女の口紅をネイルの映えた指先で拭いながら言う。「ああ」。オレは彼女の髪を梳きながら囁き返して、彼女の瞼にもうひとつキスを落とした。
「君に会いたかったよ」
「嬉しいことを言ってくれるわね」
彼女は余裕たっぷりに微笑んで、シートベルトをカチリと装着する。「あなたの運転って乱暴なんですもの」。ちらりと横目で見たオレに、彼女は言い訳がましく言った。
人気の少ない夜の道路を走らせて、オレたちは適当なバーに入った。そこでオレはザ・グレンリベットのオン・ザ・ロックを何杯か飲み、彼女はターキッシュ・ハーレム・ クーラーやソウル・キスを飲んでいた。思い出した。この女はワインベースのカクテルが好きだった。二時間ほどそこで話をした後、オレたちはバーを出て、車に戻った。彼女が助手席へ行ってしまう前に、もう一度引き寄せてキスをする。腰と尻の境界線の辺りをさわさわと撫ぜると、彼女はオレの胸を押し返してきた。
「もう。飲むだけでしょ?」
「そういう気分になっちゃったんだ」
彼女はちょっと怒ったようになって助手席のドアを開けると、シートに体を沈めた。ひとつ首を竦めて、オレも席に座る。「・・・アレなのよ」。微かな声で、彼女は言った。
「昨日なっちゃったの。だから今日は無理よ。タンポンが入ってるから、あなたのが入る隙なんてないの」
「それを引っ込抜いちゃうっていう手は?」
オレが笑いながら言うと、彼女は急に真顔になってひと言、「爆発するわよ」。オレは潔く諦めた。
「ごめんなさいね。電話があったときに言えばよかったんだけど、そうしたらあなた、来てくれない気がして」
「そんなことないさ」
実際その通りなのだが、盗賊のオレは嘘も上手である。
「オレが悪かったんだ。君のせいじゃない」
「わたしの生理があなたのせいってこと?」
「オレの下心が君を不安にさせたってことさ」
オレたちは見つめ合って、どちらともなくキスをした。「好きよ・・・」。オレの肩口に頬を寄せて、彼女は言う。
「じゃあまた来週、きっちり一週間後に、また誘っていいかな?」
「それはセックスに?」
「デートも含めてさ。今度はもっと早めに家を出て、夕日を見ながら飲むんだ。その後一緒に食事して、その後もう一度飲んで、それからやっとベッドインさ」
「長い一日になりそうね」
彼女は笑い、髪をかきあげた。そのとき耳朶に光るピアスが見えた。見覚えがあった。オレが彼女に贈ったものだったかもしれない。いまいち記憶が曖昧だった。ほら、オレってそこら中に物をばらまくから。
「そのピアス、本当に君に似合っている」
彼女の耳朶に手をやって撫でると、まだつるつるとしていた。使い込んでいない。彼女は一瞬泣きそうな顔になり、それから「ありがとう」と本当に嬉しそうに笑った。
彼女のマンションに向けて車を走らせていると、やおら彼女が口を開いた。
「ねえ。デートのプランを変更して、あなたのお家に行くっていうのは駄目なの?」
「残念ながら。妹と一緒に住んでいて、お互い異性は連れ込まないって取り決めがあるんだ」
「妹さんがいるのね。知らなかったわ。それ、本当に妹なの?」
「妹さ。戸籍謄本の提出が必要?」
彼女は少し笑って、「結構よ」と言った。
彼女がマンションのエントランスへ消えていくのを見送ると、オレは再度車のエンジンをかけて、自宅のマンションへ向かった。車内のデジタル時計は午前二時二十三分と表示されていた。
マンションに戻ると、当たり前だが明かりは全部消えて、カヤは眠ったようだった。オレは熱いシャワーを浴びて、それからギネスビールを一本空けた。この泡が立っていくのを見るのが好きなのだ。だから、店ではギネスを頼まない。
何かを壊したかった。オレはキッチンに立ち、ギネスビールから立ち上る泡をじっと見つめていた。ゆっくりと首を振り、髪をかきあげ、オーディオ・セットの前に立った。CDラックの中から破壊的な、同時にカヤを起こさないほど静かなものを選ぼうと思ったら、フランツ・リストにいき当たった。超絶技巧練習曲集のケースを開き、セットする。そして再生ボタンを押したのだが、いつまで経っても超絶技巧練習曲第一番ハ長調、ぽかぽかと拳で打ってくるような前奏曲は聞こえてこない。一瞬思案し、やっと思い出した。スピーカーの調子が昨日から悪く、音が出ないのだ。これでは何も聴けないし、テレビもこのスピーカーに繋いであるのでそちらも使えない。
がっかりした。が、いや逆にこれは好機なのかもしれないぞとオレは思い直し、手持ちもポルノの中から一番暴力的なものを選び出し、無音でそれを流した。女が涙を流し、許しを乞うているが、その声さえ聞こえない。オレはにやにやとしながら、ギネスのグラスを傾けた。ペニスが段々と硬くなっていくのがわかる。オレは無音の画面を見つめたままそれを扱き、吐き出した液をティッシュで受け止めた。きれいに拭って、ぽいと放る。急激に眠気が襲ってきて、ごろりとソファに横になったら、もう駄目だった。
目が覚めたのは、眩しさと寝苦しさに顔を顰めたときだった。「ううん」。オレは唸って、瞼を腕で覆う。「起きなさいよ」。冷徹なカヤの声がした。
「起きて、そのだらしのないものを早くしまいなさい」
カヤは歯がみするような怒りを抑え込んだ冷たさで言い、オレの腕を顔から引きはがした。眩しすぎて目がしょぼしょぼとする。オレは目を擦りつつ、起き上がった。どうやらソファで眠ってしまったようだった。「起きたなら」。この上なく冷たい口調でカヤは言う。
「『それ』を早くしまってくれないかしら?」
何のことかわからず首を傾げると、カヤはため息を落としてオレの股間を指さした。見れば、昨日マスターベーションしたまま眠ったのだろう。ペニスがスラックスのチャックから飛び出ていた。眠気が一気に飛んだ。
「こりゃひどい」
オレが慌ててそれをしまうと、カヤは特大のため息と落とした。「あなたのティッシュも捨てておいたから、妖精さんに感謝なさい」。カヤはラックやらローテーブルやらテレビボードやらの拭き掃除を続けながら言い、それからポルノのディスクを円盤のようにオレのほうへ放り投げた。
「ちゃんとしまっておいて。あなたみたいにふしだらな人じゃないんだから」
オレは大人しくそれを自室へしまいに行き、戻ってくるとカヤがバスルームを指さした。
「さっさとシャワーを浴びてきて。それで着替えて身支度を整えて。待ち合わせまで、もう二時間しかないわ」
「ねえ。それ本当にオレがいなきゃ駄目なのか?」
「今日になってやっぱりあなたが来ないなんてことになる。その現象の常識のなさを、あなたは理解してる?」
「わかるとも」
オレは観念して、バスルームへ向かうべく立ち上がった。「ああ、そういえば」。その後をカヤの声が追ってきた。
「パクノダが連絡ほしいって言ってたわよ。なるべく早く」
「了解」
オレは上着のポケットから携帯を取り出して、バスルームに向かった。見れば昨夜から着信が十件も入っている。十件!彼女の根気強さにはほとほと感服してしまう。
ダイヤルすると、彼女はやはりずっと待っていたのだろう。ツーコールで出た。「何かあったのか?」。仕事用の、なるべく硬い声音でオレは息を吹き込む。「カヤのことよ」。対してパクノダはまるっきりプライベートの声だった。
「今日あの子の婚約者に会うんでしょう?私心配で仕方がなくて」
「そんなことで電話したのか」
思わずため息が出てしまう。「そんなことじゃないわ」。電話の向こうの彼女が俄かに気色ばんだのがわかった。
「クロロ。あなた、昨日の夜だって何時に帰ったの?私は何度も電話してるのよ」
「気付かなかったんだ」
「気付かないのは別にいいわ。そんなことはどうでもいいの。それよりも問題なのは、あなたのその態度なのよ」
「パクノダ。オレはカヤにさっさと風呂に入って、身支度を整えろと命じられてるんだが」
パクノダが電話の向こうでため息をひとつ落とす。「・・・ねえ。クロロ」。もう一度口を開いたパクノダの声には、憐憫が混じっていた。
「あなたの気持ち、わからないでもないわ。でも、カヤが好きになった人なのよ。カヤが自分で選んだの。そしてカヤは、あなたが祝福してくれることを、心から望んでいると思うの」
「君の言う『オレの気持ち』がどんな気持ちなのか、オレにはさっぱりわからないんだが、オレはオレなりにカヤの婚約を祝福しているつもりだし、君に心配されるようなことはいくら考えても、ひとつも見つからない」
そこまで言いきるとパクノダはしばらく沈黙した後、「なら、いいわ」と小さな声で言った。
「今日は楽しんでちょうだい。忙しいのに時間を取らせてごめんなさいね」
「いいや。君が少しでもオレのことを気にかけてくれて、嬉しいよ」
「馬鹿な人ね」
笑い声と共に、パクノダとの通話は切れた。オレは脱衣所の壁に凭れて、大きく息を落とす。これだから、彼女を『金髪美人』のフォルダに入れられないのだ。
今日になったという感覚がまるでないなとオレは思った。あんな風にして眠ったせいだろうか。今日はもう今日なのに、まるでまだ昨日の延長線上にいるような気になる。今日は本当に『今日』なのだろうか。
熱いシャワーを浴びて髭を剃っていると、洗面所にカヤが顔を出して、オレの着替えを置いていった。イヴ・サン=ローランのカットソーとリーのジーンズだった。オレとカヤの服の趣味は似ていて、オレがカヤの服を選んでも彼女がオレの服を選んでも、自分自身で選んでも、同じになることが多い。確かにオレは、この薄くたっぷりとしたシルエットの黒のカットソーと、リーのスリムジーンズの組み合わせが好きだった。
着替えを済まし、額に布を巻いて洗面所から出ていくと、カヤももう化粧と着替えを終えたところだった。ダークネイビーのワンピース、黒のストッキング、そして透明な赤色のロングネックレスをしている。
「ミュラー・オブ・ヨシオクボに、スワロフスキー」
「当たってるけどあなた、ちょっと気持ち悪いわ」
「わかっちまうんだから仕方ないだろ」
オレは首を振り振り、ダイニングテーブルにかけた。「コーヒーが飲みたい」。言うとカヤは、デカンタから熱いコーヒーを注いで持ってきてくれた。
「オニオンスープがあるんだけど、飲まない?その状態で急に食事なんかしたら、きっと気分が悪くなる」
「ああ、じゃあ、もらうよ」
カヤはキッチンに戻っていって、スープカップをふたつと焼いたパンの欠片を持ってきた。どうやら自分も食べるつもりらしい。
「喉を通らなかったのよ」
オレの目線に、言い訳がましくカヤは言った。
「緊張してるのよ。これでも」
「よくわかるよ、その気持ち」
オニオンによく味が染みていて、スープは美味しかった。オレたちは黙々とスープを平らげ、カヤが食器を片づけ終わるのを見届けると、オレは車のキーを取った。しかし、「歩いて行くのよ」、カヤが言った。
「歩いて?」
「すぐそこのレストランだもの。あなたの飲酒運転には、ほとほとうんざり」
「でもお前・・・」
「『君』」
「わかってるよ。でも『君』、ヒールで歩けるのか?」
聞くとカヤは、少し微笑んだ。
「そこまで高いのを履くつもりはないから、いいのよ。それにわたしの足は、少しぐらいのヒールに負けるほど柔じゃないの」
カヤがにやりと笑うので、「ならいいけど」とオレは車のキーを置いた。
ジャケットを羽織って外に出ると、空は雲ひとつない快晴だった。眩しい陽光が寝不足の眼球に痛い。カヤが予約をしたレストランは住んでいるマンションから歩いて十分ほどのところで、よくオレとカヤも利用していた。料理はなかなか美味いし、昼間は大きな窓から光が差し込んで、店の雰囲気も悪くない。ただ、今のオレにはあの店内の明るさはただの拷問であるが。
レストランに着くと、カヤの婚約者は既に席についてオレたちを待っており、カヤは「待たせてごめんね」と眉を顰めて謝っていた。
「いいんだ、オレが早く来すぎただけだから」
世の中には色んな人間がいて、一瞬で恋に落ちる一目惚れなんてものも存在する。それが本当に存在するなら、この状況はまさにその真逆を走っていた。一瞬でオレはそいつのことが嫌いになった。
「はじめまして」
婚約者がオレに向き直って、生真面目な顔で言う。
「ベナタワ=ルボノです。お話はカヤさんからかねがね伺っておりました、お兄さん」
・・・『お兄さん』?
オレは元々意味なく浮かべていた笑みを一層深くして、「クロロ=ルシルフルです」と返した。「とりあえず、座らない?」。カヤが言って、オレたちは席に着いた。オレの隣にカヤ、カヤの前にベナタワ=ルボノ。
飲み物のオーダーを聞かれ、オレはフランチャコルタ・サテンを注文した。これくらいなら昼間からでも許されるだろうと思いながら。それにこういう場には、シャンパンが必要不可欠だと思ったのだ。
「僕、お酒はあまり飲めないんですよ。お兄さんは随分お酒に詳しいって、カヤさんから聞いてます」
「詳しいっていうか、オレは酒でカロリー摂取してるだけだから」
「ただだらしないだけよ」
にべもなくカヤが言った。
店で一番陽光の差し込む『いい席』に通されたので、注がれたシャンパンは光を弾いて、きらきらと瞬いていた。昼間に飲むのも悪くない。カヤだってそう思っただろう。カチンとグラスを合わせて、華奢なグラスを傾ける。炭酸が程よく、乾いた喉を刺激した。
「しかし、話に伺っていたお兄さんが、こんなお綺麗な方だとは思いませんでした」
オレは目を閉じてこりこりと布を巻いた額の辺りを掻いた。カヤが横からオレの足を踏みつける。ベナタワ=ルボノは一連の動作に全く気付いていないようである。
「いや、綺麗なんて形容詞を使っては失礼かもしれませんが、カヤさんからは何というか、もっと微笑ましいお話ばかりを聞いていたので」
「オレたちって微笑ましいの?」
カヤに聞くと、彼女はまた無言でオレの足を踏みつけた。
「とても仲がよさそうで、羨ましいです」
「ああそうだね。例えば嬉しいことがあると、カヤはオレの足を踏みつけるんだ」
彼は不思議そうな顔をした。「この人、人をからかって遊ぶのが好きなのよ」。慌ててカヤが言った。
「ありとあらゆる冗談を愛しちゃってるものだから」。オレも言った。「君はこいつと結婚するだろ?オレは冗談と結婚する予定でね。婚約が正式に決まった折には、ぜひ祝ってもらいたいものだな」。
ベナタワ=ルボノはそこまで聞いて少し安心したように笑った。
「とても明るくって素敵です。僕もそんな家庭を持ちたい」
「明るくって『素敵』だってさ」
オレはカヤに言った。
「明るいだけならね」
カヤはいやに明瞭な発音で言い放ち、冷ややかな目線をオレに送った。
「結婚式はしたほうがいいと僕は思うんですけど、カヤさんがしなくていいと言うんです」
「だって、恥ずかしいじゃない」
「すればいいのに」
「呼ぶ人もいないわ」
「いるじゃないか。今から準備すれば、スノーマンが来てくれるんじゃない?『君』、昔から好きだったろ?」
ベナタワ=ルボノは笑ったが、カヤは笑わなかった。どうやら本気で怒り始めているらしい。ちょうどそのとき、前菜が運ばれてきたので、オレはそれで口を塞いだ。
食事が終わってコーヒーまで飲んでしまうと、カヤが家に寄っていかないかとベナタワ=ルボノを誘った。最初からそのつもりだったのだろう。だから今朝掃除していたわけだ。ベナタワ=ルボノは形だけは「迷惑になるから」と一度断り、再度カヤが誘うとあっさりと首を立てに振った。
オレは首を振り振り、レストランを出て道を歩き始める。陽光はもうさっきほど強くオレの目を刺さない。カヤとベナタワ=ルボノは後ろで何事か喋っている。オレはその会話に混じる気には到底なれなかったので先を歩いていたのだが、「クロロ」、カヤに呼ばれて仕方なく振り向いた。
「彼がオーディオ・セットを直してくれるって。この人、そういうのがとても得意なのよ」
「手先が器用なんだね」
オレはにこりと微笑んで言ったが、カヤはベナタワ=ルボノに見えないように盛大に顔を歪めてみせた。ちなみにベナタワ=ルボノは「そんなことは・・・」とはにかみ笑っている。
部屋に戻るとカヤはキッチンに入り紅茶を淹れ始め、ベナタワ=ルボノはオーディオ・セットに向かった。オレは冷蔵庫からバドワイザーを取り出そうとしたがカヤに手を叩かれ、仕方なくすることがないのでベナタワ=ルボノとオーディオ・セットのほうへ向かった。
「直りそう?」
聞くとベナタワ=ルボノは何やら配線の仕分けしながら、「ええ多分」と答えた。
「線が大分痛んでます。これを取り替えたら、直るんじゃないかと思いますけど。よかったら僕、ひとっ走り行って買ってきましょうか?」
「でも、この辺りの地理わからないんじゃない?」
カヤが口を挟んだ。
「大丈夫。さっき歩いてるときに、電気屋の看板が見えたから。そこぐらいまでなら、一人で行けるよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
オレは肩を竦めて言った。「行ってきます」。彼は学生のように元気に挨拶して、部屋を出て行った。
「いい人でしょう?」
彼のいなくなった部屋で、カヤが言った。「後光が見えるぐらいだよ」。ちなみに彼女の淹れていた紅茶は全くの用なしになってしまった。じょぼじょぼと、カヤはそれをシンクに捨てた。
ベナタワ=ルボノが帰ってきたのはそれから四十分ほどしてからで、オーディオ・セットの修理が終わったときにはもう日が暮れかかっていた。確認の為にも、何か曲を聞かないかとベナタワ=ルボノがいうので、カヤが何だかよくわからない最近の音楽をかけた。二人は楽しそうにその歌の歌手について喋っていたが、オレにはそれが何一つ理解できなかった。何だってこんな幼稚園のお遊戯会みたいなCDがうちにあるんだ?
「お兄さんは普段どんな音楽を聞かれるんです?」
ベナタワ=ルボノが聞いてきたので、オレはやけくそになって「ヒバリ=ミソラ」と答えた。
「『ヒバリ=ミソラ』?すみません、浅学なもので。聴いたことがないです」
「ジャポンのエンカ歌手さ。オレは彼女の歌を聴いて、生きようと思った」
「素晴らしいです。歌とはそうあるべきですよね」
ベナタワ=ルボノは深く頷きながらそう言うので、オレはもういい加減うんざりとしてしまった。「ねえ。よかったらうちで夕食も食べていけばいいわ」。追い打ちをかけるようにカヤが言った。
「お昼にたくさん食べたからあまりお腹空いていないけど、軽いものを作るから。ねえ、いいでしょう?」
カヤは名案だというように、オレとベナタワ=ルボノの顔をかわるがわる見ながら言う。どちらの了承を得ようとしているのか、全くわからなかった。しかしベナタワ=ルボノが先に頷いてしまったので、オレたちは夕飯まで一緒に食う羽目になってしまった。
「僕、本当は結婚なんてと思っていたんです」
カヤがキッチンへ消えてしまってから、ぼそりと告白するように、ベナタワ=ルボノは言った。リビングにはベナタワ=ルボノがぜひ聴きたいと言ったヒバリ=ミソラが流れている。さっきのお遊戯会の三十倍くらいましだった。
「あなたがとても派手に女の子と遊んでいるという話も、彼女から聞きました。あなたの気持ち、実はよくわかるんです。というか同じ気持ちでした」
「へえ」
オレはいささか興味を引かれた。先を促すように目線を送る。
「だけど、彼女に出会ってそれが変わりました。どうしても彼女と結婚したいと思ったんです。こんなこと、初めてでした」
「カヤはいい女の子に育ったよ」。淹れなおされたカヤの紅茶を飲みながら、オレは言った。
「少し強情で口煩いところはあるが、料理は上手だし、きっといい妻になれるんじゃないかな」
「でもいざ結婚するとなると、ちょっと不安になります」
ベナタワ=ルボノは膝の上で手を組みながら言った。
「悪い面を見ては駄目なんだ。いい面だけを見ていればいい。本当に悪いことが起きるかどうかなんて誰にもわからないけど、いいことが起きるのは確実なんだから」
「その通りですね。お兄さんは卓越しておられる」
「他人事だからさ」
オレは紅茶を飲み干しカップを持って、カヤのところへ行った。
「用事を思い出した。仕事のことだ。オレは少し出てくるから、夕飯は二人で食べるといい」
「でも、もう三人分作っちゃったわ」
カヤは困惑したように言った。
「明日オレが食べるよ。少なくとも十時までは戻らないから、二人で好きなことをしてたらいい。シーツも洗濯したんだろ?」
「あなたって」
カヤは呆れたように言った。
「変なことばっかりよく気がつく」
「ありがとう」
オレは笑って、今度はベナタワ=ルボノのところへ行った。仕事だと伝えると、彼は惜しみながらも快く了承してくれた。
「お話ができてよかったです。近いうちに、また必ずお目にかかりたいです」
「ありがとう」
オレは表情筋を総動員しながら答えた。
ジャケットを羽織り車のキーを取って外に出ると、辺りはすっかり暗かった。車の中で携帯をいじっていたが、何となく興が削がれて結局誰にも電話しなかった。以前一度だけ行ったことのあるバーに向かって車を走らせる途中、クロエの店が目に入って、気づいたらオレはそこで車を止めていた。
「何かお探しものですか?」
服装から一瞬でオレの経済状況を見抜いた店員が近づいてくる。「フレグランスを」とオレはその店員に申しつけた。程なくして、きれいにラッピングされたクロエのコティ・プレステージが手渡される。麗しくお辞儀する店員に見送られて、オレはそこを後にした。
それからものの十五分ほどで当初の目的地だったバーについて、ドアを開けるとカップルが一組といかにも教育者風の中年女性の二人連れが一組、カウンターに三十過ぎの男が一人いた。
オレはそこでまずさっき飲み損ねたバドワイザーを一本飲み、それからグレンフィディックのオン・ザ・ロックを飲んだ。備え付けられたテレビにはテニスの試合が映し出されており、何とはなしに、オレはそれを眺めていた。
「どっちの応援をしてるの?」
三杯目を飲んだ辺りで、少し前から隣にかけていた女の子に声をかけられた。彼女は何かわからないけど、氷の入った透明なカクテルを飲んでいた。
「こういうのってあんまり肩入れしたことがないんだ。スポーツは勝敗よりも、人の身体の伸縮性、限界への挑戦に目がいってしまう。だから、勝敗を気にするようなことはしない。あっという瞬間が見れればいいんだから」
「ふうん」
彼女は不思議そうに息を吐き出してそれから、「そういう風にスポーツ観戦する人って、珍しいと思うわよ」と言った。
それからオレは彼女にザザとワインを一杯ずつ奢り、彼女が美大で油絵を描いていると言ったので、しばらく絵の話をした。テニスの試合が終わり、ニュースが流れるようになると、オレと彼女は店を出て、もう一軒別の店に行った。今度はもう少し、柔らかいソファのある店へ。
そこで二人でワインを一本空けて、くだらない冗談を言い合って笑い合った。オレは酔っ払っていたし、彼女のほうもそうだった。十二時が近くなってその店を出ると、オレは彼女を車で部屋まで送り、当たり前のように部屋まで上がった。ドアを閉めるなりオレは噛みつくように彼女にキスをし、そのままどたどたとベッドに崩れ落ちた。
いい加減酔っ払っているし、部屋の中も暗かったので、自分が何をしているのかよくわかっていなかった。鎖骨や乳房や腰やヴァギナに触れたが、そんなもの前戯でも何でもなかった。濡れているのかもわからないそこにペニスを突っ込み、ただ動かして精液を出しただけだ。マスターベーションと何ら変わりない。
ペニスを引き抜くと彼女はすぐに寝入ってしまったので、オレはそそくさと脱ぎ捨てた服を拾い上げ、身に付けた。暗い中でパンツを探し当てるのは、かなり困難なことだった。
外に出て腕時計を見ると、時刻は午前一時を差していた。いくら何でも、婚約者は帰っただろう。オレはふらふらと車に戻り、ハンドルに突っ伏した。ウィンドウを開けると、冷たい風が車の中に入ってきて、少し酔いが覚めた。目の前がぐるりぐるりと回っている。不意に吐き気を覚えて、慌てて外に出た。人の家の塀に手をついて路肩に吐くと、少しすっきりした。信じられないことに、昼間食べた牛肉の欠片が、まだ消化されずに吐瀉物の中に混じっていた。近くに自販機があったので、そこでミネラルウォーターを買い、一気に飲み干した。そしてオレは、ベナタワ=ルボノが買ってきた色とりどりのコードのことを思った。あのコードはこれから先、カヤのいなくなった部屋で、オレが聴くであろうもの全ての情報を伝え続けることになるのだ。テニスの試合も野球の試合もデヴィッド・リンチの映画もフランツ・リストもトイドールズのセイバー・ダンスも昨日観たような暴力的で卑猥なポルノも全てが。
「本当にオレの気持ちがわかるかい?」
誰もいない夜の道に向かって、オレは呟いた。ベナタワ=ルボノはあのオーディオ・セットが一体何を伝え続けてきたのか、予想もつかないだろう。オレは少しずつ、落ちていくのに。剥がれていくのに。無くしていくのに。
オレは車に戻り、エンジンをかけた。オレのアストンマーチンはいつでも元気にアイドリングするので、きっとこの近所の住人はみんな目を覚ましてしまったに違いない。吐瀉物もあるし。可哀想と思うだけ思って、車を発進させた。
奇跡はクロエで買ったフレグランスを車の中に置き忘れなかったことだ。マンションに戻ると玄関脇に、いっぱいに詰まったゴミ袋が置いてあった。何だろうと思いながらも中身を見もせずに部屋に入ると、やはり部屋の中は真っ暗だった。オレはキッチンの流しの上の小さな蛍光灯だけをつけて、口の中を濯いだ。
そしてバスルームに入り、吐瀉物と汗の嫌な臭いをごしごしと拭きとると、腰にタオルを巻いただけの格好で洗面所から出た。
「遅かったのね」
暗闇の向こうからカヤの声が聞こえた。カヤはリビングのソファでビールを飲んでいた。オレはとりあえず自室に入り、柔らかいコットンパンツとTシャツに着替えてきた。
「シャルと飲んでいた」
「嘘。さっきシズクに連絡したの。旅団の仕事なんて、今夜は入ってないって言ってたわ」
「困ったな」
オレはがしがしとタオルで髪を拭きつつ言った。実際は欠片も困ってなんかいなかった。オレが誰と寝ていようと彼女には関係ないことだし、彼女もどうでもいいと思っているだろう。そんなことは、オレたちの間で、全く問題ではないのだ。
「やらなかったわよ」
「何を?」
わかりきっているくせに、オレは問い返した。根性がひん曲がっているのだろう。
「何もよ」
カヤはぎゅうと膝を抱いて、ソファの上で小さくなった。「どうして?」。オレはその小さなカヤに問いかけた。
「あなた、玄関のゴミ袋の中、見てこなかったの?」
「こなかったな」
答えると彼女は「そう」とだけ言った。オレは冷蔵庫から自分もビールを出してきて、彼女の隣にかけた。
「気になってできなかったのよ。この部屋の何もかもが」
「その気持ちは、とてもよくわかる気がするな」
あまりにカヤがぎゅうと自分の膝を抱きしめているので、寒いのかと思い、オレは彼女の頬に触れてみた。そうしたら、指先が濡れた。カヤは、彼女は泣いていた。
「わたし、結婚しないことにしたわ」
一瞬虚をつかれて、オレの思考は停止した。その一瞬の後に、様々な感情がない交ぜになって襲ってくる。どんな顔をすればいいのか、まるでわからなかった。
「わたし、彼を殺したのよ」
やっと理解した。彼女にとって、オレはさながら司祭なのか、彼女はこの告解の為にここにいたのだ。オレは他人のことに興味なんてない、必要なものは奪えばいいと思っているこの上なく自己中心的な人間だが、それくらいのことはわかる。
カヤの手を取って、握ってやった。冷たくすべすべとして、きれいな手だった。「あの人・・・」。ゆっくりとカヤが喋り始めた。
「ブラックリスト・ハンターだったの。初めから、あなたを殺すためにわたしに近づいたのよ。あなたが行ってしまって二人で夕食を食べた後、わたしが片づけものをしている最中に急に後ろから襲ってきて、わたしを羽交い締めにして、とても楽しそうにわたしを騙した話をしたわ。本当に、楽しそうだった。そこまで全部聞いてから、殺したの」
「死体はどうしたんだ」
「解体して、玄関のゴミ袋の中よ。明日シズクに吸ってもらうの」
「それはよかった」
それからしばらく、カヤはさめざめと泣いていた。もう何も喋らなかった。時計の針はぐるりと巡り、やがて午前三時を差した。オレはいい加減痺れた手を離して、ダイニングに置きっぱなしにしていたクロエのショップバックを開けた。きれいな包装を解いて、コティ・プレステージを取り出すと、自室からコンドームを取って来て、フレグランスをぷしゅりと一回、それに吹き付けた。
「お守り」
カヤのところに戻り、そう言ってそのコンドームを差しだすと、カヤは涙でぐちゃぐちゃの顔でそれを受け取った。手は震えていた。
「これを持っていれば、もっとましでいい奴に会える。あのクロエのフレグランスは、結婚式につけるように買ったものだから、そのときが来たらお前にあげるよ。それまでオレが預かっておく。しかし正直に言えば、あの婚約者は気に入らないって、初めて会った瞬間から思ってたんだ」
「何が『正直に言えば』よ。最初からそんなこと、だだ漏れだったじゃない」
そこでやっとカヤは少し笑った。泣き顔で、唇は震えていたけど、でも確かに笑った。
オレはそれを見届けると、やっぱり我慢ができなくなったので、オーディオ・セットの配線を全て外し、ばきりと二つに折った。色とりどりの配線が血管のように垂れさがる。ああ、これでオレの家はオレの家に戻った。オレはすっきりとした気分で、玄関に向かう。そこに置いてある口の開いたゴミ袋の中をひょいと見れば、ベナタワ=ルボノと目が合った。
「グッバイ」
オレは彼と一瞬だけ見つめ合うと、ゴミ袋の中にオーディオ・セットの残骸を投げ入れて、固く口を結んだ。
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