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六、潮騒を剥がす


 自分たちの生きるこの世のことを思えば、「弾のために死にたい」という彼女の言葉は、どうにも痺れるほどに弾への睦言で、どうにもならないこの愛の、告白であった。
 弾も彼女もタソガレドキの忍びで人間で、この体は自分のものではなくタソガレドキのものである。
 自分たちの生き死には十中八九の割合で、任の最中か、タソガレドキのために使われるであろう命だが、それを「弾のために死にたい」と言うなら、それはまごうことなくこの愚かな自分たちの、どうにもならない愛情の染み出した結露のようなものだった。

 弾は翌日には村を出てタソガレドキ本城へ戻ったが、そのまま一月もしない間に、彼女が領外へ出たと聞いた。子は、やはり反屋の母親に預けることになった。
 二人で子を預かってもらう挨拶に行ってから「一人で子どもの預け先を探させて、申し訳なかった」と弾が謝ると、彼女はまた大粒の涙を溢して、ぼろりと泣いた。


 
 子は、弾が村に帰ると「かか、かか」と言って泣いていた。「ててだぞ」と言って抱き上げると、弾を見て不思議そうな顔をするのだが、それでもまた「かか」と言って泣く。
 反屋の母親は夜泣きがひどい、と辟易とした様子だったが、弾も彼女も仕事が仕事なので、黒鷲隊から反屋の母親にも多少の手当が出ている。仕事とすればやれなくはないが、と言った様子の反屋の母は、子ども時分から見ていた、息子と同じ年の弾たち夫婦に少なからずも、思うところがあるようだった。
 それでも反屋の母親が弾にも彼女にも何も言わず、お勤めだと言って子の面倒を見てくれるのは、それはまごうことなく親としての愛情だろう。
 弾は礼を言って子を自分の家に連れて帰り、誰も待っていない家で、子と二人きりで火を熾した。子は、家の中の記憶があるのか、常磐津の家に着くとぴたりと泣くのを止めたが、その中に自分の母親の姿がないとわかると、また大声で泣き始める。
 耳の奥まで混ぜられるような、がんがんとした子の鳴き声に脳味噌を揺すられながら、弾は子どもの背中をとんとんと節をつけて叩いた。泣きすぎて子どもは、けふけふと息を咳いている。

 任の合間を縫って数時間でも一日でも村に戻って、子どもに会って、また仕事に戻る。
 彼女は、長く戻ってこなかった。押都は何度か領外へ赴き彼女の様子を見ているようだが、弾には何も言ってこない。ただ死んだのなら、死んだ、と押都は言うだろうとそれは思っていた。


 
 少しまとまって休みが取れたので、村に戻って子に会いに行く。半年もすれば母の記憶が少しだけ薄れたようで、子は前ほどつらく泣かなくなったが、それでもふとしたときに「かか」と呟く。
 かか、が誰なのかは薄っすらとしているが、かかがいなくて寂しい、と気持ちは残っている。そういう顔に見えた。
 少し時間があったので、家の掃除をして反屋の母親によくよく礼を言ってから、子を連れて近くの山を登った。背中に負ぶわれている子どもは少しの間に重くなったようで、子どもってすごいよねぇ、と呑気な口調で言った雑渡の言葉を思い出す。
 ざくざく、と道を踏んで山を登り、木々の開けて風の通る山頂の近くで、弾は足を止めた。
 びゅう、と白くひんやりとした風が吹いて、弾の頬を撫でる。汗の滲んだ額を拭って、弾は背負っていた子どもを背中から下ろした。
 遠くには、陽ざしに光る水面が見える。

「見ろ。あの海に、お前の『かか』がいるかもしれないぞ」

 子を抱いて遠くを指さしても、子どもはきょとんとした顔で弾を見るばかりだった。それもそうか、と弾は苦く笑って、風を体で受けながら、遠くに見える水面を見る。
 あれが、どうにも自由で捕まらない女だということは、初めからわかっていたはずだった。
 けれど弾は。
 その自由さを含めて彼女を愛したのだから、元から弾に彼女を引き止めるすべなどひとつもないのだ。

 風が強く強く吹きすさぶ。どこか遠くから、潮騒の香りが運ばれてくるような気がした。
 あの風のように潮騒に遊ぶ自由な女は、次は一体いつ帰ってくるのやら。
 弾は不思議そうな顔をする子を見て微笑んで、そこで遠くの海を長く、眺めていた。







潮騒









 どぼん、と水の中に重く落ちていく音がする。
 口元から溢れたがごぽりと音を立てて、水面上へ上がっていく。きらきらと、光を弾いて輝いていた。
 弾は手のひらで水を掻いて、水面上に顔を上げる。幼馴染の姿はそこにはない。水に潜って遊ぼうというときの彼女はいつもこうで、弾は素潜り勝負には一度も勝てていない幼馴染の姿を思って、むっと口を尖らせた。向こうでは、反屋と椎良が水を掛け合って遊ぶ笑い声がする。
 もう一度、深く水に戻る。耳の中に水が入って、轟轟と音がする。水の中で彼女は、着物の裾を魚鰭のようにたなびかせて、ゆっくりと弾を振り向いた。
 水が体に絡みつき、淡く息が抜けてごぽ、と空気の弾ける音がする。
 衣が、水が、彼女の体に絡んで、膨らみ始めた乳房や細い腰の線をまろびやかにしていた。
 
 彼女は微笑んで、足で水を蹴って水面の光のほうへ上がっていく。その踊るような伸びた足と絡む着物の白い裾を見ながら、いつか。
 いつか君の身に張り付いた潮騒を剥がすのならそれは、自分がいい、ただそう思っていた。
 
 それだけだった。






―了―







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