一ノ瀬雪の章
空に浮かぶ雲は、攫われそうな速さで流れていく。風が強いせいか、今日は飛行機の飛ぶ音を聞かなかった。冬の薄い空の色は夏の色よりも少しだけ好きで、常緑樹の隙間から漏れた細かな光を一層うつくしいと思った。周りに人影はあまりない。時折ちらほらと歩く人を見るけれど、みんな一様に背中を丸めてせかせかと忙しなく歩いていく。この公園のような植物園を通り抜けていく人ばかりだ。並ぶベンチに腰掛けているのは自分ひとりきりだった。
一際強く吹く風に、体が震えた。むき出しの頬と耳が千切れそうなほど痛む。待ち人はまだ来ない。けれどそれを苦痛だとは思わなかった。むしろ少しだけ心地よかった。気のせいか、梅の香りのする冷たい風は、なんだかとても清潔な気がした。
それでは、今まで汚い場所にいたのかといえば、もしかしたらそうだったのかもしれない。思えばずっと、逃げてばかりだったから。自分の心がもっと傷つくのが怖くて、隠したものとか諦めていたものとか、たくさんあった。
あの人に会うことを思うと、胸の奥がきゅうと痛む。それはきっと、焦燥感とか不安感とか呼ぶ類のもので、自分は長い間それから目を背けてきた。色んな、自分の中にある色んな感情から。
傷つきたくなかったってでも、立派な理由だったと今思う。例えばナイフを自分の手首に突きつけるのと一緒で、その刃をなかなか引くことができないし、勇気を出して刃を引くと、やっぱり赤い血が出て、そしてじくじく痛むのだから。
けれど、自分はナイフを引いてみる気になった。なぜかといわれたら、きっと、赤い髪の幼馴染のことが浮かぶけれど、
「雪」
呼ばれてわたしは振り向いた。後ろには、何年ぶりだろう。わたしを生んだ母親が立っている。
「母さん、久しぶり」
ベンチから立ち上がって薄く微笑むと、母親は訳がわからないというように、髪に手をやった。わたしのと同じように、長くて黒い髪が糸を引くように風に煽られている。
「なんだって、今更」
米神の辺りに手をやって首を小さく振る母の姿は相変わらず美しかった。昔、一度だけ彼女に手を引かれてやってきたこの植物園。あの時と同じように美しかった。
「ちょっと、聞きたいことがあったから」
わたしは得意な笑い方をする。口角をあげ目尻を下げて、けれど瞳だけは決して微笑まないように。それを見て嫌そうに目を逸らした母に、わたしは息を漏らして笑った。今、彼女の顔に笑みはない。
「それで、聞きたいことって?」
「ああ、そうだね、うん」
さあと風が吹いたのと同時に、高いところで飛行機が飛んでいく音が聞こえた。
「わたしを生んだこと、後悔してる?」
わたしは、彼女がYESというのを聞きたくってここにきた。
:
読んでいた本を取り上げられて、雪は頭上を仰いだ。逆光で顔がよく見えないが、見覚えのあるシルエットがくっきりと太陽の光の中に浮かび上がっている。夕暮れの日差しを受けて舞い上がった埃が、きらきらとオレンジ色に光って見えた。
「流川」
名前を呼ぶと、当たっていたらしく、おうと無愛想な返事が返ってくる。
「センパイが、呼んで来いって」
雪から取り上げた本をひらひらと振りながら流川が言う。なんとなく、「このインテリが」と言われているような気分になるけれど、どうせこの男のことだ。他意などないのだろう。
「ん、わかった」
スカートについた埃を払いながら立ち上がると、階下で彩子がひらひらと手を振っているのが見えた。雪は少し微笑み返すと流川の手から本を受け取って、階段のほうに歩き出した。体育館のこの日当たりのいい、二階窓の辺りで本を読むのを許された代わりに、時々マネージャーの手伝いをしてくれないかと彩子に持ちかけられたのは、二年生に進級した四月のことだった。
それまでも手が空いていて気が向けば、バスケ部の手伝いのようなことをしていた。けれどそれを正式に持ち込まれて、雪は考える間もなく、すぐ二つ返事で快諾をしてしまった。理由は、一年次の放課後には引きこもって本を読んでいた図書室が、最近利用者が増え、居心地が悪くなっていたこと。そして体育館はバスケット部が遅くまで練習しているから、雪自身も遅い時間までそこにいることができることが魅力だったのだから、花道はあまり関係ない。そのときいっそマネージャーにならないかとも言われたのだけど、それはどう考えても自分がマネージャー向きではないだろうと考えたので、断った。
明らかに自分は、あの晴子や彩子のように人につくせるタイプじゃないよなあ。ふらふらと階段を下りながら、部員の世話をしている二人の姿を見ていると、後ろから頭を叩かれた。
「早く下りろ」
「あ、悪い」
苛立たしそうに流川が自分を見ているのを知ると、雪は階段を下りきってから流川が先に行くようにと道を譲った。が、下りきったところで流川も同じように立ち止まり、先に行こうとしない。不審に思って、自分よりもかなり背の高い流川の顔を見上げると、ぼそぼそした声で、顔色が悪いと流川が言った。
「誰が?」
「ん」
お前、というように指差された。そんなにだろうかと己を省みると、確かにここ二日ほど眠れていなかった。そうか、そんなにかあ、と額に手をやった。見上げて、寝てなかったからと流川に返すと、流川が寝ろ、と短く言った。「できれば」と雪が小さくうなずくと、流川は、もう興味をなくしたように目を逸らした。
「彩子さん」
少し向こうにいた彩子に声をかけると、彼女は持っていたボールを一年生にパスしてから、流川を指差して言った。
「そいつ、保健室に連れて行って手当てしてやってくれない?さっき桜木花道とやりあったときに倒れて、怪我してるから」
見ると、確かに流川の膝と肘の下の辺りに大きく擦り剥いた後が見えた。痛そうだ。
「痛くないの?」
「いてぇ」
ならもっと痛そうに言えよと思うのだが、流川の表情は変わらなかった。
「ちょっと消毒薬をね、使い切っちゃって」
彩子が親指で自分の後ろを差す。反対側の壁際では晴子が花道の手当てをしていた。花道の顔がでれっとだらしなく緩んでいる。要するに、少し頭が冷めるまで流川を連れ出して来いということだろう。
「わかりました。行こう、流川」
「お願いね」
体育館のドアに向かって歩き出すと、後ろから彩子のさァーもっかいよーという掛け声が聞こえた。重く、立て付けの悪い体育館のドアを開けようと雪が悪戦していると、流川が片手で何でもないようにあけてしまった。見上げて見た彼の表情には、やはり変化がない。
暮れかけた日差しをうける校舎の中はとても薄暗く、学校の敷地の中で、体育館から反対側に位置する保健室までの道のりは、少し遠かった。流川は何も言わずに雪の後ろを歩いてくる。時折肩越しに一瞥すると、流川も同じように雪を見た。なんだか居心地が悪くて、養護教諭のいない保健室の電気をつけると、ため息を吐いて持っていた保健室の鍵を机の上においた。かしゃんと少し大きな音がした。
「座って、そこ」
目線で椅子をひとつ差す。教諭がいつも使っている業務机脇のケースから、綿球入れと、白いガーゼと、サージカルテープを取り出した。綿球入れの中の脱脂綿は、マーキュロだかヨードチンキだか、暗くて判別不可能な黒っぽい液に浸されている。なんでまたこの学校の消毒薬はこれなのだ。普通はマキロンだろう。雪は憮然としつつ思った。
ピンセットで綿球入れから、その黒っぽい脱脂綿をひとつつまみ出すと、流川の足元に屈んで擦り剥けている部分に薬を塗布した。何も言わなかったのだが、皮膚に脱脂綿が触れた瞬間流川の体が小さく震えた。痛かったかもしれない。
「ごめん、痛かった?」
「……べつに」
多分痛かっただろうに、なんでこいつは、痛いとか素直に言わないのか。雪は首を傾げつつ、脱脂綿を膿盆に捨てる。二つ目の脱脂綿をピンセットで取ると、腕と言って流川に腕を出させた。
「……いたい?」
「……いてー」
少しだけ力を込めて脱脂綿を流川の腕に押し付けると、今度は素直に痛いと言った。ん、と小さく返事をして雪は力を抜くと、さっきと同じように消毒薬を傷口に塗布した。
「……さっき読んでた本」
「ん、わたしが?」
「そう」
なんでこいつって、主語や述語をあまり喋らないのか。雪がもう一度首を傾げると、流川はまるで興味深いものを見るように、その様をじっと見た。
「なんつーの?」
「題名?」
コクリと流川は頷く。消毒の終わった腕と膝にガーゼを当てようとするといらないと言われたので、雪は立ち上がって出したものを元の場所に戻した。
「カンディード。ヴォルテールのピカレスク小説よ」
「おもしれえの?」
「面白いと、いえなくもない。けれど、読んでいると段々辛くなってくる」
膿盆の上の脱脂綿二つをゴミ箱に捨てる。膿盆には消毒液の茶色い汚れが残ってしまった。
「興味あるの?」
椅子に座っている流川を見ると、また頷いた。
「難しいと思うよ。わたしが呼んでたのは翻訳版ではないし」
「英語の勉強が、したいから」
ぼそりと流川が言う。驚いた。
「なんでまた」
「アメリカに行くから」
「いつ?」
「日本一になったら」
「ああ」
そういうことね、と雪は頷いた。
「残念だけど、カンディードはフランスの作家が書いた小説よ。英語にも翻訳されているでしょうけど、やっぱり難しいと思う。中身がね。英語の練習に向いた話ではない。英語の勉強がしたいのなら、本よりも映画とかそういうものの方がいいんじゃない?」
「……寝ちまうし」
それは本でも一緒じゃないのかと思ったが言わなかった。
「映画館とかでも?」
「寝る」
流川はきっぱりと言いきった。そんな自慢するような顔で言うことじゃないだろうと、雪はため息を吐いた。いや、自分に限っては自慢であるけど。
「寝てしまったら起こしてくれる人と、一緒に行ったら?」
「じゃあ、あんたが一緒に来い」
間髪も入れず言われたので、反応が少し遅れた。そのせいで、雪が驚いたように首を傾げた動作は、流川の後手に回る。それが決め手だったのかもしれなかった。
「……わたし?」
「そう」
今度の日曜日、部活が終わったらと流川は言うだけ言って、椅子から立ち上がった。机の上の鍵を掴むと、さっさと保健室から出て行こうとする流川の背中を小走りに追って、雪は保健室の電気を消した。思ったより周りが暗くなって驚いた。いつの間にか、日が暮れていたのだ。
「Ms.Haruko Akagi. Please answer No. 128 No. 129, and No. 130 in English.」
「Yes. The answer of No. 128, "My house is just on the corner. You can't miss it."」
「Right.」
「No. 129 is "Will you do me favor ,Tom?" "You name it."」
「Next?」
「"Will you go to the party?" "Well, that depends."」
「Wonderful! It's perfect! Thank you, Haruko.」
赤木晴子は照れたようにはにかみながら席に着いた。彼女の英語の発音は、少しヒステリックな英語教諭のそれと違って、とても耳に心地よい。
「では一ノ瀬さん。赤木さんの答えた問題を訳してください」
「『僕の家はちょうどその角にあるので、すぐに見つかりますよ』。『トム、お願いがあるんだけど』『何でも言ってごらん』。『パーティーに行きますか?』『ああ、状況次第だね』」
「Perfect.」
席に着くと同時に教諭が先ほどよりも幾分硬い声で言った。雪は教諭に小さく微笑みを見せてから、また窓の外に目を向けた。それぞれの文章の構文のポイントについて説明をしながら、教諭の授業は進んでいく。この英語教諭の授業を、雪はあまり嫌っていない。グループで、もしくは隣同士でペアを組んで、発音の練習を、とか、英語でゲームをしましょう。なんていうことをあまりせずに、ただ生徒をアトランダムに選出して当てていく。淡々としているが緊張感のある授業の雰囲気は好ましい。好ましいが、英語のテストが得意なのかどうかはまた別問題だ。
「次。桜木くんわかりますか?」
「先生。寝てます」
「では流川くん」
「寝てます」
再度目を向けた窓の外では欅の枝が大きく揺れていた。恐らく生徒たちは、どうやって彼女が当てる生徒を選んでいるのか、少し不思議に思っている。そう考えて、雪は唇の端を歪めた。
「どうやって当ててるんだろうね、あの先生」
いつも不思議よ、と晴子が口を尖らせた。
「テトラナッチ数列」
「え?」
授業が終わったあと、晴子が昼食の入った包みを下げて雪のところへやって来た。淡いピンク色をした布地は彼女の雰囲気によく似合っていて、雪はいつもそれを見ると頬が緩む。
「テトラ……?」
「0, 0, 0, 1, 1, 2, 4, 8, 15, 29, 56, 108, 208, 401, 773, 1490, 2872, 5536, 10671, 20569……っていう数列。そこから適当に数字を引っ張ってきてるの。数学教師の恋人でもいるんじゃない?」
雪は鞄の中からコンビニの袋をつかみ出すと、日当たりのいい窓辺の席から立ち上がって、なんだかポカンとしている晴子と共に教室の出口に向かった。二年生に進級してからは、晴子と一緒に昼食をとっている。と言っても雪はパンやお握りを少し齧る程度なのだけど、一人で食事をしていた一年生の頃よりも、二年生になってからのほうがほんの少しだけだけど食欲が増えたような気がしている。それから、食事を残しても捨ててしまうことがなくなった。
席最後尾のど真ん中。同じように爆睡している二人の椅子を雪が順に蹴り上げると、ごつごつと重い音がした。
「起きろ」
先に起きたのは花道のほうで隣でまだ机の上に伏している流川を見てにやりと笑った。
「キツネはまだ寝てんのか」
「テメエも今起きたばっかだろーが」
晴子が、なかなか起きない流川をそっと揺する。む、と小さく声を上げてから、流川は起き上がった。
「……ねむ」
「眠いって流川くん、もうお昼だよ」
「いいよ晴子ちゃん、もう行こう。休み時間終わっちゃう」
控えめながら、流川にあきれ返っている晴子を促して、雪は教室の外に出た。廊下はざわざわと引っ切り無しに誰かが話す声がして、並んでいる窓からは、葉桜から花が散ったソメイヨシノがよく見える。緑色の葉は光を反射して眩い。廊下は窓が北向きなので少し、薄暗い。だからそのせいで、余計眩しく見えるのだ。
「ねえ、雪ちゃんはどうしてそんな難しいことを知ってるの?」
体育館に向かって歩きながら、訝しげに晴子が聞く。
「偶々本で読んだだけだよ。先生がテトラナッチ数列を使ってるのかなって思ったのは、最初の授業で当てた番号を見て何となく思っただけだし、本当は違うかも。最近は今何番目にいるのかわからなくなっちゃったし」
「えええー」
疑わしそうな目で、晴子が雪を見る。雪はそれを笑って受け流すと、晴子はむっとした表情を作った。
「なんでそんな目で見るの」
「……なんか雪ちゃんって、秘密とかいっぱい持ってそうな感じ」
「なんで?」
「だって、いつも笑って誤魔化しちゃうじゃない」
確かにそうかも。そう考えて雪が自分の今までを振り返ってみると、結構誤魔化したり受け流したりしていりことが多い。悪い癖だと思うのだが、如何せん染み付いているからなあ。雪は嘆息した。
「英語だって、すごく発音きれいだし」
「いや、それは関係ないんじゃ」
「あるもん。雪ちゃんは外国で育ったんじゃないかって噂が……」
「ハルコさん、ハルコさん。この雪のバカが英語が得意なのはですね」
いつの間に追いついてきたのか、雪と晴子の間に花道がぬっと顔を突き出して口を挟んだ。余計なことは言うなと、雪は止めようとしたのだが遅かった。
「昔アメリカに住んでたからなんですよ」
「……雪ちゃん、本当?」
「……花道」
言うなよ、と睨もうと思ったのだがそれよりも前に晴子が雪を覗き込んで、本当?ともう一度聞いた。
「……うん。本当」
「なんで言ってくれなかったの?」
「……なんでって、」
返事に詰まったところに、また花道が口を挟んだ。
「アメリカ行ってたのに英語のテストが六十点じゃ恥ずかしーもんな。な、雪!」
「余計なこと言うな!花道!」
雪は言うなり、素早く花道の足を踏みつけた。痛ってと花道が立ち止まって、足を抱える。ザマーミロと雪が笑うと、涙目をした花道がそれを睨んだ。
「ねえ雪ちゃん。今のも本当?」
「……ホントウデス」
晴子が、彼女より背が高い雪を見上げて聞いた。その上目遣いは反則だと、苦々しく思いながら雪は答える。
こんなこと、言うつもりなんてこれっぽちもなかったのに、と舌打ちした。彼女がもう一度睨んだ先には、痛い痛いとまだ足を抱えている花道と、少し後ろで面倒くさそうにそれを見ている流川の姿があった。
「小学生の頃にね、父親に連れていかれたんだ」
リズミカルに響くボールの跳ねる音を聞きながら、雪は言った。コンビニで買ってきたパンを小さく千切って口元に運ぶ。その様をじっと晴子が見るのでなんだか気恥ずかしかった。
「お仕事か何かで?」
「ん、そんなとこ」
「去年、アメリカに一週間ぐらい行ってたのは?」
「あのとき言ってた会いたい人っていうのが、父親のことだったんだよ。あの人は今でもアメリカに住んでるから」
ぼそぼそするパンを水で流し込む。疑わしそうな晴子の視線を受けて、雪は再び口を開いた。
「元々、アメリカと日本を行き来して仕事してたような人だったんだけど、どうもわたしを、向こうの学校に入れたかったらしくって。それを機に移住しちゃった」
「向こうって、アメリカの学校ってこと?」
「そう。そういう、なんていうんだろうね、見栄?いや、見栄えかな。が、好きな人だから」
「どれくらいいたの?」
「二年ちょっとくらい。十歳のときに行って、十四になる前に帰ってきた」
「どうして帰って来たの?」
晴子が聞く。それは難しい、と雪は首を傾げて、それから流川と1on1をやっている花道を見た。
「向こうが合わなかったというか、合わせたくなかったから。それで向こうにいるうちに段々眠れなくなって、それから食事の量も減った。体調を崩して、結局学校にもあまり行かなかった」
手持ち無沙汰に、雪はペットボトルの蓋を弄くる。顔を膝に俯けた晴子が、何か考えるような顔をした。
キュッキュッキュッとバスケットシューズが鳴る独特の音は、雪の耳に大分馴染んできていた。花道がバスケットボールをやると言ったときは何を馬鹿なと洋平と共に笑ったのだが、こうして見ていると、花道は一端のバスケットボールプレイヤーに見える。
雪はいつも花道に引っ張られている。初めて会ったときも、まだ小学生だった頃も、アメリカから帰ってきたときも、そして今。
「ねえ」
「ん?」
晴子が顔を上げて雪を見る。雪は花道から目線を外すと彼女を見た。
「こうやって、雪ちゃんが色んなことを喋ってくれるようになったのも、桜木くんのおかげ?」
「うん、そうだね」
噛み締めるようにゆっくりと言葉を発するうちに、自然とまた視線は花道を追った。花道は流川のブロックをかわして、ゴールにボールを叩き込もうとしている。もたつく学ランのズボンが邪魔くさそうだった。
「でも、花道には内緒だよ。言うとアイツ調子に乗るから」
「そうだね」
ふふふと笑った晴子の髪に、白く天使の輪が光っている。ガンとボールがバックボードに当たる音が体育館に響くのと同時に、どこか調子はずれな音の予鈴が鳴った。
五限目は数学の授業だった。二年連続で花道と流川の教科担任となった不運な小池教諭は、もうあいつらを起こすことを諦めたらしい。雪は二つ横に見えるに赤頭を、にやりと笑った。花道は去年の夏から髪を伸ばしていない。あんな髪型よりも、短いほうがずっと似合っている、と思っている。
二年生になってからの数学はちょうど今日、式と証明という分野が終わるところで、どうやら予想を外して小池は時間は持て余したようだった。どうするのかな、と雪が見ていると、小池はふうんと唸って顎を摩った。
「よし。少しゲームをしようか」
小池がそう言った瞬間に、眠たそうだった何人かが首をもたげた。それでも花道は相変わらず机にうつ伏せたままだった。小池は黒板に書かれた数式を一度全部消してしまい、それから『4』という数字を四つ、黒板に記した。
「この四つの4を使って、〇から三十の数字を表してみなさい」
えー無理ーと誰かが声を上げた。小池はにやりと笑って、そんなことはないと言う。
「例えば、〇の場合だ」
カツカツカツとチョークが滑って、『0=44-44』と黒板に記される。
「さらに、
『1=44/44
2=4/4+4/4
3=(4+4+4)/4
4=4+(4-4)4
5=(4・4+4)/4
6=4+(4+4)/4
7=44/4-4
8=4+4+4-4
9=4+4+4/4
10=(44-4)/4』
と、こうなる。さあ、〇から十までは私がやってしまったから君たちには十一から三十までをやってもらおうか。当てるぞ、順番に」
教室が騒がしくなる中で、雪は一人真っ白なノートに向かって、式を三十個記していた。一度も止まることなく、書けてしまったそれに、ため息をひとつ吐く。ノートを閉じると頬杖をついて、窓の外に目を向けた。青い空に雲の白色が映えている。風が吹いて欅の枝が揺れた。
「一ノ瀬はもうできたのか?」
ふと横を見ると小池が雪の横に立っていた。頷くと小池はそうかと唸って、
「では三十の式を黒板に書いてくるように」
と命じた。他にも当てられたものはいるようだが、まだ解けていないらしく、黒板の前には誰もいない。雪は席を立つと、机の間を縫って黒板へ近づいていった。チョークは手が汚れるから嫌いだ。できるだけ一番新しくてきれいなものを選ぶと、雪はカツカツカツと、小池がしたように、黒板にチョークを滑らす。小池が後ろでそれをじっと見ているのがわかった。少し、懐かしい感覚だった。
30=4!+√4+√4+√4
若い数字はたったこれだけのこと。雪はチョークを置くと、汚れた指先を払って、また机の間を縫って席に戻った。小池は教室を一周して教卓に戻り、それぞれに解かれた式を添削している。最後の三十番目に丸がついたところで、彼はさてと生徒に向き直った。
「こうして君たちに、十一から三十までの数字を、この四を四つ使った式で解いてもらったわけだが、このようなゲームのことを『四つの四』という。今回は十一から三十までを、君たちが使える範囲の数学記号を使って解いてもらっただけだったが、本来はどんな数字記号も使用してよいことになっている。例えば、150は
『150=(√4/.4)!/.4/√4』
となる。113や157などを覗く1000までの整数がほとんど、四つの四で表すことができるとされている。そう、そういえば、五年か六年ほど前に、アメリカで十一歳の女の子がこの一から千までを解いたという記事が新聞に載っていたことがあるな。ちょうど君たちと同じくらい年齢だ」
ありえねえと誰かが呟いた。
「まあ、君たちにそんなことは求めていないから、とりあえずは次回までに出した宿題をちゃんとやってくること。では今日の授業はここまで」
起立、という号令に周りが立ち上がる中で、雪は立ち上がらなかった。窓の外で、白い飛行機雲が青い空を横切っていった。
その日曜日の約束を雪はすっかり忘れていたし、それを言い出した流川本人もどうやら忘れていたらしい。半日の部活が終わったあと、残って自主練をしていた流川が不意に
「あ」
と大きな声を上げた。雪は読んでいた本から顔を上げて、なんなんだと流川を仰ぎ見る。
「今日、映画見に行く約束してた」
「ああ、そういえば」
すっかり忘れてたなあ、とまだ本を読んでいた余韻が抜けきっていない雪がぼやっと呆けていると、その呆けた目線の先で急に流川が着ていたシャツを脱いだ。
「あっつ」
「……なんであんた急に脱ぐの?」
「着替えてくるからそこで待ってろ」
「……ん」
もしかして、流川は今から映画を見に行こうというのだろうか。というか、それ以前にあの約束が本気だったとは思わなかった。何となくその場で言ってみただけかと思っていたのに。あの流川に、映画に誘われるなんて、なんだか現実味がない。
そんなことをつらつらと考えながら、雪は読んでいた本に再び目を戻した。今読んでいるのはジョルジュ・サンドの「ジャンヌ」。「カンディード」を読んで疲れた頭を休ませようと思って読み始めたのだが、以前読んだ「少女ファデット」
のような完成度をこれにも求めていたら、少し期待はずれだった。サンドの最高作が、「ファデット」だというのは確かなのだろう。それにしても「魔の沼」といい、この「ジャンヌ」といい、この作家にはヒロインを美化しすぎる傾向が、あるような気がする。あまりにヒロインが美化されてすぎて、この作品は少し読み辛い。ヒロインへの賛辞ばかりが目に付いて段々とページを捲る手が重たくなってくるのだが、それでも彼女が訴えかけているものは興味深く、重たくともページを捲る手は止まらない。
「おい」
頭を小突かれて、雪はまた顔を上げた。ぼんやりと焦点の合わない視界に、流川の顔が浮かんだ。
「行くぞ」
流川は簡潔に言うと、雪の腕を掴んだ。突然のことに雪は読んでいた本を床におくのが精一杯で、手を引かれるままに流川の後をついていった。
「行くって、どこに?」
「だから、映画」
「今から行くって、花道と晴子ちゃん、コンビニに行ったまま帰ってきてない」
「別にいーだろ」
「いいって、あんた」
せめて書置きとか、と思うのだが、流川は雪の腕を引いてずんずん進んでいってしまって、気づいたら学校の最寄り駅の前にいた。流川と同じように残って自主練をしていた花道と晴子は、少しコンビニに行っていた間に、流川と雪が体育館から消えていたら驚くだろう。どうしよう、と雪が思っている間に流川は券売機で二人分の切符を買ってしまっていて、んとひとつを雪に差し出した。
「どうしても、今から行くの?」
「おう」
何も問題はないだろう、というような流川の態度に、雪は小さくため息を吐いて、改札を潜った。そういえば、自分は財布さえ持っていない。本も体育館に置いてきてしまった。
「わたし、かばんも何も持ってないんだけど」
タイミングよくホームに滑り込んできた電車に乗りながら、雪は言った。電車の中は通学時間と比べれば比較的空いており、隅のお見合い席に並んで座った。
「だから、別にいーだろ」
別にいーって。横目で流川を盗み見ると、流川もこちらを見ていて目が合った。雪は大きくため息を吐いて座席に背中を預けると、流れていく景色を車窓から追った。
あの海に潜る話がいいと言う流川を、それは邦画だからと引っ叩いて、結局チケットを買ったのは上映が終わりかけたラブロマンスだった。公開当時は鳴物入りで宣伝されていたのだが、中身はそんなに面白くはないらしいということを、雪は聞いた事があった。
最近上映開始されたばかりで、できたら見たいと電車の中で思っていたハリウッドのアクション物は時間が合わず、吹き替え版しかやっていなかった。それでいいという流川を雪は再び引っ叩いた。
「じゃ、高校生二枚で」
だるそうにチケットの代金を払っている流川のことを、チケット売り場の若い女性は食い入るように見ている。周りを見回すと、彼女の他にも、じっと流川に目線を送っている人が何人かいる。流川が差し出したチケットを受け取りながら、雪はまた小さくため息を吐いた。今度は流川に聞こえないように。
「学校に戻ったらチケット代返すから」
「いい」
「そう?」
ちくちくと身に刺さる目線が居た堪れない。この男と歩くといつもそうだなあと雪は関心してしまうのだけど、流川のほうは一向に気にしている様子がない。鈍いのかそれともそういうことを気にする性質ではないのか。両方だろうなあ。雪がシアターに入る重たい扉を引こうとすると、流川が後ろから手を出していとも簡単に開けてしまった。
「何?」
肩越しに振り返って流川を見上げると、怪訝そうに見返された。
「ううん、何でもない」
ため息を殺して、雪はシアターの中へ進んだ。館内は薄暗く、もう予告編が始まってしまっているのか、大きな爆発音が響いた。小さなホールの中には、雪と流川以外に誰もいない。嫌な感じと思いながら、指定された席に着く。その隣に流川が座った。
というか、と雪は段々とボリュームを上げていくボレロに耳を傾けながら思った。ここまで来て今更だけど、洋画を字幕で一本見たって、英語が上達するわけがないじゃないか。自分なんかとこうやって映画を見に来るよりも、彩子か晴子に参考書のひとつでも見繕ってもらうほうが、効果があるに違いない。なんでこんなこと今更思うかなあ。こっそり隣を盗み見ると、既に頭を垂れた流川の姿があった。
「……まだタイトルも出てないのに寝るな!」
隣でぐらぐら揺れている流川の頭を思いっきり叩くと、バシンといい音がした。
映画は予想に違わず、つまらなかった。流川の頭がまた揺れている。それを小突いてやりながら、雪はスクリーンに大写しになった女性の顔を鼻で笑った。何かよくわからないけれど、恋人に裏切られたと言って泣いている。泣いている彼女に恋人とはまた違う一人の男性が手を差し伸べたところで場面が切り替わり、先ほど泣いていた女性の恋人が映し出された。彼は酒屋かどこかで酒を飲んでいる。彼の靴のつま先は、苛立たしげに地面を叩いていた。男の顔にカメラが近づき、唇をかみ締めるのを映すのに被さって、彼の回想が始まった。先ほどの女性との間に、どうやら齟齬をきたしたらしい。ショックを受けて女性が彼の前から立ち去っていく。彼はそれを見送って、舌打ちをした。
あほらしい、と雪はスクリーンから目を離した。そんなものはあの女の方がちゃんと事実関係をはっきりさせればいい話だし、あの二枚目くずれの男が恋人の後を追いかけて説明をすれば、それで済んでしまう話だ。勝手に勘違いをしてショックを受けることは、清純であることの象徴ではない。後を追って話すことを放棄することは、潔さではない。色々なものが微妙に食い違ったこの話は確かにつまらなかった。これは俳優のミスじゃなくて、脚本家と監督のミスなんだろうなんて、勝手に考えてみる。スクリーンでは、泣いている女に言い寄る噛ませ犬の男がニヒルに笑っている。囁かれている甘い言葉は、雪の耳を通り過ぎていった。
隣を見ると、流川はまた眠っていた。こんな度々眠られると、さすがにうんざりしてくる。手を伸ばして流川の頭を小突こうとした雪は、ふとそれをやめて、長い睫に引っかかった彼の髪を梳いた。パチパチと色調を変えるスクリーンの光に照らされた流川の睫は、黒々と光っていて、ぬばたまの、という言葉を雪は思い出した。
薄い唇から微かに呼吸音が聞こえる。よく見ると白いカッターシャツから覗いた喉がそれに合わせて上下していた。雪によく馴染んだ花道とは、対照的な男。繊細な鼻梁の通りかたも、黒くて真っ直ぐな髪も、切れ長の瞳も、ぼそぼそと喋る声も、あまり変化しない表情も。すべてが対照的だった。なんで映画見に来たのだっけと考えると同時に、そういえば花道や、その取り巻き以外とこんな風に出かけるのは初めてだったと気づいた。
どうして、わたしは来てしまったのだろう、と雪は考えた。それは流川が勝手に約束を取り付けたからなのだけど、そうではなくて、どうして振り切れたはずなのに、手を引かれたまま駅まで歩いてしまったのだろう。とか、どうして言われるまま電車に乗ってしまったのだろう。とか、どうしてなんだかんだ言いながら映画を選んで、こうやって隣り合った席に座っているのだろう。とか。
思考がゆっくりと霧散していき、手のひらから砂が零れ落ちていくように、ほろほろと崩れていくのが、雪自身にもわかった。雪の耳には、もうスクリーンに映し出される人々の叫びは届いていない。隣で眠る流川の吐息だけが、子守唄のように彼女を眠りに誘っていた。
雪は眠ることができない。全く眠ることのできなかった徹夜明けの朝だって眠たくないし、その日の夜だって眠れない。死にそうに体が重たいだけで、けれどベッドに横たわっても、なかなか眠ることはできない。手持ち無沙汰になって、それでいつも読みかけの本を開く。眠れない一人きりの夜は死ぬほど心細い。だから、まだ眠れないのかと何度も時計の針を見、カーテンの向こうの窓を覗く。一睡もできなくて、遠くで派手な音を鳴らしているバイクを本気で憎んだ日もあったし、白くなっていく空をずっと見上げていた日もあった。あまりの孤独に理性を失って、遠くで鳴り響くクラクションを叩き潰しに行ったこともある。暗い夜は雪にとって辛いばかりで、眠れないことは今まで生きてきた中で、一番の苦痛だった。
なぜなら、雪は眠ることができなかったからだ。入眠障害と早朝覚醒の症状を持った不眠症だった。併発している摂食障害よりも、こちらのほうが重苦と、雪は感じていた。凌ぐ方法がないからだ。栄養不足による体調不調は、言ってしまえば点滴などによる栄養補給で凌ぐことができた。しかし、不眠症のほうはそうできなかった。
雪の体質は少し特異で、脳が一日に必要とするブドウ糖の量が常人の二倍以上あった。生まれたばかりの頃、それが原因の低血糖で死に掛けたことがあると両親から聞いている。脳の詳しい検査をすればわかるのかもしれないが、母がそれを許可しなかったために理由はわからないままだ。自分のIQが異常に高いことがそれに関係しているのかどうかも、わからない。
わからないからこそ、雪は薬物を使用することに制限がかけられていた。例えば、ベンゾジアゼピンという物質がある。この物質のは、脳の中枢神経からの信号の流れを制限することによって、不安や興奮などを抑制させる働きを持っている。それによって眠気を誘うため、この物質はハルシオンやエバミール、サイレースといった睡眠導入剤に使われている。しかし、雪の場合、この「中枢神経からの信号の流れを制限する」という件において、問題があるのだ。それは、ブドウ糖を過剰摂取する脳の問題だ。ベンゾジアゼピンという物質が雪の脳にどのように作用するのかがわからない。だから脳の精密な検査をしない限り、睡眠導入剤というものの使用が主治医に認めてもらえなかった。その上主治医も雪も、脳の精密検査をすることに対して積極的ではなかった。それでも雪は睡眠導入剤を処方してほしいと医師に訴えかけ続けているのだが、彼女は首を立てに振らない。
だから眠れない夜、明ける前に目覚めてしまった夜。そうした夜に雪は、眠れなくなった原因を作った父親と母親をよく恨んだ。何度も薬を処方してくれと頼んでいるのに、処方してくれない神経科医を恨んだ。ここ五年ほどはそうやって生きてきた。こんな風に、昼間に眠れたことは一度もなかった。それなのになんで今、眠ってしまったのだろう。
雪は唇を噛んだ。今夜は、もしかしたら眠れる夜だったのかもしれない。でも結局、今夜は眠れないだろう。だって、今眠ってしまったから。
シャツを着た肩に触れられたその指は控えめで、けれど暖かく、雪は一瞬泣き出しそうになった。暗い映画館の中には、ラフマニノフのピアノ協奏曲の一節が細く、か細く、奏でられている。黒いスクリーンには延々とエンドロールが流れていった。眠っていたのだなあと、ぼんやり思ってから、なんでと反問した。
「行くぞ」
「……うん」
泣き出しそうになって見上げた流川に促されて、雪はホールの外に出た。重い扉を潜った瞬間に生身の人間の声が耳に溢れて、やっと雪は呼吸することができた。
そのまま映画館の外に出ると、傾き始めた日が雪の頬を照らした。ほんのりオレンジがかった日差しを見上げて、雪はひとつ息をつく。まだ少し混乱していて、そして悲しかった。俯いていた顔を上げると、少し向こうで流川が雪を待っていた。雪は少し小走りになって、追いつく。
「また寝てねーの?」
「また、というほどでもなかったんだけど」
隣を歩く流川の歩調はとてもゆっくりで、そのリズムがなぜだか心地よかった。雪はそれを不思議に思って首を傾げた。
「また、というか寝てないのっていつもだし」
「寝ろ」
「眠れないんだってば」
有無を言わせぬ流川の言い草に雪は苦笑した。
「でも、こんな風に寝たのはすごく久しぶりだった。なんで、寝れたんだろう」
「映画がつまんなかったからじゃねーの」
「はは、そうかも。あの映画、最高につまんなかった」
どうにか笑いながら雪は流川の顔を仰ぎ見た。ずっと思ってたんだけど、と雪は首を少し傾げる。
「映画一本見たくらいで、英語って上達しなくない?」
「ゆーな」
流川がほんの少しだけ口の端を歪めた。
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