前回読んだ位置に戻りますか?

デッドロック

 聖が彼女の担当から外れたため、会うのはこれがまた一カ月ぶりという、いつもの有様だった。他愛無いやり取りをメッセージツールで続けてはいるが、会って会話することを思えばやはり味気はない。仕事の休憩時間に、次に会うときに着る服をショッピングサイトをだらだら眺めて探していると、そのPC画面をゼロが覗き込んだ。

「お前、職場のPCでデート服探すなよ」
「降谷さん。これはマジで驚きの事実なんですけれど、皆さん及び、とある上司の潜入用の服買いまくってたせいで、スマホのUIよりPCのUIのほうが馴染みがあって使いやすくなってしまい。だから探すのだけはPCでして、決済は自分の端末でします」
「はいはい、いつもあれこれ探し物させて申し訳ない」

 ゼロは軽い調子で言うと、彼女が眺めていたショッピングサイトの画面を同じく眺めた。

「これとか、かわいいんじゃないか」
「白のワンピですか、降谷さんの趣味ですか」
「いや福城が好きそうじゃないか、こういうあざと清楚系」
「…………」

 ゼロが指したワンピースは大きめの襟がついた白っぽい花柄のワンピースだった。大きめの襟がついてはいるが、襟の色が黒いことと襟ぐりが鎖骨が見えるほどあいているデザインのため、あまり子どもっぽくはない。ふうん、と息を吐いて降谷が指したワンピースを眺める。値段も手頃なので、選択肢としてはありかもしれない。
 降谷は言いたいことだけ言って、さっさと自分のデスクに戻っていった。3年前ほどの長期間の潜入はさすがにもうあまりしていないが、降谷に対して潜入任務が下される回数は多く、今回庁舎にいるのもいつまでいるのかわからない。ざっくざっくと砂場を掘るような勢いで書類仕事を始めたゼロを横目に、彼女は私用端末を触った。聖は翌週の土曜であれば時間が取れるようで、少し考えた末に先程の白いワンピースをショッピングサイトのカートに入れて決済をした。付き合い始めて3年も経つのに次のデートを心待ちにするような自分の心情に、今も変わらず困惑ばかりしている。




 

 金曜の夜に聖が泊りに来て、土曜はそのまま二人で出かけることにした。聖が夏服が欲しいと言ったのと、彼女が気になっている展覧会があると言ったのが決め手だった。少し前に届いていた例のワンピースをしめしめと思いながら着てみれば、確かに聖の反応がいい気がする。なるほどこの系統が好きなのか、と彼女はゼロの慧眼を思った。

「どうしたの、機嫌いい?」

 にやにやとしていれば、聖が不思議そうにする。
 
「聖くんが、この服気に入ったみたいなので」
「それは、そう……だけど。一果さんがそういうワンピース着るのは珍しいなって」

 言い当てられたのが少し気まずいのか、明後日の方を見て口元を隠した聖に、なんだか面白くなって笑い返す。聖は少し虚をつかれた顔をしてから、仕方ない、とでも言うように少し苦く微笑んだ。
 展覧会は埠頭臨海部近くで行っているもので、とても面白く見ることができた。彼女が目当てにしていた展示は展覧会の目玉だったので、購入したチケットにはその展示の写真が使われている。折角なので、と買った図録に聖の分と合わせて挟みながら、擦り切れてしまうまでは本の栞としても使えそうだな、と思っていた。そんなことを話しながら駅の方面へ戻り、聖の服はどこで見るかを話し合ったりしていた。
 話が変わってきてしまったのは、その駅方面への帰り道で件のゼロにとっ捕まってしまったことからだ。
 駅の近くでお手洗いに行くために一度聖と別れ、少し混んではいたので順番を待ってから、化粧も直していた。そうして、お手洗いへの通路から出てきたところでゴリ、と硬いものが脇腹に当てられ、耳元に低い囁きが聞こえる。

「動くな静かにしてろ」
「…………いや。何やってるんですか、ゼロ」
「よし色ボケしてないな、及第点だ」

 彼女の脇腹に押し当てていた近隣施設のリーフレットを下ろし、振り向いた彼女にゼロが満足気に笑う。いつものスーツではなくTシャツに淡い色のシャツを羽織っている。というか、待ってくれ。そのシャツは先程まで聖が着ていたものではないか?

「ちょうどお誂え向きにお前たちがいたものでな。福城は既に配置についている」
「は?」
「お前は俺と行動して対象のサーバー室に潜って情報を抜く、福城はそのの陽動をする」
「…………は?」
「はい行動」

 要するに、この付近のとある会社に急遽潜入して情報を盗む必要が出たが、現状現場で動けるのがゼロと他数名しかおらず「どうしたものか」と思っていたいたところに、道をぱやぱや歩いている彼女と聖を見つけた、ということだった。
 圧倒的強者降谷零を前に、彼女は己の不運を思って泣いた。ヒンヒンヤダヤダ言ってはみたが彼女を引きずる降谷の力はべらぼうに強く、そもそも聖を盾に取られているので、もはや拒否権がない。
 唇を噛み締めてゼロを睨んだが、彼のほうには気にする素振りもない。そのまま彼女を自分の車に押し込んだゼロは車を走らせ、臨海部の商業エリアを抜けた。楽しくもないが湾岸道路はドライブウェイとしては景色がよく、光を弾いてぎらぎらと輝く海を横目に埠頭付近まで走っていく。こんな通いにくそうなところにサーバー室なんて持ってるもんか、と思ったが、どうやらメインではなくサブの社外クラウド環境らしい。まあそれならそんなこともある……か?
 何となく納得してしまった彼女を尻目に、降谷は車を近くのパーキングに突っ込むと、彼女の腕を掴んで車外へ出た。つけていたインカムに「始めろ」と吹き込む。ゼロが仰ぎ見る近くのビルに黒いワンボックスが横付けされ、数名の人影がビルの中へ駆け込んでいくのが見える。

「お前はこっち」

 ゼロに連れられ、前もって開けておいたのだろう通用口からビル内に入る。表玄関ではざわざわとした声と物がぶつかる音が聞こえるが、裏側は静かだった。靴の踵の音が煩いので、脱いで裸足で歩く。ゼロはちらりとこちらを見てから、彼女が脱いだヒールを手から抜き取って自身の尻ポケットに入れた。

「社外クラウドってことは、ここがDBでいいんですよね?」
「そういう話だ」

 ゼロは短く言って奥まった位置にあるエレベーターのボタンを迷わず押した。降谷はエレベーターの中にいる間に、腰のホルスターに隠していたらしい短銃と小さな煙幕弾を取り出す。体をエレベーター内のなるべく奥に押し付け、ぎゅっと唇を噛んだ。ぽん、と軽い音を立ててエレベーターの扉が開いた瞬間に、放り投げられた煙幕弾が破裂する。数名の悲鳴が聞こえた後、すり抜けられる程度まで開いたエレベーターの扉の隙間からゼロが駆け出した。
 待ち構えて警棒を振り上げていた体格のいい男の懐に飛び込み、ドガっと音を立てて男を蹴り飛ばす。そのまま蹴り出した足を軸足に、反対側の足で背後に迫っていた別の男に踵を叩き込んだ。いわゆる回し蹴りというやつだ。そこからは煙幕が本格的に広がり、彼女からは何も見えなくなってしまったが、肉を殴打する鈍い音と男たちの混乱と呻く声だけが聞こえてくる。
 結局ゼロはものの数分で5人の男たちを無力化すると、煙幕が晴れるのを待たずに彼女を連れてエレベーターホールを抜けた。サーバー室の鍵を拳銃を使って壊し、室内に入ると降谷はドアの前で他の捜査員との通話を始めた。彼女は鞄の中に入れていたモバイルノートを開き、目的のSV機を探す。社内LANから入ってセキュリティの薄そうなPCを一台覗いてみれば、室内の見取り図も確認することができた。ゼロが探している会社が使用している分のサーバーラックを引き出し、自分のモバイルと直接接続する。

「欲しいデータの内容は?」
「物品購買移動データと金の流れ」
「了解です」

 垂れてきた前髪を耳にかけ、ゼロが欲しがっているデータの格納先を探す。大体の目星がつくと、持ち歩いている外部メモリ宛にそれの転送を開始した。

「転送完了まであと10分です」
「了解した」

 ゼロは短く言うと、さっと扉から出て駆けて行った。この10分をどうにか稼いでくるつもりなのだろう。はあ、と軽く溜息を落として、しゃがみ込んでいた足を投げ出した。
 サーバー室というのは大抵低温になるように管理されているため、この室内もよく冷えている。むき出しの二の腕とスカートだけの足に、空調の風が冷たかった。かじかみそうな指先を擦って温め、ぎゅっと拳にして握り込む。
 聖はどうしているだろうか。陽動に聖も参加するという話だったが、彼も先程の黒服の男たちの中にいたのだろうか。どうして聖は、ゼロの言うことを聞いてしまったのだろうか。そんなことをふつふつと考えていると、再度背後のドアが開き、見ればゼロが戻ってきたところだった。
 戻ってきたゼロは、頭の辺りが少しだけ煤に塗れていた。まるでダクトの中にでも潜り込んできたようだ。一体何をしてきたのか、と思ったが無駄は口には出さない。

「進捗は」
「あと3分ほどですね」
「……ああ、寒いのか」

 短く返した彼女が拳を握っていることに気づいたゼロが、自分の羽織っていたシャツを脱いで彼女の肩にかける。降谷の体温の移ったそのシャツはやはりどう見ても聖が着ていたものなのだが、既にゼロのオーデコロンが少し香っていた。

「抜き取りが完了したらすぐに自分の端末を回収しろ。アクセス内容の処理はしなくていい」
「はあ」

 降谷の言葉の意味があまり捉えきれず、胡乱な声を上げる。あと1分。ゼロ。データの抜き取り完了を確認すると接続していた端子を抜き取り、自分のPCを鞄の中にしまい込む。引き出していたレールも元に戻した。

「そのシャツで鞄を包め、行くぞ!」

 降谷は彼女の作業が終わったことを見て取ると、壁の防火装置を叩き割った。割れるような激しいサイレンの後に、天井から水が降ってくる。自分のPCの入った鞄を抱えながら、一瞬呆けた。なぜSV室にスプリンクラーが設置されているのか、これだけのSV機がすべてお釈迦になったら金額的にも復旧人員的にもどうなるのか。他人のことながら、腹の底が心底薄ら寒くなる。体調が悪くなりそうだった。

「ぼさっとするな、行くぞ!」

 ゼロに怒鳴られてSV室から出ると、捜査員らしき黒服の男たちが裾の長い軍服と軍帽に動物面といった珍妙ないで立ちで暴れまわっていた。ゼロが起動させたスプリンクラーが廊下にも水を巻き始め、服が、足が、髪がざぶざぶと濡れていく。
 その降りしきる水の向こうで、他の捜査員たちは警棒を手に大立ち回りをしながら、彼女と降谷が脱出する時間稼ぎをしているようだった。その中の一人が、コートのような長い衣服の裾を払い、警棒を竹刀のように構えてダ、と踏み込む。一人、二人と腹に警棒を打ち当て、素早く足を引き寄せて構えに戻る。背後から突っ込んできた相手へ鋭い動作で振り向き、左足を引いて構え、腹に向かって警棒を振り抜く。その後ろから銃を構えて狙っていた別の男を視認すると、今警棒で打ち抜いた男を足蹴に横へ飛び、壁を蹴って再度方向を変えると拳銃を構えた男へ向かって飛び降りざまに警棒を振り下ろした。ガツン、と嫌な音がして男が倒れ、着地した黒服の男のコートの裾がはらりと落ちる。
 言葉も出せずにその光景を見ていると、ふ、と彼女からの視線に気づいたその男が、狐を模した面越しにこちらを見る。

「あ」
「呆けるな!」

 あれが聖だ、と思った瞬間に焦れた降谷が彼女の腰を掴んで抱え上げた。同じく数秒彼女を見ていたその狐面は、再度後ろから襲ってきた男の警棒を往なし、また鋭い打ち込みをその男の腹に叩き込む。
 ゼロはそのまま抱えた彼女を降ろしてはくれず、廊下の先にあった非常通用口から、階段を駆け上がっていく。彼女が掴んでいるせいで、降谷のTシャツに大きく皺が寄っていた。足や腰を掴んでいる降谷の大きな手のひらが、熱い。
 屋上まで辿り着くと、ゼロは一度彼女を降ろして待機中の部下とインカム越しに話し始めた。逃走経路の確認をしているらしい。開きっぱなしの屋上のドアの向こうから人の話し声がし、慌ててドアを閉めに走る。大きめの石を踏んでしまったようで、足裏に激痛が走った。

「時間がない。行くぞ」

 ゼロは屋上のドアと鍵を閉めて戻ってきた彼女を再度片手で抱え上げた。そのまま屋上の柵を乗り越えようとするので、何をするのか悟って、咄嗟に降谷の首にしがみ付く。ガン、ガン、と屋上のドアの鍵を壊すために叩く音と、数発の発砲音がする。ゼロは助走をつけてだっと駆け出すと、彼女の体を抱きかかえて宙へ飛んだ。降谷の大きな手のひらが彼女の顔を彼の肩に押し付け、回された腕がぎゅっと締め付けられる。彼女を抱きかかえた状態で降谷は隣のビルの窓ガラスを蹴り破り、二人は室内に転がり落ちた。休日で誰もいないオフィスの中を転がったが、床が絨毯ばりだったことも功を奏して大した痛みはない。ゼロはさっと起き上がると、また彼女を横抱きに片手で抱え、オフィスから駆け出した。セキュリティの管理会社への通報音がしている。降谷は人の気配を気にしながらまた階段を降りていき、手ごろな窓から更に隣のビルに飛び移った。こちらは立て直し間近の古いビルのようで、埃っぽく人の気配はない。

「ここに隠れていろ、迎えは寄越す」
「降谷さんは」
「君が見つかることが一番困る。再度陽動に行く」

 ゼロは短く言うと、さっと踵を返して駆け出した。ほのかに窓から西日が差し込み、二人が動いたことで浮いた埃がその光を弾いている。彼女はぼんやりとその光景を見ながら、今日のデートの予定はこれで終わってしまったことを悟った。ぐっしょりと濡れた服や髪が体に張り付き、気持ちが悪い。鞄に巻いていた聖のシャツを外して広げてみたが、こちらもほぼほぼぐしょ濡れ状態だった。持ち歩いているPCとスマホは生活防水がしてあるので無事だろうが、他の荷物はその限りではない。鞄の中の、聖と一緒に行った展覧会の図録もチケットも、皺くちゃだった。

「……一果さん?」

 微かな足音がして、顔を上げると聖がいた。先ほどまでの黒い軍服はもう着ておらず、このシャツのインナーにしていたTシャツ姿だ。

「あ、降谷さんは、」
「さっきすれ違った。あの人が陽動へ行く代わりに、君を迎えに来たんだけど……」

 水に濡れた彼女の有様と、同じ状態の自分のシャツを見て大抵のことを理解したのだろう。聖は少し顔を顰めると自分が着ていたTシャツを脱いだ。

「上から着て。汗臭いかもだけど、その恰好よりはマシなはずだから」

 聖が自分のTシャツを上からぐいぐいと被せてくる。それに慌てて頭を通してみれば、聖がじっとこちらを見ていた。何だろう、と思うが聖は何も言うことなく、彼女にTシャツを着せてから自分は水で濡れたシャツを羽織る。

「近くのホテルに入って服を乾かして、今日はもういいって、あの人が」
「わかりました」
「靴も預かってきた」
「あ、はい」

 聖がポケットから彼女の靴を取り出し、濡れた足に触れる。履かせてくれようとしているのだとわかって、黙って足を差し出すと先ほど石を踏んだ時の傷を見つけた聖が、更に顔を顰めた。

「怪我、してるけれど」
「あ、さっき石を踏んでしまって」
「これ、知ってるの、あの人」
「あの人って、降谷さん? ……さあ?」

 どうして聖がそんなことを聞くのか理解できず、首を傾げる。聖はぎゅっと眉を顰めると、靴を履かせるのを止めて彼女を抱き上げた。

「わ、聖君、」
「…………一果さんはさ、こういう仕事してて怖くないの」
「え、どうでしょう。なんというか慣れたというか、こういうものだから仕方ないと思っている部分はありますが」
「……そう、なんだ」

 そう言って目を逸らした聖は、彼女を抱えたままでゆっくりと歩き出した。廃ビルから外に出ても、オフィスビル街なので休日の今日に人の往来は少なく、パトカーのサイレンも何も聞こえてこない。あんな襲撃をされても通報できないのだから、あのSV室はそういう系統の組織用データセンターで、ゼロもまだ検挙するつもりがない。だから、聖と捜査員にあんな珍妙な格好をさせたのだろう。誰も公安が乗り込んできたとは思うまい。
 とんだ休日になってしまった、と彼女は温い海風の中、空を仰いだ。柔らかくオレンジ色がかった雲がゆったりと流れていく。聖は言葉少なく、彼女を抱き上げたままで歩いていく。そんな聖を横目で見ながら、今日の埋め合わせをどうやってするか、どう聖の機嫌を取ればいいのか。途方に暮れるような思いで、彼女はいた。







 シャワーの細かい水が床面を叩く音が、痛いと泣く彼女の悩ましい声音を隠して、降り注いでいる。聖は柔らかい皮膚を指先でゆっくりと辿り、何度目か、彼女の内腿に吸い付いて歯を立てた。何度も何度も、内出血するほどに柔く歯を立てられて、彼女の白い内腿には聖の歯形がいくつも浮いている。

「っ、たぁ、ぃ」
「ん、ゴメンね」

 本当に痛そうに彼女は眉を顰めてぽたぽた涙を溢して泣くけれど、聖のほうは謝るだけで、止めるつもりはさらさらにない。内腿に歯を立てながらその柔らかい皮膚を舐めれば、痛みと少量の快感に晒された彼女は、顔を反らして小さく喘いだ。その様に、申し訳ないとか可哀想だという気持ちと、相反してざまあみろという醜い嘲りが喉を突く。誤魔化すように彼女の首に腕を回し、泣き声を漏らして喘ぐ唇を塞いだ。舌先を聖にねっとりと嬲られて、瞳を潤ませて泣いている彼女には、明らかに薄っすらとした快感が滲んでいる。
 聖は堪らなくなって、もう一度、その柔らかい腿の内側へ吸い付いて、噛みついた。哀れな女の鳴き声が、バスルームにまた木霊した。



 あの後濡れ鼠の彼女を抱えて近くのホテルに入り、とりあえず石を踏んだという足裏の処置をしようとした。彼女は足の裏を丁寧に聖に洗われることに羞恥と少しのむず痒さで居心地悪そうにしていたが、ふと気づいたのは、彼女のスカートの裾から覗く太腿に、赤い鬱血の跡があることだった。まるで力の強い男が、指で強く掴んだようにも見える。しかし自分ではない、自分はこんなところを強く触ってはいない。そう思った瞬間に、頭の奥がさあっと冷えていく。

「一果さん、これ」
「え、あ、降谷さんに何回か抱えられたので……」

 なんとでもないことのように言うその様が、更に聖を苛立たせた。バスタブに腰かけさせ、洗っていた足を一度下ろす。彼女のワンピースのスカートをまくり上げれば、太腿にははっきりと男の指の、手のひらの跡が残っていた。

「何これ」
「え、……あ」

 低く呟いた聖の声音に、何がしかの地雷を踏んだことがわかったのだろう。彼女は瞳をさ迷わせて、何を言うべきか考えている。そもそも、気に入らなかった。
 
 事の始まりは、お手洗いに行くと言った彼女を見送ってすぐにあの降谷という例の公安の男に声をかけられたことだった。彼は人好きしそうな軽薄な笑みを浮かべるくせに、全く目が笑っていない。かけられた言葉はこうだった。

「彼女には急だが任務が入った。そのため、既に配置へ向かっている。残念だが、けれど折角のデートなんだし、君も当件に協力しないか?
 ……ふふ、いや。あのワンピース、よく似合っているだろう。もっといろいろと連れまわしてやりたくないか?
 今日は『せっかくのデート』なんだから」

 嘘だ、さっき彼女はお手洗いに行ったばかりじゃないか、という反論と、けれどこの男なら誘拐紛いにも彼女を仕事へ駆り出させるだろうという嫌な信頼感とが混じり、結局聖は頷いた。降谷の着ていた丈の長い軍服めいた上着と、自分の着ていた上着のシャツを交換する。薄手のコートのような服を着込み、言われるまま詰襟までを留めた聖に、逆に聖のシャツを羽織って軽装になった降谷は満足そうに笑った。
 その服を着、言われるままに軍帽と狐面を付けて、他の捜査員と共にビルへ押し入った。渡された長い警棒は竹刀とは使い勝手が違ったが、どうにもならないレベルのものではない。途中で一度降谷がこっそりと様子を見に来たようで、彼女の作業はあと10分ほどで終わるため、上階へ移動し退路を確保しながらもう少し時間を稼げとオーダーが入ったようだった。
 上階への移動後、ややあって非常ベルの音が発報しスプリンクラーも作動した。聖のいた位置はそこまで濡れたわけではなかったが、気づいたときにはずぶ濡れ状態の彼女が奥にある一室から出てきたところで、降谷に抱えられて去っていった。握った警棒を、満身の力を込めて、振り抜く。
 現状について、全体を俯瞰できる人間が彼女と共に行動し、彼女をこの場まで送り届け、そして何としても逃がす必要があったということはわかる。そしてそれは例えば、聖と降谷の配置が逆ではいけなかったのだ。わかっている、聖は公安協力者であって公安の人間ではない。そして彼女も降谷も、公安の人間だった。
 降谷と彼女の脱出の目途が立ってから、聖たちもビルから逃げ出した。途中、二つ隣のビルで彼女が待っているから迎えに行けと言われて向かった先、古びたビルの廊下で、その降谷と行き当たった。既に彼は聖のシャツを着ていなかったが、聖は自分の羽織っていた薄手のコートと、軍帽と狐面を渡す。降谷は聖の代わりにそれを身に着け、そして手慣れた様子で聖が扱いに苦戦した警棒を伸ばした。ジャッと音を立てて警棒を伸ばし、同じ音を立てて伸縮を戻す。その様子を見ている聖に気づいた降谷は、警棒を腰にしまいながら薄く笑った。

「後は彼女のこの靴を、……随分な濡れ鼠にしてしまった。風邪を引かないようにしてやってくれ」

 そう言って彼女が履いていた靴をこちらへ放り投げると狐面をつけ、階下へ向かって駆け出す。降谷が来た方面の一室で見つけた彼女は、聖の着ていたシャツを持っていた。降谷と交換したはずの自分のシャツを、降谷は持っておらず彼女が持っている。ずぶ濡れの彼女は薄いワンピースの素材が肌に張り付き、体形もあらわだった。白い生地のため、下半身は薄くだが下着の色も透けている。見える二の腕には少しの鳥肌が立っていた。
 寒いとでも言ったのだろうか、彼女が。そして降谷が彼女に着ていたシャツをかけたのか? 降谷はこのずぶ濡れ状態の彼女を見て、そしてそもそも抱きかかえて走っていた。ひくり、と米神が引き攣る。
 気に入らない。寒がった彼女に自分の代わりに上着を渡したこと、彼女が今日着ているワンピースについて知っている素振りだったこと、彼女を抱きかかえて走っていたこと、この有様の無防備な彼女を見たという事実、彼女の靴を降谷が預かっていたこと、全部全部気に入らなかった。

 脳裏を駆けた回想から視界を今の彼女に戻して、詰めていた息を吐き出す。
 少し震えた彼女を見下ろして、出しっぱなしのシャワーが水音を立てている。「聖君、あの」 彼女の制止を無視して、聖は彼女が着ていたワンピースのファスナーをゆっくりと下ろした。彼女は慌てて止めようと聖の腕を掴んだが、じっと自分を見下ろしてくる聖の目に体を震わせて、抵抗をやめた。
 怯えた素振りの彼女の唇を吸い、淡く息を吐いたその隙間から舌を差し込む。耳をかりかりと引っ掻きながら舌を擦り合わせれば、彼女は少し溶けた目をした。その隙にワンピースのジッパーを下ろし切り、濡れて肌に張りついていた衣服とインナーシャツを、肩から下ろして脱がす。恥じらうよう顔を背けた彼女を冷ややかに見下ろして、聖はバスタブに腰かけた彼女の体を見分した。
 肩、胸、腹、脇腹、そして腰。指でゆっくりと辿っていくと、腰の辺りにくっきりとした男の手のひらの跡があった。聖はそれを見て、なんだか笑えてきてしまった。こんな跡を付けられておいても彼女はぼんやりと、あの男が職務だけの相手だと、まだ思っている。少なくとも、聖にとっては全くそうではなかった。

「一果さん、こんなところまであの男に触らせたの?」
「……え? いや、なんで、こんな、」
「ひどいよね。こんな腰なんてえっちな部分に、他の男に掴んだ跡なんて付けられてさ。……本当、」

 口をパクパクと開閉させて何か言い訳を考えている彼女を無視し、下ろしていた足を大きく広げさせてその内腿をあらわにする。がり、と強めに歯を立てると、彼女は「っ、ぅ、」と小さく悲鳴を上げた。
 涙を滲ませて自分を見下ろしてくる彼女に、聖は苛立ちを隠しもせず湿った前髪をかき上げる。少し上気した彼女の目線に、見せつけるように太腿を掴んで唇を寄せ、こう言った。

「イラついて、仕方ない」







 翌日、朝から庁舎で昨日盗み出した購買データと金の流れから、監視対象としている組織の関係図を探り出しながら、バターの濃い焼き菓子を貪り食っていた。大立ち回りしたことと、聖がよくわからないが稀にみるバチギレをしていたこともあり、なんだか体が痛かったのだが目の前の男にそれを言っても仕方がない。彼女はむっすりとしながらコーヒーを啜ったが、ゼロのほうはけろりとした顔で彼の端末へ彼女が送信した現在の作業進捗を眺めている。

「この部分、もう少し深堀して」
「お渡しした資料にメモつけて送り返しといてください。後でタスク化します」

 すげなく言えば、ゼロは不思議そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。彼女がなんとなく機嫌がよくないのはわかっているのだろう。まあいいか、の顔をしてそのまま彼女が広げていた焼き菓子の山に手を伸ばす。

「ちょっと、それ私のですが」
「俺が買ってきたんだから。いいだろう、一つくらい」
「昨日の『お詫び』として買ってこられたんですよね? 降谷警視正」

 降谷の伸ばした手を叩いて言い返せば、降谷は不満そうな顔をしてから伸ばした手を戻した。彼女は大きく溜息を落とし、小さめの焼き菓子を一つ、降谷のほうへ弾いた。焼き菓子は机の上を滑って、降谷のほうへ向かっていく。彼はそれを受け取ると、包装を剥がして一口で食べてしまった。

「ちょっとバターが濃くないか?」
「こういうものでしょう」

 言い合いながら、コーヒーで甘い菓子を流し込む。公安で降谷の部下として仕事をして三年以上が経つが、いまだにゼロの考えていることはよくわからないと思っている。「昨日は悪かったな」と言って登庁してきた降谷は彼女に有名店に焼き菓子を差し出したし、彼女はそれに対して周りがはらはらするようなすげない態度を取ったが、降谷がそれを気にする素振りもない。いつもの通りにじゃかじゃか次の仕事を振ってくる。

「…………やってもやっても仕事が終わらないの増えるばかりびっくりする。もうやめたい」

 ゼロとのミーティング終了間際、開始前より2.5倍ほどに増えたタスクを眺めて思わず呟けば、ゼロはそんな彼女を見て、鼻で笑った。

「辞めれるわけないだろう。君が」
「ヴ、……仰るとおりでございます」

 しおしおと言って、項垂れて次の焼き菓子を開ける。鼻の奥がツンとするのは、バターの塩気が効いているから。そういうことにしたかった。
 聖と一緒にいたいのであれば、公安を辞めるわけにはいかない。聖は公安管理でなければ、一般社会で生きてはいけない。たとえ彼女が聖を庇って許してほしいとどれだけ懇願したとして、社会も法律も聖を許しはしない。
 だから、聖は公安協力者としての価値を保ちながら生きていくしかないのだ。そしてその立場を守るためには、公安内部の聖の側にいることが何よりも彼の助けになる。

 そんなことを考えながら、自分の端末と食べ散らかした菓子のゴミをミーティングルームから片付けている彼女は、自分を見るゼロの目線に気づかない。デッドロックとは、二つのプロセスが互いの処理終了の待ち合いをし、結果としてそこから先へは進めなくなる状態のことを指す。
 
 降谷零は、無事に育った公安協力者と一人の捜査員を見て、内心でにんまりと笑った。福城聖は、彼女が公安を辞めないので公安協力者を辞めることや公安から離れて暮らすことなど考えもしない。宗原一果は、福城聖が公安から離れて生きることはできないと思っているので公安を辞めるなんて考えもしない。
 お互いがお互いのことを思って進退できなくなっているこの様に、降谷はこれが欲しかったのだ、と内心で笑っている。優秀な捜査員も優秀な協力者も、早々手放しては育成した甲斐がない。自分を見てくる降谷を不思議そうに見返す彼女に、降谷は何でもない、と小さく首を振った。
 感情面での察しは悪いが仕事は早く頭の回転も速く、度胸もあって仕事にのめり込みすぎないちょうどいい鈍感さがある。大切な大切な、手塩に掛けて育てた彼の、『降谷零』の部下である。
 そういう部下と上司のザマを見ながら、警察庁公安と一般的に呼ばれる企画課の幾人かは、こう思っていた。
 後方上司面とは、まさに降谷零のこの態度を指していう言葉である、と。












DeadLock!!
聖が公安から離れては生きていけないので聖のために公安に在籍を続ける女と、彼女が公安勤務を続けるので公安から離れるなんて思ってもみない聖と、その感情の煮凝りみてぇなデッドロック状態を作り上げた人材管理力の高い降谷零の話


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