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四、ひしめくの日々


 次の日、弾と彼女は再度雑渡に呼ばれて屋敷まで行ったが、二人で連れだって行くと

「え、ア…、そう、ウン。……はやいね」

 と気まずげな顔をして、雑渡に言われた。

「えー、最近の子ってみんなこうなの、ねえ長烈」
「私にわかるはずがないでしょう」
「エー、陣内」
「少なくともうちの子は、こうでないといいなと切に思っております」

 山本にしらじらと言われて、弾はウっと唇を噛んで俯いた。現代でいう、とんだセクハラ上司どもである。
 会って一目で弾がようやくの思いを遂げたことを見抜かないでほしいし、嫁入りまで我慢できずに手を出したことをやり玉にあげないでほしい。
 隣の彼女のほうは逆にあまり気に留めていないような素振りで静かに茶を飲んでいたが、山本の家内に着物の丈を合わせると言われて、連れて行かれてしまった。セクハラ上司の魔窟に置いて行かないでほしかった。

「いやぁ、もうね弾。私達はとても心配してたんだよ。君がいつまでもウジウジウジウジ」
「組頭、あまりうちの弾をいじめないでください」
「長烈も一回なんか思い余って、媚毒探してたときあったじゃない」
「ああ。あのときは、私がしっかりと仕込みすぎたせいで、こいつらに効きそうなものが見つからず。
 あれには思わず膝を打って笑いましたな」
「まさに『過去の自分に足元掬われる』ってね」

 ワッハッハと景気よく笑う上司たちに、コイツらもう既に出来上がっているのかと思って湯のみを見るが、どう見ても自分と同じ茶なのである。そもそもこのシゴデキ忍者たちが昼間から酒を飲むと思わないし、そもそも酔うとも思えない。
 完全に素面で、この乱痴気ぐあいなのだ。勘弁してほしい。

 その後戻って来た弾の父との話し合いで、結局名前としては「五条」の名前を残すことになった。つまり彼女のほうが五条へ嫁入りをすることになった。
 理由は、彼女の父である常磐津が自身の名前にあまり重きを置いていないこと(彼は行く先々で名前を変えるし、名乗ることも少ない。こだわりがないのだ)と、やはり「五条」という名前にかかっているだろう符牒が気になる、という雑渡の一言で決まった。

「この符牒が吉か凶かはわからないけれど、本当に符牒としてあるならば。
 いつか活きるときまで、残しておいたほうがいいだろうからね」

 雑渡のこの言葉で柏手を打ち、彼女は晴れて五条の家への嫁入りが決まった。



 とは言っても、弾と彼女の生活に対して変わりはない。弾の父は一両日でまたタソガレドキ本城へ戻り、彼女は諸国巡り開けの休暇のため村に滞在しており、押都は村で調薬方と何やら仕込みがあるらしく、しばらく村にいると言う。
 自然と弾も村に居残ることになり、父がいないので家には弾と彼女の二人である。
 昼間は黒鷲隊の詰め所でみんなと仕事をするが、夕暮れに家に戻ってこれば二人きりであるし、彼女の嫁入りが決まったのに殊更、別々の家に帰る理由もなくなった。
 土間の厨に立って菜を刻んでいた彼女の後ろに立って、すり、と擦り寄る。彼女は「危ないなぁ」などと小言をいうが、そのまま気にも留めず包丁を使っていた。

「弾って、そんな甘えただっけ」
「……ウン」

 弾は子どものように頷いて、彼女の腰に腕を回した。押都がしばらく村にいると言ったのは、彼女の休暇に合わせて自分を側にいさせるためでもあるのだろう。
 弾が彼女の背中から、厨の作業台に手をついてそのままそこに立っていると、彼女は刻んでいた菜を鍋に入れてしまってから、こちらを向いた。

「ずっと私のほうが弾に甘えていたのにね」
「うん、そう、……」

 じっと下から挑むように、悪戯めいた目で見上げられると弾はもう多くを喋る気がなくなってしまって、言葉少なに頷いたまま、彼女の目を見た。
 彼女はそんな弾の心のうちを知ってか知らずか、ほどけるように小さく笑って、二人の鼻先が擦れる。ちる、と口を吸うと、彼女は嫌がる素振りは一つもなく、弾の着物の腰の辺りを握った。

「夕飯、作ってたのに」
「うん、ごめん」
「……弾、なんだか、可愛いね」
「ウン」

 これは後々に、山本陣内大先輩とお話しして、弾は首が捥げそうなほど首肯することになるのだが、男とは、好いた女の前では飛んでもなく精神年齢が下がり、『甘えた』になってしまう悲し~い生き物なのである。
 かの山本陣内大先輩も言っておられた……、嫁の前での姿は誰にも見せることはできない。しかし、その我らのニャンニャンした姿を見ると嫁はトンデモなく可愛く「仕方ないなぁ」なんて言って、たくさんよしよしと可愛がって笑ってくれるので、我々はどうにも、もう駄目。諦めが肝要。ニャンニャンするしか道は残されていないのだ……と。

「我々とは実は、ネコちゃんだったのかもしれないな……」

 酒を食らいながら山本が哀愁を帯びた顔で言うので(酔ってる)、弾はクソ真面目な顔をして「我々は猫チャンです」と頷いた(酔ってる)。横で聞いていた雑渡(未婚)は飲んでいた酒を噴き出し、衝動的な笑いに腹筋をやられて呼吸もままならなくなり、その日の飲み会ではもう使い物にならなかった。押都はそれをしらじらと介抱していたので、押都小頭のポーカーフェイスってすごい。
 マ、その男どものザマはともかくとして。
 話を戻そう。

 彼女が珍しくしおらしく、自分の着物の腰の辺りを握って、ちゅ、ちる、と口吸いをするのにも徐々に甘い吐息混じりになり、なあなあのうちに互いの舌を絡める羽目になる。
 弾は少し酸欠気味のぼんやりした頭の端で、ぐつぐつと煮えている鍋の中身を見た。米も炊いているようだし、こんなことをしている場合ではない。しかし頭でそう思う理性に反して、自分の指は彼女の着物の帯を掴んで、それを引っ張っていた。

「弾、火を、消さないと」
「うん」
「…ね、弾、」
「わかってる」

 全然、わかってないのである。ちらりと横目で見れば、くべていた炭はもう大分小さく、その内に消えるだろう。同じく炊いていた米は生のままになるかもしらんが……、後で考える。
 弾はそこまでを思考すると、彼女の腕を自分の肩に回させそのまま尻から下、太腿部分をぐっと掴んで持ちあげた。彼女の足を割って、まるで大きな子どもを抱えるような弾のがさつな仕草に、彼女は大口を開けて笑う。

「弾、いつも私に『がさつだ』って言うくせに」

 どたどたと土間から上がり、居間に転がされた彼女は自分の着物を剝いでいく弾を見ながら、心底おかしそうに滲んだ目元を払った。笑い過ぎて、涙が出たようだった。

「言うだろう」
「何を?」
「よく、『夫婦は似る』って」

 弾がそう言うと、彼女はまるで春の花が咲くように、笑みを綻ばせた。むき出しになった足の先で、弾の腰を抱いて首に腕を絡める。彼女が弾の着物の襟に手をかけるのを好きにさせながら、弾はこつ、と彼女の額に自分の額を当てた。
 その後、二人が夕飯にありついたのは夜更けもいいところだったし、生煮えの米はどうにもならなくて粥にしたし、味噌汁は煮え切ってしまって鍋の底が少し焦げていたけれど。
 二人はそれで充分だ、と思っていた。
 心の底からどうにも、今が幸せだと強く強く、二人は思っていたわけである。





 まあ、そんなクソ甘新婚生活を二か月も続けていたので、彼女が次の諸国巡りに復帰する話が出るよりも早く、懐妊しているだろうと村の産婆から言われた。
 任務がら、彼女はいくらかの不妊薬や堕胎薬を使っていたので、そういう方面で産婆や調薬方とも付き合いがあった。月ものが遅れている、という話から新婚なのだしもしかしたら、と言われて産婆に体を診てもらったところ、これは恐らく妊娠しているだろう、となった。
 彼女はどうにも初期のつわりに眠気が来る質のようで、その状態で諸国巡りの任へ放り出すわけにも勿論いかない。春先に諸国巡りから戻った彼女は、夏過ぎまで村で静養をし、そしてその頃には目に見えて腹が膨らんでいた。
 弾は黒鷲隊の押都付きの任があるので村に常駐はできなかったが、それでもなるべく折を見て帰るようにしていたし、押都も雑渡も、別隊の山本までもが随分気を遣ってくれたように思う。
 あっという間に夏が終わって、秋が来て。そうしてそのまま冬になった頃に、その子は生まれた。
 弾は潜りの仕事をしていたので生まれたと聞いたのは、その出産があった翌日ではあったのだが、ようよう駆けつけた村では、彼女が赤子を抱いてへらへらと笑っていた。
 曰く、下がり眉なところが弾にそっくりで、とても可愛いよ、と。






「何度見ても不思議なんだよねぇ。生まれたばかりの時は皺くちゃ猿みたいなのに、今もう赤子の顔をして」
「組頭、失礼ですよ」

 子を抱いて訪った押都の屋敷で、子をつついて雑渡が言った。彼女が子を産むに当たり、一度黒鷲隊を離れたので機を見て何度か押都に顔見せをしているのだ。
 今回に弾が戻った際も、同じく村に戻った押都の元へ彼女と子を連れて会いに行ったが、そこには友人宅でくつろぐ雑渡の姿と、それに付き合わされている山本陣内の姿もあった。
 あうあうと小さく声を出している子どもを、雑渡は危なげなく抱くと頬をつつく。ふよふよだねぇと楽しそうに笑うので、横に控えていた弾はそれを見てほんのりと笑った。見た目に寄らず、子ども好きな人なのだ。

「息災か」
「はい、つつがなく」

 妻に出された茶を啜って、押都が彼女に聞く。普段押都は弾や反屋、椎良と共に行動をしているが、そもそも黒鷲隊の忍びとして彼女を仕込んだのは押都である。長く不在をしている彼女の父よりも、傍目には押都のほうがよっぽど彼女の父親らしい気配りをしていた。

「今はいいがなぁ、もう少し大きくなると人の顔を覚えるようになって。我々はきっと泣かれるぞ」

 雑渡の抱いた子を覗き込みながら、陣内が言った。

「そうなんですか?」
「そう、うちの子もひどくってなぁ。
 仕事をようよう終わらせて村に戻ってきたら『お前は誰だー!!』っていう、もうすごい勢いで泣かれるんだ。堪えるぞ」
「えぇ……」

 陣内の脅しに、弾は小さく息を飲んだ。子どもは男の子で、生え揃ってきた髪はうねっており、眉はどう見ても下がり気味で、どうにも弾にそっくりに見える。
 しかし目元はなんだか彼女に似ているような気がして、押都などは「ゆくゆくは黒鷲隊だろうな」などと気の早い小頭馬鹿ぶりを見せている。
 ただ、悪くないな、と思っていた。村に帰れば彼女が子と一緒に弾を待っていて、組頭や小頭に嫁と子を連れて会いに行く。今のこの時間が、そういうやり取りが悪くないと弾は思っていた。
 日暮れ前まで押都の家で談笑をして、それから二人で家に戻る。五条の家はそのままにして、結局常磐津の家で二人は暮らしていた。彼女の父は、依然何も便りがない。
 子を自分の前で布でくくって抱いて帰りながら、道の先を歩いて帰っていく彼女の後ろ姿を見ていた。
 腕を背中で後ろ手に組んで、ふらふらと先を歩いていく彼女の足首は、相変わらず細い。踊るように歩くので、彼女が背中で結った髪がそれに合わせて揺れていた。
 行く先の光は、暮れ時の光だった。まだ赤くはなく、白っぽい光の中へ向かって彼女は先に歩いていく。
 幸せだった。
 自分たちは幼い頃から、まともな家族というものをやったことがなかったけれど、きっとこれが反屋の家で弾たちが見てきた『家族』というものの形なのだろう。
 前に抱いた子は眠っていて、熱い体温と吐息の感触がずっとしている。
 彼女は踊るように、跳ねている。光の中の道を、楽しげに、踊るように。

 幸せだった。とても満足をしていた。
 愛した女を手に入れて、皆から祝福されて子どもができて、家に戻れば彼女が待っている。
 もっと早くそうしていればよかった、とまで思った。子ができたことで彼女が村に居つくのであれば、もっと早くに。
 でも、もういい。今がもういいのだから、これでいい。
 弾はそう思って、彼女の跡を追って道を歩いた。
 とん、とん、とん、と跳ねるように彼女は道を歩いていく。楽しそうだった、幸せそうだった。幸せそうに見えた。まごうことなく自分は、幸せだった。
 だから弾は、気づかなかったのだ。





 彼女が任へ復帰する、という話が出たのは季節が回って秋になる頃、子どもの首が座りそろそろ重湯を食べさせ始めて、乳離れをさせるのだ、と彼女が話した矢先だった。

「聞いていないのか」
「……聞いておりません」

 押都の言葉に、弾は愕然とした顔して、返した。表情を取り繕えもしていない弾を見て、押都が面の下で眉を顰める。弾は慌てて一度瞼をぎゅっと閉じると、目を開いて表情を殺した。

「失礼しました。真砂は領外への任へ、また出るのですね」
「そうだ。真砂にも言ってあるが、子の預け先について、夫婦でよく話し合っておけよ」
「承知しました」
「……弾」

 受け取った書面を持ち、タソガレドキ本城内の黒鷲隊の執務室から辞そうとする弾を、押都が呼び止めた。
 押都は普段の仕事中、弾を「五条」と呼ぶ。それを今「弾」と呼び止めたのは、押都なりの気遣いだろう。

「私は半年ほど前から、あれから任に復帰したいと相談を受けていた。てっきりと、お前と話し合ってのことだと思っていた。
 真砂とは、よくよく話し合えよ」
「…お気遣い、痛み入ります」

 弾はそれだけをようよう言って、押都の執務室を出た。心臓はどくどくと音を立てて、ひどく煩かった。
 本当なら今すぐにでも村へ帰りたかったが今は隣領のカワタレドキ城主との会談を控えており、とても大事な時期だ。押都はしばらく本城に籠り切りだろうし、弾もその補佐の任がある。
 心臓はずっと跳ねているのに、指先はひどく冷たい。腹の底がすうすうと冷たくて、吐きそうだった。
 いつから、いつからだろう。
 彼女が、子どもを産んで村に居ついたと思っていた彼女が領外での情報拾いの任への復帰を考えていたのは、一体いつからなのだろう。
 弾は思いながら、足早に城内を歩いた。ぐねぐねとした廊下を抜けて、そのまま見晴らし台のほうへ抜けていく。頭巾をしていない弾の髪を、風が撫でて過ぎていった。
 恐らく、初めからだろう。

 弾は思った。初めから彼女は、村に居つくつもりなどなかったのだ。子を産んで、動けるようになればさっさと仕事に復帰するつもりだった。
 子を為して、彼女を村に縛ったつもりでいたのは、弾の妄想だ。いつかの日の、道を跳ねて歩くような彼女の足の運びを思い出す。彼女は弾を受け入れて、愛して、嫁に来てくれたとしてもやはりどうしても忍びで、押都に使われて雑渡に使われて、そしてタソガレドキに使われる。
 どうやったって、弾一人のものでは、きっとないのだ。
 山の下から吹き込んでくる風に、弾は自分の頬を晒して遠くを見た。
 どうであれ、彼女と話しをしなければいけない。




 それからやっと村へ帰りつけたのは、三月が経ってからだった。夜遅くに家の戸を叩いた弾を、彼女は音も立てずに戸を開いて、迎え入れた。

「今回の任は大変だったって」
「…うん」

 小さく言って、首元に巻いていた襟巻を外して彼女に預ける。彼女は普通の嫁のように弾の荷物を預かると、張り付いていた木の葉を払って居間の衣文にかけた。
 子どもは前に見たときよりもずっと大きくなっていて、なんだかずんぐりとしている。眠っているが、もちゃもちゃと口元を動かしているので、何か食べる夢でも見ているのだろうか。

「今回はどれくらい、いらっしゃるんです」
「合間を縫って出てきたので、明後日には」
「次のお戻りは」
「わからない」

 普通の妻のようなことを言う彼女に、床に膝をついて子を見ていた弾は、じっと視線をやった。彼女は薄くうろたえるような顔をしたが、すっと目線を逸らして子どもを見る。

「子は、反屋の小母さんに預かってもらうことが決まりました。
 私は押都様からの命が出次第、領外探索の任に戻ります」
「そうか」
「……はい」

 それ以上何を言えばいいかわからなくて、弾も彼女から目を逸らした。ぱち、と囲炉裏で火種の弾ける音がする。

「明日、用事がなければ。弾が帰ってくると聞いて、領の外へ出る許可をもらってきました」
「……? どういう」
「子は、反屋さんに預けます。だから二人で、逢引しに行きませんか」
「…………は?」

 彼女は少しはにかんで、言った。反屋の家に子どもを預けて、わざわざ領外へ行く許可まで取って。全く意味がわからなかった。
 それでも、昔と同じように悪戯めいた笑みを浮かべてみせて、じっと弾を見る。弾は、ははっと小さく笑って、俯きながら自分の前髪をかき上げた。
 結局彼女は、昔から何も変わらないのだ。夫婦になったって子ができたって、彼女のやることはいつも弾の想像の上を行って、豪気で豪胆で、がさつで粗雑でちっとも女らしくないのに、驚くほど女に見えるときがあって。

「……いいよ」

 その悪戯めいた笑みの向こうに、彼女の泣きそうな顔があることを弾は知っている。弾はさっと顔を上げて、彼女を見て微笑んだ。それを見て、彼女は今度こそ本当に、泣きそうな顔をした。忍びらしからぬ、何も繕えておらぬ。
 それでもそれを叱ってくれる人は今、ここにはいない。
 ほにゃぁと小さく、子がむずかって泣き始めた。大声を上げてわんわんと泣きたいのは、親の二人にしたって同じだった。

 



 彼女が領の外まで弾を連れ出してきたのは、風の吹きすさぶ広い砂浜の一角だった。秋空はあまり青くなく、空の色を移すという海は、今はほの黒い青色をしている。
 ざぁ、ざん、と繰り返す波の飛沫に彼女は持っていた荷物を砂浜に放り出して、ざくざくと海のほうへ歩きだした。弾はその彼女が放り出した荷物を拾い上げて、ゆっくりとその後ろを追いかけていく。
 子は人見知りが激しいほうのようで、昨日も弾を見て大きく泣いていたし、今朝に反屋の家に預けるときもわんわんと泣いていた。彼女は若干心苦しそうな顔をしながらも、子を反屋壮太の母に預けて、村を出てきた。
 彼女は、海まで来てどうするつもりなのだろう。思って、ふ、と思い出す。
 村で過ごしていたときも、彼女はふとした時にいなくなると、森の中の池に飛び込んでいたっけ。

「待、――、」

 「待て!」と弾が声を上げようとしたときには、もう遅かった。ざぶん、と大きく音がして、彼女の体は海へ飛び込んでいく。弾は随分久しぶりに大きく大きく息を吐いて、手のひらで顔を覆った。
 替えの着物は、持ってきているのだろうか。いや、ないだろう。どうせ弁当と空の水筒ぐらいしか持ち歩かないのだ、あの女は。
 大きく息を吐くと、弾は近くの漁師小屋に向かって歩き出した。
 彼女を海から引き上げるまでに、真水と、火を熾す場所を借りておかなければならない。




 半時ほど海でざぶざぶと泳いだ彼女は気が済んだようで、ぼたぼたと垂れる水を髪から絞りながら海から上がってくると、「に、へへ」と呆れ顔の弾を見て、子どもみたいに笑った。

「向こうに物置小屋があるらしいから、借りた」
「弾はすごいなぁ」

 海風が強く吹くので、自分の羽織を彼女に着せかけてやりながら、弾は彼女の手を引いて小屋までを歩いた。歩いているうちの彼女からは歯の音が合わぬかちかちとした音が聞こえてきて、だから言ったことじゃないと小屋の中に叩き込んで、用意してあった火を熾す。

「どうしてお前は、子どもの頃から何も変わらないんだ」
「はは、ごめんねぇ、弾」
「その反省の色のない笑いをやめろ」
「うんうん、ごめんねぇ」

 彼女はまるで反省の素振りもなく、弾の熾した火に当たる。彼女の着ていた着物はじっとりと海水に濡れて、肌に張り付いていた。着物を脱がせて、真水で洗って乾かしてやらなければならない。

「ほら脱げよ、洗っておいてやるから」
「『ほら脱げよ…』なんて、弾も一端のすけべな男になったんだね」
「ほざいてろ」

 軽口を言う彼女から着物を脱がし、襦袢だけにする。着物よりも更に薄い地のそれは、彼女の肌にぴったりと張り付いていて、弾はウッと息を詰めて視線を逸らした。なんだかよからぬ気を、起こしてしまいそうだったからだ。
 彼女はそんな弾の様子を見て薄く笑って、着物を持った弾の首に腕をかける。

「別にいいよ、もう夫婦だし。弾はいつもそうやって私の体から目を逸らしていたけれど」
「そういうこと、じゃなくて」
「じゃあ、どういうこと?」

 彼女は聞いて、下から掬い上げるように弾の顎を掴んだ。水に濡れて重く垂れた髪の合間から、ぎらぎらとした彼女の目が弾を見る。こうやって男を誘うのか、と弾はその彼女を見て、思った。

「聞かないんだ、弾は」
「何を」
「私がどうして領の外に行くの、とか」
「そんな」
「私はね、怖いんだよ」

 彼女は手慣れた商売女のように弾に体を寄せて、ぴっとりと自分の頬を弾に胸に当てた。彼女の柔い体が、自分の腹に当たっている。弾は息を詰めて、彼女の黒髪を見下ろした。

「黒い獣に飲み込まれるのが、怖いんだ。今も」
「それは……」

 幼い頃彼女から聞いたことがある、海の中にいる大きな黒い獣の話。獣は轟轟と唸りながら大口を開けて、彼女の真下で自分たちを飲みこもうとしているのだという。そういう、幼い頃の怖い話を聞いたことを覚えている。

「夫婦になって所帯を持って、子どもができて弾の帰りを待つようになったら、怖くなくなるのかと思ってた。
 でもね、ぜーんぜん、そんなことなかった。ずっとずっと、怖いまま、今も。
 私はいつか、何か大きなものに飲まれて弾ともあの子とも会えなくなって……、」
「だからそうならないように、村でじっとしていれば」
「……そういうことじゃないって、わかってるでしょう!」

 焦れたように、彼女が言って弾の胸を叩いた。ど、と鈍く音がして、彼女が燃えるような瞳で弾を見上げる。
 その瞬間に、弾もかっと燃えるように、頭の奥で怒りが弾けた。

「だからって、また俺を置いていくのかよ!」

 叩きつけるように言った言葉に、彼女が頬を打たれたように瞳を揺らす。おいていくのだ、と弾は強く強く思った。
 結局この女は、いつもいつも弾に何の相談もなく自分で決めて、獣に飲まれるのが怖いと怯えを理由にして村を出て、そして気ままに外を歩いて男に媚びを売って足を開き、そうして弾を置いて、自分だけで外を行くのだ

 だから、嫌だったのだ、手を出したくなんかなかった。一度でもこの女を懐に置いてしまったら、彼女がそこを抜け出て外へ戻っていくときに、きっと自分はみっともなく行かないでくれなんて、彼女に縋りつく羽目になる。
 薄々とわかっていたから、だからどれだけ愛していようと彼女が欲しくて、抱きたくて、自分だけのものにしたくて、他の男になんか抱かれてほしくなくて。なのにそれを全部言えない、言えなかったのは。
 この女を二度と手放したくなんか、なかったからだ。
 それなら初めから、腕の中になんかなかったほうがよかった。

 弾の大声に目を見開いた彼女を、足払いをかけてそのまま地べたに組み伏せる。彼女は一端の忍びとはいえ、組み敷いてしまえば後は純粋な男と女の力の差だ。
 弾は彼女の肌に濡れて張り付いたままだった、薄い襦袢を強く引いて剥いた。
 肌に濡れて張り付いた汐の衣を、その潮騒を剥いでいくのに彼女は小さな声でやめてとか、ひどいとか言うばかりで、自分を置いて出ていこうとするこの女と、他の男に足を開いて外を、海を強請るこの女とどちらが酷いのだ、と弾は大声でわめいて泣きたくなった。

 今も潮騒が途切れることもなく、聞こえている。






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