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桜木花道の章


「おーい、晴子ちゃん、これどこに持っていけばいいの?」
「あ。それはね、休憩のときまで使わないから、向こうの……。っていうか雪ちゃん力持ちだね。重たくない?」
「すっげー重たいよ。ったく、彩子さんったら人使いが荒って」
「ちょっと雪ちゃーん。聞こえてるわよ。き・こ・え・て・る」
「いっぱいに氷が入ったクーラーボックス持たす人の、どこが人使い荒くないっつーんですか」

 という微笑ましい会話が聞こえて和んでいたら、頬骨の辺りにボールがぶち当たった。

「あで!」
「余所見してっからだ」

 あんだと!と投げつけられたボールを投げ返したら、流川は悠々とそれをとって、ナイスパスと一言言った。

「にやにやすんな。気持ち悪ぃ」
「なっ!してねえぞ!」
「してた」
「してねえよ!」

 ただオレは、と言いかけてやめて、花道はちっとひとつ舌打ちした。走りながら流川がワンバウンドさせてまたパスを放る。花道はそれを両手で受け取って、同じように返した。

「てめーがワリィんだよ、元々は」
「人のせいにすんな」

 今度はバウンドさせずにパス。胸の位置から押し出す形のパスの練習は一年生の頃からずっと続けている。基礎が大事だと赤木も彩子もみんな口を酸っぱくして言っていた。土壇場になって活きてくるのは本当に地味な日々の積み重ねなのだと。
 晴子と雪の場合もそうだったのだろうか。花道は何事もなかったかのように笑いあっている二人を見て思った。晴子と雪が親しくなって、恐らくまだ一年も経っていない。花道はあの二人が今のように親しくなるまでの経緯を詳しくは知らない。どんなきっかけがあったのかも知らない。けれどいつの間にか晴子は当たり前のように雪のことを「雪ちゃん」と呼ぶようになっていたし、今まで頑として女友達というものを作ろうとしなかった雪が、晴子のことを「晴子ちゃん」と呼んでいる。それを初めて聞いたときの驚きといったら。三バカトリオなんて目を回していた。
 短い間だけれど、信頼とか友情なんてものが晴子と雪の間にもちゃんと芽生えていたのだろうか。花道は思った。それならば、それはとても喜ばしいことだった。それなのに。

「おめーのせいだ。おめーが雪にちょっかい出すからハルコさんが悲しむんじゃねーか」
「じゃ、自分はどーなんだよ」

 強いパスと共に流川に問われて、花道はぐっと押し黙った。どうなのだという問いに対して、心当たりは確かにある。ただそのことについてはあまり考えないようにしていた。考えれば考えるほど、体中を掻き毟りたい衝動に襲われるからだ。どうしてこんなことになってしまったのかと。

「ああああ!もうドーモコーモねえんだよ!」

 思い出さすな!と叫ぶと花道は片手にボールを携えてだっと走り出した。シュート練習をしていた一年生がぎょっとして花道を避ける。3Pラインから踏み込むと大きく跳んでボールをリングに叩き込んだ。大きな音がコートの中に木霊する。いててとリングの端にぶつけた右手を振っていると、彩子にハリセンで殴られた。

「でっ!」
「何やってんのよ!練習試合に来てるんだから、もうちょっとおとなしくしてなさい」
「ハハ、天才桜木の妙技をやつらに見せつけておこうかと思いましてね……」
「見せつけるのは後にしなさい!今はウォームアップ中!」

 そう彩子が再びハリセンを花道の頭に振り下ろしたところで、それ以上に大きい音が再びコートに響き渡った。痛む頭を抑えてゴールリングを見上げると、流川がリングにぶら下がったまま花道を見下ろしていた。流川まで!と彩子が叫ぶ。リングから下りた流川は、いの一番で彩子からハリセンを投げつけられていた。いい気味だ。


 ビーッと派手な音がコートの中に響き渡る。花道は慌てて得点板を見上げた。66-69。数字は確かにそう記されている。うぉっしゃあ!と宮城が叫んだ。同じように花道も叫んで、宮城と手のひらを思いっきり打ち鳴らした。やったな桜木!と笑う安田とも、角田とも。もう一人、と思ったところで花道はぴたりと上げた手を止めた。最後の一人も同じようにぴたりと止めた。なんでこいつなんかと手を打ち鳴らさなきゃならないのか。花道はフンとそっぽを向くと、コートの端で手を叩いて喜んでいる晴子のほうへ走り寄った。

「ハルコさん!やりました!この天才桜木やりましたよ!」

 喜びを抑えきれずに彼女に駆け寄って叫ぶと、晴子はウサギのように飛び跳ねながらホントね!ホントね!と繰り返した。

「すごいわ、桜木君はやっぱりすごいのよう!練習試合とはいっても、海南に勝っちゃった!」

 やったわね!と晴子は一際大きく叫んで、ぴょんと桜木の胸の辺りに軽く抱きついた。晴子の髪が至近距離でゆらゆら揺れる。何か花のような匂いが花道の鼻を掠めた。うっと顔を赤くする。やばいです、それはちょっとやばいですよハルコさん!そう思うのだが、口には出せずにただただ顔を赤くしていたら、少し離れたところで彩子と宮城がにたっと笑いながら、「せいれーつ!」と叫んだ。


「ほーんとに桜木君はすごいわ!私の目に狂いはなかったってことね!」

 海南からの帰り道、上機嫌な晴子はくるくるとスキップをするように道を歩いている。本人は特に何も考えていないのだろうが、花道の目にはとても危なっかしく見える。ぶんぶん振り回される度に遠心力で勢いを増していく荷物や、道端に落ちているなんでもないような小石が今にも晴子を転倒させるのではないかと、気が気でない。あわあわと彼女の後ろを追いかける花道の様子を気にも留めず、晴子はにこにこと笑って繰り返した。

「桜木君はもう、神奈川随一のリバウンド王ね!」
「やっぱりハルコさんもそう思います?」
「うん!桜木君が一番よう!」

 やっぱりなあワハハハハと背を逸らして笑っていると、つむじの辺りを力いっぱい叩かれた。で!と間抜けな声を上げて叩かれた頭を抱えると、花道は自分の頭を思いっきりどついた張本人を振り返った。

「ってーな!何すんだ、このキツネ!」
「通行のジャマ」
「どー見ても横通れるじゃねえかよ!てめーの目はお飾りかコラ!」
「も、もう二人ともやめてよう」

 晴子が困ったように眉を下げて花道のシャツの裾を引くので、花道はしぶしぶながら、流川を睨みつけていた目を逸らした。流川はフンと鼻を鳴らして花道の横を通り抜けていく。

「キー!いけすかねえヤツっ!」

 地団駄を踏んでそう叫んでから、花道はハっとして晴子を見た。まさかまた目をハートにして流川を見ているのではあるまいか。あんな、あんないけすかないカッコつけを。花道は恐る恐る横の彼女の表情を伺ったのだが、しかし予想に反して彼女の目はいつもの蕩けるようなそれではなかった。

「ねえ、桜木君。見て」

 晴子が小さな声で言った。花道は言われるままに、彼女が見つめている先を見た。流川が、宮城や彩子と並んで歩いていた雪の荷物に手をかけたところだった。雪は驚いたように顔を上げて首を振ったが、流川はそれを無視してさっさと雪の肩から荷物を奪い取ってしまった。あのキツネ。花道は声にならないほどの音量で小さく悪態を吐いた。

「やあっぱり、私は望み薄なのかなあ」

 まるで独白のような仕草で晴子は言う。花道はそれを聞いて舌打ちした。わかり易すぎるのだ、あの男は。そう洋平辺りの前で溢すならお前も人のこと言えねえよ、と笑われるに決まっていたけれど、今は彼に聞こえようがなかったので存分に言った。わかり易すぎんだよ、キツネ。
 流川は雪から荷物を奪い取ると、何でもないような振りをして雪の隣に陣取った。彩子と宮城と並んで三人で歩いていた雪は、少し歩調を落としてから流川と並んだ。雪が流川を見上げて何事か話しかける。流川はそれに食いつくわけでもなかったけれど、無視しているわけではないようだ。会話が成り立っている。

「流川君は、雪ちゃんと一緒だとゆっくり歩くんだね」

 晴子はほんの少し唇の端を持ち上げて言った。しかしその唇が小さく震えているのを花道は見逃さなかった。

「普段はすごく早く歩くよね。っていうか、足が長いから早く歩けちゃうんだろね」

 それなのにね、とその先は晴子の唇の奥に消えた。その先が「それなのに、雪ちゃんと歩くときはゆっくり歩けるんだね」と再度繰り返すのか、それとも「私のときはどんどん先に行っちゃうのにね」と続くのか花道は知らない。けれどどうか後者ではないといいと思った。あの男は本当に、本当に自分本位な男で、自分が興味を持ったものしか見ようとしないから、だからそれがときにひどく人を傷つけるのだ。

「きっとさっきの試合でヘバってるだけっスよ。肝心なときに役に立たねーんですから、アイツ」
「えー、そんなひどいこと言っちゃだめよう」

 晴子は笑ったけれど、無理矢理笑って言ったその言葉はからからと宙に空回って聞こえた。


 花道は流川にこう詰め寄ったことがある。

「おめーが悪ィんだよ」

 教室だった。いつもは寝ているのに、なぜかそのときは二人とも起きていた。いや正確には眠る寸前だった。教室の中には数字を羅列する教師の訥々とした声と、温く緩慢な空気が流れていて、それらが花道の眠りを誘っていた。それは花道だけでなく、流川も一緒だったらしい。流川は眠たげな瞼を持ち上げて花道を見た。

「全部、おめーが悪ィんだ」

 前の席の女子が不審の目を花道に向けた。花道はその目で、こんなところでする話ではないと思い直したのだけど、流川の視線がほんの一瞬肩越しに雪へ送られたのを見て、そんな思いは掻き消えてしまった。

「何でったって、てめーはそうも自分本位なんだよ。ちったあ周りのことも考えろ」

 前の席の女子は興味を無くしたように前に向き直った。バスケットの話だと思ったのだろう。

「周りって、ナニ」

 興味がなさそうに流川は欠伸をした。重たそうだった瞼は閉じられて、眠る体勢に入った。

「オレはなあ、おめーのそういう態度が気にいらねえんだよ」
「あっそ」

 勝手にしろと言わんばかりに流川は机に伏せっている。それでも花道は辛抱強く続けた。

「おめーがああじゃなけりゃ、マシだったんだよ」

 ハルコさんは、と続けそうになって花道はそれをぐっと押しとどめた。なんでったってコイツは、コイツが、雪に惚れたりなんかするから。同じフレーズが何度も頭の中をリフレインした。

「じゃ、お前はどうなんだよ」

 ふと気づくと、流川は机から顔を上げていた。射抜くような目線で花道を睨み上げてくる。温く緩慢な空気はゆっくりと解けていった。

「オレが、何だって言うんだよ」
「お前も同じことやってんじゃねえか」

 気づいてないとは言わせない、と言うような流川の目に花道は一瞬たじろいだ。この男は言葉よりも何よりも、目が雄弁だ。感情があまり表に表れないだとか、何を考えているのかよくわからないだとか言われているのを聞いたことがあるが、花道はそうは思わない。感情があまり表に出ないといわれるのは万人にわかるような仕草で感情を表さないだけで、何を考えているのかわからないときは恐らく何にも考えていないときだ。実は自分以上に根が単純なのではないか、と花道は考えている。
 そして今は、こう言っている。テメエが悪い。花道はブツンと自分の我慢の根が切れた音を聞いた。

「てめーの態度がロコツすぎんだよ、いつも!」
「……人のこと言えんのか」

 流川がふうと息を吐く。流川のシャツの襟を掴んで引き寄せると、前の席の女子がきゃあと声を上げた。申し訳ないとは思ったが、しかしシャツを掴んだ手は緩まなかった。

「ちったあ人の気持ち考えろつってんだよ!」
「だからお前こそ人のこと言えんのかって何度も言ってんだ。この、どあほう」
「だって、しゃーねーだろ!」

 オレはハルコさんが好きなんだよ!
 そう叫びそうになって、慌てて押しとどめる。花道がシャツの襟を掴んだ左手にぐっと力を込めると、流川はそれを見て少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな目をした。

「オレだって、しゃーねーんだよ」

 流川は目を逸らして言った。そのとき、多分自分も悲しそうな目をしたのだろう。そう、仕方がないのだ。そんなこと花道だって十分にわかっていた。だけど、誰かのせいにでもしないと、やりきれなかった。そんなことは誰のせいでもないと、ずっと前から理解していたのに。

「クソ!」

 花道を悪態をついて流川のシャツを離すと、そのまま教室に背を向けた。背を向けた一瞬に、席から立ち上がった晴子が心配そうに眉を歪めて花道を見ていたことを知った。もしくは、流川を。
 後ろから小池が自分の名を呼ぶ調子はずれな声が聞こえてきたが、花道は振り返らなかった。少しして、流川の名前も聞こえてくる。結局アイツもサボったのかと花道は廊下の窓から空を仰いだ。
 自分は晴子が好きで、でも晴子は流川が好きで、その流川は雪を見ていて、そして雪は。まるでそんな感情を持つなんて考えたことがないくらい昔っから一緒にいた雪は、自分のことを好きでいるなんて。

「そーだよなあ。誰も悪くねえんだよなあ」

 花道の呟きは誰にも聞かれることなく、青空に消えた。だから、余計に性質が悪い。






 ※






 変なこと聞くけどさ、と言った洋平の声はそれこそ変に真剣染みていた。そのときオレはちょうど夜食のカップラーメンを啜っていて、洋平の声にん?と軽い気持ちで顔を上げた。すると洋平は声だけでなく、真剣な表情をしてこちらを見ていたので、ひどい温度差をあいつとの間に感じた。
 変なこと聞くけどさ。同じ台詞を洋平は二度繰り返した。なんなんだよ一体。オレは笑った。

「雪じゃ駄目なのか?」
「……は?」

 最初は本気で洋平が何を言っているのかわからなかった。首を傾げると、洋平は大きく大きくため息を吐いた。洋平が右手で下ろした前髪をくしゃりとかき混ぜた。左手はテーブルの上に乗った煙草へと伸びる。

「よーへい。吸うんなら窓開けてこいよ」
「ん?……あ。ああ」

 どことなくぼうっとした風情の洋平はよっこらしょと立ち上がるとふらふらと窓へ近寄っていって、ガラス戸に手をかけた。カラカラカラと音がして、洋平の吐いた煙が黒い窓の外へ消えていく。煙の白色はいつまでも黒の中に残りそうだったのに、すぐに馴染んで見えなくなった。
 洋平は煙草を吹かしたまま安っぽいアルミのサッシに腰掛けてオレを見た。その顔からはさっきの奇妙なほどの真剣さは消えていて、ただ何となく放心しているように見えた。何か煙草以外の甘い匂いがすると思って、窓の外に目を凝らせば、洋平の肩越しに白い梅の花が見えた。まるで洋平が背負っているみたいだった。

「……なあ、花道。お前にとって、雪って何?」
「……は?」

 ラーメンを食い終わってもさっきと全く同じ反応をしたオレに、洋平は再び大きく大きくため息を吐いた。今度のため息は真っ白だったが。

「全然意識してねえってわけね。こりゃ、ダメだ」
「よーへい。さっきから何言ってのか全くわかんねえぞ」
「そ。お前はまったくわかんないわけね」

 洋平は大きく肩を落とした。何をそんなに落ち込むことがあるのか。そう聞いたら呆れてるの、と返された。

「なあ、花道」

 洋平は二本目の煙草に火をつけると、ぽっと煙を空に吐いた。白い煙が部屋の中に霧散していく。これじゃあ窓開けた意味ねえだろ、とオレが文句を垂れるより早く、洋平が口を開いた。

「なんで雪じゃなくて、晴子ちゃんなの」
「……は?」

 この反応はもう三度目だ。オレはそんなことを思ってにへらと笑ってしまったのだが、洋平があまり笑わなかったので笑うのをやめた。

「ハルコさんと雪に、何の関係があるんだ」
「花道。たまには本気出して考えてみろ」

 洋平がまた、変に真剣な顔をして言う。あんまり真剣にいうもんだから、オレは仕方がなく首を捻ってみた。

「ハルコさんと雪の関係?あまりに違いすぎて性別という共通点しか見出せねえぞ、オレは」
「そこじゃねーって。なんでオレが雪じゃ駄目なのかって聞いたのか、考えてみろ」

 オレは再度首を捻る。雪じゃ駄目なのか?……何が?正直あんまり考えたくなかったのだが、洋平がしつこく言うもんだから、仕方がなく考えた。
 雪じゃ駄目、ハルコさんだったらいいっつったよな、洋平。ハルコさん、ハルコさんといえば可愛らしく優しく女らしく、そう例えるならまるで天使のような……
「花道、花道。脱線禁止」

 洋平の声に緩んでいた頬を慌てて戻して、再びハルコさんと雪の違いについて考えた。
 雪のバカは粗忽で荒っぽくて口は悪いし平気で男とケンカするし……正直いいとこねえぞ。こないだもオレ、あいつに鳩尾蹴られたもんな。あれはヤバかった、本気で入ってた。あんなの食らっても吐かなかったオレってやはり、天才!?
「頼む。頼むから頑張ってくれ」
「ぬ?」

 洋平が絶望的な顔をしてオレの肩を叩いた。

「お前にとって晴子ちゃんは何だ?」
「そ、そりゃ、何だって、決まってんだろ……」
「そう。お前は晴子ちゃんのこと好きなんだよな」
「いいいいいうな洋平!」
「オレ、お前のそういうとこ本気で好きだけどな、今は置いとこう。とにかくお前は晴子ちゃんが好きなんだ」

 洋平がオレの肩をぎゅっと掴む。まるで責められているようだとなぜか思った。

「オレがさっき聞いたこと、覚えてるか?」
「オレにとってのハルコさん……」
「それの一個前」
「なんで雪じゃなくてハルコさんなんだって……」
「もっかい聞くぞ。何で雪じゃあないんだ。雪は多分、お前のこと好きだぞ」

 洋平は至極真面目な顔をして言うのだが、オレは堪えきれずに噴出してしまった。

「ま、まて洋平!冗談にも、ほどが、あるって」

 オレはひたすら笑い転げていたのだが、洋平はさっきから全く変わらない真剣な表情のままだったから、オレの笑いはすぐに止んでしまった。

「……洋平。なんで笑わねえんだよ」
「笑えねえからだ」
「笑えよ。おい、笑えったら!」

 オレの声には多分懇願が混じっていただろう。オレは洋平の肩を掴んで揺する。笑え、笑えったら!笑え!けれど洋平は頑として笑わなかった。
 笑えねー。オレは洋平の肩から手を離して呟いた。

「本気で笑えねえよ」

 オレは頭を抱えた。何でだ。どうしてそんなことになっている。見上げると洋平は、なんだか悲しそうな顔をしてオレを見ていた。

「なんで雪じゃあないんだ」

 洋平は何度も同じことを繰り返し聞いた。そんな風に何度も聞かれたって、駄目なものは駄目だった。だって、オレは雪じゃ駄目なんだ。

「違うんだよ。雪はそういうんじゃねえんだよ」
「何がどう違うっていうんだよ。雪だって晴子ちゃんと同じように、物怖じせずにお前と話すじゃねえか」
「それは、オレと雪がこーんなちっせー頃から一緒だったからだ!」
「それのドコがいけねえんだよ」

 洋平は繰り返す。何度も何度も繰り返した。でも、駄目なんだ。オレは雪では駄目なんだ。そして雪もオレでは駄目なんだ。例え雪がオレのことを好きであっても。

「オレ正直、雪がかわいそうでなんねーよ。お前がハルコさんハルコさん言ってんのを、横でじっと見てんだぜ?お前が一番気安く話しかける女だってのに、アイツ、『花道は絶対わたしのことなんか見ない』って。なあどうしてだよ、花道。どうして雪じゃ駄目なんだ?オレは、お前と晴子ちゃんのこと応援してっけどさ、雪のことも同じぐらい大切なんだよ。どうして雪じゃあ、駄目なんだ」
「雪は、そういうんじゃねーんだよ」

 頭を抱える洋平に、オレは馬鹿みたいに切々と繰り返した。雪は駄目なんだ、雪はオレじゃ駄目なんだ。オレは雪といたら、雪はオレといたら、きっと駄目になる。
 近すぎた、というのが一番うまい表現かもしれなかった。オレは駄目なんだと何度も何度も繰り返した。洋平がわかってくれるまで、何度も何度でも。洋平は悲しそうに首を振った。


 オレと雪が初めて会ったのはもういつのことだったのか覚えていない。それほど昔のことだったのかもしれないし、それとも印象に残っていないだけかもしれなかった。小さい頃の雪は、流川もかくやというほど喋らない子どもだった。いつも斜に構えて周りを見ていたのはよく覚えている。言葉に頼らないヤツの目というものは本当に雄弁で、オレはこの頃の雪をよく見ていたから流川のこともある程度わかるのかもしれない。かなり癪だが。
 ともかく、雪は喋らなかった。その頃にオレと雪が会っていた頻度というのは週に一度か二度。親に邪魔だと思われたときに互いの家に預けられていた。オレの父親はいわゆる三文小説家で、対して雪の父親はご立派な雪リーマンっだった。父親同士が学生時代の友人だったというのが、オレと雪の有り触れた始まりだった。オレたちの親の間には、片方にどうしても子どもの面倒が見れない事態が発生した場合、もう片方が預かるという仕組みがいつの間にか成り立っていた。オレの父親はどれだけ売れなかったと言っても一応は小説家だったので当然『締め切り前』というものが存在したし、雪の父親はその頃からしょっちゅうアメリカやらなんやらと色んな場所を飛び回っていた。だから、オレたちは住んでいる地区こそ違ったけれど、まるで仲のいい従姉弟か何かのように、ちょくちょく顔を合わせていた。一週間ずっと一緒に暮らしたことも、何度かある。
 この話をすると、いつも聞かれることがある。母親はどうしたんだ。そう聞かれたら、その理由をオレは雪と声を揃えて答えれる自信があった。多分雪にもあるだろう。「ああ母親ね、あれは碌なモンじゃなかった」。
 オレの母親は、なんやかんやと理由づけてあまり家に帰って来なくなったと思ったら、親父に離婚してくれと懇願して出て行ってしまった。他に好きな男の人ができてしまったのよ、ごめんねと母親はオレを抱きしめて泣いた。
 雪の母親は、家にこそ帰ってきたが、いっそいないほうがいいのではないかと思うほど、逸脱した人だった。妻もしくは母親という職業を捨て去って、一人の女として遊び暮らすことを生きがいとしているような人だった。どうしてあんな人が子どもを生もうと思ったのか、雪には悪いがオレは今でもわからない。
 要するに、オレと雪はあまり親に恵まれなかった子どもだった。ただひとつの例外としていえば、差し迫った締め切りがない時期のオレの親父か。一般的な親としてはもちろんダメダメの部類に分類されただろうが、それでも他と比べたらまだマシだった。オレと雪に、「誰かに必要とされ、そして期待されるような人間になれ」と自分のダメさ加減を放って言ったのは親父だった。もちろんその後すぐに、「アンタみたいなのに言われたくない」と当時から口の悪かった雪に言い返されていたが。
 親父は本当にオレの親なのかと疑うほど、気が弱かった。その気の弱さのせいで締め切り前にはもう半狂乱で、よく家中のものをひっくり返したりしていた。けれど締め切りの差し迫っていないときの親父は気が弱いのと同時に、とても優しい人だった。
 雪の部屋には、片手で足りるほどしか刊行されていない親父の本が、全部並んでいる。オレとは違い、桜木栄進と大層な名前の割りにぱっとしない親父の小説は、はっきり言ってオレにはよくわからない。オレと違って頭のいい雪はちゃんと読んだようだが、オレの前でも親父の前でも感想を言うことは一度もなかった。
 そうやってにオレと雪は時間を共有していた。ダメな大人たちに囲まれて育ったオレたちは、まるで姉弟のようでもあったと思うし、雪がいうには重度の依存関係にもあった。オレは雪がいなければ、多分生きてなかっただろうなあと半ば本気で思っている。同じように、雪もオレがいなければ多分生きていなかっただろう。オレたちは互いによって生かされた状態だった。
 でも、それで本当にいいのかと初めて思ったのは、雪が父親に連れられて、半ば強制的にアメリカへ行ってしまったときだ。しばらくの間だったがオレの生活から雪は消え、同時に親父と二人っきりの生活が始まった。夢のようで悪夢のようでもあった。親父の締め切り前も家にいるしかなくなったオレは、半狂乱の親父に原稿用紙やら万年筆やらなんやらをしょっちゅうぶつけられたし、当たり前だがオレも色んなものを投げつけ返した。殴りもした。その頃すでにオレは親父の上背を抜こうとしていたから、乱闘に負けてひどい怪我を負うのは体格も体力も負ける親父のほうだった。オレは自然とあまり家に寄り付かないようになった。
 中学に入ってから知り合った洋平と夜通し肩を並べてどうでもいいことを喋っていたこともあった。そんなときよく思ったのだ。オレはこれでいいのか、と。誰もオレを必要としなかったし、誰もオレに期待をしていなかった。教師は蔑むような目でオレを見た。ある一箇所では必要とされたり、期待されたりすることもあったけれど、それは別にオレじゃなくったっていい。誰だっていい、代価可能なことだった。実は、雪との関係だってそうであったのだと、そのときオレはやっと気づいた。オレと雪は互いにお互いを必要としていたけれど、それは別にオレじゃなければならなかったわけではなく、雪でなければならなかったわけではなかった。
 でもバスケットは違った。最初ただの玉入れとバカにしていたスポーツは、「桜木花道」という個性を認めてくれた。お前にしかできないプレイがあり、そしてお前が必要なのだと、お前がどうにかしてくれると期待していると。だからバスケットというものの存在を教えて導いてくれた赤木晴子という女の子が、オレの中ではまるで女神さまのように特別な存在なのだ。
 オレと雪は今も、依存関係の延長線上にいる。オレたちはきっと、この関係から永遠に抜け出せないだろう。けれど抜け出せない限り、オレと雪は一緒に生きていくことはできないと思っている。多分オレは、「生きたい」のだ。「生かされて」いるのではなく「生きて」いたい。昔、雪にそんなことを溢したら雪は「受動的ではなく能動的に生きたいのね」と言った。きっとこの妙に頭のいい幼馴染の言うことは当たっているだろう。憶測だが確信がある。なんせ、十年以上も前から一緒にいたのだから。






 ※






「うっわー。晴子ちゃん、近づかないほうがいいよ。バカが移る」
「なんだと人を細菌みたいに!」
「あ、あの雪ちゃん。バカって伝染するものではないと、思うのね」

 電車の中で折角晴子の隣に座れたのに、雪によって引き離されてしまった。海南までの電車の中では近くにいることができなかったから、帰り道にこうして傍にいられてとても嬉しかったというのに。花道は憤然として雪を睨んだ。晴子は雪の背中から花道を覗いている。雪が邪魔だ。花道は渾身の力を込めて雪を睨んだのだが、本人はどこの吹く風だった。
 大体なんで内閣総理大臣を知らないぐらいでこんなバカ扱いされなければならないのか。理不尽に感じて花道がそう叫ぶと、冷めた声で雪が、「バカがばれるからんなこと電車の中で叫ぶな」と言った。

「ふ、ふんぬー!」
「騒がしいって言ってんのが聞こえんのか、このバカ者!」

 鞄で思いっきり頭を叩かれた。花道が頭を抱えて蹲ると、天使のように優しい声が頭上から降ってきた。

「ねえ桜木君。本当に聞いたことない?ホントついこの間に、就任したのよ。四月に就任したばかりだから、絶対見たり聞いたりしたことあるんじゃないかな?ほら、ハ……」
「晴子ちゃん、ヒント出しちゃ駄目だって。クイズじゃないんだから」
「ハ……」

 雪が何か言っていたが、花道は無視してじっと考えた。ハ……ハ……
「羽田……」

 晴子が小さな声で呟く。ハタ……ハタ……羽田!
「ハタツトム!」
「正解!」

 晴子が嬉しそうに声を上げて手を叩いた。雪がやれやれというように首を振っている。けれどそんなものはそれこそどこの吹く風な花道だった。

「ナハハハ!やはり天才桜木!わからないことなんてないに等しい!」
「よく言うよ。散々ヒント出してもらったくせに」

 雪がぼそっと呟いたが花道にはそんなことは聞こえなかった。晴子と手を取り合ってきゃいきゃいと笑いあっていると、~前駅と下りるべき駅名がアナウンスされた。

「ほら下りるよ。ちょっと晴子ちゃんも花道もいつのまでも踊ってないの。ほら!」

 雪が強引に二人の手を取って席から立ち上がらせた。花道はしぶしぶ立ち上がって車両からホームに降り立った。雪が吐いた大きなため息の音がホームに響いた。

「もう二度とあんたたちと一緒に電車乗りたくない」
「ご、ごめんね。雪ちゃん……」
「晴子ちゃんと二人なら乗る」

 そう言って雪はにやりとした。晴子がむすっと頬を膨らませてむくれた顔をした。

「もう!雪ちゃんったら意地悪ね」
「そうだよ。今更気づいたの?」

 他愛ない軽口の応酬をしている雪と晴子に、花道の頬はついつい緩んだ。ここに流川がいればまた鞄か何かで殴られたかもしれないが、生憎とヤツはここにいない。何してんの、と雪が改札の辺りで花道を振り返ったので、花道はおうと返事をして彼女たちに追いついた。自分の大事な女の子が仲良くしているのは、見ていて気分がいい。
 駅から出たところで、雪はじゃあと言って花道と晴子から一歩離れた。

「花道、晴子ちゃんのこと送っていくんでしょ?わたしこっちだから」

 何でもないことのように雪は言った。花道は一瞬考えてから、おうと笑って返事した。仕方のないことだと思った。

「じゃあまた明日ね、晴子ちゃん」
「ま、待って。そしたら雪ちゃんが一人になっちゃうじゃない」
「心配要りませんよ、ハルコさん。雪がそんじょそこらの男に負けるはずありませんから」
「そーだよ晴子ちゃん。そんじょそこらの男には負けないから」

 雪は皮肉気に笑って、バイバイと手を振った。花道は晴子の背を押して歩き出した。晴子はまだ雪のことが気になるようで、ちらちらと後ろを振り返っている。

「ねえ桜木君。やっぱり雪ちゃんも一緒に……」
「放っておいたほうがいいです。今は」

 花道の言葉に弾かれたように晴子は顔を上げた。角を曲がって駅が見えなくなったところで、やはり晴子は立ち止まってしまった。ハルコさん、と名前を呼んでも彼女は動こうとしない。花道は小さくため息を吐いた。

「仕方がないんですよ、ハルコさん」
「でも……」
「三人ではいたくないと、雪はさっき言っていたでしょう?」

 花道は晴子の手を引いた。

「行きましょう」
「……うん」
晴子にできることはたくさんあっても、雪でにできることはこれくらいしかない。花道はそのことを悲しく思った。






―了―







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