そして再び、一ノ瀬雪の章
体育館からは光が漏れていたから、恐らく誰かいるのだろうということはすぐに予想がついた。今日は海南で練習試合があったばりだというのに、ご苦労なことだ。重たい戸を力いっぱい開けると、流川がリングにボールを叩き込んだところだった。その音は人気のない体育館の中に大きく響き渡った。流川は息を吐き、シャツの裾で汗を拭く。雪は体育館の中に入ると、元の通りに扉を閉めた。もう八時を過ぎている。こんな大きな音が近隣に漏れたら迷惑だろう。
「あんた、帰ったんじゃなかったのか」
「帰った。駅まで帰ったんだけどね」
雪は戸惑ったように自分を見る流川を無視して、ゴール脇に転がっていたバスケットボールをひとつ取り上げた。タムタムタムと床に突く。男子用のボールはやはり重く、雪の手に余った。
下から上に伝えるように。ぐっと膝を下げると雪はゴール脇からシュートを放った。制服のスカートが頼りなく揺れる。以前晴子の前でこのシュートをしたら、すごいすごいと言って褒めちぎられたのだが、雪はこのワンハンドのシュートフォームしか知らないだけだった。花道が練習をしていたのを見ていたら、自然とできるようになってしまっただけ。雪は昔からそういうことが得意だった。
ボールは美しく弧を描いてリングの中に吸い込まれた。シュっと柔らかい音がする。ほんの少しだけ心が軽くなったような気がして、雪はほっとため息を吐いた。パンパンと軽く叩いて、乱れたスカートのプリーツを直す。
「流川。わたしここでちょっと遊んでるだけだからさ、気にしないで練習してて。気が散ったら悪いけど、邪魔しないようにするから」
雪は流川を振り返らなかったのだが、流川は首を振るような仕草をしたのが感じられた。すぐにまたドリブルと、バッシュとコートが擦れるキュッキュッという音が聞こえ始めた。雪は大きく息を吐いて、まず屈伸運動をした。それからぐっと前屈をして脹脛の筋肉を伸ばした。首と肩を回し、足首も回しておく。
「手首も」
流川が反対側のゴール付近から口を出した。雪は「うん」と素直に頷いて、言われた通りに手首も回した。はあ、と再度大きく息を吐くと、ゴール下に転がしておいたボールをもう一度手に取って、コートのセンターラインまで戻った。後ろでは流川が静かにシュートの練習をしていた。やはり気を使わせているのかもしれない。早めに帰ろうと雪は心に決めた。
両手でトン、トンと二回ボールを突いた。両の手のひらの中でクルリとそれを一回転させると、雪はボールをバスケット目掛けて大きく振りかぶった。全身の筋肉を使ってそれを放り投げると、振りかぶったときに踏み出した右足をそのまま一歩目として、リングに向かって駆け出した。やはり自分の力では、ボールは失速してリングの手前で落ちる。雪はトンと床を蹴ると、右手で落ちてきたボールを掴み、そしてバッグボードに叩きつけた。ガンと音がしてボールは跳ね返り、センターラインのほうへ戻っていく。片足で着地すると、雪はまたボール目掛けて走り出した。床に落ちようとしているボールを大きく跳ねて掴むと、その反動を使い宙で体を反転させてリングを狙った。ここまでは以前ビデオで見たことのコピーだった。けれど、女である自分がビデオの中の人物のように、普通のシュートフォームでショットを放っては届くはずがない。だから雪は力任せに両手でボールを放り投げた。その直後、硬い床の感触が左肩と背中を打った。雪はうっと声を上げる。同時にシュっと柔らかい音がした。
テン、テンテンとボールが跳ねる音がした。雪は肩を抑えながら起き上がるとトツトツとまだ跳ねているボールをぼうっと見つめた。そして、高くにそびえるバスケットを。痛みに涙が滲みそうになった。
「……いたい」
「ったりめーだ。どあほう」
独り言のつもりで呟いたのに、予想外に返事されて驚いた。振り返ると流川がセンターラインの向こう側から、じっと雪を見ていた。雪はハハ、と小さく笑うと肩を抑えたまま、体を倒した。打った左肩をかばうように右手に倒れたので、自然、センターラインに足を向けてしまった。体育館の天井が遥かに、高く高く見える。そこから吊り下げられた電球が眩く光っていた。眩しさに目を細めると光は潰れて、クロウリーのヘキサグラムのような形になる。眩しくって、さらに腕で瞼を覆った。片膝も立てると、汗で肌がべたついていた。
「……おい」
「うん」
抗議するように流川は声を上げたけれど、雪は返事をしただけでそれを無視した。今更になって目の前がちかちかとしてくる。体育館の天井がぐるぐると、メリーゴランドのように回っていた。横になっていないと喉の奥から胃液が溢れ出てきそうで、きっとこれは急な運動のせいだけじゃないんだろうと、頭の隅で思った。
わかっていた。どうしようもないことなんだと。それでも、感情がついていかなかった。だってとても苦しかったのだ。
「流川ぁ。また吐きそうって言ったら、どうする?」
「ブっ殺す」
彼は先日のことで随分懲りたようだった。雪は腕で瞼を覆ったまま、くっと唇の端を曲げて笑った。不意にふっと、視界が翳る。不審に思って右腕をどけると、流川が自分を覗き込んでいた。
「飲め」
短く言って、流川は白っぽいボトルを差し出した。雪は何とか上体を起こし、それを受け取った。ぼやける視界で注視すると、それはスポーツドリンクの入ったボトルだった。恐らく流川のものだろう。折角だから遠慮なく、とボトルを煽ると水っぽくも甘い味が口いっぱいに広がった。冷たい液体が食道を伝って胃へと落ち着くまで待ってから顔を上げると、不思議と吐き気が軽くなっていた。
「ありがとう。吐き気、楽になった」
流川は「ん」と小さく頷いて自分もそのボトルを煽った。そして一息つくと、またボールを拾ってバスケットと向かい合う。雪は流川の邪魔にならないように、コートの端まで這って移動した。体育館の壁にまだ痛む背中を預けて足を投げ出すと、体から力を抜くことができたので多少は楽になった。
流川は飽きもせず淡々とシュートの練習をしていた。そのシュートフォームは一定しており、ぶれることがない。当然、シュートを外すこともなかった。晴子は、流川のこんな姿のことも知っているのだろうか。雪はぼんやりと思った。バスケットだけを見つめている流川の背中は、確かにかっこよかった。これなら、晴子があんな風に惚れ込んでいるのも頷ける。雪が流川に惚れるかどうかは別としても、だ。
なんで、という疑問符を雪は何度口にしただろう。少なくとも、十回や二十回という回数ではなかった。なんで、なんで、なんでと毎日毎日、花道や晴子の顔を見るたびに思った。なんで、こんなことになっちゃったんだろうなあ。
自分に科したノルマが終わるのか、流川はそれまでで一番美しいフォームでショットを放った。ボールは当たり前のようにリングの中に吸い込まれていく。バスケットから抜け落ちたボールは、タンタンタンと軽いリズムを刻んでいる。何に誘われたのかわからない。屈んでボールを拾い集めている流川に向かって雪は、気づけば口を開いていた。
「花道は、すごく優しい目で晴子ちゃんのことを見るんだよ」
流川は怪訝そうに雪を振り返った。こんなこと、流川に話していいことではない。雪は思ったのだが、それに反して口は止まらなかった。
「わたしは、高校に入って花道が晴子ちゃんに出会うまで、あんな目をすることが花道にできるなんて、知らなかったんだ。ずっと十年以上前から、一緒にいたのに」
苦しくなって、雪は抱えた膝に顔を埋めた。痛い、肩と背中がひどく痛かった。だから声に涙が滲むのはそのせいにしたかった。そうではないと雪にも、果ては流川にさえもわかりきった事実だったというのに。
「わかってるんだ。花道の隣にいるのはわたしじゃ駄目だってこと。きっとわたしと花道は、一緒にいたら駄目になる」
ボールの音でもバッシュの擦れる音でもない、金属質な音が雪の耳に届いた。聞きたくない、もしくは興味がないという流川の意思表示か、と雪はその音を理解した。ゴール下に散らばったボールが金属製の籠の中に放り込まれる音だった。
「わかってるんだよ。でも、ダメなんだ。どうしても、わたしは、花道が……!」
ひっくとしゃくり上げたら、その先の言葉は言えなくなってしまった。がしゃがしゃいう金属音はもう止んでいる。体育館には雪の泣き声だけが響いていた。好きだ。どうしようもなく雪は花道のことが好きだった。
花道が幸せになればいいと本気で思うのに、そのとき花道の隣にいるのは恐らく自分でないだろうということに、雪はこの上ない悲しみを覚えている。花道の隣に自分がいれば、きっと花道は不幸になる。理由は至極簡単だった。雪では花道を幸せにすることはできない。たったそれだけだったから。花道が心から望んでいるものを、雪では与えることができないのだ。
「花道と晴子ちゃんの傍にいるのが、辛くって、でも我慢して一緒に駅まで帰ったのに、二人が仲良く並んで歩くのかと思うと、家に帰れなくって、……やだよ!こんな汚い気持ちばっかり浮かんできて、わたしはただ花道のことが、好きなだけなのに!」
流川が自分の話を聞いているかどうかなんてどうでもよかった。雪はずっと前から、この堂々巡りの心情を誰かに吐露してしまいたかった。その誰かが聞いているかどうかは関係なく、唇から外に放り出したかったのだ。
「いっそ、晴子ちゃんがいなくなっちゃえばよかったのにとか、そんなことばっかり浮かんでくるんだ。晴子ちゃんがいなければ、わたしは花道の中で一番大切な子でいられたのに。それなら例え持ってる気持ちが違ったって、よかった」
流川はさっきから何も喋らない。もしかしたらもう体育館から出て行ってしまったのかもしれなかった。顔を上げて彼の姿を確認する勇気は、今の雪にはなかった。だからずっと止まらずに喋り続けた。
「……晴子ちゃんと、叶いそうにない片思いの場合に持てる選択肢の話をしたことがあるんだ。わたしは四つあるんだって、晴子ちゃんに教えた。頑張るのか諦めるのか、何も選択せずに立ち止まるのかそれともいっそ狂うのか。晴子ちゃんは頑張るって言って、わたしは立ち止まるって言った。でも、でも本当はわたしは、四つ目だった。狂いかけてる。だって、好きな人の幸せが願えないんだ!どんなに不幸にしたっていいから傍にいたいなんて……」
「おかしくねえよ」
狂ってる!と言おうとした声は、流川よって唐突に遮られたまま消えた。まだいてくれたんだ。雪は膝から顔を上げた。目が合うと流川は、ひでえ顔とほんの少し唇を歪めた。雪はぽかんと口を開けたままだった。
「しゃーねえんだよ。だからおかしくなんかねー」
何かしゃあなくって、何がおかしくないのか。雪は最初流川が何を言ったのかよくわからなかった。けれど、瞬時に理解して聞き返した。縋るような気持ちだった。
「ほんとう?ほんとに、そう、思う?」
「おー」
流川はにこりともせずに言った。
「あんたは、あのあほうのことが好きなんだろ?だったら、おかしくなんかねーよ」
一瞬止まっていた涙がまたじわりと、奥から奥から溢れた。全く以ってみっともない。またひでえ顔と流川にいわれる前に止めようと必死に拭ったのだが、止められなかった。「う」とか「ひえ」だとか、情けない声を上げて手の甲で目を擦っていると、不意に腕を掴んで止められた。
「泣きたかったら泣きゃあいいんだよ。我慢すんな」
流川が嘘みたいに優しい声で言った。すると喉の奥から嘘みたいに大きな声が溢れた。嘘みたい、と雪は思った。うわああんと自分の声が広い体育館に木霊する。流川は雪の隣に座ると、泣く雪の頭を二度撫ぜた。花道のように大きな手だった。けれど、花道の手とは違っていた。
その事実に泣きじゃくる雪の横で、四つの四と流川が小さく呟いた。しかしその言葉の意味を、雪はまだ知らない。
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