前回読んだ位置に戻りますか?

この先、性的表現を含みます。高校生を含む18歳未満の閲覧は固くお断りしています。
あなたは18歳以上ですか?

水星ヒドロゲン


「今聞くことではないかもしれない」

 雪は掴んでいた彼のシャツを、はっとして離した。袖のところに小さく皺が寄っている。衝動的だった自分の行動が、雪自身でもよく理解できなかった。

「あなたにとって、桜木花道とは、どんな存在なのですか?」

 二人が見つめるコートの上では、痛みを堪えて花道が笑っていた。雪は、花道が元来そういう強がりな人間であることを知っていた。十年以上も前から一緒にいるのだ。知らないほうがおかしい。

「……幼馴染です」
「カテゴリーではなく、もっと心の中の話です」

 桜木花道という存在。山王の十五番に渡ったボールは、そのまま巨大な彼の手によってバスケットの中へ放り込まれようとしていた。背中の痛みに体を屈めていた花道が、それを堪えて飛び上がる。ダガッと音を立てて花道が弾いたボールを、すかさず宮城がキャッチした。瞬間、流川と宮城が対のバスケットに向かって駆け出す。花道の体は、ジャンプからの着地をすることができず、コートの床に倒れた。それはまるで、スローモーションのように、ゆっくりと。

「花道が痛い思いをするのがいいと、思っているわけではないんです」

 花道のところへ駆け出しそうになる足を必死で押しとどめながら、雪は言った。観客からの歓声に、この声はかき消されてしまいそうだ。けれど隣にいる安西ぐらいには、ちゃんと聞こえているだろう。

「花道が苦しいなら、わたしも苦しい」

 雪はぎゅっと手のひらを握り締めた。

「けれど、その痛みや苦しみ以上に花道が、この試合に勝つことを望んでいるなら、わたしはそれを叶えさせてあげたい」
「それは、友情ですか?」
「わかりません。わたしは、知らないことがたくさんある」

 三井が放ったショットは、スパンときれいにバスケットへ収まった。死守!と誰かが叫んでいる。隣の安西も彩子も、強く手のひらを握り締めていた。雪には、これが痛みなのかなんなのか、わからなくなってきた。ただただ目が熱く、涙が溢れ出しそうになるだけで、強く手のひらを握り締めるだけで。

「随分昔に、あなたを紙面で見かけたことがあります」

 搾り出すように安西は言った。

「私はそのとき、アメリカという単語に敏感でしたから、だからあなたの記事もすぐ目に留まった。米国在留邦人、十一歳の天才少女。見出しは確かそんなものでした」
「わたしは十一のときに、学校で一から千までのフォーフォーズを解いてしまったんです」
「小さく載っていた白黒写真の中のあなたは、とても冷めた目をしていた。印象的でした。五年以上経った今も、はっきりとその写真を覚えている」
「失ったことが、とても悲しかった」

 大切な存在。かけがえのない存在。離れてみて初めて雪は自分がどれだけ花道を必要としていたのか知った。花道の笑顔に、自分がどれだけ救われていたのか知った。
 山王の七番によって弾かれたボールに向かって花道が飛び込む。腕をいっぱいに伸ばしてボールを掴むと、あんなに嫌っていた流川に向かってそれを放り投げた。ボールではなく、花道の体がコートの上に跳ねる。見ていられなかった。雪は自分の両腕をぎゅっと抱きしめる。けれど見ていなければならないと思った。

「花道が大切です。花道が痛い思いをするのは嫌です。でもそれ以上に、花道が悲しい思いをするのが嫌です。花道から……、花道からバスケットを取らないで」

 ついに涙が声に混じったのがわかった。語尾が小さく震える。コート上の花道の顔は痛みに青褪めていた。安西は何も言わずに、花道の交代を指示する。リミットなのが雪にもわかった。
 山王、残り十秒を切ったところでの七十八点目。超えたと思ったらまた超え返されて、誰もが一瞬呆然とした。けれど、花道だけは違った。花道は一人、コートの中を駆けていく。痛みを堪えて、汗を垂らして、必死に、必死に。
 ねえ花道。わたしも頑張れるだろうか。雪は思った。わたしも花道のように、自分を必要とし期待してくれるような、そんなものと出会うことができるだろうか。それは例えば父親や母親から強要されたものではなく、わたし自身がそれを選択することができるだろうか。
 流川がコートを蹴る。空を飛ぶ。その横で花道は、ずっと待っていた。花道のシュートが入る確立が一番高い、右四十五度で。流川がボールを放る。受け取った花道はそれを掲げて飛び上がった。
 左手は添えるだけ。何度も何度も練習した。そのボールがもしバスケットをくぐったなら、わたしはきっと前に進もう。父親と母親から逃げているのではなく、前を見よう。あんたが自分を必要とし期待してくれるものを見つけたように、わたしも。
 ボールがネットをくぐり抜けるその音に、雪は涙した。






 陽光が十分に降り注ぐ背の高い部屋の中は、ちょうどよい温度と湿度に保たれていた。大きなガラス窓は触れるとひんやりする。遥か眼下を見下ろすと、途切れることなく続いていく車の列が、まるでありの行列のようだった。
 窓を背にしたオーク製のデスク脇には、大きな水槽が置かれている。ガラスの内側には青色のフィルムが貼ってあった。青く透き通った水の中を、ブラックテトラの群れが横切っていく。その底をピクタスがのっそりと這っていった。青の中で、白いエンゼルの異常に長い鰭が揺らめいている。ダイアモンド・エンゼルをさらに改良したものか、と当たりをつけたが、実際にはわからなかった。ただ、水槽の内側に貼られた青色のフィルムは、この魚の色彩との対比を狙ってこのことだったのは明白だ。ブラックテトラもピクタスも瑞々しい色をした水草も、あのエンゼルのために存在している。

「Was it pleased?
 (お気に召されましたか)」

 不意に話しかけられて、雪は肩を揺らした。気づかなかった。雪は唇を噛んで振り向く。この男はいつも、気配を消すのがうますぎると思う。忍者か己は、と毒を吐いたら、実は母は日系人なのです、と驚愕の事実を知らされたのは記憶に古くない。どこからどう見ても、生粋の白人であるように見える彼に、実は自分と同じ血が流れていたとは。

「Teddy. I always say, please don't make state I can't feel your signs.
 (テディ。気配を殺さないでって、いつも言ってる)」
「If you call me "Theodore", I'll do it. Even call you me "Ted", on this occasion I allow.
 (貴方が私のことを、『シオドア』とお呼びくださるのなら、そうしましょう。この際、『テッド』でもよしとします)」
「Why are you unwilling to call Teddy. It is good nickname for president. I have heard Roosevelt was very popular president.
 (なんでそんなに、テディって呼ばれるのが嫌なの。大統領にちなんだ素敵な愛称じゃないか。ルーズベルトは人気者だったって、聞いているよ)」
「Not such a matter.
 (そういう問題ではありません)」

 シオドアは肩を竦めて首を振った。こういう仕草は多分に米国人臭い。雪は口先だけで笑うと、また水槽に目を戻した。つ、と指先を水槽のガラスに押し当てる。

「When will dady come back?
 (父さんは、いつ頃戻ってくるって?)」
「He will come back in two hours.
 (もう二時間もしたら、恐らく戻ってみえるでしょう)」
「Two hours! I am likely to faint.
 (二時間!気が遠くなるね)」
「He is working tooth and nail to meet you.
 (彼も、貴方に会うために必死で仕事をこなしてみえますよ)」
「As he will saw me after an interval of two and half years.
 (なんせ、二年半ぶりだからね)」
「Has it already passed so much?
 (もう、そんなになりますか)」

 貴方が一人で日本へ帰ってしまってから。 シオドアは懐古するような口調で言った。水槽に押し当てた雪の指先に、エンゼルが一匹すうと近寄って、餌を食むかのように口を動かした。かわいいなあ、雪が思わず溢すと、シオドアは感慨深く言った。

「Time changes us.
 (時間は、人を変えますね)」
「You are like the old person.
 (年寄り臭いこと言うね。お前)」

 雪がまた口先だけで笑うと、彼もまた首を振った。

「Well, you have had visiter.
 (そう、貴方にお客様がみえていますよ)」
「Visiter?
 (お客?)」

 雪は怪訝に思ってシオドアを振り向いた。こちらに来たからと言って、会いに来るような知り合いは雪にはいないはずだった。こちらで学校に通っていたときのクラスメイトには結構ひどいことをしたから、こちらも会いたくはないが向こうだってもう二度と会いたくはないだろう。しかし他に知り合いがいただろうか、と思案する雪を他所に、シオドアがドアを開いてその訪問者を招きいれた。

「どうぞ。お入りください」

 急に日本語で話しだしたシオドアの後ろからひょっこり顔を出したのは、もう二度と会うことはないだろうと高を括っていた坊主頭の青年だった。飛行機の中での出来事が、雪の胸にありありと蘇ってくる。

「あ、雪ちゃん。一週間ぶりだなあ」
「飛行機の中でお友達になったのでしょう?」

 完璧に「心からの善意です」といった風の微笑みを浮かべたシオドアに、けれど雪は作為を感じた。引きつりそうになった頬になんとか笑みを浮かべながら、雪はわざと英語で言った。それも末尾の三単語を強調して。その雪の微笑はどうやってもシオドアに勝てそうにない。

「Theodore. He is not my friend.
 (シオドア。友達じゃなから)」
「あ、今もはオレにも聞き取れた。ひーいずのっとまいふれんど!」
「After all, you was talking happily in airport, wasn't you?
 (だって、空港で楽しそうにお話していたでしょう?)」
「あ、あふたーおーる?」
「No. It's not "happliy".
 (違う。『楽しそうに』じゃないだろう)」

 シオドアはやれやれというように首を振って、その青年に向き直った。

「折角再会されたのですから、二人でお食事でもされてきてはいかがですか?雪も、まだ昼食をとっていないのですよ」
「え、いいんすか。よし雪ちゃん、行こう!」
「ちょっと、勝手に話を進めないでくれない?大体なんでコイツがここにいるんだ」
「『コイツ』呼ばわりはないだろ、雪ちゃん」
「あんたに『雪ちゃん』呼ばわりされる覚えもないんだけどね」

 冷たく言い放つと、雪は二人に背を向けた。

「お腹減ってないから、行かないよ」

 後ろで二人が顔を見合わせている気配がする。そして大きなため息。それでも梃子でも振り向くもんかと、雪は水槽のエンゼルを睨みつけた。彼だか彼女だかには、睨みつけられる謂れは全くないはずなのだが。

「仕方がありませんね」

 シオドアの声はやけに近くで聞こえた。まさかと雪が振り向く前に、体がひょいと宙に浮く。わお!と沢北が叫んだ。

「シオドア!下ろせ!」
「沢北さん。申し訳ないんですけど、この子少し連れ出してもらえますか?こっちに来て一週間はホテルにこもって、今日やっと出てきたと思ったら、今度は父親のオフィスにこもってるんですから」
「下ろせっつってんだよ!ハゲ!毛ぇ抜くぞ!」
「いっすよ。どこでもいいんすよね?」
「ええ。とりあえず日光を浴びせてください」

 横抱きのままで扉まで連れて行かれ、ドアをくぐったところで下ろされた。睨み上げる雪に、シオドアは涼しい顔でこう言った。

「二時間経ったら戻ってきてもいいです。その前に戻ってきても、入れませんからね」
「……二時間後に父さんは帰ってくるんでしょ?」
「待たしておけばよろしい」

 部下が上司に向かっていうことかよと雪は思ったのだけど、こうなればシオドアは頑として譲らないだろう。そのことがわかりきっていたので、雪はおとなしく踵を返した。待てよ、と泣き虫の青年が後を追ってくる。「そういえば」。思い出したようなシオドアの声が頭上から降った。

「私はハゲじゃありませんからね」

 はいはい。


 「ていうかさ」

 雪は横でアイスクリームを舐めている青年を半眼で見ながら口を開いた。

「ほしいの?雪ちゃん」

 一口あげようかと差し出されたそれを雪は、「いらない」と冷たく断ったのだけど、それが彼に堪えた様子はなかった。ちっと小さく舌打ちする。「お行儀悪いよ」と沢北。それを無視して話を元に戻そうと、雪は再び口を開いた。

「なんであんたシオドアと知り合ってるの、それもいつの間にか」

 パリパリパリパリと薄いコーンまで咀嚼しきってしまうと、沢北は手についていた乳白色のバニラクリームをぺろりと舌で舐め取った。その様子を見て、雪は仕方がなくハンカチを差し出す。沢北は「ありがとう」と至極嬉しそうに受け取った。

「やっぱ女の子だね」
「質問に答えてくれないかな」

 冷ややかに言う雪に、沢北は首を竦めた。

「もうちょっと笑ったら?インハイのときの笑顔、可愛かったのに」

 この往来で思いっきり引っ叩いてやろうか、と雪はその瞬間に思った。あのインターハイのときのことは、今思い出しても慙死の思いにかられる。あんな、あんな衆人の真っ只中で花道に抱きついて泣くなんて。しかも、この目の前の男は、それを見ていたというのだ。ぐっと言葉に詰まった雪に、沢北はいっそ晴れやかに笑いかけた。

「湘北のベンチさ、他にも何人か女の子いたけど、オレはあの雪ちゃんの泣き笑いが一番印象的だったな。制服着た背の低い子も可愛いとか、気の強そうなマネージャーもいいって先輩ら言ってたけど、オレは断然雪ちゃんだったな!」
「……それ以上言ったら殴るから。グーで」

 雪がぎゅっと拳を握り締めると、さっと沢北の顔色が青くなった。飛行機の中で雪に、本当に殴られたことを思い出したらしい。いい気味だと雪は鼻で笑った。
 ていうか、負けた試合なのに女の子観察してる暇なんかあるのか。そう思って雪は、じろりと侮蔑の視線を投げかける。

「あ、誤解ないように言っとくけど、見たのはビデオでだから」

 あの痴態がビデオに保存されているのかと思うと泣きたくなった。がくりと項垂れた頭の上から「どうした?」とのん気な声が振ってくる。痴態に死にたくなる前に忘れようと心に決めて、雪は四度目の催促をした。

「で、なんでシオドアと知り合ったわけ」
「ああ、さっきそこの道の角で話しかけられたんだ」

 と指差す沢北に雪は、「シオドア……」と頭を抱えた。一回見たっきりの東洋人に気安く声をかけるな。

「『突然申し訳ないんですが……』って、ガタイのいい明らかに西洋人なお兄さんに日本語で話しかけられて、最初は『なんだこれ新手の詐欺か!オレそんな御のぼりさんか!』って思ったんだけどさ、よーく見たら空港に雪ちゃんのこと迎えに来てたお兄ちゃんに似てっなーって。だから一か八かで『あ、雪ちゃんの!』って言ったら、あの、しおどあ?さん?もわかってくれて、『雪のお友達ですよね、よかったら』って言うからさ」

 ついて行っちゃったと言って笑う沢北に、雪は再度頭を抱えた。外国で得体の知れない人間について行くな!一か八かで情報を相手に与えるな!そのうち誘拐されるぞ!と叫びたいのを堪える雪の横で、沢北は運命的だよなあと、のん気な顔で笑っていた。

「つーかさあ、聞こう聞こうと思ってたんだけど、雪ちゃんって本当に湘北十番の彼女じゃないの?」
「……違う」

 飛行機の中での叫びに一度否認しているので、実質この質問をされるのはこれで二度目だ。雪はため息を吐いて首を振った。

「じゃあ、流川は?」
「流川?なんで流川が出てくんの」
「違うんなら、いい」

 首を傾げた雪に、沢北は「戦う前から負けてたら嫌だなと思っただけ」とよく意味のわからないことを言った。


 たくさんの人がそのドアに触れて、そして延々と磨かれ続けてきた。そんな匂いのする扉に手をかけて、雪はそっと押した。きぃと柔らかい音がして、ドアが開く。室内は薄暗く、青色の水槽だけがぼんやりと光っていた。

「電気点けなよ。父さん」

 窓辺に立って外を眺めていた人影に、声をかけるとその人はゆっくりとこちらを振り返った。いや、と小さく聞こえた声に雪は、壁のスイッチへ伸ばしかけていた手を引っ込める。ごぽりと空気が弾けた。

「友達と夕食を摂ってきたそうだね」
「シオドアに聞いたんだろうけど、友達じゃないから」

 そうかと父は言ったけれど、そのことに特に興味がないのがひしひしと感じられた。部屋の中は薄青く光っている。まるで水槽がこの部屋全体に広がったようだと雪は思った。

「その水槽は、父さんの趣味なの?」
「いいや。シオドアが置いていっただけだ。彼の気が済んだようなら、そのうち片付けさせる」
「相変わらず、冷たいね」

 イッツクールと歌うように雪は言った。父はにこりともしない。雪はよく人に、特に同性に、「冷たい」などと言われるけれど、この人ほどではないと思っていた。これほどまでに頑なではないし、これほどまでに冷たい目はしたことがない。

「それで、何の用があって来たんだ」
「娘が、あなたの顔を見に来たとは思わないの?」
「そんなことはあるはずがないと、君自身が一番わかっているだろう」

 雪は思わず笑ってしまった。ここまで冷え切った親子関係も珍しかろう。いっそ清々しい答えだと雪は思った。

「花道がさ、高校に入ってからバスケットを始めたんだ」
「バスケット?」
「そう。バスケットボールのことだよ。この国にいるのなら、いくらあなたでも、一度くらい見たことがあるでしょう?」

 怪訝そうに眉を寄せた父に、雪は柔らかく首を傾げた。父は「ああ」と思い出したように頷く。仕事人間のこの人でも、さすがに知っていてよかった。バスケットボールというスポーツの説明から始めるというのは、考えるだけでも難儀だ。

「それが一体なんだというんだ」
「何ってこともないんだけれど、そのバスケットで花道がインターハイに出場したんだ。それで、例年優勝していた高校に勝った。その試合中、背中に怪我をしたけど」
「だから、何が言いたい」

 雪の言葉を、父は顔には出さずとも、ひどく鬱陶しそうに聞いていた。唇の端が歪んでいくのを雪は止められなかった。まったく、笑ってしまう。この人ったら、自分のことしか考えてないんだから。

「花道がね、コートの上ですごく頑張ってる姿を見て、わたしも頑張ってみようかと思ったの。だからここに来た。ずっと、あなたにもう一度言わなければならないと思ってたから。わたしは高校を卒業するまでは、絶対に日本にいる。だから高校を卒業するまでは、わたしに構わないで」
「親の庇護を受けている未成年が、何を言う」
「そういうのは、親の義務をすべて果たしてから言って。お金だけですべてが解決すると思わないで。あなたが果たすべき義務は、お金の問題だけではない」

 父は何も答えなかった。そのことについて、今更議論をするつもりもなかったので、雪はそこで一歩引く。言質が取れればよかった。父も、「覚えていない」とのたまうほど愚かではない。

「約束して。高校を卒業するまでは、わたしに構わないって」
「では君も約束しなさい。その契約期間を引き延ばすために、留年などの馬鹿な真似はしないと」

 そんなこと、考えてもみなかった。雪は一瞬呆気に取られて、言葉を返せなくなってしまう。

「……よくそんなこと思いつくね」
「可能性の芽は、でき得る限り摘んでおかなければ。それで、返事は?」
「約束する。19歳の誕生日には、卒業してみせましょう」
「ではわたしも約束しよう。君は1996年4月2日、19歳の誕生日までは自由だ。私から君への干渉はない。君に言わせれば、私には我が子への監督権も懲戒権もないようだから」

 非常に遺憾だと言い出しかねない父の態度に、雪は怒りを通り越して呆れてしまっている。散々ほったらかしておいて、何を今更。それでも雪は彼に向かって「ありがとう」と言った。意外そうに父の目が見開かれる。

「成程。シオドアが『時間は人を変える』などと年寄り臭いことを言っていたのは、このことか」
「父さんにも言ったんだね、それ」

 雪はため息を吐きながら、父に背を向けた。言質が取れればもうこの場所に用はない。今からでも日本に帰るつもりだった。そして、花道に会いに行きたかった。

「しかし私は、時間がそんなに簡単に人を変えるとは思えないな。君の逃げ癖が直っているとも思えない」

 相変わらず嫌味な人だ。雪はドアの手前で彼を振り返ると、ミートゥと笑って返した。

「わたしも、あなたのその仕事への貪欲さが変わっていないとは思えない。心を病んだ娘に打つ鞭は、まだ持っているでしょう?」
「二年後。私は君の首に縄をかけてでもここへ引きずってくるぞ。絶対だ」
「せいぜい、首を洗って待ってます」
「雪」

 二年振りに名前を呼ばれた。光沢のある扉に背中を預ける。シオドアは、このアクアリウムを撤去したほうがいいだろう。この青は人の心を逆撫でする。

「私は、君を自慢の娘だと思っている」
「わたしもだよ、父さん」

 酷薄な笑みを浮かべて雪は今度こそ踵を返した。でもそれは仕事上だけだよ。扉の向こうで雪は小さく呟いた。






 その後すぐに日本に戻った雪の元に、一通のEメールが舞い込む。見覚えのないメールアドレスに、デリートキーを押そうとした雪をインターホンのチャイムが押しとどめた。小さく舌打ちしてドアホンを取る。届け物ですという男の無機質な声を聞いて、雪は玄関の扉を開けた。「サインを」。ペンを差し出した男の目線は明らかに自分の体を嘗め回していて、不快感に雪は眉間の皺をさらに深くする。宅配便の男がそれに気づいた様子はなく、にやりと笑うと粗雑に会釈をして去っていった。今度から宅配便を受け取るときには、メリケンサックかスタンガンをポケットに忍ばせておこう。雪はそう決意しながら受け取った包みの差出人を見る。それはアメリカからの航空郵便で、差出人は「EIJI SAWAKITA」となっていた。エイジ?誰だろうかと訝しむと同時に、既視感が頭の隅で閃く。ふっと思考を沈ませた後に、雪は再び鈍い起動音を立てるコンピューターのディスプレイに向き直った。ドットのアイコンをダブルクリックして、先ほどデリートしそうになった一通のメールを開く。メールアドレスに入った「eiji」の文字。英語ではなくローマ字書きの読みづらいメールに目を通しながら、雪は自分でも気づかないうちに目尻をほんの少し下げていた。宅配便の袋の中から一本のビデオテープを取り出すと、それをビデオデッキにセットし、再生ボタンを押した。スピーカーから歓声が流れ出す。雪が今まで聞いたことのあるものとは言語が違ったけれど、その声に溢れている愛情は全く同じだった。カーソルを移動させて返信のアイコンをクリックする。パチパチパチとキーボードを弾いて打った文章はこうだった。

 "Can you write in English, I'll reply to your e-mail."(英語で書けたら返事してやるよ)












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