タソ忍だった五条さんと元くのたまちゃんの、水着事変
※注意事項※
夏だから、有休取るからどこかに行こうよ、と五条に誘われたのは八月に入ってからのことだった。
夏休みと言えど、彼女が参加している地味サークルの歴史研究会は有志による寺院参拝の予定をいくつか組んでいたし、尊奈門の剣道大会を高坂と一緒に応援しに行く約束もしている。押都からはときどき、夜遅くにドライブに行くけれど一緒に来るか?と誘いの電話がかかってくるし、雑渡とは週に一度のペースで会って近況報告がてら食事をしている。
そして何より、先月くらいから五条はなんだかとても仕事が忙しそうで、部屋で待っていても終電間際にしか帰ってこないことも多い。だから、別に一人ぽっちで暇を持て余しているわけでもないし、気にしなくていいのになぁ、というのが正直なところの彼女の心情だった。
しかし五条からしてみれば、頼むから構わせてくれよ、と内心では泣いていた。
あのイルミネーションを一緒に見に行った日に、セーラー服とスーツだったから彼女と手を繋いであげられなかったことも、まともに外に連れ出して普通のデートがしてあげられなかったことも、立派に五条のトラウマなのである。
しかも、忙しくて休みの日もなんだかんだと休日出勤をしている自分の代わりに、彼女の周りにいる男たちが彼女をあちこちに連れ出している。
俺だって一緒に寺巡りに行って彼女がソフトクリームをむちむち食べているところが見たいし、尊奈門の応援をして息を飲む彼女が見たい。ドライブだって連れて行ってあげたいし、食事にも連れて行きたいし、そもそも高坂と押都と雑渡は嫌がらせのように彼女と、どこそこに行った、と写真付きで残業中の五条にメッセージを飛ばしてくるのだ。
嫌がらせのようにではない、――これは嫌がらせである。
限界だった。仕事は忙しいけれど、お盆休暇に仕事を持ち帰ればきっとリカバーが効くし、一日くらい遊んだってきっとバチは当たらない。だって、夏だもん。そして何よりも、俺だって夏を、最近押都と出掛けたときの写真で見た、なんかひらひらのワンピースを着たとんでもなく可愛い彼女と一緒に、デートがしたい…、と五条さんは、かなりお疲れのご様子であった。
押都さんと五条さんって、同じ部署じゃないか、って?
押都さんも同じくドっ忙しいのに、何故か五条さんに先んじて彼女を誘って出掛ける余裕があるんだよね、押都小頭ってすごーい!(小並)
というわけで、五条はほとんど泣きつく様相で彼女に「有休取るからどこかに行こうよ…!」と言ったし、五条がそうやって言うなら彼女に断る理由はない。
どこに行きたいか、と五条に聞かれて彼女は深く考えず、夏だから…と思ってそのまま「海…とか?」と答えた。
これが今回の、彼女と五条さんの水着事変の、その始まりであった。
海…とか?と彼女が言ってからの五条の行動は、とんでもなく早かった。翌週以降の彼女の予定が入っていない平日を聞くと、その日に自分も有休申請を放り込み、そのままサクサクと目的地のビーチを決めて交通手段を決める。
人の多いところは彼女が物怖じするとわかっていたので、都会に近くない少しでも不便そうな土地を敢えて選んだ。そうしてそのまま、登録中のシェアカーの空きを調べて予約を入れる。この間、およそ三十分にも満たない。
「近くに確か温泉もあったから、帰りに寄ろうね。本当は泊まりのほうがゆっくりできるけど、流石に今の時期に二連休は、怒られるから……」
「? は、はい……」
「えっと、一応ビーチパラソルとかは借りて持っていくけど、浮き輪と…、ミヨシちゃんなんか欲しい遊び道具ある?」
「ひ、ひぇ……」
ウッキウキで準備を始めた五条さんに、彼女はヒェ、と小さく悲鳴を上げた。なんとなく海…?と言っただけで、彼女は夏に海に行くとはどういうことなのか、全くわかっていなかったのである。
「あ、海には入りたくなかった? それならそれでも……」
「あの、えと、違うくて、あの……み、水着! 買いに行ってきます……!」
正直なところ、五条は陽キャのお兄さんである。お付き合いする女が長くいなくても、同僚兼幼馴染の椎良と反屋と高坂を誘って海でのレジャーもその他の遊びも、そこそこ楽しんで遊びまくってきたほうだ。
対して、彼女のほうは夏だから、という理由ではお外には出ないド陰キャである。尊奈門以外に今まで仲のいいお友達はいなかったので、友達とプールに行ったことさえない。そもそも自分が泳げるかどうかも、自信がない。
しかし五条さんは、なんだか最近の疲れた顔が少し晴れたようで、とても楽しそうだった。なれば、海って何するのかわかんない…と思っていても、お兄さんの楽しそうなお顔に水を差してはいけないのである。
そういう決意の気持ちとして、一念発起して水着を買いに行くぞ…!という彼女の決心の言葉だったのだが、別の意味で五条はカチンと固まった。
「み、水着……」
「はい。持ってないので、買いに行ってきます……!」
決意の表情をする彼女に、五条は非常に複雑な気持ちになった。彼女とデートができる!という喜びから何も考えていなかったが、水着ということは、だ。彼女の白くてモチモチした、すべすべのお腹とか、背筋とか、胸元とか、そういうところが服の外に出て、他の男にも見られるということだ。
…………それは、いかがなものか、と五条は思った。
思いはしたが、見たいか見たくないか、と言ったら彼女の水着は見たい。だって健全な男だもん。かわちいかわちい恋人の水着姿が見たくない男なんか、いないだろ、多分。
そういう悲しい葛藤の末、五条の理性は負けた。いつも彼女に対してだけは負けっぱなしの、このクソ雑魚理性である。
「…………楽しみに、してるね……」
「はい……!」
若干項垂れて言った五条に、彼女はとんでもなく使命感のある顔つきで頷いた。本当は一緒に買いに行きたかったのに、クソみてぇな多忙さがそれを許してくれない。
なぜ人間は、仕事をしないと生きていけないのか。五条はここ一か月で何度も思案し続けた命題に、また直面する羽目になるのだった。
さて。
大好きなお兄さんに「楽しみにしてるね」と言われてしまった彼女は、責任重大だ、と思った。お兄さんは葛藤の末に絞り出した一言であるが、彼女は大好きな五条さんからの、甘い言葉だと思っている。
五条はいつもいつも、デートの度に彼女が着ている服とか、新しくやってみた髪型とかそういうものを褒めて、何度も何度も「かわいい」と言ってくれる。
五条は確かに、彼女が高校を卒業して五条のところにもう一度来たあの日に、「もう我慢しないからね」とは言ったけれど、そんな甘々の顔つきで彼女にかわいい、とか、そういうの好き、とか、撫でたいから触っていい?とか。
そういうドロ甘な言葉の数々を放たれるとは、思ってもみなかった。その五条の甘くて、どうしようもなく可愛い、と心底思っているいるような目に、表情に、顔つきに、彼女の心臓が何度止まりかけたかは覚えていない。
二人が三月に付き合い始めてからおよそ半年弱が経とうとしているが、一般的なカップルにある倦怠期というものは、五条には当てはまらないようだった。まぁそもそも、二年前の付き合いのときから数えれば倦怠期になりがち、と言われる時期はとうに過ぎているので、今が付き合い始めて半年近く、というカウントもやり方が間違っているのかもしれない。
彼女のこういう知識は全て、ネットの恋愛コラムからの受け売りである。なにせ女の子の友達がいないので、そういう知識はネット記事を鵜呑みにするしかないのだ。
そうして、その『女の子の友達がいない』ということが、今彼女の身をとんでもなく苦しめていた。
ネットの海を探しても探しても、どういう水着を買うのが正解でどこで買えばいいのか、まっっったく理解できないのだ。情報がないからではない。情報が溢れすぎていて、判断がつかないのだ。
「…………無理ぃ」
雑渡のマンションのデカいソファに沈んで、鳴くように言った彼女に風呂から出てきたばかりの高坂が訝しげな目を向けた。雑渡から、放っておいたら五条のマンションに入り浸って帰ってこなくなるから、という理由で、夏休みの間は雑渡のマンションで寝泊まりするように言いつけられているのだ。
ちなみに、高坂がなんで雑渡のほうの部屋で風呂に入っているのかは、至って謎である。
「何かまた、よからぬ悪さを考えてないだろうな」
「違うもん、水着買いたいだけだもん」
五条と彼女の間の顛末は、マァ今となっては笑って話せるのであるが、五条と彼女を引き離してから彼女が高校を卒業するまでの一年ちょっとは、ひどかった。直後からは、いつもの彼女の精神統一のためのお菓子作りが止まらなくて、高坂も尊奈門もずっとお菓子責めにあっていたし、彼女自身も思い悩む素振りで、あまり眠れていない顔つきだった。
五条のほうは仕事はするが、誰が何度飲みに連れ出しても「俺が全部悪いんだ……」と言って死にそうな顔で、酒を飲んでぐでぐでに潰れる。
これ、早く元鞘に戻さないとどっちか死にますよ、は高坂が言ったのか、反屋が言ったのか。
まあそんな顛末もあり、高校を卒業したら五条さんに会いに行く、と言った彼女にしぶしぶ許可を出したのが、雑渡。そのまま彼女が即日朝帰りをやらかしたとわかったときは、もう周囲の全員が「好きにせい……」の心地だった。
という、この自分と同年の幼馴染と幼い頃から面倒を見ている少女とのラブラブ馬鹿ップルぶりを高坂はよーーーく存知あげているので、水着を買う、という彼女の言葉にもフーンどうせあのクソ淫行ヤロウに食われに行くんだろ、くらいの心持だった。
「でも、水着ってどういうのがいいかわからなくて……。
陣左さん、どう思いますか?」
「どう、って……」
言いながら彼女が見せてきた端末の画面には、女の子のモデルが普通のからちょっと際どいのまで、さまざまな水着を着て写っていた。見せられた画面をじっと眺めて、好きなのはコレかコレだけど……と言おうとしてから、はたと着るのはこの手のかかる我儘娘だ、ということを思い出す。
「俺に聞いてどうするんだ。こういうのは、カレシの『ごじょーさん』に聞けよ」
「五条さん、今お仕事忙しいみたいなの。そんなどうでもいいこと、聞けないでしょ」
「お前のそのさ、五条の前でだけのいい子ちゃんぶりっこ、なんなの」
「してないもん、そんなこと」
彼女が水着の好みを聞いたら、きっと五条は嬉々として返答するし何なら仕事の疲れが吹き飛んだ~とか、アホな顔で言う。高坂は長い付き合いからそれを確信しているのに、この我儘娘は五条の前でだけ猫を被るし、五条も五条で彼女の前でだけ『優しいお兄さん』の仮面を外そうともしない。
「とりあえず、その大好きな『五条さん』のご機嫌損ねたくないなら、他の男に意見求めるのは止めろ」
「え、だって……」
「女の子と仲良くできない、とか言っていつまでもウジウジいじけてるお前が悪い。
一人で決めるか、店まで行って店員さんに聞くんだな」
「陣左さん、えと、あの…………」
「俺は買い物には付いていかないし、尊奈門も巻き込むなよ。クソ色ボケ五条に八つ当たりされるのは、ゴメンだからな。
同じ理由で昆奈門さんも押都さんもダメだ」
「あぅ……」
高坂が言うと、彼女は哀れっぽい鳴き声を上げて、しおしおとソファに沈み込んだ。その小さい頭がしょんもりと垂れているのを見て、高坂は冷蔵庫から水のペットボトルを取り出すと、それを煽ってから自分のスマホをタップする。
付き合っている女はいつかの五条と同じくいないが、遊ぶ相手は何人かいる。その内の一人の連絡先をタップすると、相手は三コール目で出た。
「急に悪い。妹がさ、水着がほしいって煩いんだけど、そういうのってどこで買うんだ?」
電話の向こうからは「えー、高坂クン妹いるんだぁ~」と呑気な声がする。大学生が水着を買うのによさそうで、かつ店員が親切そうな店をいくつか聞いてからそれをメッセージで送ってもらうように言って、高坂は礼を言って通話を切った。
そのスマホの画面から顔を上げると、さっきまでしょんもり項垂れていたのが嘘みたいに、期待に目を輝かせた彼女がこちらを見ている。もうまるっきり、遊んでもらえると期待するような、小型犬の目つきだった。
「聞いた店、そのまま送ったから」
「陣左さん、すごい! 大好き!!」
「お前それ、本当にやめろよ。五条に聞かれたら本当に面倒だから、絶対にするなよ」
「うん!」
大袈裟に笑って頷いてみせる彼女は、わかっているのかいないのか。高坂には図りかねたが、まぁコイツがぐだぐだ暗い顔つきで、どう見ても泣いた後の顔で差し出してきたケーキをたらふく食べさせられるよりは、百倍マシだな…と思っている。
要するに高坂はこの、昔から雑渡が面倒を見ている七つ年下の、もちもち可愛いこの少女が、あんまり得意ではなかった。
まさか自分にも備わっているとは思ってもみなかった、庇護欲というものを彼女がゴリゴリと刺激して、小動物ってかわいいんだな…という気持ちにさせてくるからだ。面倒見るのは、今もライバル先生のところへ迷惑をかけに行っている、尊奈門一人で十分である。
という感じで、面倒を見てくれるうちの一人である高坂にどこで水着を買えばいいか、という情報を手に入れてもらった彼女ではあるが、結局一人でその水着を買うためのお店に乗り込まなければいけないのは、変わりなかった。
高坂のお友達のお姉さん曰く、初めて買うならちゃんフィッティングしないと失敗するという話だったし、水着によっては下が透けたりするからインナーを着用しないといけなかったりするようだ。
なので初めて買うなら、一度お店に行って店員さんに見てもらうのが一番だろう、と高坂から回ってきたメッセージには書いてあった。
めちゃくちゃいい人だった…と彼女はぼやぼや思っているが、先方が「高坂クンの妹ちゃん」に親切にしてくれたのは、イケメンだけど素っ気ない高坂くんの特別になりたーい!という、下心からである。
彼女が本当の妹ではなく、血の繋がりの薄いただの親戚の女の子で、その辺の高坂クンのお友達女の子枠よりもずっとずっと手をかけられている、とでもバレたら微妙な気持ちを抱かせるため、彼女はその辺り、他の女の子の感情にもう少し敏感になったほうがよろしい。
まぁとりあえず、今回はこうして彼女は、水着を買うためのお店の場所を手に入れ、あとはそこへ行くだけ…なのだが、大学生になっても未だ箱入り娘感のある彼女は、そもそも一人で外出するのがとても苦手である。
それは雑渡や押都が甘やかして服を買うのにも自分たちが連れて歩いたり、どこに行くにも尊奈門や高坂をついて行かせた結果なのであるが、流石に彼女自身も、一人で買い物ぐらいはできないとな…と思い、最近はよくネットで服を買うようになった。
とんでもなく出不精で、かつ引っ込み思案の陰キャなので、できる限り外に行かず他人と会話したくない…の気持ちの表れである。そしてそうやってネットで服を買っていることが雑渡と押都にバレて、二人にイヤイヤ言いながら服を買いに連れ出されて、そのときの写真を送りつけられた五条さんが悔しさに呻くまでが様式美。
高坂は普通に、「昆奈門さんに服選んでもらうとかズルくない?」と思っているので彼女にはいい加減に一人で服を買いに行ってほしいし、無理なら五条の馬鹿を連れて行けや…と思っている。
人間の細かい心の機微に疎い高坂には、女の子の服を選ぶのが楽しくて仕方ない独身おじさん二人の気持ちは理解できないため、ここの齟齬は彼女が一人で服を買いに行けるようになるまで続く……閑話休題。
というわけで、今回彼女は高坂に釘を刺されてしまったため、一人で出かけて店員さんに話しかけてフィッティングをし、水着の選び方を聞くという彼女にとってとんでもない高難易度なミッションが、ポップした訳である。
教えてもらったお店のある駅の近くまでは来てみたけれど、夏だけあって子どもも大人も、電車の中でさえ人が多い。
あぅ…、と彼女は電車で揺られながら、口の中でだけ呟いた。
人の多いところは未だに慣れていなくて、自分一人だとどう行動したらいいかわからなくて、頭の中が真っ白になる。小学生になったばかりのとき、たくさん人がいるのに自分のいるべき場所がどこなのか全くわからなかった、あの心細い気持ちを思い出すのだ。
ぐるん、と軽く目の前が回った。頭の中が真っ白で、どの駅で降りればいいのかも思い出せない。嫌な汗が背筋に伝って、隣で誰かが動く気配がする。
「あら、ミヨシちゃん?」
ちかちかとハーレーションしている視界をのろのろ動かして、声がしたほうを見る。そこにいたのは、高校生のときの担任兼、部活顧問の先生だった。
「山本、シナ先生……?」
「お久しぶりね。卒業式以来かしら?
元気?」
聞かれて、彼女は思わずうる…と瞼を瞬かせた。…ぴ、と今にも泣きそうな顔をした彼女を、慌ててシナは背中を撫でてやった。元々とんでもなく引っ込み思案で、人と喋るのが苦手で、周りと馴染めない。
与えられた課題は彼女のペースでやらせればちゃんと解決できるのだが、そのペースというのが周りの女の子たちとは少し違うので、それが彼女が何となく、周りと馴染めないと思っている一番の理由だった。
飾らない言葉で率直に言えば、鈍臭い、とも言う。
「シナ先生ぇ…、水着買いに行くの、付き合ってください……」
そういうわけで、久しぶりに会ったこの手のかかる元生徒が電車の中で文字通り自分に泣きついてきたとき、シナとしてはまさかミヨシちゃんが水着を?!と思った。
思いはしたが。
二年生の終わり頃、彼女は顕著に体調を崩すことが多くなり、しかし彼女の両親は海外赴任中だった。ご両親に代わり、その両親が勤める会社の常務取締役だ、という男が彼女の保護者役を務めており、その男に連絡を取ったときのことをシナは思い出した。
七つ年上の男性と少々不純な関係になってしまい、引き剥がしたところなのだ、とその男――雑渡から話を聞いた。
相手の男性は同じく、元々彼女が生まれ育った村の出身で、彼女自身もなんというか、「村の外の人」という括りで他者を見ているところがある。相手も悪い人間ではないけれど、未成年と成年なので引き離したが、本人は全く納得しておらず、泣いて暮らしている。そのため、体調を崩しがちで成績も落としてしまうかもしれない、と雑渡は言った。
結局、三年生に上がる頃には何とか体調を持ち直し、その後第一志望の大学にも合格できたのであるが、その相手の男性とはどうなったのだろう、とシナは薄く思っていた。雑渡と連絡を取っていたのは彼女には話をしていなかったので、尚更聞く訳にもいかず、そのままナアナアと彼女は卒業して行った。
それが今、あの引っ込み思案で学校行事でさえ行き渋りをしていた出不精の彼女が、「水着が欲しい」と泣きそうな顔で言う。であれば、それは何となく、あの男性関連なのではないか、とシナは思った。
麗しのシナ先生の、とても鋭い勘である。
「それは……、二年のときにお付き合いしていた殿方と?」
「……あ、ぅ、あの、」
「ごめんなさいね。雑渡さんから、少し聞いていたものだから」
「あの、はい……。そうです。
その節は、ご心配お掛けしました……」
顔を赤くして、彼女は楚々と俯く。シナはなぁんだ、と緩く溜息を落として、彼女の変わらず艶々としたうなじを見つめた。結局引っ込み思案のこの子でさえ、好いた男に水遊びに誘われればいそいそと、水着を買いに行くのだ。
心配をして損をした、とは思わない。あの時の心配とか、うまくいけばいいな、の自分の気持ちがちゃんと報われて良かった、とシナ先生は思っている。
「いいわよ。久しぶりだし一緒に水着を見に行って、そのままお茶しましょう。
ミヨシちゃんの恋バナが、聞きたいわ」
シナの返答に、顔色が悪かったはずの彼女は、パっと顔を上げて笑った。高校生のときから変わらない、日向にさす陽のような笑顔だった。
そういうわけで、高校のときの担任の先生だったシナ先生が水着を買いに行くのに付き合ってくれることになった。付き添いが女性なら、高坂も文句を言うまい、と思っている。
そして水着を買いに行くのに、シナ先生が着いてきてくれてよかった…と心の底から彼女は思った。
シナは彼女の体型に合いそうな水着をいくつかピックアップすると、店員さんに声をかけてフィッティングルームに彼女を押し込んだ。彼女がとりあえず着るようにと言われた水着に着替えている間に、店員さんとシナはまたアレコレと次の水着を選んで、更にあれもこれもと彼女に水着を着せた。
彼女はいつまでも子どもっぽい体型で、胸元が慎ましいのでそこにシリコンのパットを仕込むかどうかが、シナと店員さんの最大の争点らしかった。
「最近はお腹の上のほうまで覆うタイプのショーツが主流ですが、折角なら出せたほうがいいんじゃありませんか?」
「そうよね……、上半身はどちらにせよボリュームを持ってくるのだから、下半身まで覆ってしまうと露出が少なすぎるわよね……。
折角なんだし」
何が『折角』なのか、彼女には何も理解できていなかったが、あれこれアレコレ着せ替えをされて、ようよう決まった水着はフレアトップというタイプの、ビキニ部分が全体的にひらひらしたかわいい水着であったが、彼女にとっての恐怖はむしろそこからだった。
シナ先生と店員さんの二人は『折角なら』の言葉を再度重ね、二人から水着用のヌーブラの着用方法を伝授されたのである。
こう、乳を掴んでぐっと寄せてシリコンパットを貼るのであるが、うまくできないと水の中で剥がれてしまうから!頑張って覚えてね!と言われて、五条にしか触られたことのなかった乳房を二人に鷲掴みにされて、寄せられる。水着を着た自分には、確かに今までの人生で見たことのない胸の谷間というものができていた。
水着を着るとはこんなにも苦行だったのか…と彼女は呆然とした。本当にシナに偶々会って、着いてきてもらってよかった…とつくづく思っているが、そのシナ先生ご自身が「この子の彼氏は年上の男の子だし、せっかくならちょっと今まで出したことない色気とか、出させてみたいのよねぇ」などと店員さんと意気投合していたとは、知らない。水着を着るときも、水着の種類によってはヌーブラは必須でない、ということを今後も彼女は知らないままである。
まぁそういうわけで彼女は何とかかんとか水着を手に入れたし、シナ先生のお陰で手に入れた水着はかわいいけれどちょっとだけエッチな雰囲気のある、男の視線をよく引くお腹とアンヨがたくさん出るタイプのものだったし、ヌーブラが仕込まれているので彼女のすべすべモチモチした胸元には、それまでには存在していなかった谷間というものができあがっていた。
これで無事ではないのは、件の年上彼氏の五条さんである。
彼女の水着が見れる!と思って仕事を必死に決死の表情で終わらせたし、久々にゆっくり一緒にいてドライブとかして、お喋りして、これだよ俺は夏にこれがしたかったんだよ……とちょっと泣きそうな心地だっだが、海に着き更衣室から着替えて出てきた彼女を見て、五条はカチン、とまた固まった。
ひらひらした布で隠れてはいるが、その布の隙間からは細っこい腕や柔らかそうな胸元が覗いているし、すべすべのお腹は丸っと出ていて、小さなビキニショーツだけを履いている。
「ど、どうですか……?」
彼女は先に着替えて更衣室の前で待っていた五条の前まで来て、恥ずかしそうな顔で上目遣いにこちらを見た。も〜今すぐに家に帰るか近くのホテルでも入りたいな…が五条の正直な気持ちではあったが、ここまで来てそれはさすがにご無体である。我慢した。
「めっっちゃくちゃ、可愛い……。
えっ、自分で選んだの?」
「あの、高校生のときの担任の先生に偶々会ってその方と、店員さんに……」
「なるほど」
通りで彼女にしては大胆なデザインだな、と思った。そしてここで他の男の名前が出ていたら五条はそいつに喧嘩を売りに行っていたので、高坂の読みは当たっている。
そしてすべすべのお腹もどういう訳かいつもより膨らんでいる胸元も、もっともっと見ていたいなとは思ったが、どうしても周りの目が気になるのが、五条である。絶対にこうなるだろうと思って持参した男物の自分のラッシュガードをそのまま彼女に着せて、ぴっちりとファスナーを上まで上げる。
水着に着替えたら、俺のラッシュガード着ててほしいな、はあらかじめ彼女にも言ってあったので、彼女も疑問なく五条にラッシュガードを着せられていた。そもそも普段から五条が彼女に自分の服を着せるのが大好きなマウント野郎のため、彼女のほうも慣れきってしまっているのだ。
高坂がこの場面を見たらこの馬鹿ップルめ、と吐き捨てていたがここには高坂は、残念ながらいない。何のための水着だよ……というツッコミは不在のまま、二人はイチャイチャしながらパラソルを立てて日焼け止めを塗りあい、浮き輪やビーチボールを膨らませて遊び始めた。
まぁ周囲には似たような馬鹿ップルも多かったため、二人が特別浮かれていたわけではない。それに平日だったので、夏休み期間と言えど土日祝よりかは人が少なかったのもよかった。
わいわい言いながら二人で遊び、お昼近くになって流石に少し疲れたね、と言って一度車に戻った。そこそこに田舎の方のビーチなので、近くにはコンビニもないし海の家はお昼時にはとても混む。
お握りくらいなら持っていきますとよ、と彼女が言ってくれていたのでそれと、来る途中のコンビニで買ってあった適当なお惣菜を摘まんで、ぼんやりと二人で海辺を見ていた。五条は明日も仕事があるし、お昼すぎには海から上がって着替えて、近くの日帰り温泉に寄って帰るつもりをしている。
もー…、帰りたくないな、と五条は思っていた。帰ったらまた仕事だし、彼女とは一緒にいられないし、ああそう言えば今年は彼女は村に帰省するんだろうか、一緒に帰れたらいいな……とか、そういう取り止めのないことを考えて、隣の彼女をちらりと見る。
彼女のほうは普段は外に出て遊ぶなんてことをあまりしないから疲れたのか、少し眠そうな顔をしていた。自分のほうを見た五条を見て、ぼんやりとしながら少し擦り寄ってくる。濡れたラッシュガードは一旦脱いで、上に大きなタオルを羽織ってはいたが、車内クーラーの風が少し冷たかったのかもしれなかった。
タオルの隙間から、いつもは存在しない彼女の胸の谷間が見えている。
「ミヨシちゃん、寒い?」
「ううん、くっ付きたいだけ」
衒いもなく言って、ぴっとりと腕と腕がくっつく距離で、彼女は五条の隣にいた。ちろ、と彼女が誘うような目で五条を見上げるので、少し考えてから、身を屈める。ちゅ、と少しだけ唇を吸ってキスをすると、脳味噌の奥がじりじり焼けるような心地がした。
彼女のほうからぬる、と口を開いて、少しだけ舌を差し出してくる。ああ、駄目だ、と思ったのにそのままゆっくりと舌を絡めて、いつの間にか彼女の腰に腕を回していた。ぬるぬると舌を柔らかく舐めあうごとに、正しい思考が霞んでいく。
はふ、と彼女が甘い息を吐き出したときに、ようやく吸い合っていた口を離した。彼女のいつの間にか自分の腕の中にいて、五条の着ているラッシュガードを掴んで、赤い顔でこちらを見上げている。
柔く押し付けられた胸元が、同じく五条の胸板で少しだけ、潰されていた。
「ね、……その胸さ、どうしたの?」
「あ、あの、……えと」
「ゴメン、言いたくないならいいけど」
「違うの、あの、シナ先生、高校のときの担任の先生が、カレシを誘惑しなさいって」
「うん」
「あの、なんかおっぱいに貼るヌーブラ?っていうの、してます……。変ですか?」
「そんなことない。すごい、えろい」
率直に言った五条に、彼女は頬を染めたままで、ほんのりと微笑んだ。胸を五条に押し付けているから、潰れて谷間の奥まで見えそうだった。じっと、彼女の腰を掴んでいる自分の手のひらが、今にも不埒な動きをしそうだ、と思う。
こんな真昼間の車の中で盛るなど、言語道断である。自分の倫理観云々よりも、彼女の『そういうところ』を他人に見られるかもしれない、という一点のみで五条はギリギリといつも激ヨワの理性を、何とか働かせた。
「今日は人いっぱいいて水着、たくさん見れなかったから。また今度、着てね」
「ん、おうちでってことですか?」
「ウン」
頷くと、彼女は少し恥ずかしそうな顔をして、「……五条さんの、えっち」と小さく囁く。だからさぁ、本当さぁ……。五条はそのまま押し倒したいのを何とか堪えて、少し彼女と距離を取った。このままでは本当に、取り返しがつかない程催してしまいそうだった。
「頼むから、ミヨシちゃん。あんまり、俺を煽らないで……」
「……え。そんなつもりは……」
五条に少し距離を取られた彼女が、物足りなそうな顔をして見上げてくる。そんなつもりはない、というのが彼女の悪いところだ。
「ミヨシちゃんが言う通り、俺はエッチな男だからミヨシちゃんが水着着てるの見て可愛いってずっとずっと思ってるし、何ならそのヌーブラを剥がしたいの。
わかる?」
「…………変態さんだぁ」
「だから、言ってるじゃん」
軽口を言い合って、流石にこれ以上くっ付いていたらどうにもならなくなる、と思い五条は「飲み物を買ってくるね」と告げて車を出た。エンジンはかけっぱなしだし中から鍵をかけるように言って、一人で海辺を歩いていく。海辺で遊ぶ子どもの、きゃらきゃらした笑い声が温くこだましていた。
以前にこのビーチに来たのは、椎良や反屋と一緒にで、まだ大学生のときだったように思う。三人でワイワイ言いながら交代で車の運転をして、日が暮れるまで遊んで温泉に行って、夜中に運転して帰った覚えがある。
そのときの五条と同じ大学生と言えど、彼女の遊び方はいつも何だか大人しくて、それが自分と付き合っているからなのか、それとも元々そうなのか。五条はまだ少し、図り切れていないところがある。
自分と付き合っていなければ、恐らく今のサークルメンバーの男のうちのどれかと付き合っていただろうし、同じくらいの年の男となら、もっと別の遊びをするだろう。
いいのかなぁ、と何度も思うくせに、自分の服を着せてマウントを取ったりギラギラ光る指輪を付けさせたり、髪に隠れて見えないところに薄っすらと噛み跡を残してみたり。そういう嫉妬心を隠すこともできなくて、ほとほと自分が嫌になる。五条は子どもの笑い声を聞きながら、そういうことを取り留めもなく、考えていた。
海の家は昼時が少し過ぎたこともあって、大混雑はしていなかったがそれでも人気は多い。彼女は何を飲むだろうか、かき氷とかのほうがいいだろうか。
思いながらぼんやりとメニューを眺めていると、ふと視線を感じた。誰か知り合いでもいるだろうか、と思って周りを見渡すが、特に知った顔はない。
気のせいで処理をして、とりあえずかき氷を買おうと海の家のカウンターへ近づくと、前から歩いてきた女性が目の前で急にすっ転んだ。どうにも、なんだかわざとらしい転び方に見え、そちらのほうに気を取られる。なのでその女性が持っていた飲み物がそのまま自分の方へぶち撒けられるのを、五条は避けきれなかった。
その女性が持っていたのはアイスコーヒーで、五条のラッシュガードにそのぶち撒けたコーヒーが思いっきりかかって、べったりと汚す。白っぽい生地だったのもあって、かなり大きく汚れてしまっていた。
すみません、とその女性は謝ってきたので、洗えばいいし、問題ないですよ、と言ってその場を去ろうとする。が、後ろから着いて来られて、弁償するとかクリーニング代を、とか言われる。
肩越しに振り向くと、女性は如何にも申し訳ない、という顔つきをしていたが、その向こうにこの女性の連れらしき数人が、にやにやしながらこちらを見ていた。
「すみません。連れが待っていますし、本当に大丈夫ですから……」
「でも、こんなに汚してしまって……。あのお兄さん、良かったら連絡先を教えてもらったら、今度お詫びとか」
「必要ありませんので」
「あの、さっき海でお兄さんが遊んでいたところ見てたんですけど、連れって妹さんですか? 家族思いなんですね」
「あの、本当に……」
もう飲み物を買うのは止めて、車に戻ろうかと思った。女性はしつこく言い寄って来て、どうも海で遊んでいるときから見られていたらしい。一緒にいた彼女のことを妹と言われて、少しイラっとしたのもある。
どうしようかな、と思った。まあ要するに所謂、逆ナンなのだが、このまま車に戻ればこの女も着いてきて彼女に余計なことを言いそうな気もするし、かといってこのままここにいても埒が明かない。
向こうでこちらをにやけながら見ているこの女性の連れが、こちらに来そうな気配だった。複数人で取り囲まれれば、更に抜け出すのが難しくなるだろう。どうしようかな……と思って溜息を落とした、その時だった。
「……弾くん?」
腰の辺りに緩く衝撃があって、はっとして見れば、自分の腰の辺りに車で待っていたはずの彼女が、くっ付いている。聞き間違えでなければ自分のことを「弾」と呼んだ彼女は、肩に五条のラッシュガードを引っかけただけの水着姿を丸出しの、如何にもあられない恰好だった。
五条の手のひらに、指に、彼女は指を絡めながら胸や、剥き出しの腹を五条の腕に押し付け、そうしてから、目の前にいた逆ナン女を見た。
「この人、弾くんのお知り合いですか?」
「…………ウウン。転んで、俺にコーヒーかけたからって」
「そんなの、洗えば大丈夫ですよ。…ね、私、洗ってあげます。この上着もずっと借りてるし」
「そうだね、そうしてくれると嬉しいな」
言いながら、彼女はイチャイチャと五条の腕を自分の腰に回して、その腰に回った手に指を絡めてみたりして、ウットリと五条を見上げてくる。
そして、目の前にいた女性にジ…と目線を向けた。
「気にしてくださって、ありがとうございます。
弾くんの服は私が洗うので、大丈夫ですよ。お姉さん」
「…………あ、はい。すみませんでした……」
「全然、気にしないでください。他人にコーヒーかけたら、びっくりしちゃいますよね」
彼女は普段のおどおどした態度が嘘みたいに流暢に言うと、青ざめた顔で身を引いた女性に笑いかけて、五条に「行こ」と言う。五条も頷いて、踵を返しながらそういえば、と思ってそのコーヒーをぶち撒けてきた女性に目線をやった。
「申し訳ないけれど。彼女、妹じゃないんだ」
それだけ言うと、彼女と指を絡めて手を繋ぎながら、海の家から出て行く。結局何も買えなかったけれど、これ以上ここにいるのも得策ではないだろう。
先ほどまでにやにやしながらこちらを見ていた女性の連れはお通夜のような雰囲気で、見間違えでなければ、彼女はその隣を通るときに、フフン、と勝ち誇った顔をしていた。
「……ひどくないですか、五条さん」
「え?」
「私にいつもナンパには気を付けてって怒るのに、ご自分はあんなナンパされて、あまつさえ、妹なんて……」
歩きながら、彼女が拗ねたように言う。
どこから聞いていたのだろう。文句を言いながら彼女は、もちもちと開いていたラッシュガードのファスナーを上げて、外にさらけ出していた水着姿をしまった。
ああやって何となくあられない恰好で出てきたのは、やっぱりわざとだったのか。五条は思って、そっと彼女を見た。
彼女は少し、気分を害したというか怒ったような素振りだった。
「ミヨシちゃん、俺がナンパされてるってわかって、来たの」
「やっぱり私も海の家行ってみたいな、と思って追いかけてきたら『ああ』で。
わかってなかったら、あんな出ていき方、しないです」
「もう一回、弾って呼んで」
「弾くん、私、怒ってますよ」
「ゴメンって」
言い合いながら、水際まで行って彼女は少し波打ち際を蹴って、五条に水をかけた。まだ怒った素振りの彼女を見て、怒った顔も可愛いな、なんて馬鹿みたいな、胡乱なことを思う。
どうしようもなく嬉しくて可愛くて、大好きで仕方なくて、五条はきらついた海面を背に怒った素振りをする彼女を、その光景をただ目に焼き付けた。
そして彼女には、五条がどうしようもなく彼女を可愛いと思って愛しいと思って、本当、俺はもうどうしようもないな…と、心底から思っている。そのときのその眼差しが、わかる。
五条がまたその眼差しをしたら、五条さんが私を大好きだってわかってしまうから。だから狡いんだ、と彼女はいつも、思っている。
なので、だから。
結局彼女の薄っぺらい怒りは、その五条の蕩けるような目つきに、全部ぜんぶ、溶かされてしまうのだった。
その翌日、「逆ナンから助けてもらったんだ〜」と五条は職場でニヤニヤと自慢話をして、無事に反屋にド|頭《タマ》をぶっ叩かれることになる。
夏に、かわちい彼女に、浮かれすぎでなのである。
多分後日談として、ヌーブラ剥がす話が出来上がる予定(予定)です✌️
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