流川楓の章
一ノ瀬雪の癖。
ボールを持った流川は瞑目した。3Pラインに立って、シュートを放つ。ボールはガツンと音を立ててリングに跳ね返された。ザマーミロ!と桜木のアホが笑う声が聞こえる。流川はやれやれと息を吐くと、赤木晴子からスポーツドリンクを受け取って、一気に飲み干した。
「何がやれやれだこのキツネ!最後の最後に気ィ抜きやがって」
「抜いてやったんだ」
「花道。流川、今のシュート目ェ瞑ってた」
「雪ちゃん。それ言わないほうが……」
ふんぬー!と訳のわからない叫び声をあげて、花道が地団駄を踏んでいる。それをまるでいなすように、雪がどうどうと花道の脹脛の辺りを叩いた。触り方がとても自然だと思った。花道に雪が触れることは当たり前のことで、雪にとっても同様なのだ。
二人をじっと凝視していた自分に気づいて、流川は舌打ちした。足元に転がっているバスケットボールを掴んで、子供が鞠をつくようにドリブルする。
一ノ瀬雪の癖。流川は再び考える。本を読んでいるときは、とても無防備になる。夢中で本を読んでいるときは口元が薄っすらと笑っている。髪を耳にかけたあと、少しの間自分の耳朶に触る。
「おのれー!来いっ、ルカワ!」
ゴール前に立ちふさがった花道に、流川はドリブルの姿勢を低くした。トン、トン、トンとドリブルをして三つ目、流川はコートを蹴って駆け出した。行く手に花道が立ちふさがる。大分板についてきたディフェンスだが、それでも隙はある。軽いフェイントで花道をかわすと、流川はゴールの真正面からショットした。今度のボールは、きれいな弧を描いてリングの中へ吸い込まれていった。
「ふ、ふんぬー!」
後ろで騒いでいる花道を無視して、流川は体育館の床にぺたんと座り込んでまた本を読んでいる雪を見た。ふと、雪が本から顔をあげて、自分を見ている流川を見つける。そして彼女は不思議そうに首を傾げた。
一ノ瀬雪の癖。目が合うと、首を傾げる。
その癖は、大人びた顔立ちと言動の彼女を、幼く見せた。肩越しに振り向くと後ろでは騒ぐ花道に、赤木晴子が近寄ってスポーツドリンクを渡していた。流川は首にかけたタオルで額の汗を拭うと、また本に目を戻した雪のほうへ近寄った。
「何読んでんの」
「ジャンヌ。ジョルジュ・サンドのジャンヌ」
「面白れーの?」
「流川の好みではないと思うよ」
雪は本から顔を上げずに言う。
「こないだのは?」
「カンディード?全部読んだよ」
「どうだった」
「面白かったよ。でも、やっぱり読んでて辛かった。だからこれは口直し」
雪がページを捲った。流川には読むことのできない文字を、彼女の目が追っていくのを流川は追う。細くて黒い髪とその下の白い頬のコントラストが印象的だった。
「ていうかさ」
「……なに」
雪が急に顔を上げたので、流川は瞬間驚いた。が、彼の顔にそれは出ない。
「やっぱり、さっきの映画のお金払うよ。わたしも寝ちゃったし」
「別にいー」
雪がそう?と首を傾げた。じっと自分の顔を見られて不思議そうな顔をしている雪に、さっき映画館で見た表情を重ねてみる。流川の指が彼女の肩に触れて、彼女が瞼を開いたその一瞬、今にも泣き出しそうだった。ひどくショックを受けていて、とても悲しそうな顔。流川は雪の表情を全て知っているわけではないし、第一そんなに親しくはない。けれど、普段の雪がする人を食ったような表情や、酷薄に笑う顔を見る限り、そんな顔を雪がしたということは、流川にとっても衝撃だった。悪い意味ではない。ただひたすらに目を奪われたのだ。
「……流川?なんか言いたいことでもあんの?」
そんな人の顔じっと見て。怪訝そうに聞く雪の態度は今まで見てきたものと変わりがなくて、さっき見たものは夢か、幻だったのではないかと思った。果たして見たかったのだろうか自分は。例えば一ノ瀬雪の泣く顔が?自問して、流川は首を振った。
「今度、英語教えろ」
「はあ?何、映画代の代わりってこと?」
「おー」
結構がめついね、あんたと呟いている雪に背を向けて、流川はボールを拾い上げた。違う。見たいものは泣き顔でなかった。
そう、見たいもの。流川は反問する。暗い夜道の風はひんやりと頬に冷たく心地がよい。いつもより少しだけ遅いスピードで自転車を漕ぎながら、流川はじっと考えた。見たいもの。瞬間的に、さっき映画館の中で見た雪の顔が過ぎるが、違う、それではないと流川は自分に首を振った。ああいった顔も十分に印象的ではあった。でも違うのだ。
そう、あのときと同じ笑顔が見たい。
:
爆発したような歓声に巻き込まれた中で、頭を叩いたり滅茶苦茶に撫でたりする何本もの腕を、何とか潜り抜けた。そう、安西先生にお礼を言わなければと思ったのだ。安西先生の姿を探して、視線を巡らす。先生の姿は、ベンチの傍ですぐに見つけた。けれど、思わず凝視してしまったのは先生の姿ではなかった。安西先生に肩を抱かれて、少女が一人泣いていたのだ。
その少女と涙というものはあまりに想像できない組み合わせで、踏み出そうとした足が一瞬止まる。その一瞬に、少女が顔を上げた。見つめる先の少女の瞳が、堪えきれないように細められる。同時に、涙が一粒、頬を伝った。少女は笑った。それまで見たこともないような、飛びっきりの笑顔で。まだ興奮の収まらない心臓が、そのとき大きな音を立てて鳴ったのがわかった。
少女は先生に背中を押されて、ゆっくりとこちらに駆け出す。少女の足が地面を蹴る。思わず、片手を差し出そうとした。
「花道!」
少女は十番のユニフォームに抱きつくと、歓声の中に消え入りそうな小さな、小さな声で、おめでとうと言った。
「花道、おめでとう。おめでとう」
何度も何度も言った。十番のユニフォームは最初驚いたように、低い位置にある少女の頭を見つめた。それから今まで見た中で一番優しい手つきで、少女の頭をポンと叩いた。
「おう」
そう十番が答えたあとは、もう他のメンバーが彼らを取り囲んで茶化して、二人の姿は見えなくなった。けれど、聞いてしまった。少女に向かって、十番がありえないほどの優しさと親しみと喜びを込めて、雪、ありがとうと言ったのを。
:
「あ、わかった。わかったぞ流川。この問題はな、この『It's a shame』っていう、『それは残念なことだ』って言い回しが使いたかったんだよ。だからこれは『It's a shame your wife couldn't come.』になるんだな。あー、よかった、わかって」
「わかんねえ。まったくこれっぽっちも」
「ええ?だから、これは『It's a shame that ~』が使いたかったんだって」
「おい、雪。その、『使いたい』っつーのは何なんだよ」
「だから、この教科書作った人が『お、これ使いたいな』思ったんだよ」
もうムリと流川がため息を吐いた横で、花道も首を捻っていた。しかしさらにその向こうでは、わけのわからない説明をした張本人の雪まで首を捻っているのだ。
「は?何でわからんの?」
「その説明でわかると思ってる雪ちゃんがわかんねーよ、オレは」
「あたしもリョータに同意」
アーヤちゃーん!と宮城が感極まった声を上げる。彩子がそれをひどく鬱陶しそうに見た。雪と花道はまだ同じように首をかしげている。
「えっと、つまり、こういうことじゃないの?『shame』って恥ずかしさって意味が元々あるけど、『a shame that ~』でthat節につながると、『~は残念なことだ』っていう意味になるじゃない。『harm』は損害とか、不都合とかそういう意味になるからそのあとに『I really wanted to meet her.』っていう文がくると、ちょっとちぐはぐな感じがするし、『trouble』は悩みの種とか、迷惑とかそういう意味になるから、それもかみ合わない。『sorrow』は悲しみっていう意味だけど、これは親しい人を亡くすとかそういう場合に使う『悲しみ』だから違って、そうするとthat節につながって『~は残念なことだ』っていう意味を持つ、『shame』が正解になるのよ」
一息に説明を終えると、持っていた辞書から晴子が顔を上げた。さっすが晴子さん!と花道が歓声を上げる。
「この雪のバカとは大違いです!」
「うっせ。あんたは晴子ちゃんなら何でもいいんでしょ」
「いや、雪ちゃん。今の説明は、あたしも素でわかんなかったわ」
「オレもー」
「ごめんね、私もわかんなかったの……」
「え、晴子ちゃんまで?」
やっぱり向いてないのかなあ、と雪が自分の髪を弄る。指から離れると、彼女の髪はさらりと重力に従った。
「前も洋平に、教えるの向いてないって言われたことあるんですよー。中学のとき、高宮に勉強教えてたら」
「うん、確かに向いてないわ」
問題を解くときの視点が違うもの、と彩子が真面目な顔をして言った。
「アメリカとか、英語圏からの帰国子女の子って日本の英語の授業が苦手って聞くけど、雪ちゃんってなんかそんな感じ。もしかして、昔アメリカにいたりとかした?『一ノ瀬雪はアメリカ生まれだ』っていう噂があるぐらいですけれど、どうなの真相は」
彩子がマイクを差し出すような仕草で雪に聞く。雪の表情が一瞬ぐっと止まったのを流川は見逃さなかった。
「……彩子さんって、エスパーか何かですか」
「あ、やっぱりそうなのね」
「いや、帰国子女じゃないですよ。でもちょっと……」
言いづらそうに、雪は彩子から目を逸らす。彩子はそれを見て、それ以上追求することを諦めたらしい。ふうん、そうなのと緩慢な声で話題の収束を図ろうとした。
そのとき「あっ」と不意に晴子が声を上げて雪を見た。少しだけわざとらしかった。
「雪ちゃん、私たち今日、五限目の地理で使う地図を取りに行かなきゃ!今週、当番だもの」
「ああ。忘れてた」
早く早く!と晴子が雪の手を掴んで体育館の出口へ駆け出す。
「すみません、先に戻りますね!」
「スミマセンー」
生真面目に謝った晴子に対して、雪は間延びした声のまま引きずられていく。対照的だと思った。
実は流川は先ほどまでの話題にまだ興味があったのだけど、行ってしまったのなら仕方がない。追うかとも思ったが、流川より早く二人を追おうとした花道が彩子に引っ叩かれていたのでやめた。
「って!アヤコさん、何するんっすか!オレはただ、ハルコさんの荷物を持って差し上げようと!」
「アンタにはこの体育館の片付けがあるでしょ。昼休みが終わる前に、自分が使った分ちゃんと片付けなさい」
「やーい、怒られてやんのー」
「リョータ!あんたもよ!そこで関係ないですって顔してる流川も!」
キシシと花道が笑った。流川は持っていたシャーペンを置いて立ち上がると、ひとつため息を吐いて立ち上がった。転がっていたボールを掴んでは、籠に放り込んでいく。もう一度、流川はため息を吐く。予想外に大きな音になった。
「なーに?流川まで後片付けがイヤなわけ?」
「別に、嫌じゃないっス」
彩子が流川の肩に手をかけて言うので、宮城がすごい顔をしてこちらを睨んでいる。流川は三度目のため息を吐くと、ぺいと肩から彩子の手を払った。
「宮城センパイ、めっちゃこっち睨んでるんすけど」
「睨ませときゃー、いいのよ」
彩子がにやりと笑う。いい迷惑だと流川は思った。
「それよか、何でアンタため息なんか吐いてんのよ。ジジ臭い」
「別に……」
「あ、わかった。晴子ちゃんが行っちゃったから残念だったんでしょ?」
「…………」
「沈黙は肯定と取るわよ」
「違うんで」
つまんない、と彩子が首を振った。足元のボールをひとつ拾うと、彩子はシュートするフォームでそれを籠へと放る。ボールは綺麗な弧を描いて籠の中に入った。
相変わらずこの人のシュートフォームは綺麗だなと流川は思う。中学時代、彩子は女子バスの先輩だった。いつも綺麗なシュートをする人だと思っていた。
ナイッシュ!華麗にシュートを決めた彩子は、ボールの先を見送っていた流川を振り向き、そして優雅に微笑んだ。
「本命は、雪ちゃんでしょ?」
言葉につまった流川に、沈黙は肯定と彩子の無情な声が被さる。
本命とか、そういうことじゃないと流川は心中で彩子の言葉を否定した。もちろん彩子に聞こえたはずなどないだろうから、流川が言葉につまった理由を彩子は好きに解釈しているだろうが、それでも流川の中では違った。
体育館の緑色のネットを挟んだ向こう側では、女子が体育の授業でバスケをやっている。うらやましい、と流川は羨望の目線を送っているのだが、どうも他のやつらは違うらしかった。
「赤木さんってさあ、やっぱかわいいよなー」
「かわいいなー。オレあの子のこと結構好きかも」
「あ、シュートする。っかー!見ろよあの二の腕!」
「ちょ!オレ、触りたいんですけど」
「ギャハハ変態!変態がいます!」
「いやお前も思うだろ、あの二の腕触りてェって」
「オレはもっとレベル高い場所に触りてぇよ」
「あれか、聖域的な場所か」
「そう、こう、もうちょっと体の中心に寄った辺りでお願いします」
横で柔軟もせずに、ネットの向こう側を見ているやつらの会話を聞いていると、なんだかアホらしくなってきた。少なくとも、自分はこんな感情を一ノ瀬雪に対して抱いていない。やはり、彩子には否定をしておくべきだったと今更だが思っている。
ゆっくりと息を吐きながら、流川は自分の体を倒していく。手を伸ばして足の先を掴むと、そのまま十秒を数えた。柔軟体操を嫌ってはいないのだが、どうやっても好きにもなれない。できればバスケがしたいけれど、できないならまだ外で短距離走をやっていたほうがましだった。少なくとも、体を動かせる。なんで今日に限って、グラウンド沿いの桜の木の消毒なんかするんだ。流川は足を組み替えようとして、ふと自分の頭の上に何かの影が落ちたのに気づいた。
桜木花道だった。花道が真っ赤な顔をして、ネットに寄って喋っているやつらを睨む。睨まれている側はまったくそれに気づいていなかった。
「お、おめーらハルコさんになんて邪な感情をー!」
「え、ぎゃ、花みっちゃん!」
タスケテ!と悲鳴が上がるのと同時に、ゴンとかガンだとかいう鈍い音が響いた。バカばっか、流川はため息を吐く。足を組み替えて、またゆっくりと体を前に倒す。
「あ!雪さんが試合に出る!」
思わず体を起こしてしまった。叫んだ同級生は先ほど花道に殴られていたやつで、頭を抑えているがそんな痛みは忘れたように、緑色のネットの向こう側を見つめている。視線の先を追うと、コートの中に立つ一ノ瀬雪の姿が見えた。
「ちょ!見ろよあの曲線美!」
「うっわー、やっぱすげー脚キレー」
一ノ瀬雪は赤色のゼッケンを受け取ると、それを頭から被ってセンターサークルの中へ進んだ。どうやら彼女がジャンプボールをするらしい。相手は百七十あるかないかという、教室の中でも背の高い女子だ。ピッと笛の鳴る音がして、雪は頭上に放られたボールをじっと目で追い、腰を低くした。蛍光色の黄色のゼッケンを着た相手の女子が飛ぶ前に、雪が床を蹴る。相手のジャンプが一番高いポイントに到達する前に、雪の手は落ちてきたボールを捕らえ、赤木晴子のほうへパンと叩き落した。
「うわ、雪さんすげー。今の、10cm以上の差あったよな?」
「あったあった。あ、赤木さんがシュートする」
「ぬ?ハルコさんが?」
ボールを受け取った瞬間、速攻で駆け出した晴子が、フリーのままでレイアップシュートを決めた。さっきまで怒り狂っていた花道まで、緑のネットににじり寄って観戦し始めている。得点が入ったことを確認した晴子がにっこりと笑って、雪とハイタッチした。雪の頬もほんの少し綻んだ。
「……雪さんさあ、一年生の頃と思うと、よく笑うようになったよねー」
「だなー。一年のときって、めっちゃ声かけづらかったもんな。笑っても、冷笑って感じだったし」
「む?そうか?」
「そうだって!しかも隣で洋平君が睨みきかしてんだもんなー」
「あー、入学式んときだろ?ありゃ、怖かった」
花道が、そうなのかと首を捻っている。ネットの向こう側のコートでは、相手側のチームのスローインからゲームがまた再開されていた。教師から指示されているからなのか、デェフェンスはゾーンディフェンスだった。陣形は2-3で、雪と晴子は共にガードのポディションについている。
ボールを持った相手側黄色のゼッケンを雪が遮る。黄色は、一瞬味方にパスをするか自分でこのまま切り込むのか、どうしようかとボールを持ったまま考えた。その一瞬を見逃さず、雪は無防備になったボールを下から掬い上げて相手の手から弾き出すと、中に浮いたボールを捕らえて、ドリブルで走り出した。単独で走り出した雪を、フロントコートの中に入れずにいた他の黄色が止めようと前に立ちはだかるのだが、雪は順番にそれをかわしていく。雪は、前後の軽いステップで揺さぶりをかけるロッカーモーションや、ボールの持ち手を変えるクロスオーバーを使ったフロントターンで、見事に三人抜いてしまった。ゴール前までほとんど立ち止まらなかった。そして追いすがってきた四人目をフロントコートに入る手前で抜くと、雪は走ってきた勢いをそのまま殺さずにリバース・レイアップシュートを放った。完璧なシュートフォームだった。当たり前のように、ボールはゴールリングに吸い込まれる。シュっと小気味いい音が聞こえた。
「……なあ、花みっちゃん。雪さんって、昔バスケやってたりしたの?」
「いんや。雪がボールに触ってるところなんて見たことがねー」
晴子や他のメンバーに笑いかけられて、控えめに微笑み返す雪を見ながら、何あれと誰かが声を上げた。
赤色のゼッケンのチームは確実に雪と晴子のプレイだけで点を入れていた。相手に一点も得点を許さないまま、開始七分で既に二十点を得ている。
黄色のチームにも、バスケの経験者がいるのだろうか。これ以上雪たちのチームに得点されるのを避けるために、相手ボールになった時点で追わずに、ゾーンディフェンスの陣形を組んでいる。ボールを持っていた赤木晴子はやり辛そうに顔を顰めたが、ゆっくりとドリブルをしながら相手のゴール前まで走り寄った。最初にジャンプボールを行った背の高い女子がバスケの経験者だったのだろうか。彼女が晴子を遮る。ボールに触れようとする背が高い黄色のゼッケンを、晴子はフェイントで交わすと、そこから軽くジャンプして大きなショルダーパスを放った。ゴール下にいた別の黄色がそれを取ろうと手を伸ばす。しかしそれよりも高く、雪が飛んだ。雪は悠々とボールを掴むと一度着地してからシュートの体勢に入る。相手が大きく手を上げて雪のシュートを防ごうとする。雪の足が床を蹴った。体が後ろのほうへ流れていく。脇を締めて、左手は添えるだけ。ひどく模範的なシュートフォームで、雪はフェイダウェイシュートを放った。彼女が少しよろけながら地面に着地するのと同時に、ボールがリングを通り抜けた。
その得点を最後に、雪は他の女子と交代をして、ゲームにはもう参加しなかった。ゼッケンを脱いで、体育館の隅に座り込んで試合を眺めている。その様を、じっと流川は見つめていた。
「おい」
六限目の授業が終わる五分前になって、教師から片付けの号令が出された。体育館を二分していた緑色のネットが取り去られると真っ先に、流川は雪のところへ進んでいってその肩を掴んだ。晴子と何か喋りながらボールを片付けていた雪は、驚いたように流川を見上げる。
「……何、急に」
「オレと1on1、やれ」
はあ?と雪が素っ頓狂な声を上げる。随分と周りが騒がしかったが、流川は気にしなかった。
「やれ。今すぐ」
「……本気で嫌なんだけど」
「じゃあ、部活の前」
「いや、だからヤなんだってば」
「なんで」
「なんでってねえ、あんた。こっちこそ、なんであんたとわたしが1on1なんかしなきゃなんないのか、聞きたいわ」
「オレがやりてーから」
雪は呆れたように脱力すると、顔に垂れた髪を掻き揚げて、ため息をひとつ吐いた。
「……とりあえず、腕放してよ」
「いやだ」
「なんで」
「あんた、逃げるから」
カンで言ったのに、当たっていたのか。ぐっと、雪が言葉につまった。「いいから早く」と腕を引くと、雪が痛いと声を上げた。
「る、流川くん!ほら、もう後片付けしなきゃ。ね?」
顔を顰めた雪に、晴子が横から口を出す。流川は舌打ちして、雪の腕を放した。それでも諦めたわけではなかった。
「部活の前。絶対」
「だから、やだってば」
嫌がる素振りを見せる雪に、流川は再度詰め寄ろうとした。ところに、後頭部にバンと何かがぶち当たった。
「って」
「ハルコさーん!大丈夫ですかー?」
頭を抑えて、振り向くと床に小汚い体育館シューズが落ちていた。さくらぎと平仮名で書いてある。にゃろう、と流川は顔を上げた。少し離れたところで、花道がにやけた面を下げて手を振っている。当たり前だが、片方の足は靴を履いていなかった。
「このキツネは、ヒーロー桜木が責任を持って退治しておきますので!」
「た、退治はだめよ?!」
晴子が慌てたような声を上げる。その後ろで、雪がゆっくりと後ずさって、流川と距離を取ろうとしていた。
「……おい」
声をかけて目が合うと雪は、ほんの少しだけ怯えたような顔をして肩を震わせた。流川はそれを忌々しく思った。
「放課後、忘れんな」
雪は一瞬何かを言いかけて口を開こうとしたが、結局何も言わなかった。
HRが終わると、案の定カバンを抱えて逃げ出そうとした雪を捕まえると、流川は彼女を体育館へと引きずっていった。
「流川!まじでいや!ホントいやだから!」
「うっせー」
「うっせーじゃないよあんた!」
先ほどまでいた体育館の入り口を開けると、まだバスケット部の部員は一人も来ていなかった。流川は雪の腕を掴んだまま倉庫に入って、ボールをひとつ出すと、雪の胸にそれを押し付けた。
「あんたのボールから」
「わたしのって、制服から着替えもせずに……」
「着替えてる間に逃げるだろう、あんた」
雪は額に手をやって、大きなため息を吐いた。
「なんで流川はそんなに、わたしなんかと1on1がしたいの」
「……わかんね」
「わかんないって……」
雪は俯いていた顔を上げると、体育館の入り口辺りを見回して「ギャラリーが増えてきた」と一人ごちた。
「こんなことなら六限の体育、サボればよかった」
雪が体育館の入り口辺りに固まっているやつらを見ながらぼうっと言う。そんな雪に、流川は逸る気持ちを押し殺しながら聞いた。
「で。やるのかやんねーのか」
「……やる。やらないと帰してくれないだろ」
雪は言いながら、着ていた制服のベストのボタンを外して脱ぐと、ぽいと壁際に放った。同じようにリボンも外して放る。雪が邪魔そうに髪をくくっていると、ばたばたと騒がしい足音が聞こえてきた。何となく予想はついたが、体育館の入り口の人だかりを押しのけて、晴子と花道とその取り巻き、そして彩子が顔を出した。
「雪ちゃん!」
「ちょっと流川、何やってるのよ!」
「そーだぞ!ルカワ!」
何事か叫んでいるが、流川はそれを無視した。雪がちょうどよかったと言って声を張り上げる。
「彩子さん!バッシュ持ってません?やっぱり靴下だと滑るんですよね」
「お、雪はやる気なのか?」
「雪ー、気張ってけー」
「雪ちゃん、アンタもねえ!」
「彩子さん!そこから投げてくれればいいですから!」
一方的な雪と気のない応援をする花道の取り巻きに、彩子は根負けしたようで手に提げていた袋を放った。ドーモと雪が手を振る。
「おい。雪、やめとけ」
バッシュを履こうとした雪に、水戸が言った。周りがわあわあ言うのを気にしていなかったような雪が、初めてちゃんと顔を上げて水戸を見た。
「……ヤダ」
拗ねた子どものようにぷいっと雪がそっぽ向くと、水戸はため息を吐いて肩を竦めた。
「どーでもいいから早くしろ」
段々苛立たしくなって流川がいうと、あんたこそと雪は流川を睨み上げて冷笑した。
「あんたこそ、バッシュぐらいは履いて。バッシュ履いてなかったせいで負けたとか言われたら、迷惑だから」
驚いた。この女は自分に勝つつもりなのだ。
花道の取り巻きたちが囃し立てる。流川はやってみろと小さく呟いた。それを聞いた雪がまた冷笑する。バッシュを履き終えた雪が立ち上がると、ひとつに括られた雪の髪がさらりと揺れた。流川は雪の腕にボールを押し付けて、自分もバッシュを履いた。キュっと擦れる音がする。3Pラインを挟んで向かいあうと、雪はゆっくりとドリブルを始めた。
トン、トン、トンと三つ音が鳴った。と、次の瞬間、雪は腕を大きく振りかぶって、ゴールへ向かってボールを放り投げた。まさか、ここからゴールを決めるつもりなのかと流川は思わずボールの行く先を追った。その流川の横を、何かが走りぬけた。ボールはゴールまでは届かず、リングの少し手前で失速して落下を始めた。ゆっくりと沈み始めたボールを、走り出したまま跳躍した雪の右手が掴んだ。雪は手首の力だけで掴んだボールをリングへと再度放った。ボールは美しい弧を描いて、リングの中に落ちる。雪に一点!花道の取り巻きが声を揃えて叫んだ。
宙を飛んでいた雪は着地すると、同じように宙から落ちてきたボールを拾い上げ、しげしげとそれを見つめる。
「ねえ、流川。これさっきの授業で使ってたボールより大きいんだけど、なんで?何か重くてやりにくい」
恐らく自分は唖然とした表情をしていたのだろう。そう聞いて振り返った雪は、流川を見ると、薄く微笑んだ。
「何本勝負だっけ、流川。次はあんたのボールからでしょ」
ほらパス!と笑って雪はボールをこちらに放った。流川は雪からボールを受け取ると、雪よりも薄く、ごく薄く微笑んだ。背中がぞくぞくとした。
そして流川は言い知れぬ既視感を味わう。
「フェイクのときのボール、無防備だよね。あんた」
流川が持っていたボールを下から跳ね上げて奪うと、雪は前へ駆け出した。その雪の前に流川は回りこんで、彼女の足を止めようとする。キュっとバッシュが鳴った。前に踏み出したはずの雪の右足が、それまで進んでいた方向とはまるで反対側へ向かって床を蹴る。バランスを崩した流川をその場において、雪はジャンプシュートを放とうとした。打たせない。流川は雪の手に余り気味なボールに手を伸ばした。案の定雪のシュートフォームは崩れた。しかし、彼女の手から離れたボールの行く末を追って、流川は愕然とした。
シュっと柔らかい音がする。リングを通ったボールは落下して地面で跳ねた。
「沢北……?」
思わず呟いた流川に、雪が薄く笑う。コートの中は嫌に静かだった。
「インターハイ、こうやってゴール決められた後からだったね。あんたのプレイが変わったのは」
でもね。あざ笑うように雪は言った。
「このコートの中に味方はいない。1on1をやろうって言ったのはあんただもの。だからあんたはわたしに勝てないよ」
流川は答えることができなかった。疲れて動きが鈍っているわけではない。むしろ体力が切れ掛かっているのは雪のほうで、それなのに流川は雪を止めることができなかった。
「なんでかわかる?」
雪が腕で汗を拭いながら聞いた。流川は素直に首を横に振る。
「それは、このゲームがアンフェアだから」
「ハンデがあるのは、あんたのほうにだろ」
「違う。本当にハンデがあるのは、流川のほうだ。男と女という差」
雪が言っているのは流川と同じ男女差というハンデ。それはどう考えたって男である流川と比べて身体能力の劣る女の雪が持つべきもののはずだ。しかし、雪はそうじゃないと首を振った。
「わたしが言ってるのは身体能力の差のことじゃない。あんたが、わたしに本気を出せるかどうかってこと。それがハンデ」
喋りながら雪は苦しそうに息を継ぐ。ゴールの前で流川と雪が向かい合ってから十分も経っていない。しかし彼女の頬は真っ赤に上気していたし、制服のシャツの背中は汗でべっとりと濡れていた。
「あんたは、わたし相手に本気を出せてる?本気は本気だろうね。負けそうだし。でも、例えば花道と1on1するようには、プレイできてない。わたしはバスケットというスポーツは、いかにうまくファウルをするかというスポーツでもあると思うから、だったら全くファウルができないあんたのほうにハンデがある。そう考えたから、ゲームを受けた。だからあんたは、わたしに勝てると思った時点で既に一点わたしに取られていたし、性別が女っていう相手を選んでいた時点でもう二点を取られてたようなもんなの。まあ、わたしの身体能力がその辺の女の子より上だっていうのもあったけど」
「そこで自慢ですかー!」
花道の取り巻きがおかしそうに笑いながら叫んだ。雪は、うっさいな本当のことだろ!と叫び返すと、流川に向き直って少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「自分でも性格悪いってわかってんだけどさ。こういう人の優しさに付け込むようなことするの。あんたはさっき、わたしの手からボールを叩き落とすべきだったと思うよ。力いっぱいに、ね。そうしたら、こんな大きくて重たいボールはわたしの手から簡単に落ちただろうから。でも、あんたがそういう男じゃなくってよかったって今、ちょっと本気で思ってる」
眉尻を下げたまま、ごめんねと雪は微笑んだ。流川はやはり、何も言い返すことができなかった。
「さあ。次がラストでしょ?今わたしが三点であんたが二点なんだから、入れないと負けるよ」
流川は今度は返事をせずに、ボールを構えた。雪が言うようなハンデがあろうがなかとうが、流川は負けるわけにはいかないと思った。
ボールを構える。向かいあった雪が、腰を落とした。あちらもできるなら勝とうと、本気で思っている。恐らくバッシュを履いていなかったら負けていただろう。この上さらに、ハンデがあったら負けていた。さっき彼女が自分で言ったように、一ノ瀬雪の身体能力はとんでもなく高かったのだ。一般的な男子平均よりも高いのではないか、と思うほど高かった。しかしだからといって、負けるわけにはいかない。
一瞬の後に、流川は床を蹴った。いや、正しくは蹴ろうとしたのだ。しかし寸でのところで足を止める。流川は手に持っていたボールを忘れて、ゆっくりと崩れ落ちる雪の体を凝視した。
「雪ちゃん?」
コートの向こうから、晴子か彩子かが叫んだ声が聞こえた。
縋るように流川の制服のシャツを掴むと雪は、自らの体を支えるだけの力がない、まるで人形のようにコートに膝をついた。もう片方の手は、彼女自身の口元を強く抑えていた。呆然としている流川を見上げて、雪はその手のひらの奥で、ごめんと呟いた。
彼女の眼にはいっそ艶やかに、涙が滲んでいた。流川はボールを放り出して床に膝をつくと、頼りなく震える雪の肩に触れた。
「おい……」
覗き込むと、さっきまで上気していた雪の頬は、まるで紙のように白かった。もう一度雪がごめんと呟く。ごめんじゃねえと流川が言おうとした瞬間に、雪は震える声で言った。
「ごめ、まじ、……吐く」
猶予はなかった。逃げる猶予は。
体育館の中に、ツンと鼻に来る胃液の臭いが漂っている。床を拭き終えた流川がひとつため息を溢すと、横で同じように床を拭いていた晴子が、シャツ脱いだほうがいいよ、と言った。
「……おー」
流川は言われた通りに制服のシャツを脱ぐとそれをしげしげと眺めた。胃液の黄色い染みが胸から腹の辺りにかけてべったりと付いている。洗ったら落ちるだろうか、と考えていたら、それを読んだかのように洗っても落ちないかもねと晴子が言った。
「わからないけど」
そうなのかと晴子を見た流川に、晴子は小さく首を振る。流川はシャツから目線を離すと、自分が拭いた床を見下ろした。心持、まだ滑っているような気がする。鼻孔からも胃液の臭いは消えていなかった。
流川は、彼にしては珍しく罪悪感を感じていた。雪との1on1はとても楽しかった。楽しかったけれど、普通に考えて流川のような日常的にスポーツをしている男子高校生と、普段は体育の授業ぐらいしか運動をしない女子高校生がお互いに本気を出してバスケットなどしていいものではなかった。雪の場合は体育の授業も満足に出れていない。たとえ十分に満たない時間であっても、その前に雪の体力に限界が来ることは明白だった。それも、あれだけ身体能力が高ければ尚更。
「雪ちゃん、すごかったね」
晴子がぽつりと言う。流川に返事を期待しているようではなかったので、流川は返事をしなかった。
「昔、三井先輩が体育館にケンカしにきたときも、雪ちゃんまで男の子とケンカして、でも結局勝っちゃったものね。なんだか、なんて言うのかな。うんそう、まるで、住んでる世界が……」
違うみたいと晴子が小さく言った声は、大音量の笑い声にかき消された。晴子が体育館の入り口を見る。同じように流川も顔を上げた。
「雪お前、マジありえねー!ふっつー、ぶっ倒れるまでやるかよ」
「さっきからうっせーんだよ、高宮は。そんな言うならテメーが流川と1on1やれよ」
「雪、そりゃー酷だろ。この贅肉の塊に」
「そうだ、雪。そりゃー酷だぞ」
「オメーのほうが、自分で言ってんじゃねーって」
バシンと派手な音がして高宮が自分の頭を抑えて、いで!と叫んだ。雪に平手で殴られたらしい。当の雪はというと、何もなかったかのような涼しい顔をしている。ただ、シャツの襟元に黄色い染みが飛んでいる以外は。
「雪ちゃん。もういいの?」
「あー、平気です。大丈夫。食べすぎで吐いたりとかも、結構しょっちゅうやらかすんで」
「自慢げに言ってんじゃねえって」
今度は水戸が雪の頭を軽く叩く。
「大体なんで胃液しか吐いてねーんだよ。昼は何食った」
「あー……」
言い辛そうに、雪は目を逸らす。そういえば、今日の昼は雪が何かを口にしているところを見ていなかった。水戸から目を逸らした雪は何かを探すようにゆっくりと視界を巡らせて、そして流川の姿を見つけた。恐らく、正確には流川と晴子を見つけたのだろうが。
「あ、ごめん。掃除させて……」
「いいのよ、気にしないで」
横で晴子が微笑みながら言った。
「流川も、ごめんね」
「別に……」
「別に、じゃないわよ流川。雪ちゃんがアンタに謝るんじゃなくって、アンタが雪ちゃんに謝るんでしょうが!」
「スンマセンデシタ……」
彩子に怒鳴られて、流川がぼそりと謝ると、雪がほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。
「いいよ。それよりも、最後まで付き合えなくって、悪かった。あんたのこと、負かしてやりたかったのに」
不遜に笑う彼女を、流川は眩しく思った。また再び、彼女のしなやかな四肢が持てる最大限の力を使って、コートの上を跳ねるのが見たい。そして同時に、その願いは叶えられることはないだろうと予感した。でもそれでもいいと思った。
「オメーにゃ、負けねー」
流川は雪を真似て、ほんの少しだけ唇の端を持ち上げた。雪は瞬間驚いたような顔をして、それから軽く笑った。
「随分な自信。いいよ、精々頑張って練習して」
「言われんでも」
妙に清々しくいい気持ちだったのに、じゃー今日はもう帰ると言った雪に、のん気な顔をして手を振った花道が何となく気に入らず、アンタ着替えてらっしゃい!と彩子が叫んだのを無視して、ボールをゴールに向かって投げると、そのまま吸い込まれそうだったのにリングに嫌われてガンと跳ね返った。
翌日雪は学校を休んだ。水戸に聞くと、「筋肉痛で生まれたての小鹿みたいになってた」という返事が返ってきた。
「あいつ、昔っからああなんだよなー。桁はずれて神経発達してんのに、体がそれについてかねえんだよ。筋肉痛とかぶっ倒れたりとかもしょっちゅうでさ。昔はケンカの後、オレはあっちこっち殴られて痛えっつーのに、傷ひとつない雪を担いで帰って、理不尽な思いしたなあ。まあ飯も食わねえし、睡眠時間も十分じゃないから、しゃーねえんだろうけど」
だからあいつにもう構うなよ、と言外に言われたような気がしたが、流川はふうんと返事をするに止めて、再び瞼を閉じた。屋上には、暴力的なほどの陽光がさんさんと降り注いでいる。閉じた瞼の裏の血潮が透けて赤い。まるで眼球が焼けるような気がした。
「流川さあー、雪に興味あんの?」
話のついでといった風情で水戸は聞くが、恐らくそうでないことを流川は感じ取った。あんまり眩しいので、ごろりと太陽に背を向ける。結果的に水戸にも背を向ける格好になった。
「別に……」
「本当に『別に』ならあいつが学校に来てなくっても、気にしねーだろ?っつかその前に無理矢理1on1とかやらせねーだろ。男ならともかく女だぜ、あいつ」
「……じゃあ、ちょっとだけ、興味ある」
馬鹿にしたような声音で言うので、流川は水戸が望んでいそうな答えに沿って答えてやった。強ち外れてはいないのだが。
「『じゃあ』、『ちょっとだけ』。ねえ?」
人の言葉尻を一々とらえて、鬱陶しい男だと流川は思った。肩越しに睨んでやると、咥え煙草でにやにやと笑っている。
「例えば、オレと雪はさ」
水戸は屋上のコンクリートの上にしゃがみ込みながら、ふっと煙を吐き出す。形の定まらない白煙は太陽光に照らされた一瞬だけ、ごく薄い紫色に光った。
「今オレがこうやって手に持ってる煙草を雪がひょいと取って、吸っちゃうようなカンケイ」
そこに雪の幻影が現れて水戸の手から吸いかけの煙草を奪う仕草が見えたような気がした。くっと唇を噛むと、流川はそれに背を向けた。
「だから、何?」
理由がわからなくとも後から後から湧いてくる苛立たしさは、どうにか押し込めて言ったつもりだった。だが水戸は、瞬間弾かれたように笑い出した。喉仏がくっきりと浮き出るほど空を仰いで笑い、手に持った煙草からはポロリと灰が落ちた。目尻に浮かんだ涙を指先で拭うと、アンタあれだ、と笑い混じりに言う。
「わっかりやすいねー」
「ドーモ」
流川はむっとして、体を起こすと髪をかき混ぜた。
「そう、褒め言葉だ」
水戸はにやりとして短くなった煙草をもみ消すと、また新しいものに火を点けた。流川はそれに今度こそ背を向けると、立ち上がって出口へと歩き出した。来るんじゃなかった、流川の脳裏に後悔が過ぎる。こんなことなら教室で寝ていればよかった。次の授業が小池の数学だったから、起こされるのが嫌で教室を抜けてきたのが悪かった。どこで時間を潰すか。ドアのノブに手をかけながら考えた。
「流川!安心しろよ」
後ろで水戸が叫ぶ。どうせ碌なことじゃないのだから聞き流そうとしたのだけど、耳が自然と音を拾った。
「オレは雪とヤってねーからさ」
案の定だ。一瞬でも安堵した自分を忌々しく思いつつ、流川は屋上のドアを後ろ足で蹴って閉めた。一階下の教室にも聞こえるのではないかというほど、大きな音がした。そのドアの向こうで、水戸はまだにやにやと笑っているのかと思うと、ひどく苛立つ。流川はそう感じた。
その翌日になって、雪はようやく登校した。昨日はどうしたの?と尋ねる晴子に、雪はおかしそうにそれが筋肉痛で立てなくて、と笑った。全然おもしろくもなんともねーよ、と流川は少し離れた席で声に出さず言った。
机に伏せているので雪の表情は見えない。耳のイヤホンが運ぶのは無音だ。盗み聞きをしているようで、何とも心苦しかったが、かと言って雪に話かけるのも何となく憚られた。今度会ったらもう一度謝りなさいと彩子に言われていたのだが、言い出せそうにない。
「それでね、桜木君ったら、宮城先パイを踏みつけちゃってね」
「えー、バッカー」
雪はくすくす笑いながら、晴子と何かを喋っている。流川は、唐突に苛立った。雪は桜木のバカばかり見ている。それは苛立ちと共に、奇妙な息苦しさを呼んだ。チャイムが高らかにスピーカーから響きだす。教室のドアが開く音がして、ほんの少し顔を上げると一限目の教科担が地図やらプリントやらを抱えて入ってきたところだった。
「おーい、今週の当番って誰だっけ?」
地理の教科担任は、授業の際にやたらと荷物が多い。だから彼が持ちきれない荷物を運ぶための当番を四月の初めの授業で決めていたのだが、確か今週は雪と晴子が当番だった。
「あ、私たちです」
教室の端で晴子が手を上げる。地理の教科担は済まなさそうに片手を上げて悪いが、と謝った。
「まだプリントが教材室に残ってるんだ。重たいけど、取って来てもらえないか?」
「はい、行って来ます」
晴子が快活に言って、席を立つ。雪もそれに続いた。流川のすぐ後ろを雪と晴子が通り抜けて、教室から外に出ていった。何を感じたのか、花道が隣の席からがばりと起き上がる。こちらは流川とは違って、本当に寝入っていたらしい。
「ぬ、ハルコさんは?」
で、テメーの中には、それしかねえのかよ、と流川はまた声に出さずに言った。花道の前の席の女子が苦笑して、授業のプリントを取りに行ったことを伝える。
「そ、それはお手伝いせねば!」
花道は言うや否や、机を蹴飛ばして教室を出て行った。ぐわんぐわんと揺れた机を、迷惑そうに先ほどの女子が見ている。教師が呆れたような声で、桜木ィ、と呼び止めるのが聞こえた。流川は自分の二の腕を枕にして、揺れている花道の机を見ていた。なんで、雪はあんなのをいつも見ているのだろう。雪の瞳はまるでそれしか知らないかのように、花道の背中を見つめている。当の花道が見ているのは全く別の少女だというのに。
教室から駆け出していった花道は、きっと赤木晴子が持つはずのプリントを奪ってしまうのだろう。いいんです、こんなもので晴子さんの細腕を煩わせるわけにはいきませんだとか、なんとか言いながら。花道はまるでのん気に笑っている。晴子は困ったようにしながら、それでも突っぱねることはないだろう。しかしその横で、一ノ瀬雪は……
「あ、おい。流川!」
気づくと花道と同じように机を跳ね上げて、流川は教室から飛び出していた。今度は本気で狼狽しているような教師の声が流川を追いかけてきたが、無視した。社会科教材室は流川たちの教室がある校舎とは反対の、北校舎の一階だ。渡り廊下の真ん中辺りで、押し問答をしている花道と晴子を追い抜いた。廊下の角を曲がって、階段を下りる。雪が着ている制服のスカートの端が、特別教室が並ぶばかりで人気のない北校舎の一階の、一番端の部屋の中へと消えた。流川はわき目も振らずに薄暗い廊下を横切ると、固く閉ざされた教材室のドアを思いきり開けた。泣くなと言おうと思った。
「一ノ瀬!」
「は?流川?」
けれど言えなかった。なぜなら振り返った雪は泣いていなかった。どうしたの、と聞く雪からそっと目線を逸らしながら、流川は手伝えって言われたと、小さく嘘をついた。
「そ。確かにこれは、結構量、あるもんね」
雪は机の上に用意されたプリントを一山抱えると、流川に手渡した。そのときに一瞬だけ、雪の指が流川の手に触れた。冷え性なのか、雪の指先は冷たかった。けれど触れられた場所が、じんわりと熱を持った。雪の顔が直視できない。流川が抱えたプリントに目を落としていると、雪がぽつりと言った。
「四という数字は、二に分割されるために存在するの」
雪の瞳は、いつの間にかまた花道の姿を捉えていた。社会科教材室の窓からは、二階の渡り廊下で楽しそうに笑っている晴子と、その向かいで顔を赤くしている花道の姿がよく見えた。
「一という個人が四つあって、それがいつまでも一が四つ集まった集合体でいるのは、不自然なんだって。元の一に戻るか、それとも最小の集合である二に分割するのか。それが男女の集まりであれば尚更。任意での組み合わせは選べないわ。わたしと晴子ちゃんという組み合わせを除けば、それはたった二通りしかないというのに」
わたしは四のままがいいのに、という雪の声は、どこか流川を責めているように聞こえた。
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