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赤木晴子の章


 晴子の手のひらは、すぐ横を駆け抜けていった流川を掴むことができない。脇目も振らずに廊下を駆け抜けていった流川を、晴子は名前を呼んで呼び止めようとしたのだが、聞こえた素振りはなかった。

「何やってんだ、あのキツネ」

 向かいでは花道が不思議そうに首をかしげている。さあ、と曖昧な返事をしてから、実は自分は流川が何のために走っていたのか心当たりがある、と思って恥じた。
 流川は雪を追いかけていったのだ。花道が偶然にも、自分のところに来てしまったから、雪が勘違いして傷つくと思って。流川の視線はとても真っ直ぐだ。それこそさっき駆けていったときのように、脇目も振らず、がむしゃらに。そんな視線の先に捕らえられている雪を羨ましく思ったし、同時に疎ましくも思った。 
「どうしたんですか、ハルコさん?」

 花道が首を傾げる。晴子は慌てて何でもないと首を振ると、もう一度花道に向かい合った。

「やっぱり悪いわよう。桜木君は教室に戻って。ね?」
「いいえ!そんなわけには行きません。男として、チリだかチベットだかのプリントなんぞに、ハルコさんの細腕を煩わせるわけにはいきませんから!」
「でも、もう授業も始まってるし……」
「構いません!」

 桜木花道という人は、いつも誰かに優しすぎると思う。晴子は正直困惑していた。この人と一緒にいると、居心地がよすぎて、色んなものをぶちまけてしまいそうになる。自分の中の尊いものも、醜いものも、全て。それは、甘え以上に醜悪で、だから絶対に忌避すべきものだと思った。

「桜木君は、優しいね」
「そ、そんなことはっ!」

 花道が照れたように顔を赤くする。晴子は小さく微笑みながら、本当よう?ともう一度繰り返した。

「桜木君は、とっても優しいわ。どうしてみんなが、あなたのことを怖がるのかわからない」

 雲の切れ間から薄い光が差し込んだ。天使の梯子。いつか、兄に教えてもらった名前をそっと唇に乗せてみると、気恥ずかしさのほうが勝った。

「天使の梯子って、綺麗な名前だけど口にするのが恥ずかしいわね」
「はははは、ハルコさんのほうが百倍キレイです!」
「えー、もう。からかわないでよ、桜木君ったら」

 晴子はきゃらきゃら笑うと、なぜか真っ赤になっている花道の背中を、ぱんと軽く叩いた。これは甘えだ。彼といると、とても心が軽くなる。どうして流川君は振り向いてくれないのとか、どうして雪ちゃんなのとか、ぐるぐると渦巻いていたことがその瞬間だけ、嘘のように消える。

「でもありがとう。嘘でも嬉しいわ」
「嘘なんて、ハルコさんに!」
「だって、わたしは雪ちゃんのように綺麗じゃないもの」
「雪なんて、ハルコさんに比べれば!あれです、七五三です」
「えー、何それ」

 そんな風にいうけれど、実は花道は雪のことが好きなんじゃないかなと晴子は思っていた。花道が雪を見る目はとても優しいから。両思いなのに、花道が誰にでも優しいから、すれ違っているように思う。

「この間、洋平の妹が七五三をやったときの写真を見せてもらったんですが、その妹のこしゃくれた表情が雪にもう、そっくりで!」
「へえ、水戸君って、妹さんがいるの?」
「あんま似てないんですがね」
「……あんたらなんで自分がここにいるのか忘れてるだろ」

 突然割って入ってきた声に振り返れば、流川と雪が渡り廊下の端に立っていた。手にいっぱいのプリントを抱えて。

「はーなーみーちー。わたしのどこが、七五三だって?ああ?」

 低い声で凄む雪に、花道はそっと目を逸らす。その横で流川が咽たように、咳をひとつした。

「……ムカツク、流川まで。もういい、晴子ちゃん。こんな奴らは放って、行こう」

 雪は有無を言わせず花道にプリントを押し付けると、晴子の手を引いて歩き出した。

「え、え?ででも、雪ちゃん。プリント、わたしたち当番だって……」
「いいよ、あいつらに持たしとけば。量が多いから手伝えって先生に言われたらしいから」

 振り向くと、流川と花道は嫌そうにお互いのプリントを見比べている。自分のほうが多く量を持つのも癪だが、少ないのも貧弱だといわれそうで嫌なのだろう。無言で牽制し合っている。

「それ、流川君が?」
「そ。いきなり準備室に飛び込んできてさ、何事かと思った」

 雪は晴子の腕を掴んだまま、ずんずんと歩いていってしまう。その口ぶりから、流川の言葉が嘘だなんて疑ってもみていないのだろう。ましてや、流川が雪を見つめているなんて、とても。

「流川君は優しいね」
「……そうかな」

 買いかぶりすぎじゃないの、と言う雪の目が晴子に不審を向けている。雪は晴子が流川に憧れていたことを、知っているから。

「桜木君も、優しいね」
「それは肯定する」

 雪は口の端をほんの少しだけ持ち上げる、彼女が得意な笑い方で微笑んだ。


 晴子の手のひらは、駆け抜けていく流川を掴むことができない。手が届かないと言ったほうが正しい。いつも彼は駆けていってしまう。素早く、瞬く間に。今まではそれでもよかった。と、いうよりもいいと思い込もうとしていた。なぜなら、彼が目指して駆けているものに、どうやっても晴子はなりようがなかったから。流川にとってのバスケットというものに、晴子はどう自分をいじくってもなりようがない。
 けれど。
―別に、雪ちゃんのことが嫌いなわけではないんだけどな。
 晴子はそっと肩越しに雪を振り返って、一人ごちた。雪の席は教室の窓側の一番後ろで、その席で授業を受けている雪はとても心地がよさそうだ。晴子の席は窓側から二列目の前から三番目。可もなく不可もなくといった席である。
 雪は右手の指先で持ったシャーペンを弄びながら、窓の外を眺めていた。まるで気持ちよさそうに、新緑の欅が風に揺れている。埃臭いグラウンドでは、恐らく一年生だろう。女の子たちがハードルをぴょんぴょんと飛び越えながら走っていた。晴子も去年の今頃にやった覚えがある。体育教師が規則的に吹く笛の音が、柔らかな空気に絡んで見えた。
 晴子はほうっとひとつため息を吐く。雪から目を離して、先ほど自分が運んできたプリントに目を戻した。プリントの課題は、指定された各国の気候と主な産業と人口などを色分けして記入しなさいというもので、B4の大きなプリントが五枚もある。まるで中学生か小学生のようなことをやらせると思ったのだが、そういう単純な作業ほどなかなか進まない。前回の授業の際に、次回は色鉛筆を持ってくるようにという指示を受けていた。これをやらせるためだったのは明白だ。しかし流川と花道にいたっては、そんな指示があったということさえも知らず、しっかりと忘れてきて教師から借りていた。かといって、二人とも机にうつ伏せて色塗りをしている気配など全くないが。
 でも、あの二人が色鉛筆を持って、一生懸命色塗りをしていたら面白いかもしれない。しかも隣り合って。
 そんなことを考えて、晴子は一人でくすりと笑った。と、その瞬間、教師と目が合ってしまう。両眉を持ち上げた彼から慌てて目を逸らして晴子はまたプリントに向き直った。少しすると後ろから、教師と雪の問答が聞こえてきた。

「一ノ瀬さん。終わったの?」
「まだです。でも五枚目で飽きました」
「あともうちょっとなんだから、頑張りなさい」
「いやです。飽きました」

 我侭だなあ。晴子は笑ってしまった。


「それ、もう食わねーの?」
「ん?いいよ、あげる」

 ほんの少し千切っただけのパンを雪が流川に差し出した。雪は少食だ。というよりも、拒食症に近いらしい。本人から聞いた話だと、十歳から十四歳までの間アメリカにいたことが原因で、今もそれは治らなくって、だから週に二回病院に行って点滴を打ってもらっている。同時に不眠症でもあって、雪の肌から化粧を落とすと目の下には染み付いたような隈が表れることを、少し前に晴子は知った。

「どーも」

 もそもそとパンを食べてしまうと、流川は靴をバッシュに履き替えて、オレンジ色をしたバスケットボールに触れた。トン、トン、トンと響くドリブルの単調なリズム。兄の影響でバスケットというスポーツに慣れ親しんできた晴子とって、それはとても心地よい音であったし、それが好きな人の奏でるものだったら尚更だ。単調だったリズムが、ドンと体育館の床を震わす音でランダムに変化していき、それにバッシュが擦れるキュッ、キュッという音が加わる。

「食べたばっかだってのに、よくやるよねえ。あいつら」
「それだけ好きなんだよ」

 昼休みになると、流川と花道が体育館で1on1をするようになったのは、二年生に進学してからだった。最初は体育館の使用を渋っていた体育教師も、見たことがないような熱意で頭を下げた花道と流川を見て、不承不承といった風情で鍵を差し出してくれた。ただし、マネージャーの晴子も必ず二人に同伴して施錠すること、という制限付きではあったが。それ以来、流川と花道は昼休みになるとこうして毎日体育館に通っている。

「わたしには、よくわからないなあ」
「好きになるってことが?」
「ん、何かに夢中になるってことが、かな」

 瞳で花道を追いかけながら、雪が言った。その瞳は、恋する相手を見つめるには少し冷めすぎている。雪はよくそういう目をした。どこか一線を隔てた場所に立ってるような、冷めた目を。

「でも、雪ちゃんは桜木君が好きなんじゃないの?」
「あ、ばれてたの?」

 そう言った雪の表情に動揺は見られない。それもそうだろう、雪は隠そうという気を最初から持っていなかったのだから。

「雪ちゃんは、桜木君に夢中になったりしないの?」
「花道に夢中……。それはちょっと嫌だけどな」

 ほら、そうやってすぐに誤魔化す。晴子は少し目線を鋭くして雪を睨んだ。
 ちょっと皮肉に笑って受け流して、次の瞬間にはもうなかったことにしてしまう。相手側が熱意を上げるほど、雪の温度は冷えていき、熱に浮かされているうちに、いつの間にか交わされてしまっている。そういうことを、晴子は時折経験していた。だから晴子は、熱くならなかった。努めて雪と同じ温度を保とうとした。

「……でも、好きなんでしょ?」
「うん、そうだね」

 今日も晴れてるね、という言葉に答えるように、雪は軽く答える。ほんの少し、ほんの少しだけど晴子はそれを我慢ならないと思った。雪はそんな晴子を見て、困ったように目尻を下げた。

「ねえ、晴子ちゃん。例えば誰かを好きになって、その人がどう頑張っても振り向いてくれそうにないとき、わたしたちが選択できる方法はいくつあると思う?」
「……わからないわ」

 晴子は首を振った。すると雪は、また花道を目で追いかけながら言った。

「わたしはね、四つだと思う。一つ目はそれでも頑張る。二つ目は、諦める。三つ目は頑張ることも諦めることもせずに、立ち止まる。四つ目は、いっそ狂う」
「狂う?」
「ハインリッヒ・ハイネは『恋に狂うとは言葉が重複している』と言ってるけれど、つまり常識の範疇外へ思考を飛ばしてしまうえばいい。例えば、恋をした人を殺してしまうとか。その人の心に一生留まれるように、目の前で自殺してみるとか。もしかしたらこれが一番、満足できる選択かもしれないね。理性を無くした状況下で、手段的行為がいつの間にか自己充足的行為にすり替わってしまうだろうから。これ、頑張ると諦めるに似ているけど、ベクトルが反対方向に向かうから別のカテゴリでもいいと思うんだよね。だから四つ」

 あの口の端を持ち上げて笑う笑い方を、雪はした。

「晴子ちゃんは、どれ?」
「よくわからないけれど……、でも私は頑張るわ。頑張りたいの。雪ちゃんは?」
「わたしは三つ目だな。ずっと立ち止まってる、このまま、死ぬまで」

 軽い調子で発せられた「死ぬまで」という雪の言葉が、晴子には本気に聞こえた。冷静に考えるなら雪が一生花道のことを好きであっても、流川までが雪を一生見ているわけではないのだから、逆に晴子は喜ぶべきだったのかもしれない。それなのに、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
 だって死ぬまでって、死んでしまうまででしょう。そうしたら雪を見つめている流川はどうなるのだろう。晴子は煩悶した。雪はずっと、花道のことを好きなままで、そうしたら、そんなのって、流川、流川は……、晴子が流川をどんなに好きでも見てもらえないのに、それなのに雪は。

「雪ちゃんは、ズルイわ」

 気がつけばそう言い返していた。急に声を荒げた晴子に驚きながら、また雪の温度が冷めていく。駄目だと思っていたのに、やっぱりダメだ。晴子の温度は急激に上がっていく。

「そんなのって、逃げてるだけだと思う」
「いいよ、逃げでも」
「よくない!」

 反射的に言い放つと、予想外に大きな声になった。それまで途切れることなく体育館に響いていたボールの音が止まった。

「雪ちゃんはよくっても、それじゃあよくない人が他にもいるかもしれないじゃない!」
「わたし、『もし』とか『かもしれない』とか、そういう言葉は嫌いなの」
「だから、誤魔化さないでって、何度も言ってるの!」

 雪ちゃんはズルイわ。もう一度繰り返すと、目に涙が溢れてきた。対して、雪はまたあの冷めた目をしている。もうダメだと晴子は思った。何もわからなくなる。

「晴子ちゃんはわたしのことをずるいと言うけれど、わたしはあなただって同じぐらいずるいんじゃないかと思うよ。ずっと、気づかない振りをしてるでしょう。それに甘えてるでしょう?わたしは時々それが無性に許せなくなる」
「そんなの、私だって一緒だわ!むしろ本気で気づいてないほうが、性質が悪いわよ!」

 だって、そうじゃないか。本人に心当たりがなかったら、責めることはおろか、罪悪感を引き出すこともできない。やはり雪は、怪訝そうに眉を寄せている。

「なんで雪ちゃんなの、何で、なんで、どうして?!」

 流川君と流れに任せて叫んでしまうことは、辛うじて止めることができた。その代わりのように、ぼろぼろと涙が頬を伝う。滲む涙の向こうで、流川と花道が驚いたように晴子を見ているのが見えた。もう、呼吸することさえ苦しい。晴子はひっくとひとつしゃくり上げると、踵を返して体育館から飛び出した。後ろでハルコさん!と花道が自分の名前を呼んだ声が聞こえた。晴子はその声を背中で聞きながら、風が入って気持ちがいいから体育館の入り口の辺りでご飯を食べようと雪に言った、四月の自分に感謝していた。


 ずっと気づいていない振りをしていた。何となく「そうかな?」と思ったのは、もういつのことだっただろう。とりあえず、夏ではなかった。なんだか肌寒くって、晴子はほんの少しだけ悲しい気持ちになっていた。そんなときだった。
 花道が、晴子を見つけてにっこりと笑った。赤に染まった頬が体躯に似合わず彼を幼く見せて、晴子の心臓はぎゅうと縮み上がった。どうしたんですかハルコさんと花道はいつもの調子で話しかけてきてくれて、ううんなんでもないのよと晴子がいうと、辛かったら辛いと言っていいんですよと花道は大真面目な顔をして言った。ああ、そうか。辛いと言っていいのかと晴子は初めてそのとき素直に思って、泣きたいなんてそれまで一度も思っていなかったというのに、目からは涙がひとつ零れ落ちた。鱗、と晴子はそのときの涙を呼んでいる。

「桜木君。今度のは、鱗じゃないわね」

 昇降口まで泣きながら駆け戻った晴子は、五限目の授業がもう始まりそうなことをいいことに、人気のない下駄箱の隅に蹲って泣いていた。この時間まで人影がないんだったら、五限目にグラウンドを利用するクラスはないんだろう。泣きながら走ったせいで息が切れて苦しかった。
 少し泣いたところでぬっと大きい影が晴子の前に立って、でもいつまで経っても何も言わないから、晴子は思わず皮肉な口調でそう言ってしまった。

「……ハルコさん」

 花道は、普段からは考えられないような繊細さで以って、晴子の名前を呼ぶ。そして、晴子の名前を呼んだのがやはり花道であったことに、晴子は悲しみを覚えた。こんなこと、雪に知られたらきっと怒らせてしまうだろうけど。流川は、晴子の好きな流川は一体どこにいるんだろう。雪と一緒にいるんだろうか。そう思うと一層涙が溢れた。流川を思うことはいつも、辛くって苦しい。

「私、流川君のことが好きなのよう!でも、でも、流川君は、雪ちゃんのこと、ばっか、見てるじゃない。映画に誘ったり、自分から勉強教えてもらったり、それは結局ダメになったけど。でも、あとそれから、急に1on1やろうって言い出したり」
「なんか、半分以上空回ってるような気がするんスけど」
「でも、流川君、雪ちゃんばっかり見てる、じゃない!」
「……まあ。洋平も、流川はわかりやすいつって笑ってました」

 花道は言い難そうにして、頬を掻いた。

「なんというか、雪は……昔っから鈍いヤツでして」
「あれだけ見られてるのに、なんで雪ちゃんは気づかないの!あの、流川君に!」
「いや、キツネだろうと、例えゴ……、ハルコさんのお兄さんだろうと、雪は気づかないだろうと思います」
「どうかしてるわ!」

 言い放って晴子はまた膝に顔を埋めた。いや、どうかしてるのはお前のほうだ、と誰かが晴子の心の奥で囁いた。花道に向かってこんな話をするなんて。

「桜木君……ごめんね。ごめんなさい、こんなズルイ子で」
「ハルコさんは悪くありません。雪のバカもまあ、あの鈍さを捨てておけば悪くないです。ですから全ての悪は、あのキツネに!」

 花道の目にしか見えない流川を殴ろうとしているように、花道がぎゅっとこぶしを握り締める。その様子がおかしくって、晴子は思わず笑ってしまった。

「笑ってください。泣いているハルコさんもキレイですけれど、笑っているハルコさんのほうがオレは好きです」
「もう。からかわないで、桜木君ったら!」

 晴子は目尻の涙を拭うと笑って、花道に手を差し出した。その手を花道に引かれて、晴子は立ち上がった。磨ガラスの向こう側に、薄ぼんやりとグラウンドが透けて見える。
 昇降口から少し離れた花壇の辺りに、所作なさそうに立っているのは背の高い男の子。そこからまた少し離れた場所に、さっきまでの晴子のように小さくなってしゃがみ込んでいるのは、髪の長い女の子。二人ともきれいな黒い髪を持っている。

「私、知ってたの。でも気づかない振りをして、況しては桜木君は雪ちゃんのことが好きだって思い込もうとして、ずっと目を逸らしてた」

 いいんです、と花道は首を振った。

「私、流川君のことが好きよ。バスケ部にマネージャーとして入部する前みたいな、憧れの混じった中途半端な気持ちじゃないの。本気で好き。流川君のためならなんだってできるって、思う。だから……」
「ハルコさん、謝らないでください。お願いですから」

 花道はするりと狭間に滑り込んで言った。俯いていた晴子は、唇をきゅっと噛んで花道の目を見上げた。

「……私、とても苦しいわ。流川君のことを考えると、すごく苦しくって、辛くっていつも泣き出しそうになる。喚きだしそうになる」
「そうしたいときは、そうすればいいんです」
「できないわ。したくないもの。でも、そんなときに桜木君が傍にいてくれると、とても安心するの。だから、ついつい甘えちゃう。それで今日は雪ちゃんを怒らせちゃったけど」
「怒らせときゃーいいんですよ。鈍感なことへの仕返しだと思えばいいんです。オレは、雪に甘えられるよりハルコさんに甘えられたほうが気分がいいっス」
「……ありがとう、桜木君」

 晴子は心からそう思った。彼はいつも晴子の心を軽くしてくれる。晴子はそんな花道に心を返すことができないことを、本当に残念だと思った。
 大丈夫、ちゃんと雪に謝れる。ごめんねって、一言を笑顔で。


―どうしてかな?って思ったのが最初だった。どうして桜木君は、こんなにも優しいのかなって。
 花道は晴子に熱烈な視線を送っていたわけではなかったし、況してアプローチ、なんてものをされた覚えもない。ただ、いつもニコニコとして話しかけてきてくれて、何か晴子が困っていたりするとまるでヒーローみたいに助けてくれた。
―だから、どうして桜木君はこんなにやさしいのかなって、考えた。考えてみて、最初は誰に対してもこういう優しい人なんだろうって思った。
 実際にそうだったけど、でも、あの鱗の落ちた日。万人に振舞うただの優しさや親切にしては、あまりに強く、花道は晴子のことを心配してくれた。鱗を一粒落としただけだったのに、あの晴子に対しての花道の狼狽振りは、今思い出しても笑いを誘う。そのときも、それで笑ってしまったのだ。そうしたら面白いぐらいに慌てていた花道も笑って、ハルコさんは笑ってたほうがいいって嬉しそうに言うから、ああそうなのかなって、思った。
―もしかしたら、桜木君は私なんかを、好きでいてくれるのかなって。そのとき初めて思ったのよ、雪ちゃん。
 とても素敵。と雪は言った。その言葉に晴子は思わずはにかんでしまう。

「ねえ、私たちが初めてまともに喋った日のこと、雪ちゃんは覚えてる?」
―私は、覚えてるよ。
 晴子は言った。







 ※






 暑いなあ。私は太陽を見上げて一人ごちた。もう九月も中旬を過ぎたというのに、今日は随分と暑い。八月の真夏日と同じような格好をしている。Tシャツにハーフパンツ。背中にはじっとりと汗が浮かんでいた。

「晴子ちゃん。そろそろ準備しなくっても大丈夫?」
「そうですねえ。わ、もうこんな時間」

 腕時計を見ると、短針は既に十一を指そうとしていた。私はその日、海南で合同合宿をしている国体混成チームの手伝いに行くことになっていたから、慌てて抱えていた洗濯物を干し始めた。

「ああ、いいのよ。あたしやっておくし」
「いえ、やっぱり一応やり始めたことですから、やってから行きます」
「損な性格ねえ」

 彩子さんは笑うと、カゴからタオルを一枚取ってパンと広げる。どうやら手伝ってくれるらしい。

「すみません、彩子さん」
「いいのよ。お互い様ってやつでしょう」

 遠くでエイオーと掛け声が聞こえる。混成チームに入れなかった湘北バスケ部が外周を走っている声だ。

「確か、今日は桜木花道も参加する日だったでしょう?」
「はい。そう安西先生が言ってみえました。体の負担にならない程度で、練習に参加させるって」
「あの問題児が、『体の負担にならない程度』で満足するとは思えないけどね」
「あはは、そうですよね。でも、桜木君、秋の国体ちょっとだけでもいいから出れるといいなあ」
「それこそ、アイツがちょっとだけで満足するタマかって」
「それもそうだ」

 くすくす笑い合っていると、不意に彩子さんが「あっ」と声を上げた。

「あれ、雪ちゃんじゃない?」

 見ると、体育館のほうへ歩いていく人影は、黒いキャップを目深に被ってよく顔が見えなかったのだけど、後ろでひとつに束ねられた長い髪には確かに見覚えがあった。

「おーい、雪ちゃーん!」

 彩子さんが彼女の名前を呼ぶと、一ノ瀬さんは振り向いて、ぺこりとひとつ会釈をした。そしてゆっくりと私たちのいるほうへ歩み寄ってくる。

「どーしたの?」
「花道、いますか」

 一ノ瀬さんの一言に、彩子さんと私は思わず顔を見合わせた。

「雪ちゃん。今日、桜木花道は海南に行ってるのよ」
「海南?今日は練習に参加するって言ってたから、てっきり学校にいるもんだと……」

 あのバカ、と一ノ瀬さんは桜木君を毒づいた。けれど確か水戸君たちは、桜木君が今日海南へ行くことを知ってたはずだ。だって私が教えたんだから。そう考えてから、ああそういえば、と私は一ノ瀬さんに話しかけた。

「一ノ瀬さん、一週間ぐらい学校に来てなかったみたいだけど……」
「ああ、ちょっと、遠出で行くところがあったもんだから」
「あら、いつ帰ってきたの?」
「さっき」

 さっき?!と彩子さんが素っ頓狂な声を上げると、一ノ瀬さんは腕時計を見て、十時くらいに家について、荷物置いてからそのまま来ましたと何でもないことのように言う。

「まあ、いいや。別に月曜でもいいし、今日は帰ります」
「月曜は秋分の日で休みよ、雪ちゃん」
「じゃあ、火曜日でいいや。海南の場所もわかんないし」

 お騒がせしましたと、一ノ瀬さんはくるりと背を向けて行ってしまおうとする。私は慌てて呼び止めた。

「一ノ瀬さん!桜木君に、何か大切な用事があったんじゃないの?」
「いや、別に大切ってわけじゃないし」

 それでも、何か用事があったのだろう。だって一週間もどこかに行ってたと思ったら、帰ってきて一番に桜木君に会いに行こうとするんだから。

「ていうかさ、晴子ちゃんこれから海南に行くんでしょ?一緒に行ったらいいじゃない」

 彩子さんが何でもないことのように、ぽんと言った。けれど私は一瞬狼狽してしまった。

「え、一緒に……?」
「いや、いいです。迷惑になるし」

 私のその狼狽を一ノ瀬さんは決して見逃さず、一息も置かないうちに言い放った。

「そんな、迷惑なんてことは……!」

 私は慌てて否定したのだけど、いいよ本当にと困ったように言った一ノ瀬さんの目は、私の嘘をちゃんと見抜いていた。本当のところ、私は一ノ瀬さんのことを苦手に思っていた。だから誰かを間に挟んで会話するならまだしも、二人っきりなんてきっと耐えられないだろうと思った。と言っても、誰かを間に挟んで会話するのもこれが初めて、ぐらいだったのだけど。

「迷惑なんてことは……」

 一ノ瀬さんに気を使わせてしまった自分が情けなくって、私は俯いてしまった。濃い影が足元から伸びている。ラフなトングサンダルを履いた一ノ瀬さんの足の先には、夜のような色をしたペディキュアが塗られていた。

「あー、もー!」

 突然、苛立ったように彩子さんが声を上げた。

「この、食わず嫌いども!いいから、さっさと二人で行っておいで!ほら晴子ちゃん、さっさと着替えてくる!」
「は、はい!」

 叱るような口調で言われて、私は慌てて部室のほうへ走り出した。後ろで、雪ちゃんは晴子ちゃんが戻ってくるまで、あたしと一緒に洗濯物干し!と叫んだ彩子さんの声が聞こえた。やっぱり、一人で全部やるのは辛かったんだ、彩子さん。と、私は走りながら思った。


 バスはどちらかというと苦手だった。どんなバスだって均等に、息苦しくなる臭いが充満しているような気がする。車内は混んでいるわけではないけど空いているわけでもなくて、軽いお喋りと陽気な車内アナウンスと、バスが走る音で満たされていた。肩が触れ合うほど近くにいる一ノ瀬さんは、ぼうっと窓の外を眺めていて何も喋らない。私は居た堪れなくなって、何とか口を開いた。

「あ、あの、一ノ瀬さんは、一週間どこに行ってたの?」

 ものすごい勇気を振り絞って言ったのだけど、言った瞬間に後悔した。一ノ瀬さんの薄い色をした目が私を見る。慌てて目を逸らそうとした。

「アメリカ。アメリカに行ってたの」

 けれど一ノ瀬さんがほんの少しだけ唇の端を持ち上げて笑ったので、私はその本当に微かな微笑に安堵した。よかった、聞いてはいけなかったことではなかったんだ。

「観光、じゃないよね……?」

 一ノ瀬さんが観光とか何か似合わないもんなあ、と思いながら恐る恐る聞くと、案の定彼女は頷いた。

「会わなきゃならない人がいて行って来たんだけど、いつ会えるのか全くわからなくってさ。だから昨日やっと会えて、用事が済んだから帰ってこれたの。赤木さんに、お土産でも買ってこればよかったね」

 そう言った一ノ瀬さんは、優しく目尻を下げた。私はもう、びっくりしてしまって、一ノ瀬さんはいつも冷笑的で見下したような笑い方をする人だと思っていたから。でも、ちゃんと考えて思い返せば、彼女の態度は春から夏にかけて段々と変わっていっていたのだ。それは桜木君のバスケットボールが段々と上達していったように。

「アメリカは、楽しかった?」
「どうだろう、あんまり外に出なかったし。ずっとホテルの部屋に篭って本ばかり読んでた」

 随分と不健康な話なんだけど、本当にその「会いたい人」というのに会うだけのために行ったんだと、私は逆に関心してしまった。

「でも、行きの飛行機の中で変なヤツに会った。それはちょっと面白かったな」
「へえ、どんな人?」
「横の席に座ってたやつで、多分わたしと同じ年ぐらいだったんだけどさ、平気でワイン飲んで酔っ払ってるかと思ったら、何か急に涙ぐんで」

 飛行機って、ワインとか出るんだ。

「それで寝ちゃったかと思ったら、わたしのほうに思いっきりもたれかかってくるから、重たいって起こしたら、あんた知ってる!って叫んで急に抱きついてくるんだ。変なヤツだろ」
「そ、それは変なヤツで済ませていい話なの……?」

 もしかしたら変態なんじゃ、と私は疑ったのだけど、そんな私を一ノ瀬さんはおかしそうに笑った。

「心配してくれたの、赤木さん。大丈夫だよ。なんか、花道の知り合いだったらしくって。湘北十番の彼女!ってまた大きな声で叫んで、客室乗務員に怒られてた」
「バスケ部ってこと?」
「うん、多分。無理矢理教えられた名前、もう忘れちゃったけど」

 そのとき、私たちが下りるべき停車所の名前をアナウンスされた。

「あ、一ノ瀬さん。ここで下りるの」
「ん、わかった」

 バス停で下りて、休日で人気のなさそうな養護学校と小学校の間を抜けていく。すると左手に白い四階建ての建物が見えた。

「……なんか、さすが私立って感じだね」
「うん、同感」

 海南大附属高校の中を体育館まで抜けていくと、他校の制服を着ている私は勿論、私服の一ノ瀬さんも目立っていた。部活をやっている人たちが一瞬手を止めて、ちらちらと見るので少し恥ずかしい。

「うっわー、なんつーか金かかってそうだよな」

 しかし、テニス部の芝生を見てはそんなことを言い放っている一ノ瀬さんのほうは、そんなことに全く無頓着で、むしろ気づいていないのかというぐらい普通だった。

「そういえば、赤木さん」

 心なし俯いて歩いていた私を、なんだか楽しそうに少し前を歩いていた一ノ瀬さんが振り返る。その顔には、今まで私が勝手にイメージしていた表情の欠片もなかった。私はまるで罪を悔いるかのように、顔を上げて言っていた。

「あの、あのね。晴子って呼んで。赤木さんなんて女の子に呼ばれると、何だか変な感じがするの」
「……赤木さんもわたしのことを名前で呼んでくれるなら、いいよ」

 一ノ瀬さんは少し意地悪な顔をして言った。うっと言葉につまりながら、私は小さな声で彼女の名前を呼んだ。

「……雪ちゃん」
「はい、晴子ちゃん」

 返事をすると一ノ瀬さん……いや雪ちゃんは楽しそうにふふふと笑った。

「わたし、同じ年の女の子とこんな風に名前で呼び合うの、初めてだなあ」

 まさか!と思ったのだけど、でもその後、案外本当かもしれないと思い直した。雪ちゃんは、何だか話しかけにくい雰囲気のある人だから。

「雪ちゃん、さっき何か言いかけなかった?私遮っちゃったけど」
「ああ。そういえば」

 彼女は思い出したというように顔を上げて、思うんだけどさ、と徐に言った。

「体育館ってあっちじゃない?」

 彼女が指差した方向は、私たちが向かっていたのとは正反対とまでは行かなくっても、百三十五度ほど反対にあった。






 ※






「あのとき、花道に会いに行ったのはね、父親に会いに行って、ちゃんと会ってこれたよっていう報告をしたかったからなんだ」
「私はあのとき、桜木君のことを見つけた雪ちゃんが、それまでで一番嬉しそうに笑ったから、もしかして雪ちゃんは桜木君のこと好きなのかなって思ったんだよ」
「うわ、わたしそんなにわかり易く笑ってた?」
「わかり易くって言うか、雪ちゃんがあんな風に笑うの私、見たことがなかったから。だからそうなのかなって」
「……なんか恥ずかしい」

 べたりと机に突っ伏してしまった雪を晴子は思わず笑った。そうしたら雪が上目で晴子を睨んで、笑わないでよって拗ねた口調で言った。

「雪ちゃん、かわいいなあ」

 そう言って雪の頭をよしよしと撫でると、意外にも雪は抵抗せずにそれを受け入れた。雪が「晴子ちゃん洋平みたい」と拗ねた声のままで言った。

「水戸君もこういう風にするの?」
「っていうか、そういうなんていうか、ちょっとからかってるみたいな口調とか」

 うう、と唸って顔を上げた雪の頬は少し赤かった。だから晴子はもう一度繰り返してしまう。雪ちゃん、かわいいなあ。







「おーい、晴子ちゃん、これどこに持っていけばいいの?」
「あ。それはね、休憩のときまで使わないから、向こうの……。っていうか雪ちゃん力持ちだね。重たくない?」
「すっげー重たいよ。ったく、彩子さんったら人使いが荒って」
「ちょっと雪ちゃーん。聞こえてるわよ。き・こ・え・て・る」
「いっぱいに氷が入ったクーラーボックス持たす人の、どこが人使い荒くないっつーんですか」

 という微笑ましい会話が聞こえて和んでいたら、頬骨の辺りにボールがぶち当たった。

「あで!」
「余所見してっからだ」

 あんだと!と投げつけられたボールを投げ返したら、流川は悠々とそれをとって、ナイスパスと一言言った。

「にやにやすんな。気持ち悪ぃ」
「なっ!してねえぞ!」
「してた」
「してねえよ!」

 ただオレは、と言いかけてやめて、花道はちっとひとつ舌打ちした。走りながら流川がワンバウンドさせてまたパスを放る。花道はそれを両手で受け取って、同じように返した。

「てめーがワリィんだよ、元々は」
「人のせいにすんな」

 今度はバウンドさせずにパス。胸の位置から押し出す形のパスの練習は一年生の頃からずっと続けている。基礎が大事だと赤木も彩子もみんな口を酸っぱくして言っていた。土壇場になって活きてくるのは本当に地味な日々の積み重ねなのだと。
 晴子と雪の場合もそうだったのだろうか。花道は何事もなかったかのように笑いあっている二人を見て思った。晴子と雪が親しくなって、恐らくまだ一年も経っていない。花道はあの二人が今のように親しくなるまでの経緯を詳しくは知らない。どんなきっかけがあったのかも知らない。けれどいつの間にか晴子は当たり前のように雪のことを「雪ちゃん」と呼ぶようになっていたし、今まで頑として女友達というものを作ろうとしなかった雪が、晴子のことを「晴子ちゃん」と呼んでいる。それを初めて聞いたときの驚きといったら。三バカトリオなんて目を回していた。
 短い間だけれど、信頼とか友情なんてものが晴子と雪の間にもちゃんと芽生えていたのだろうか。花道は思った。それならば、それはとても喜ばしいことだった。それなのに。

「おめーのせいだ。おめーが雪にちょっかい出すからハルコさんが悲しむんじゃねーか」
「じゃ、自分はどーなんだよ」

 強いパスと共に流川に問われて、花道はぐっと押し黙った。どうなのだという問いに対して、心当たりは確かにある。ただそのことについてはあまり考えないようにしていた。考えれば考えるほど、体中を掻き毟りたい衝動に襲われるからだ。どうしてこんなことになってしまったのかと。

「ああああ!もうドーモコーモねえんだよ!」

 思い出さすな!と叫ぶと花道は片手にボールを携えてだっと走り出した。シュート練習をしていた一年生がぎょっとして花道を避ける。3Pラインから踏み込むと大きく跳んでボールをリングに叩き込んだ。大きな音がコートの中に木霊する。いててとリングの端にぶつけた右手を振っていると、彩子にハリセンで殴られた。

「でっ!」
「何やってんのよ!練習試合に来てるんだから、もうちょっとおとなしくしてなさい」
「ハハ、天才桜木の妙技をやつらに見せつけておこうかと思いましてね……」
「見せつけるのは後にしなさい!今はウォームアップ中!」

 そう彩子が再びハリセンを花道の頭に振り下ろしたところで、それ以上に大きい音が再びコートに響き渡った。痛む頭を抑えてゴールリングを見上げると、流川がリングにぶら下がったまま花道を見下ろしていた。流川まで!と彩子が叫ぶ。リングから下りた流川は、いの一番で彩子からハリセンを投げつけられていた。いい気味だ。


 ビーッと派手な音がコートの中に響き渡る。花道は慌てて得点板を見上げた。66-69。数字は確かにそう記されている。うぉっしゃあ!と宮城が叫んだ。同じように花道も叫んで、宮城と手のひらを思いっきり打ち鳴らした。やったな桜木!と笑う安田とも、角田とも。もう一人、と思ったところで花道はぴたりと上げた手を止めた。最後の一人も同じようにぴたりと止めた。なんでこいつなんかと手を打ち鳴らさなきゃならないのか。花道はフンとそっぽを向くと、コートの端で手を叩いて喜んでいる晴子のほうへ走り寄った。

「ハルコさん!やりました!この天才桜木やりましたよ!」

 喜びを抑えきれずに彼女に駆け寄って叫ぶと、晴子はウサギのように飛び跳ねながらホントね!ホントね!と繰り返した。

「すごいわ、桜木君はやっぱりすごいのよう!練習試合とはいっても、海南に勝っちゃった!」

 やったわね!と晴子は一際大きく叫んで、ぴょんと桜木の胸の辺りに軽く抱きついた。晴子の髪が至近距離でゆらゆら揺れる。何か花のような匂いが花道の鼻を掠めた。うっと顔を赤くする。やばいです、それはちょっとやばいですよハルコさん!そう思うのだが、口には出せずにただただ顔を赤くしていたら、少し離れたところで彩子と宮城がにたっと笑いながら、「せいれーつ!」と叫んだ。


「ほーんとに桜木君はすごいわ!私の目に狂いはなかったってことね!」

 海南からの帰り道、上機嫌な晴子はくるくるとスキップをするように道を歩いている。本人は特に何も考えていないのだろうが、花道の目にはとても危なっかしく見える。ぶんぶん振り回される度に遠心力で勢いを増していく荷物や、道端に落ちているなんでもないような小石が今にも晴子を転倒させるのではないかと、気が気でない。あわあわと彼女の後ろを追いかける花道の様子を気にも留めず、晴子はにこにこと笑って繰り返した。

「桜木君はもう、神奈川随一のリバウンド王ね!」
「やっぱりハルコさんもそう思います?」
「うん!桜木君が一番よう!」

 やっぱりなあワハハハハと背を逸らして笑っていると、つむじの辺りを力いっぱい叩かれた。で!と間抜けな声を上げて叩かれた頭を抱えると、花道は自分の頭を思いっきりどついた張本人を振り返った。

「ってーな!何すんだ、このキツネ!」
「通行のジャマ」
「どー見ても横通れるじゃねえかよ!てめーの目はお飾りかコラ!」
「も、もう二人ともやめてよう」

 晴子が困ったように眉を下げて花道のシャツの裾を引くので、花道はしぶしぶながら、流川を睨みつけていた目を逸らした。流川はフンと鼻を鳴らして花道の横を通り抜けていく。

「キー!いけすかねえヤツっ!」

 地団駄を踏んでそう叫んでから、花道はハっとして晴子を見た。まさかまた目をハートにして流川を見ているのではあるまいか。あんな、あんないけすかないカッコつけを。花道は恐る恐る横の彼女の表情を伺ったのだが、しかし予想に反して彼女の目はいつもの蕩けるようなそれではなかった。

「ねえ、桜木君。見て」

 晴子が小さな声で言った。花道は言われるままに、彼女が見つめている先を見た。流川が、宮城や彩子と並んで歩いていた雪の荷物に手をかけたところだった。雪は驚いたように顔を上げて首を振ったが、流川はそれを無視してさっさと雪の肩から荷物を奪い取ってしまった。あのキツネ。花道は声にならないほどの音量で小さく悪態を吐いた。

「やあっぱり、私は望み薄なのかなあ」

 まるで独白のような仕草で晴子は言う。花道はそれを聞いて舌打ちした。わかり易すぎるのだ、あの男は。そう洋平辺りの前で溢すならお前も人のこと言えねえよ、と笑われるに決まっていたけれど、今は彼に聞こえようがなかったので存分に言った。わかり易すぎんだよ、キツネ。
 流川は雪から荷物を奪い取ると、何でもないような振りをして雪の隣に陣取った。彩子と宮城と並んで三人で歩いていた雪は、少し歩調を落としてから流川と並んだ。雪が流川を見上げて何事か話しかける。流川はそれに食いつくわけでもなかったけれど、無視しているわけではないようだ。会話が成り立っている。

「流川君は、雪ちゃんと一緒だとゆっくり歩くんだね」

 晴子はほんの少し唇の端を持ち上げて言った。しかしその唇が小さく震えているのを花道は見逃さなかった。

「普段はすごく早く歩くよね。っていうか、足が長いから早く歩けちゃうんだろね」

 それなのにね、とその先は晴子の唇の奥に消えた。その先が「それなのに、雪ちゃんと歩くときはゆっくり歩けるんだね」と再度繰り返すのか、それとも「私のときはどんどん先に行っちゃうのにね」と続くのか花道は知らない。けれどどうか後者ではないといいと思った。あの男は本当に、本当に自分本位な男で、自分が興味を持ったものしか見ようとしないから、だからそれがときにひどく人を傷つけるのだ。

「きっとさっきの試合でヘバってるだけっスよ。肝心なときに役に立たねーんですから、アイツ」
「えー、そんなひどいこと言っちゃだめよう」

 晴子は笑ったけれど、無理矢理笑って言ったその言葉はからからと宙に空回って聞こえた。


 花道は流川にこう詰め寄ったことがある。

「おめーが悪ィんだよ」

 教室だった。いつもは寝ているのに、なぜかそのときは二人とも起きていた。いや正確には眠る寸前だった。教室の中には数字を羅列する教師の訥々とした声と、温く緩慢な空気が流れていて、それらが花道の眠りを誘っていた。それは花道だけでなく、流川も一緒だったらしい。流川は眠たげな瞼を持ち上げて花道を見た。

「全部、おめーが悪ィんだ」

 前の席の女子が不審の目を花道に向けた。花道はその目で、こんなところでする話ではないと思い直したのだけど、流川の視線がほんの一瞬肩越しに雪へ送られたのを見て、そんな思いは掻き消えてしまった。

「何でったって、てめーはそうも自分本位なんだよ。ちったあ周りのことも考えろ」

 前の席の女子は興味を無くしたように前に向き直った。バスケットの話だと思ったのだろう。

「周りって、ナニ」

 興味がなさそうに流川は欠伸をした。重たそうだった瞼は閉じられて、眠る体勢に入った。

「オレはなあ、おめーのそういう態度が気にいらねえんだよ」
「あっそ」

 勝手にしろと言わんばかりに流川は机に伏せっている。それでも花道は辛抱強く続けた。

「おめーがああじゃなけりゃ、マシだったんだよ」

 ハルコさんは、と続けそうになって花道はそれをぐっと押しとどめた。なんでったってコイツは、コイツが、雪に惚れたりなんかするから。同じフレーズが何度も頭の中をリフレインした。

「じゃ、お前はどうなんだよ」

 ふと気づくと、流川は机から顔を上げていた。射抜くような目線で花道を睨み上げてくる。温く緩慢な空気はゆっくりと解けていった。

「オレが、何だって言うんだよ」
「お前も同じことやってんじゃねえか」

 気づいてないとは言わせない、と言うような流川の目に花道は一瞬たじろいだ。この男は言葉よりも何よりも、目が雄弁だ。感情があまり表に表れないだとか、何を考えているのかよくわからないだとか言われているのを聞いたことがあるが、花道はそうは思わない。感情があまり表に出ないといわれるのは万人にわかるような仕草で感情を表さないだけで、何を考えているのかわからないときは恐らく何にも考えていないときだ。実は自分以上に根が単純なのではないか、と花道は考えている。
 そして今は、こう言っている。テメエが悪い。花道はブツンと自分の我慢の根が切れた音を聞いた。

「てめーの態度がロコツすぎんだよ、いつも!」
「……人のこと言えんのか」

 流川がふうと息を吐く。流川のシャツの襟を掴んで引き寄せると、前の席の女子がきゃあと声を上げた。申し訳ないとは思ったが、しかしシャツを掴んだ手は緩まなかった。

「ちったあ人の気持ち考えろつってんだよ!」
「だからお前こそ人のこと言えんのかって何度も言ってんだ。この、どあほう」
「だって、しゃーねーだろ!」

 オレはハルコさんが好きなんだよ!
 そう叫びそうになって、慌てて押しとどめる。花道がシャツの襟を掴んだ左手にぐっと力を込めると、流川はそれを見て少しだけ、ほんの少しだけ悲しそうな目をした。

「オレだって、しゃーねーんだよ」

 流川は目を逸らして言った。そのとき、多分自分も悲しそうな目をしたのだろう。そう、仕方がないのだ。そんなこと花道だって十分にわかっていた。だけど、誰かのせいにでもしないと、やりきれなかった。そんなことは誰のせいでもないと、ずっと前から理解していたのに。

「クソ!」

 花道を悪態をついて流川のシャツを離すと、そのまま教室に背を向けた。背を向けた一瞬に、席から立ち上がった晴子が心配そうに眉を歪めて花道を見ていたことを知った。もしくは、流川を。
 後ろから小池が自分の名を呼ぶ調子はずれな声が聞こえてきたが、花道は振り返らなかった。少しして、流川の名前も聞こえてくる。結局アイツもサボったのかと花道は廊下の窓から空を仰いだ。
 自分は晴子が好きで、でも晴子は流川が好きで、その流川は雪を見ていて、そして雪は。まるでそんな感情を持つなんて考えたことがないくらい昔っから一緒にいた雪は、自分のことを好きでいるなんて。

「そーだよなあ。誰も悪くねえんだよなあ」

 花道の呟きは誰にも聞かれることなく、青空に消えた。だから、余計に性質が悪い。






 ※






 変なこと聞くけどさ、と言った洋平の声はそれこそ変に真剣染みていた。そのときオレはちょうど夜食のカップラーメンを啜っていて、洋平の声にん?と軽い気持ちで顔を上げた。すると洋平は声だけでなく、真剣な表情をしてこちらを見ていたので、ひどい温度差をあいつとの間に感じた。
 変なこと聞くけどさ。同じ台詞を洋平は二度繰り返した。なんなんだよ一体。オレは笑った。

「雪じゃ駄目なのか?」
「……は?」

 最初は本気で洋平が何を言っているのかわからなかった。首を傾げると、洋平は大きく大きくため息を吐いた。洋平が右手で下ろした前髪をくしゃりとかき混ぜた。左手はテーブルの上に乗った煙草へと伸びる。

「よーへい。吸うんなら窓開けてこいよ」
「ん?……あ。ああ」

 どことなくぼうっとした風情の洋平はよっこらしょと立ち上がるとふらふらと窓へ近寄っていって、ガラス戸に手をかけた。カラカラカラと音がして、洋平の吐いた煙が黒い窓の外へ消えていく。煙の白色はいつまでも黒の中に残りそうだったのに、すぐに馴染んで見えなくなった。
 洋平は煙草を吹かしたまま安っぽいアルミのサッシに腰掛けてオレを見た。その顔からはさっきの奇妙なほどの真剣さは消えていて、ただ何となく放心しているように見えた。何か煙草以外の甘い匂いがすると思って、窓の外に目を凝らせば、洋平の肩越しに白い梅の花が見えた。まるで洋平が背負っているみたいだった。

「……なあ、花道。お前にとって、雪って何?」
「……は?」

 ラーメンを食い終わってもさっきと全く同じ反応をしたオレに、洋平は再び大きく大きくため息を吐いた。今度のため息は真っ白だったが。

「全然意識してねえってわけね。こりゃ、ダメだ」
「よーへい。さっきから何言ってのか全くわかんねえぞ」
「そ。お前はまったくわかんないわけね」

 洋平は大きく肩を落とした。何をそんなに落ち込むことがあるのか。そう聞いたら呆れてるの、と返された。

「なあ、花道」

 洋平は二本目の煙草に火をつけると、ぽっと煙を空に吐いた。白い煙が部屋の中に霧散していく。これじゃあ窓開けた意味ねえだろ、とオレが文句を垂れるより早く、洋平が口を開いた。

「なんで雪じゃなくて、晴子ちゃんなの」
「……は?」

 この反応はもう三度目だ。オレはそんなことを思ってにへらと笑ってしまったのだが、洋平があまり笑わなかったので笑うのをやめた。

「ハルコさんと雪に、何の関係があるんだ」
「花道。たまには本気出して考えてみろ」

 洋平がまた、変に真剣な顔をして言う。あんまり真剣にいうもんだから、オレは仕方がなく首を捻ってみた。

「ハルコさんと雪の関係?あまりに違いすぎて性別という共通点しか見出せねえぞ、オレは」
「そこじゃねーって。なんでオレが雪じゃ駄目なのかって聞いたのか、考えてみろ」

 オレは再度首を捻る。雪じゃ駄目なのか?……何が?正直あんまり考えたくなかったのだが、洋平がしつこく言うもんだから、仕方がなく考えた。
 雪じゃ駄目、ハルコさんだったらいいっつったよな、洋平。ハルコさん、ハルコさんといえば可愛らしく優しく女らしく、そう例えるならまるで天使のような……
「花道、花道。脱線禁止」

 洋平の声に緩んでいた頬を慌てて戻して、再びハルコさんと雪の違いについて考えた。
 雪のバカは粗忽で荒っぽくて口は悪いし平気で男とケンカするし……正直いいとこねえぞ。こないだもオレ、あいつに鳩尾蹴られたもんな。あれはヤバかった、本気で入ってた。あんなの食らっても吐かなかったオレってやはり、天才!?
「頼む。頼むから頑張ってくれ」
「ぬ?」

 洋平が絶望的な顔をしてオレの肩を叩いた。

「お前にとって晴子ちゃんは何だ?」
「そ、そりゃ、何だって、決まってんだろ……」
「そう。お前は晴子ちゃんのこと好きなんだよな」
「いいいいいうな洋平!」
「オレ、お前のそういうとこ本気で好きだけどな、今は置いとこう。とにかくお前は晴子ちゃんが好きなんだ」

 洋平がオレの肩をぎゅっと掴む。まるで責められているようだとなぜか思った。

「オレがさっき聞いたこと、覚えてるか?」
「オレにとってのハルコさん……」
「それの一個前」
「なんで雪じゃなくてハルコさんなんだって……」
「もっかい聞くぞ。何で雪じゃあないんだ。雪は多分、お前のこと好きだぞ」

 洋平は至極真面目な顔をして言うのだが、オレは堪えきれずに噴出してしまった。

「ま、まて洋平!冗談にも、ほどが、あるって」

 オレはひたすら笑い転げていたのだが、洋平はさっきから全く変わらない真剣な表情のままだったから、オレの笑いはすぐに止んでしまった。

「……洋平。なんで笑わねえんだよ」
「笑えねえからだ」
「笑えよ。おい、笑えったら!」

 オレの声には多分懇願が混じっていただろう。オレは洋平の肩を掴んで揺する。笑え、笑えったら!笑え!けれど洋平は頑として笑わなかった。
 笑えねー。オレは洋平の肩から手を離して呟いた。

「本気で笑えねえよ」

 オレは頭を抱えた。何でだ。どうしてそんなことになっている。見上げると洋平は、なんだか悲しそうな顔をしてオレを見ていた。

「なんで雪じゃあないんだ」

 洋平は何度も同じことを繰り返し聞いた。そんな風に何度も聞かれたって、駄目なものは駄目だった。だって、オレは雪じゃ駄目なんだ。

「違うんだよ。雪はそういうんじゃねえんだよ」
「何がどう違うっていうんだよ。雪だって晴子ちゃんと同じように、物怖じせずにお前と話すじゃねえか」
「それは、オレと雪がこーんなちっせー頃から一緒だったからだ!」
「それのドコがいけねえんだよ」

 洋平は繰り返す。何度も何度も繰り返した。でも、駄目なんだ。オレは雪では駄目なんだ。そして雪もオレでは駄目なんだ。例え雪がオレのことを好きであっても。

「オレ正直、雪がかわいそうでなんねーよ。お前がハルコさんハルコさん言ってんのを、横でじっと見てんだぜ?お前が一番気安く話しかける女だってのに、アイツ、『花道は絶対わたしのことなんか見ない』って。なあどうしてだよ、花道。どうして雪じゃ駄目なんだ?オレは、お前と晴子ちゃんのこと応援してっけどさ、雪のことも同じぐらい大切なんだよ。どうして雪じゃあ、駄目なんだ」
「雪は、そういうんじゃねーんだよ」

 頭を抱える洋平に、オレは馬鹿みたいに切々と繰り返した。雪は駄目なんだ、雪はオレじゃ駄目なんだ。オレは雪といたら、雪はオレといたら、きっと駄目になる。
 近すぎた、というのが一番うまい表現かもしれなかった。オレは駄目なんだと何度も何度も繰り返した。洋平がわかってくれるまで、何度も何度でも。洋平は悲しそうに首を振った。


 オレと雪が初めて会ったのはもういつのことだったのか覚えていない。それほど昔のことだったのかもしれないし、それとも印象に残っていないだけかもしれなかった。小さい頃の雪は、流川もかくやというほど喋らない子どもだった。いつも斜に構えて周りを見ていたのはよく覚えている。言葉に頼らないヤツの目というものは本当に雄弁で、オレはこの頃の雪をよく見ていたから流川のこともある程度わかるのかもしれない。かなり癪だが。
 ともかく、雪は喋らなかった。その頃にオレと雪が会っていた頻度というのは週に一度か二度。親に邪魔だと思われたときに互いの家に預けられていた。オレの父親はいわゆる三文小説家で、対して雪の父親はご立派な雪リーマンっだった。父親同士が学生時代の友人だったというのが、オレと雪の有り触れた始まりだった。オレたちの親の間には、片方にどうしても子どもの面倒が見れない事態が発生した場合、もう片方が預かるという仕組みがいつの間にか成り立っていた。オレの父親はどれだけ売れなかったと言っても一応は小説家だったので当然『締め切り前』というものが存在したし、雪の父親はその頃からしょっちゅうアメリカやらなんやらと色んな場所を飛び回っていた。だから、オレたちは住んでいる地区こそ違ったけれど、まるで仲のいい従姉弟か何かのように、ちょくちょく顔を合わせていた。一週間ずっと一緒に暮らしたことも、何度かある。
 この話をすると、いつも聞かれることがある。母親はどうしたんだ。そう聞かれたら、その理由をオレは雪と声を揃えて答えれる自信があった。多分雪にもあるだろう。「ああ母親ね、あれは碌なモンじゃなかった」。
 オレの母親は、なんやかんやと理由づけてあまり家に帰って来なくなったと思ったら、親父に離婚してくれと懇願して出て行ってしまった。他に好きな男の人ができてしまったのよ、ごめんねと母親はオレを抱きしめて泣いた。
 雪の母親は、家にこそ帰ってきたが、いっそいないほうがいいのではないかと思うほど、逸脱した人だった。妻もしくは母親という職業を捨て去って、一人の女として遊び暮らすことを生きがいとしているような人だった。どうしてあんな人が子どもを生もうと思ったのか、雪には悪いがオレは今でもわからない。
 要するに、オレと雪はあまり親に恵まれなかった子どもだった。ただひとつの例外としていえば、差し迫った締め切りがない時期のオレの親父か。一般的な親としてはもちろんダメダメの部類に分類されただろうが、それでも他と比べたらまだマシだった。オレと雪に、「誰かに必要とされ、そして期待されるような人間になれ」と自分のダメさ加減を放って言ったのは親父だった。もちろんその後すぐに、「アンタみたいなのに言われたくない」と当時から口の悪かった雪に言い返されていたが。
 親父は本当にオレの親なのかと疑うほど、気が弱かった。その気の弱さのせいで締め切り前にはもう半狂乱で、よく家中のものをひっくり返したりしていた。けれど締め切りの差し迫っていないときの親父は気が弱いのと同時に、とても優しい人だった。
 雪の部屋には、片手で足りるほどしか刊行されていない親父の本が、全部並んでいる。オレとは違い、桜木栄進と大層な名前の割りにぱっとしない親父の小説は、はっきり言ってオレにはよくわからない。オレと違って頭のいい雪はちゃんと読んだようだが、オレの前でも親父の前でも感想を言うことは一度もなかった。
 そうやってにオレと雪は時間を共有していた。ダメな大人たちに囲まれて育ったオレたちは、まるで姉弟のようでもあったと思うし、雪がいうには重度の依存関係にもあった。オレは雪がいなければ、多分生きてなかっただろうなあと半ば本気で思っている。同じように、雪もオレがいなければ多分生きていなかっただろう。オレたちは互いによって生かされた状態だった。
 でも、それで本当にいいのかと初めて思ったのは、雪が父親に連れられて、半ば強制的にアメリカへ行ってしまったときだ。しばらくの間だったがオレの生活から雪は消え、同時に親父と二人っきりの生活が始まった。夢のようで悪夢のようでもあった。親父の締め切り前も家にいるしかなくなったオレは、半狂乱の親父に原稿用紙やら万年筆やらなんやらをしょっちゅうぶつけられたし、当たり前だがオレも色んなものを投げつけ返した。殴りもした。その頃すでにオレは親父の上背を抜こうとしていたから、乱闘に負けてひどい怪我を負うのは体格も体力も負ける親父のほうだった。オレは自然とあまり家に寄り付かないようになった。
 中学に入ってから知り合った洋平と夜通し肩を並べてどうでもいいことを喋っていたこともあった。そんなときよく思ったのだ。オレはこれでいいのか、と。誰もオレを必要としなかったし、誰もオレに期待をしていなかった。教師は蔑むような目でオレを見た。ある一箇所では必要とされたり、期待されたりすることもあったけれど、それは別にオレじゃなくったっていい。誰だっていい、代価可能なことだった。実は、雪との関係だってそうであったのだと、そのときオレはやっと気づいた。オレと雪は互いにお互いを必要としていたけれど、それは別にオレじゃなければならなかったわけではなく、雪でなければならなかったわけではなかった。
 でもバスケットは違った。最初ただの玉入れとバカにしていたスポーツは、「桜木花道」という個性を認めてくれた。お前にしかできないプレイがあり、そしてお前が必要なのだと、お前がどうにかしてくれると期待していると。だからバスケットというものの存在を教えて導いてくれた赤木晴子という女の子が、オレの中ではまるで女神さまのように特別な存在なのだ。
 オレと雪は今も、依存関係の延長線上にいる。オレたちはきっと、この関係から永遠に抜け出せないだろう。けれど抜け出せない限り、オレと雪は一緒に生きていくことはできないと思っている。多分オレは、「生きたい」のだ。「生かされて」いるのではなく「生きて」いたい。昔、雪にそんなことを溢したら雪は「受動的ではなく能動的に生きたいのね」と言った。きっとこの妙に頭のいい幼馴染の言うことは当たっているだろう。憶測だが確信がある。なんせ、十年以上も前から一緒にいたのだから。






 ※






「うっわー。晴子ちゃん、近づかないほうがいいよ。バカが移る」
「なんだと人を細菌みたいに!」
「あ、あの雪ちゃん。バカって伝染するものではないと、思うのね」

 電車の中で折角晴子の隣に座れたのに、雪によって引き離されてしまった。海南までの電車の中では近くにいることができなかったから、帰り道にこうして傍にいられてとても嬉しかったというのに。花道は憤然として雪を睨んだ。晴子は雪の背中から花道を覗いている。雪が邪魔だ。花道は渾身の力を込めて雪を睨んだのだが、本人はどこの吹く風だった。
 大体なんで内閣総理大臣を知らないぐらいでこんなバカ扱いされなければならないのか。理不尽に感じて花道がそう叫ぶと、冷めた声で雪が、「バカがばれるからんなこと電車の中で叫ぶな」と言った。

「ふ、ふんぬー!」
「騒がしいって言ってんのが聞こえんのか、このバカ者!」

 鞄で思いっきり頭を叩かれた。花道が頭を抱えて蹲ると、天使のように優しい声が頭上から降ってきた。

「ねえ桜木君。本当に聞いたことない?ホントついこの間に、就任したのよ。四月に就任したばかりだから、絶対見たり聞いたりしたことあるんじゃないかな?ほら、ハ……」
「晴子ちゃん、ヒント出しちゃ駄目だって。クイズじゃないんだから」
「ハ……」

 雪が何か言っていたが、花道は無視してじっと考えた。ハ……ハ……
「羽田……」

 晴子が小さな声で呟く。ハタ……ハタ……羽田!
「ハタツトム!」
「正解!」

 晴子が嬉しそうに声を上げて手を叩いた。雪がやれやれというように首を振っている。けれどそんなものはそれこそどこの吹く風な花道だった。

「ナハハハ!やはり天才桜木!わからないことなんてないに等しい!」
「よく言うよ。散々ヒント出してもらったくせに」

 雪がぼそっと呟いたが花道にはそんなことは聞こえなかった。晴子と手を取り合ってきゃいきゃいと笑いあっていると、~前駅と下りるべき駅名がアナウンスされた。

「ほら下りるよ。ちょっと晴子ちゃんも花道もいつのまでも踊ってないの。ほら!」

 雪が強引に二人の手を取って席から立ち上がらせた。花道はしぶしぶ立ち上がって車両からホームに降り立った。雪が吐いた大きなため息の音がホームに響いた。

「もう二度とあんたたちと一緒に電車乗りたくない」
「ご、ごめんね。雪ちゃん……」
「晴子ちゃんと二人なら乗る」

 そう言って雪はにやりとした。晴子がむすっと頬を膨らませてむくれた顔をした。

「もう!雪ちゃんったら意地悪ね」
「そうだよ。今更気づいたの?」

 他愛ない軽口の応酬をしている雪と晴子に、花道の頬はついつい緩んだ。ここに流川がいればまた鞄か何かで殴られたかもしれないが、生憎とヤツはここにいない。何してんの、と雪が改札の辺りで花道を振り返ったので、花道はおうと返事をして彼女たちに追いついた。自分の大事な女の子が仲良くしているのは、見ていて気分がいい。
 駅から出たところで、雪はじゃあと言って花道と晴子から一歩離れた。

「花道、晴子ちゃんのこと送っていくんでしょ?わたしこっちだから」

 何でもないことのように雪は言った。花道は一瞬考えてから、おうと笑って返事した。仕方のないことだと思った。

「じゃあまた明日ね、晴子ちゃん」
「ま、待って。そしたら雪ちゃんが一人になっちゃうじゃない」
「心配要りませんよ、ハルコさん。雪がそんじょそこらの男に負けるはずありませんから」
「そーだよ晴子ちゃん。そんじょそこらの男には負けないから」

 雪は皮肉気に笑って、バイバイと手を振った。花道は晴子の背を押して歩き出した。晴子はまだ雪のことが気になるようで、ちらちらと後ろを振り返っている。

「ねえ桜木君。やっぱり雪ちゃんも一緒に……」
「放っておいたほうがいいです。今は」

 花道の言葉に弾かれたように晴子は顔を上げた。角を曲がって駅が見えなくなったところで、やはり晴子は立ち止まってしまった。ハルコさん、と名前を呼んでも彼女は動こうとしない。花道は小さくため息を吐いた。

「仕方がないんですよ、ハルコさん」
「でも……」
「三人ではいたくないと、雪はさっき言っていたでしょう?」

 花道は晴子の手を引いた。

「行きましょう」
「……うん」
晴子にできることはたくさんあっても、雪でにできることはこれくらいしかない。花道はそのことを悲しく思った。




 体育館からは光が漏れていたから、恐らく誰かいるのだろうということはすぐに予想がついた。今日は海南で練習試合があったばりだというのに、ご苦労なことだ。重たい戸を力いっぱい開けると、流川がリングにボールを叩き込んだところだった。その音は人気のない体育館の中に大きく響き渡った。流川は息を吐き、シャツの裾で汗を拭く。雪は体育館の中に入ると、元の通りに扉を閉めた。もう八時を過ぎている。こんな大きな音が近隣に漏れたら迷惑だろう。

「あんた、帰ったんじゃなかったのか」
「帰った。駅まで帰ったんだけどね」

 雪は戸惑ったように自分を見る流川を無視して、ゴール脇に転がっていたバスケットボールをひとつ取り上げた。タムタムタムと床に突く。男子用のボールはやはり重く、雪の手に余った。
 下から上に伝えるように。ぐっと膝を下げると雪はゴール脇からシュートを放った。制服のスカートが頼りなく揺れる。以前晴子の前でこのシュートをしたら、すごいすごいと言って褒めちぎられたのだが、雪はこのワンハンドのシュートフォームしか知らないだけだった。花道が練習をしていたのを見ていたら、自然とできるようになってしまっただけ。雪は昔からそういうことが得意だった。
 ボールは美しく弧を描いてリングの中に吸い込まれた。シュっと柔らかい音がする。ほんの少しだけ心が軽くなったような気がして、雪はほっとため息を吐いた。パンパンと軽く叩いて、乱れたスカートのプリーツを直す。

「流川。わたしここでちょっと遊んでるだけだからさ、気にしないで練習してて。気が散ったら悪いけど、邪魔しないようにするから」

 雪は流川を振り返らなかったのだが、流川は首を振るような仕草をしたのが感じられた。すぐにまたドリブルと、バッシュとコートが擦れるキュッキュッという音が聞こえ始めた。雪は大きく息を吐いて、まず屈伸運動をした。それからぐっと前屈をして脹脛の筋肉を伸ばした。首と肩を回し、足首も回しておく。

「手首も」

 流川が反対側のゴール付近から口を出した。雪は「うん」と素直に頷いて、言われた通りに手首も回した。はあ、と再度大きく息を吐くと、ゴール下に転がしておいたボールをもう一度手に取って、コートのセンターラインまで戻った。後ろでは流川が静かにシュートの練習をしていた。やはり気を使わせているのかもしれない。早めに帰ろうと雪は心に決めた。
 両手でトン、トンと二回ボールを突いた。両の手のひらの中でクルリとそれを一回転させると、雪はボールをバスケット目掛けて大きく振りかぶった。全身の筋肉を使ってそれを放り投げると、振りかぶったときに踏み出した右足をそのまま一歩目として、リングに向かって駆け出した。やはり自分の力では、ボールは失速してリングの手前で落ちる。雪はトンと床を蹴ると、右手で落ちてきたボールを掴み、そしてバッグボードに叩きつけた。ガンと音がしてボールは跳ね返り、センターラインのほうへ戻っていく。片足で着地すると、雪はまたボール目掛けて走り出した。床に落ちようとしているボールを大きく跳ねて掴むと、その反動を使い宙で体を反転させてリングを狙った。ここまでは以前ビデオで見たことのコピーだった。けれど、女である自分がビデオの中の人物のように、普通のシュートフォームでショットを放っては届くはずがない。だから雪は力任せに両手でボールを放り投げた。その直後、硬い床の感触が左肩と背中を打った。雪はうっと声を上げる。同時にシュっと柔らかい音がした。
 テン、テンテンとボールが跳ねる音がした。雪は肩を抑えながら起き上がるとトツトツとまだ跳ねているボールをぼうっと見つめた。そして、高くにそびえるバスケットを。痛みに涙が滲みそうになった。

「……いたい」
「ったりめーだ。どあほう」

 独り言のつもりで呟いたのに、予想外に返事されて驚いた。振り返ると流川がセンターラインの向こう側から、じっと雪を見ていた。雪はハハ、と小さく笑うと肩を抑えたまま、体を倒した。打った左肩をかばうように右手に倒れたので、自然、センターラインに足を向けてしまった。体育館の天井が遥かに、高く高く見える。そこから吊り下げられた電球が眩く光っていた。眩しさに目を細めると光は潰れて、クロウリーのヘキサグラムのような形になる。眩しくって、さらに腕で瞼を覆った。片膝も立てると、汗で肌がべたついていた。

「……おい」
「うん」

 抗議するように流川は声を上げたけれど、雪は返事をしただけでそれを無視した。今更になって目の前がちかちかとしてくる。体育館の天井がぐるぐると、メリーゴランドのように回っていた。横になっていないと喉の奥から胃液が溢れ出てきそうで、きっとこれは急な運動のせいだけじゃないんだろうと、頭の隅で思った。
 わかっていた。どうしようもないことなんだと。それでも、感情がついていかなかった。だってとても苦しかったのだ。

「流川ぁ。また吐きそうって言ったら、どうする?」
「ブっ殺す」

 彼は先日のことで随分懲りたようだった。雪は腕で瞼を覆ったまま、くっと唇の端を曲げて笑った。不意にふっと、視界が翳る。不審に思って右腕をどけると、流川が自分を覗き込んでいた。

「飲め」

 短く言って、流川は白っぽいボトルを差し出した。雪は何とか上体を起こし、それを受け取った。ぼやける視界で注視すると、それはスポーツドリンクの入ったボトルだった。恐らく流川のものだろう。折角だから遠慮なく、とボトルを煽ると水っぽくも甘い味が口いっぱいに広がった。冷たい液体が食道を伝って胃へと落ち着くまで待ってから顔を上げると、不思議と吐き気が軽くなっていた。

「ありがとう。吐き気、楽になった」

 流川は「ん」と小さく頷いて自分もそのボトルを煽った。そして一息つくと、またボールを拾ってバスケットと向かい合う。雪は流川の邪魔にならないように、コートの端まで這って移動した。体育館の壁にまだ痛む背中を預けて足を投げ出すと、体から力を抜くことができたので多少は楽になった。
 流川は飽きもせず淡々とシュートの練習をしていた。そのシュートフォームは一定しており、ぶれることがない。当然、シュートを外すこともなかった。晴子は、流川のこんな姿のことも知っているのだろうか。雪はぼんやりと思った。バスケットだけを見つめている流川の背中は、確かにかっこよかった。これなら、晴子があんな風に惚れ込んでいるのも頷ける。雪が流川に惚れるかどうかは別としても、だ。
 なんで、という疑問符を雪は何度口にしただろう。少なくとも、十回や二十回という回数ではなかった。なんで、なんで、なんでと毎日毎日、花道や晴子の顔を見るたびに思った。なんで、こんなことになっちゃったんだろうなあ。
 自分に科したノルマが終わるのか、流川はそれまでで一番美しいフォームでショットを放った。ボールは当たり前のようにリングの中に吸い込まれていく。バスケットから抜け落ちたボールは、タンタンタンと軽いリズムを刻んでいる。何に誘われたのかわからない。屈んでボールを拾い集めている流川に向かって雪は、気づけば口を開いていた。

「花道は、すごく優しい目で晴子ちゃんのことを見るんだよ」

 流川は怪訝そうに雪を振り返った。こんなこと、流川に話していいことではない。雪は思ったのだが、それに反して口は止まらなかった。

「わたしは、高校に入って花道が晴子ちゃんに出会うまで、あんな目をすることが花道にできるなんて、知らなかったんだ。ずっと十年以上前から、一緒にいたのに」

 苦しくなって、雪は抱えた膝に顔を埋めた。痛い、肩と背中がひどく痛かった。だから声に涙が滲むのはそのせいにしたかった。そうではないと雪にも、果ては流川にさえもわかりきった事実だったというのに。

「わかってるんだ。花道の隣にいるのはわたしじゃ駄目だってこと。きっとわたしと花道は、一緒にいたら駄目になる」

 ボールの音でもバッシュの擦れる音でもない、金属質な音が雪の耳に届いた。聞きたくない、もしくは興味がないという流川の意思表示か、と雪はその音を理解した。ゴール下に散らばったボールが金属製の籠の中に放り込まれる音だった。

「わかってるんだよ。でも、ダメなんだ。どうしても、わたしは、花道が……!」

 ひっくとしゃくり上げたら、その先の言葉は言えなくなってしまった。がしゃがしゃいう金属音はもう止んでいる。体育館には雪の泣き声だけが響いていた。好きだ。どうしようもなく雪は花道のことが好きだった。
 花道が幸せになればいいと本気で思うのに、そのとき花道の隣にいるのは恐らく自分でないだろうということに、雪はこの上ない悲しみを覚えている。花道の隣に自分がいれば、きっと花道は不幸になる。理由は至極簡単だった。雪では花道を幸せにすることはできない。たったそれだけだったから。花道が心から望んでいるものを、雪では与えることができないのだ。

「花道と晴子ちゃんの傍にいるのが、辛くって、でも我慢して一緒に駅まで帰ったのに、二人が仲良く並んで歩くのかと思うと、家に帰れなくって、……やだよ!こんな汚い気持ちばっかり浮かんできて、わたしはただ花道のことが、好きなだけなのに!」

 流川が自分の話を聞いているかどうかなんてどうでもよかった。雪はずっと前から、この堂々巡りの心情を誰かに吐露してしまいたかった。その誰かが聞いているかどうかは関係なく、唇から外に放り出したかったのだ。

「いっそ、晴子ちゃんがいなくなっちゃえばよかったのにとか、そんなことばっかり浮かんでくるんだ。晴子ちゃんがいなければ、わたしは花道の中で一番大切な子でいられたのに。それなら例え持ってる気持ちが違ったって、よかった」

 流川はさっきから何も喋らない。もしかしたらもう体育館から出て行ってしまったのかもしれなかった。顔を上げて彼の姿を確認する勇気は、今の雪にはなかった。だからずっと止まらずに喋り続けた。

「……晴子ちゃんと、叶いそうにない片思いの場合に持てる選択肢の話をしたことがあるんだ。わたしは四つあるんだって、晴子ちゃんに教えた。頑張るのか諦めるのか、何も選択せずに立ち止まるのかそれともいっそ狂うのか。晴子ちゃんは頑張るって言って、わたしは立ち止まるって言った。でも、でも本当はわたしは、四つ目だった。狂いかけてる。だって、好きな人の幸せが願えないんだ!どんなに不幸にしたっていいから傍にいたいなんて……」
「おかしくねえよ」

 狂ってる!と言おうとした声は、流川よって唐突に遮られたまま消えた。まだいてくれたんだ。雪は膝から顔を上げた。目が合うと流川は、ひでえ顔とほんの少し唇を歪めた。雪はぽかんと口を開けたままだった。

「しゃーねえんだよ。だからおかしくなんかねー」

 何かしゃあなくって、何がおかしくないのか。雪は最初流川が何を言ったのかよくわからなかった。けれど、瞬時に理解して聞き返した。縋るような気持ちだった。

「ほんとう?ほんとに、そう、思う?」
「おー」

 流川はにこりともせずに言った。

「あんたは、あのあほうのことが好きなんだろ?だったら、おかしくなんかねーよ」

 一瞬止まっていた涙がまたじわりと、奥から奥から溢れた。全く以ってみっともない。またひでえ顔と流川にいわれる前に止めようと必死に拭ったのだが、止められなかった。「う」とか「ひえ」だとか、情けない声を上げて手の甲で目を擦っていると、不意に腕を掴んで止められた。

「泣きたかったら泣きゃあいいんだよ。我慢すんな」

 流川が嘘みたいに優しい声で言った。すると喉の奥から嘘みたいに大きな声が溢れた。嘘みたい、と雪は思った。うわああんと自分の声が広い体育館に木霊する。流川は雪の隣に座ると、泣く雪の頭を二度撫ぜた。花道のように大きな手だった。けれど、花道の手とは違っていた。
 その事実に泣きじゃくる雪の横で、四つの四と流川が小さく呟いた。しかしその言葉の意味を、雪はまだ知らない。


















 


 晴子の手のひらは、すぐ横を駆け抜けていった流川を掴むことができない。脇目も振らずに廊下を駆け抜けていった流川を、晴子は名前を呼んで呼び止めようとしたのだが、聞こえた素振りはなかった。

「何やってんだ、あのキツネ」

 向かいでは花道が不思議そうに首をかしげている。さあ、と曖昧な返事をしてから、実は自分は流川が何のために走っていたのか心当たりがある、と思って恥じた。
 流川は雪を追いかけていったのだ。花道が偶然にも、自分のところに来てしまったから、雪が勘違いして傷つくと思って。流川の視線はとても真っ直ぐだ。それこそさっき駆けていったときのように、脇目も振らず、がむしゃらに。そんな視線の先に捕らえられている雪を羨ましく思ったし、同時に疎ましくも思った。 
「どうしたんですか、ハルコさん?」

 花道が首を傾げる。晴子は慌てて何でもないと首を振ると、もう一度花道に向かい合った。

「やっぱり悪いわよう。桜木君は教室に戻って。ね?」
「いいえ!そんなわけには行きません。男として、チリだかチベットだかのプリントなんぞに、ハルコさんの細腕を煩わせるわけにはいきませんから!」
「でも、もう授業も始まってるし……」
「構いません!」

 桜木花道という人は、いつも誰かに優しすぎると思う。晴子は正直困惑していた。この人と一緒にいると、居心地がよすぎて、色んなものをぶちまけてしまいそうになる。自分の中の尊いものも、醜いものも、全て。それは、甘え以上に醜悪で、だから絶対に忌避すべきものだと思った。

「桜木君は、優しいね」
「そ、そんなことはっ!」

 花道が照れたように顔を赤くする。晴子は小さく微笑みながら、本当よう?ともう一度繰り返した。

「桜木君は、とっても優しいわ。どうしてみんなが、あなたのことを怖がるのかわからない」

 雲の切れ間から薄い光が差し込んだ。天使の梯子。いつか、兄に教えてもらった名前をそっと唇に乗せてみると、気恥ずかしさのほうが勝った。

「天使の梯子って、綺麗な名前だけど口にするのが恥ずかしいわね」
「はははは、ハルコさんのほうが百倍キレイです!」
「えー、もう。からかわないでよ、桜木君ったら」

 晴子はきゃらきゃら笑うと、なぜか真っ赤になっている花道の背中を、ぱんと軽く叩いた。これは甘えだ。彼といると、とても心が軽くなる。どうして流川君は振り向いてくれないのとか、どうして雪ちゃんなのとか、ぐるぐると渦巻いていたことがその瞬間だけ、嘘のように消える。

「でもありがとう。嘘でも嬉しいわ」
「嘘なんて、ハルコさんに!」
「だって、わたしは雪ちゃんのように綺麗じゃないもの」
「雪なんて、ハルコさんに比べれば!あれです、七五三です」
「えー、何それ」

 そんな風にいうけれど、実は花道は雪のことが好きなんじゃないかなと晴子は思っていた。花道が雪を見る目はとても優しいから。両思いなのに、花道が誰にでも優しいから、すれ違っているように思う。

「この間、洋平の妹が七五三をやったときの写真を見せてもらったんですが、その妹のこしゃくれた表情が雪にもう、そっくりで!」
「へえ、水戸君って、妹さんがいるの?」
「あんま似てないんですがね」
「……あんたらなんで自分がここにいるのか忘れてるだろ」

 突然割って入ってきた声に振り返れば、流川と雪が渡り廊下の端に立っていた。手にいっぱいのプリントを抱えて。

「はーなーみーちー。わたしのどこが、七五三だって?ああ?」

 低い声で凄む雪に、花道はそっと目を逸らす。その横で流川が咽たように、咳をひとつした。

「……ムカツク、流川まで。もういい、晴子ちゃん。こんな奴らは放って、行こう」

 雪は有無を言わせず花道にプリントを押し付けると、晴子の手を引いて歩き出した。

「え、え?ででも、雪ちゃん。プリント、わたしたち当番だって……」
「いいよ、あいつらに持たしとけば。量が多いから手伝えって先生に言われたらしいから」

 振り向くと、流川と花道は嫌そうにお互いのプリントを見比べている。自分のほうが多く量を持つのも癪だが、少ないのも貧弱だといわれそうで嫌なのだろう。無言で牽制し合っている。

「それ、流川君が?」
「そ。いきなり準備室に飛び込んできてさ、何事かと思った」

 雪は晴子の腕を掴んだまま、ずんずんと歩いていってしまう。その口ぶりから、流川の言葉が嘘だなんて疑ってもみていないのだろう。ましてや、流川が雪を見つめているなんて、とても。

「流川君は優しいね」
「……そうかな」

 買いかぶりすぎじゃないの、と言う雪の目が晴子に不審を向けている。雪は晴子が流川に憧れていたことを、知っているから。

「桜木君も、優しいね」
「それは肯定する」

 雪は口の端をほんの少しだけ持ち上げる、彼女が得意な笑い方で微笑んだ。


 晴子の手のひらは、駆け抜けていく流川を掴むことができない。手が届かないと言ったほうが正しい。いつも彼は駆けていってしまう。素早く、瞬く間に。今まではそれでもよかった。と、いうよりもいいと思い込もうとしていた。なぜなら、彼が目指して駆けているものに、どうやっても晴子はなりようがなかったから。流川にとってのバスケットというものに、晴子はどう自分をいじくってもなりようがない。
 けれど。
―別に、雪ちゃんのことが嫌いなわけではないんだけどな。
 晴子はそっと肩越しに雪を振り返って、一人ごちた。雪の席は教室の窓側の一番後ろで、その席で授業を受けている雪はとても心地がよさそうだ。晴子の席は窓側から二列目の前から三番目。可もなく不可もなくといった席である。
 雪は右手の指先で持ったシャーペンを弄びながら、窓の外を眺めていた。まるで気持ちよさそうに、新緑の欅が風に揺れている。埃臭いグラウンドでは、恐らく一年生だろう。女の子たちがハードルをぴょんぴょんと飛び越えながら走っていた。晴子も去年の今頃にやった覚えがある。体育教師が規則的に吹く笛の音が、柔らかな空気に絡んで見えた。
 晴子はほうっとひとつため息を吐く。雪から目を離して、先ほど自分が運んできたプリントに目を戻した。プリントの課題は、指定された各国の気候と主な産業と人口などを色分けして記入しなさいというもので、B4の大きなプリントが五枚もある。まるで中学生か小学生のようなことをやらせると思ったのだが、そういう単純な作業ほどなかなか進まない。前回の授業の際に、次回は色鉛筆を持ってくるようにという指示を受けていた。これをやらせるためだったのは明白だ。しかし流川と花道にいたっては、そんな指示があったということさえも知らず、しっかりと忘れてきて教師から借りていた。かといって、二人とも机にうつ伏せて色塗りをしている気配など全くないが。
 でも、あの二人が色鉛筆を持って、一生懸命色塗りをしていたら面白いかもしれない。しかも隣り合って。
 そんなことを考えて、晴子は一人でくすりと笑った。と、その瞬間、教師と目が合ってしまう。両眉を持ち上げた彼から慌てて目を逸らして晴子はまたプリントに向き直った。少しすると後ろから、教師と雪の問答が聞こえてきた。

「一ノ瀬さん。終わったの?」
「まだです。でも五枚目で飽きました」
「あともうちょっとなんだから、頑張りなさい」
「いやです。飽きました」

 我侭だなあ。晴子は笑ってしまった。


「それ、もう食わねーの?」
「ん?いいよ、あげる」

 ほんの少し千切っただけのパンを雪が流川に差し出した。雪は少食だ。というよりも、拒食症に近いらしい。本人から聞いた話だと、十歳から十四歳までの間アメリカにいたことが原因で、今もそれは治らなくって、だから週に二回病院に行って点滴を打ってもらっている。同時に不眠症でもあって、雪の肌から化粧を落とすと目の下には染み付いたような隈が表れることを、少し前に晴子は知った。

「どーも」

 もそもそとパンを食べてしまうと、流川は靴をバッシュに履き替えて、オレンジ色をしたバスケットボールに触れた。トン、トン、トンと響くドリブルの単調なリズム。兄の影響でバスケットというスポーツに慣れ親しんできた晴子とって、それはとても心地よい音であったし、それが好きな人の奏でるものだったら尚更だ。単調だったリズムが、ドンと体育館の床を震わす音でランダムに変化していき、それにバッシュが擦れるキュッ、キュッという音が加わる。

「食べたばっかだってのに、よくやるよねえ。あいつら」
「それだけ好きなんだよ」

 昼休みになると、流川と花道が体育館で1on1をするようになったのは、二年生に進学してからだった。最初は体育館の使用を渋っていた体育教師も、見たことがないような熱意で頭を下げた花道と流川を見て、不承不承といった風情で鍵を差し出してくれた。ただし、マネージャーの晴子も必ず二人に同伴して施錠すること、という制限付きではあったが。それ以来、流川と花道は昼休みになるとこうして毎日体育館に通っている。

「わたしには、よくわからないなあ」
「好きになるってことが?」
「ん、何かに夢中になるってことが、かな」

 瞳で花道を追いかけながら、雪が言った。その瞳は、恋する相手を見つめるには少し冷めすぎている。雪はよくそういう目をした。どこか一線を隔てた場所に立ってるような、冷めた目を。

「でも、雪ちゃんは桜木君が好きなんじゃないの?」
「あ、ばれてたの?」

 そう言った雪の表情に動揺は見られない。それもそうだろう、雪は隠そうという気を最初から持っていなかったのだから。

「雪ちゃんは、桜木君に夢中になったりしないの?」
「花道に夢中……。それはちょっと嫌だけどな」

 ほら、そうやってすぐに誤魔化す。晴子は少し目線を鋭くして雪を睨んだ。
 ちょっと皮肉に笑って受け流して、次の瞬間にはもうなかったことにしてしまう。相手側が熱意を上げるほど、雪の温度は冷えていき、熱に浮かされているうちに、いつの間にか交わされてしまっている。そういうことを、晴子は時折経験していた。だから晴子は、熱くならなかった。努めて雪と同じ温度を保とうとした。

「……でも、好きなんでしょ?」
「うん、そうだね」

 今日も晴れてるね、という言葉に答えるように、雪は軽く答える。ほんの少し、ほんの少しだけど晴子はそれを我慢ならないと思った。雪はそんな晴子を見て、困ったように目尻を下げた。

「ねえ、晴子ちゃん。例えば誰かを好きになって、その人がどう頑張っても振り向いてくれそうにないとき、わたしたちが選択できる方法はいくつあると思う?」
「……わからないわ」

 晴子は首を振った。すると雪は、また花道を目で追いかけながら言った。

「わたしはね、四つだと思う。一つ目はそれでも頑張る。二つ目は、諦める。三つ目は頑張ることも諦めることもせずに、立ち止まる。四つ目は、いっそ狂う」
「狂う?」
「ハインリッヒ・ハイネは『恋に狂うとは言葉が重複している』と言ってるけれど、つまり常識の範疇外へ思考を飛ばしてしまうえばいい。例えば、恋をした人を殺してしまうとか。その人の心に一生留まれるように、目の前で自殺してみるとか。もしかしたらこれが一番、満足できる選択かもしれないね。理性を無くした状況下で、手段的行為がいつの間にか自己充足的行為にすり替わってしまうだろうから。これ、頑張ると諦めるに似ているけど、ベクトルが反対方向に向かうから別のカテゴリでもいいと思うんだよね。だから四つ」

 あの口の端を持ち上げて笑う笑い方を、雪はした。

「晴子ちゃんは、どれ?」
「よくわからないけれど……、でも私は頑張るわ。頑張りたいの。雪ちゃんは?」
「わたしは三つ目だな。ずっと立ち止まってる、このまま、死ぬまで」

 軽い調子で発せられた「死ぬまで」という雪の言葉が、晴子には本気に聞こえた。冷静に考えるなら雪が一生花道のことを好きであっても、流川までが雪を一生見ているわけではないのだから、逆に晴子は喜ぶべきだったのかもしれない。それなのに、一瞬にして目の前が真っ暗になった。
 だって死ぬまでって、死んでしまうまででしょう。そうしたら雪を見つめている流川はどうなるのだろう。晴子は煩悶した。雪はずっと、花道のことを好きなままで、そうしたら、そんなのって、流川、流川は……、晴子が流川をどんなに好きでも見てもらえないのに、それなのに雪は。

「雪ちゃんは、ズルイわ」

 気がつけばそう言い返していた。急に声を荒げた晴子に驚きながら、また雪の温度が冷めていく。駄目だと思っていたのに、やっぱりダメだ。晴子の温度は急激に上がっていく。

「そんなのって、逃げてるだけだと思う」
「いいよ、逃げでも」
「よくない!」

 反射的に言い放つと、予想外に大きな声になった。それまで途切れることなく体育館に響いていたボールの音が止まった。

「雪ちゃんはよくっても、それじゃあよくない人が他にもいるかもしれないじゃない!」
「わたし、『もし』とか『かもしれない』とか、そういう言葉は嫌いなの」
「だから、誤魔化さないでって、何度も言ってるの!」

 雪ちゃんはズルイわ。もう一度繰り返すと、目に涙が溢れてきた。対して、雪はまたあの冷めた目をしている。もうダメだと晴子は思った。何もわからなくなる。

「晴子ちゃんはわたしのことをずるいと言うけれど、わたしはあなただって同じぐらいずるいんじゃないかと思うよ。ずっと、気づかない振りをしてるでしょう。それに甘えてるでしょう?わたしは時々それが無性に許せなくなる」
「そんなの、私だって一緒だわ!むしろ本気で気づいてないほうが、性質が悪いわよ!」

 だって、そうじゃないか。本人に心当たりがなかったら、責めることはおろか、罪悪感を引き出すこともできない。やはり雪は、怪訝そうに眉を寄せている。

「なんで雪ちゃんなの、何で、なんで、どうして?!」

 流川君と流れに任せて叫んでしまうことは、辛うじて止めることができた。その代わりのように、ぼろぼろと涙が頬を伝う。滲む涙の向こうで、流川と花道が驚いたように晴子を見ているのが見えた。もう、呼吸することさえ苦しい。晴子はひっくとひとつしゃくり上げると、踵を返して体育館から飛び出した。後ろでハルコさん!と花道が自分の名前を呼んだ声が聞こえた。晴子はその声を背中で聞きながら、風が入って気持ちがいいから体育館の入り口の辺りでご飯を食べようと雪に言った、四月の自分に感謝していた。


 ずっと気づいていない振りをしていた。何となく「そうかな?」と思ったのは、もういつのことだっただろう。とりあえず、夏ではなかった。なんだか肌寒くって、晴子はほんの少しだけ悲しい気持ちになっていた。そんなときだった。
 花道が、晴子を見つけてにっこりと笑った。赤に染まった頬が体躯に似合わず彼を幼く見せて、晴子の心臓はぎゅうと縮み上がった。どうしたんですかハルコさんと花道はいつもの調子で話しかけてきてくれて、ううんなんでもないのよと晴子がいうと、辛かったら辛いと言っていいんですよと花道は大真面目な顔をして言った。ああ、そうか。辛いと言っていいのかと晴子は初めてそのとき素直に思って、泣きたいなんてそれまで一度も思っていなかったというのに、目からは涙がひとつ零れ落ちた。鱗、と晴子はそのときの涙を呼んでいる。

「桜木君。今度のは、鱗じゃないわね」

 昇降口まで泣きながら駆け戻った晴子は、五限目の授業がもう始まりそうなことをいいことに、人気のない下駄箱の隅に蹲って泣いていた。この時間まで人影がないんだったら、五限目にグラウンドを利用するクラスはないんだろう。泣きながら走ったせいで息が切れて苦しかった。
 少し泣いたところでぬっと大きい影が晴子の前に立って、でもいつまで経っても何も言わないから、晴子は思わず皮肉な口調でそう言ってしまった。

「……ハルコさん」

 花道は、普段からは考えられないような繊細さで以って、晴子の名前を呼ぶ。そして、晴子の名前を呼んだのがやはり花道であったことに、晴子は悲しみを覚えた。こんなこと、雪に知られたらきっと怒らせてしまうだろうけど。流川は、晴子の好きな流川は一体どこにいるんだろう。雪と一緒にいるんだろうか。そう思うと一層涙が溢れた。流川を思うことはいつも、辛くって苦しい。

「私、流川君のことが好きなのよう!でも、でも、流川君は、雪ちゃんのこと、ばっか、見てるじゃない。映画に誘ったり、自分から勉強教えてもらったり、それは結局ダメになったけど。でも、あとそれから、急に1on1やろうって言い出したり」
「なんか、半分以上空回ってるような気がするんスけど」
「でも、流川君、雪ちゃんばっかり見てる、じゃない!」
「……まあ。洋平も、流川はわかりやすいつって笑ってました」

 花道は言い難そうにして、頬を掻いた。

「なんというか、雪は……昔っから鈍いヤツでして」
「あれだけ見られてるのに、なんで雪ちゃんは気づかないの!あの、流川君に!」
「いや、キツネだろうと、例えゴ……、ハルコさんのお兄さんだろうと、雪は気づかないだろうと思います」
「どうかしてるわ!」

 言い放って晴子はまた膝に顔を埋めた。いや、どうかしてるのはお前のほうだ、と誰かが晴子の心の奥で囁いた。花道に向かってこんな話をするなんて。

「桜木君……ごめんね。ごめんなさい、こんなズルイ子で」
「ハルコさんは悪くありません。雪のバカもまあ、あの鈍さを捨てておけば悪くないです。ですから全ての悪は、あのキツネに!」

 花道の目にしか見えない流川を殴ろうとしているように、花道がぎゅっとこぶしを握り締める。その様子がおかしくって、晴子は思わず笑ってしまった。

「笑ってください。泣いているハルコさんもキレイですけれど、笑っているハルコさんのほうがオレは好きです」
「もう。からかわないで、桜木君ったら!」

 晴子は目尻の涙を拭うと笑って、花道に手を差し出した。その手を花道に引かれて、晴子は立ち上がった。磨ガラスの向こう側に、薄ぼんやりとグラウンドが透けて見える。
 昇降口から少し離れた花壇の辺りに、所作なさそうに立っているのは背の高い男の子。そこからまた少し離れた場所に、さっきまでの晴子のように小さくなってしゃがみ込んでいるのは、髪の長い女の子。二人ともきれいな黒い髪を持っている。

「私、知ってたの。でも気づかない振りをして、況しては桜木君は雪ちゃんのことが好きだって思い込もうとして、ずっと目を逸らしてた」

 いいんです、と花道は首を振った。

「私、流川君のことが好きよ。バスケ部にマネージャーとして入部する前みたいな、憧れの混じった中途半端な気持ちじゃないの。本気で好き。流川君のためならなんだってできるって、思う。だから……」
「ハルコさん、謝らないでください。お願いですから」

 花道はするりと狭間に滑り込んで言った。俯いていた晴子は、唇をきゅっと噛んで花道の目を見上げた。

「……私、とても苦しいわ。流川君のことを考えると、すごく苦しくって、辛くっていつも泣き出しそうになる。喚きだしそうになる」
「そうしたいときは、そうすればいいんです」
「できないわ。したくないもの。でも、そんなときに桜木君が傍にいてくれると、とても安心するの。だから、ついつい甘えちゃう。それで今日は雪ちゃんを怒らせちゃったけど」
「怒らせときゃーいいんですよ。鈍感なことへの仕返しだと思えばいいんです。オレは、雪に甘えられるよりハルコさんに甘えられたほうが気分がいいっス」
「……ありがとう、桜木君」

 晴子は心からそう思った。彼はいつも晴子の心を軽くしてくれる。晴子はそんな花道に心を返すことができないことを、本当に残念だと思った。
 大丈夫、ちゃんと雪に謝れる。ごめんねって、一言を笑顔で。


―どうしてかな?って思ったのが最初だった。どうして桜木君は、こんなにも優しいのかなって。
 花道は晴子に熱烈な視線を送っていたわけではなかったし、況してアプローチ、なんてものをされた覚えもない。ただ、いつもニコニコとして話しかけてきてくれて、何か晴子が困っていたりするとまるでヒーローみたいに助けてくれた。
―だから、どうして桜木君はこんなにやさしいのかなって、考えた。考えてみて、最初は誰に対してもこういう優しい人なんだろうって思った。
 実際にそうだったけど、でも、あの鱗の落ちた日。万人に振舞うただの優しさや親切にしては、あまりに強く、花道は晴子のことを心配してくれた。鱗を一粒落としただけだったのに、あの晴子に対しての花道の狼狽振りは、今思い出しても笑いを誘う。そのときも、それで笑ってしまったのだ。そうしたら面白いぐらいに慌てていた花道も笑って、ハルコさんは笑ってたほうがいいって嬉しそうに言うから、ああそうなのかなって、思った。
―もしかしたら、桜木君は私なんかを、好きでいてくれるのかなって。そのとき初めて思ったのよ、雪ちゃん。
 とても素敵。と雪は言った。その言葉に晴子は思わずはにかんでしまう。

「ねえ、私たちが初めてまともに喋った日のこと、雪ちゃんは覚えてる?」
―私は、覚えてるよ。
 晴子は言った。







 ※






 暑いなあ。私は太陽を見上げて一人ごちた。もう九月も中旬を過ぎたというのに、今日は随分と暑い。八月の真夏日と同じような格好をしている。Tシャツにハーフパンツ。背中にはじっとりと汗が浮かんでいた。

「晴子ちゃん。そろそろ準備しなくっても大丈夫?」
「そうですねえ。わ、もうこんな時間」

 腕時計を見ると、短針は既に十一を指そうとしていた。私はその日、海南で合同合宿をしている国体混成チームの手伝いに行くことになっていたから、慌てて抱えていた洗濯物を干し始めた。

「ああ、いいのよ。あたしやっておくし」
「いえ、やっぱり一応やり始めたことですから、やってから行きます」
「損な性格ねえ」

 彩子さんは笑うと、カゴからタオルを一枚取ってパンと広げる。どうやら手伝ってくれるらしい。

「すみません、彩子さん」
「いいのよ。お互い様ってやつでしょう」

 遠くでエイオーと掛け声が聞こえる。混成チームに入れなかった湘北バスケ部が外周を走っている声だ。

「確か、今日は桜木花道も参加する日だったでしょう?」
「はい。そう安西先生が言ってみえました。体の負担にならない程度で、練習に参加させるって」
「あの問題児が、『体の負担にならない程度』で満足するとは思えないけどね」
「あはは、そうですよね。でも、桜木君、秋の国体ちょっとだけでもいいから出れるといいなあ」
「それこそ、アイツがちょっとだけで満足するタマかって」
「それもそうだ」

 くすくす笑い合っていると、不意に彩子さんが「あっ」と声を上げた。

「あれ、雪ちゃんじゃない?」

 見ると、体育館のほうへ歩いていく人影は、黒いキャップを目深に被ってよく顔が見えなかったのだけど、後ろでひとつに束ねられた長い髪には確かに見覚えがあった。

「おーい、雪ちゃーん!」

 彩子さんが彼女の名前を呼ぶと、一ノ瀬さんは振り向いて、ぺこりとひとつ会釈をした。そしてゆっくりと私たちのいるほうへ歩み寄ってくる。

「どーしたの?」
「花道、いますか」

 一ノ瀬さんの一言に、彩子さんと私は思わず顔を見合わせた。

「雪ちゃん。今日、桜木花道は海南に行ってるのよ」
「海南?今日は練習に参加するって言ってたから、てっきり学校にいるもんだと……」

 あのバカ、と一ノ瀬さんは桜木君を毒づいた。けれど確か水戸君たちは、桜木君が今日海南へ行くことを知ってたはずだ。だって私が教えたんだから。そう考えてから、ああそういえば、と私は一ノ瀬さんに話しかけた。

「一ノ瀬さん、一週間ぐらい学校に来てなかったみたいだけど……」
「ああ、ちょっと、遠出で行くところがあったもんだから」
「あら、いつ帰ってきたの?」
「さっき」

 さっき?!と彩子さんが素っ頓狂な声を上げると、一ノ瀬さんは腕時計を見て、十時くらいに家について、荷物置いてからそのまま来ましたと何でもないことのように言う。

「まあ、いいや。別に月曜でもいいし、今日は帰ります」
「月曜は秋分の日で休みよ、雪ちゃん」
「じゃあ、火曜日でいいや。海南の場所もわかんないし」

 お騒がせしましたと、一ノ瀬さんはくるりと背を向けて行ってしまおうとする。私は慌てて呼び止めた。

「一ノ瀬さん!桜木君に、何か大切な用事があったんじゃないの?」
「いや、別に大切ってわけじゃないし」

 それでも、何か用事があったのだろう。だって一週間もどこかに行ってたと思ったら、帰ってきて一番に桜木君に会いに行こうとするんだから。

「ていうかさ、晴子ちゃんこれから海南に行くんでしょ?一緒に行ったらいいじゃない」

 彩子さんが何でもないことのように、ぽんと言った。けれど私は一瞬狼狽してしまった。

「え、一緒に……?」
「いや、いいです。迷惑になるし」

 私のその狼狽を一ノ瀬さんは決して見逃さず、一息も置かないうちに言い放った。

「そんな、迷惑なんてことは……!」

 私は慌てて否定したのだけど、いいよ本当にと困ったように言った一ノ瀬さんの目は、私の嘘をちゃんと見抜いていた。本当のところ、私は一ノ瀬さんのことを苦手に思っていた。だから誰かを間に挟んで会話するならまだしも、二人っきりなんてきっと耐えられないだろうと思った。と言っても、誰かを間に挟んで会話するのもこれが初めて、ぐらいだったのだけど。

「迷惑なんてことは……」

 一ノ瀬さんに気を使わせてしまった自分が情けなくって、私は俯いてしまった。濃い影が足元から伸びている。ラフなトングサンダルを履いた一ノ瀬さんの足の先には、夜のような色をしたペディキュアが塗られていた。

「あー、もー!」

 突然、苛立ったように彩子さんが声を上げた。

「この、食わず嫌いども!いいから、さっさと二人で行っておいで!ほら晴子ちゃん、さっさと着替えてくる!」
「は、はい!」

 叱るような口調で言われて、私は慌てて部室のほうへ走り出した。後ろで、雪ちゃんは晴子ちゃんが戻ってくるまで、あたしと一緒に洗濯物干し!と叫んだ彩子さんの声が聞こえた。やっぱり、一人で全部やるのは辛かったんだ、彩子さん。と、私は走りながら思った。


 バスはどちらかというと苦手だった。どんなバスだって均等に、息苦しくなる臭いが充満しているような気がする。車内は混んでいるわけではないけど空いているわけでもなくて、軽いお喋りと陽気な車内アナウンスと、バスが走る音で満たされていた。肩が触れ合うほど近くにいる一ノ瀬さんは、ぼうっと窓の外を眺めていて何も喋らない。私は居た堪れなくなって、何とか口を開いた。

「あ、あの、一ノ瀬さんは、一週間どこに行ってたの?」

 ものすごい勇気を振り絞って言ったのだけど、言った瞬間に後悔した。一ノ瀬さんの薄い色をした目が私を見る。慌てて目を逸らそうとした。

「アメリカ。アメリカに行ってたの」

 けれど一ノ瀬さんがほんの少しだけ唇の端を持ち上げて笑ったので、私はその本当に微かな微笑に安堵した。よかった、聞いてはいけなかったことではなかったんだ。

「観光、じゃないよね……?」

 一ノ瀬さんが観光とか何か似合わないもんなあ、と思いながら恐る恐る聞くと、案の定彼女は頷いた。

「会わなきゃならない人がいて行って来たんだけど、いつ会えるのか全くわからなくってさ。だから昨日やっと会えて、用事が済んだから帰ってこれたの。赤木さんに、お土産でも買ってこればよかったね」

 そう言った一ノ瀬さんは、優しく目尻を下げた。私はもう、びっくりしてしまって、一ノ瀬さんはいつも冷笑的で見下したような笑い方をする人だと思っていたから。でも、ちゃんと考えて思い返せば、彼女の態度は春から夏にかけて段々と変わっていっていたのだ。それは桜木君のバスケットボールが段々と上達していったように。

「アメリカは、楽しかった?」
「どうだろう、あんまり外に出なかったし。ずっとホテルの部屋に篭って本ばかり読んでた」

 随分と不健康な話なんだけど、本当にその「会いたい人」というのに会うだけのために行ったんだと、私は逆に関心してしまった。

「でも、行きの飛行機の中で変なヤツに会った。それはちょっと面白かったな」
「へえ、どんな人?」
「横の席に座ってたやつで、多分わたしと同じ年ぐらいだったんだけどさ、平気でワイン飲んで酔っ払ってるかと思ったら、何か急に涙ぐんで」

 飛行機って、ワインとか出るんだ。

「それで寝ちゃったかと思ったら、わたしのほうに思いっきりもたれかかってくるから、重たいって起こしたら、あんた知ってる!って叫んで急に抱きついてくるんだ。変なヤツだろ」
「そ、それは変なヤツで済ませていい話なの……?」

 もしかしたら変態なんじゃ、と私は疑ったのだけど、そんな私を一ノ瀬さんはおかしそうに笑った。

「心配してくれたの、赤木さん。大丈夫だよ。なんか、花道の知り合いだったらしくって。湘北十番の彼女!ってまた大きな声で叫んで、客室乗務員に怒られてた」
「バスケ部ってこと?」
「うん、多分。無理矢理教えられた名前、もう忘れちゃったけど」

 そのとき、私たちが下りるべき停車所の名前をアナウンスされた。

「あ、一ノ瀬さん。ここで下りるの」
「ん、わかった」

 バス停で下りて、休日で人気のなさそうな養護学校と小学校の間を抜けていく。すると左手に白い四階建ての建物が見えた。

「……なんか、さすが私立って感じだね」
「うん、同感」

 海南大附属高校の中を体育館まで抜けていくと、他校の制服を着ている私は勿論、私服の一ノ瀬さんも目立っていた。部活をやっている人たちが一瞬手を止めて、ちらちらと見るので少し恥ずかしい。

「うっわー、なんつーか金かかってそうだよな」

 しかし、テニス部の芝生を見てはそんなことを言い放っている一ノ瀬さんのほうは、そんなことに全く無頓着で、むしろ気づいていないのかというぐらい普通だった。

「そういえば、赤木さん」

 心なし俯いて歩いていた私を、なんだか楽しそうに少し前を歩いていた一ノ瀬さんが振り返る。その顔には、今まで私が勝手にイメージしていた表情の欠片もなかった。私はまるで罪を悔いるかのように、顔を上げて言っていた。

「あの、あのね。晴子って呼んで。赤木さんなんて女の子に呼ばれると、何だか変な感じがするの」
「……赤木さんもわたしのことを名前で呼んでくれるなら、いいよ」

 一ノ瀬さんは少し意地悪な顔をして言った。うっと言葉につまりながら、私は小さな声で彼女の名前を呼んだ。

「……雪ちゃん」
「はい、晴子ちゃん」

 返事をすると一ノ瀬さん……いや雪ちゃんは楽しそうにふふふと笑った。

「わたし、同じ年の女の子とこんな風に名前で呼び合うの、初めてだなあ」

 まさか!と思ったのだけど、でもその後、案外本当かもしれないと思い直した。雪ちゃんは、何だか話しかけにくい雰囲気のある人だから。

「雪ちゃん、さっき何か言いかけなかった?私遮っちゃったけど」
「ああ。そういえば」

 彼女は思い出したというように顔を上げて、思うんだけどさ、と徐に言った。

「体育館ってあっちじゃない?」

 彼女が指差した方向は、私たちが向かっていたのとは正反対とまでは行かなくっても、百三十五度ほど反対にあった。






 ※






「あのとき、花道に会いに行ったのはね、父親に会いに行って、ちゃんと会ってこれたよっていう報告をしたかったからなんだ」
「私はあのとき、桜木君のことを見つけた雪ちゃんが、それまでで一番嬉しそうに笑ったから、もしかして雪ちゃんは桜木君のこと好きなのかなって思ったんだよ」
「うわ、わたしそんなにわかり易く笑ってた?」
「わかり易くって言うか、雪ちゃんがあんな風に笑うの私、見たことがなかったから。だからそうなのかなって」
「……なんか恥ずかしい」

 べたりと机に突っ伏してしまった雪を晴子は思わず笑った。そうしたら雪が上目で晴子を睨んで、笑わないでよって拗ねた口調で言った。

「雪ちゃん、かわいいなあ」

 そう言って雪の頭をよしよしと撫でると、意外にも雪は抵抗せずにそれを受け入れた。雪が「晴子ちゃん洋平みたい」と拗ねた声のままで言った。

「水戸君もこういう風にするの?」
「っていうか、そういうなんていうか、ちょっとからかってるみたいな口調とか」

 うう、と唸って顔を上げた雪の頬は少し赤かった。だから晴子はもう一度繰り返してしまう。雪ちゃん、かわいいなあ。






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