コイコガレ
最終便は17時台だったのに、なんとか空港にたどり着いたときには既に17時近かった。預け荷物は同行者の聖に頼んでいたので、チェックインだけして保安検査後に搭乗口へ向かうと、搭乗口でその聖が待っていてくれた。機内へ乗り込んで腰を落ち着けてから早々に、飛行機は離陸した。東京と旭川間は一時間半ほどだから、向こうに着くのは19時過ぎだろう。出張という名目の予定を詰め込むための連日の無茶がたたって、揺れるシートの上で目元を擦ると、隣の聖は「寝ていていいよ」と薄く笑う。
その言葉にぼんやりと頷いてから、瞼を閉じる。隣の聖が少し息を漏らすように笑ってから、自分の上着をかけてくれたのがわかった。礼を言おうと思ったが、睡魔には勝てない。次に目が覚めたのは聖に「着いたよ」と肩を揺すられたときだった。
「あ、もう……?」
「よく寝てたよ」
聖が微笑んで言って、彼女の分の手荷物も持ってシートから立ち上がる。彼に促されるままにシートから立ちあがり、預けた荷物を回収してみれば、やはりもう20時に近い時間だった。予約していたレンタカーを受け取り、これから旭川市街まで行かなければいけない。ぼやぼやしている彼女の手から車のキーを抜き取り、トランクに荷物を詰めた聖は手早く彼女を助手席に押し込むと、予約したホテルへの住所をナビに入力してから車を発進させた。
仕事で来ているのだから運転は自分がすべきなのでは、と思うが手慣れた様子の聖に言っても「北海道は僕のほうが運転しなれているから」と取り合ってくれない。諦めてぼんやりと窓の外を見たが、外には黒い闇が広がるばかりだった。
旭川の刑務所に収容された福城良衛への面会申請が通ったのは、聖が公安預かりとなってから三年が経過しての頃だった。彼と彼の父親の様子を鑑みてのことだったが、彼女としては、まだ早すぎるのでは、と思っている。運転席の聖はじっと前を見て、ハンドルを握っている。過度に緊張した様子には見えないが、それでもいつもよりも口数が少ないようにも見える。
こちらを見ている彼女に気づいて、聖は「どうかした?」と軽い調子で聞いたが、彼女は曖昧に首を振って目を瞑った。敏い彼のことだから、彼女が聖を見ていた理由も何もかも、お見通しだろう。淡く笑った、聖の吐息が聞こえた。
聖の父親が収監された旭川の刑務所は、旭川市街からは車で20分ほどの離れた位置にある。翌日も結局車のハンドルを握っていたのは聖で、自分は何をしに聖と一緒に北海道に来たのだろう、とぼんやり思った。
もちろん、聖の監視監督業務のためのはずである。けれど、本来の関係よりも親しくなってしまったような、自分のような存在がいては余計に話しにくいだろうと思い、面会には立ち合わなかった。これは職務怠慢なのでは、と薄ら考えるのだが、ゼロも他の上司も、彼女のそういう態度や振る舞いについて問い詰めてこない。いいように使われているな、というのが彼女の感想だった。
およそ1時間ほどの後、面会を終えた聖が戻って来た。少しぼんやりとして考えごとをしているようだったが、彼女を見て「お待たせしました」と軽く言って笑う。案内をしてくれた担当者に礼を言って別れてから、車までの道すがら「どうだった?」と聞けば、やはり聖は困ったように笑った。
「あまり話せなかった?」
「そういうわけでもないけれど、……そうだな」
聖は少し迷う素振りを見せてから、車の運転席でナビを触る。
「この車で札幌まで乗って行ってから、そこから函館まで飛行機だっけ」
「その予定ですね」
「確か、面会にかかる時間が読めなかったから、飛行機のチケットはまだ取ってないんだよね? ……よければ函館まで、僕が運転して行ってもいいかな」
「それは予定が変わったことを報告すれば構わないけれど……。函館まで5時間以上かかるでしょう?」
「そうだね」
面会の受付をしてから案内があるまでは多少時間があったため、予定よりは多少時間が押していたが、それでもまだ昼過ぎの時間だ。これから函館へ向かえば夕方には着くだろう。しかし高速道路でも5時間以上かかる距離は、それなりの長距離運転になる。彼女はあまりいい顔をしなかったが、聖も聖で「そうだね」と頷きはしても、あまり譲る様子もない。
彼女は少し迷ってから「途中で疲れたら教えて」とだけ返事した。
「ありがとう」
衒いなく礼を言って笑ってみせた聖に、少し目を細めてみせてから助手席に身を預けた。ナビをいじって今日の宿泊予約をしてあるホテルの住所を呼び出し、ルートの選定をしている彼には、やはり数年ぶりに父親に会ったことで思うことがあるのだろう。
彼女も変わらず仕事が忙しいし、聖のほうも来年に卒業を控え、ますます学業が忙しいようだった。会うこと自体もこれがおよそ一カ月近くぶりのような有様で、ゆっくりと車を走らせ始めながら考える素振りの聖を見るに、自分は彼のことをあまり知らない、と、ぼんやりと思う。
車窓の外の風景はだだっ広い平野が広がり、本土の、東京の風景とはあまりにもかけ離れている。こういうところで彼は、福城聖は、育ったのだ。そういう思考に彼女も沈んで、ただ、流れる風景を見ていた。
ごうごうと高速を走って、3度目の休憩のために止まったのは、八雲のPAだった。聖は「走り慣れている」の言葉通りに危なげのない運転で車を走らせており、途中無理矢理に一度運転を代わったが、2度目の休憩以降はまたハンドルを握っている。
運転をしているときのほうが何となく無心になって考えに耽ることができるのは、彼女にも何となく経験がある。車を降りたときに「疲れてないか?」とは聞いたが、聖は事もなげなく「そこそこね」と答えたので、彼女は深い追求をやめた。
八雲PAからの眺めはよく、天気がいいので噴火湾と呼ばれる海まで見通せる。お手洗いに行って周囲を見渡せば、聖の後ろ姿はPAの敷地の端に見えた。眼下の湾までの眺望を見ているようだ。自分もそちらへ行って聖に声をかけようとしたとき、ふとスマホが鳴っていることに気づく。見れば私用端末への着信で、実家の母からであった。視界の端に聖を入れながら、通話を取る。
『あ、やっと出た。久しぶりね』
「うん、何か用事だった?」
『従弟のマル君が結婚するって報告に来てるから、あなたにも挨拶したいって』
「そうなんだ、代わってもらってもいい?」
従弟に結婚することへのお祝いと、結婚式はするつもりらしく式を楽しみにしていることを伝えると、また電話口に母が戻ってくる。最近の仕事の調子はどうだ、と聞かれたので「そこそこ」と答えた。
『今外にいるの? 鳥の鳴き声がする』
「……ああ、今出張で、北海道にいるから」
『へえいいわねぇ。お土産買ってきてよ』
「時間があれば」
曖昧に返事をすると、陽気な母は冗談だと思ったのか電話口でけらけらと笑った。近いうちに実家にも顔を出せと言われて、「そうだね」と口先だけの約束をして通話を切った。駐車場の端に立って風景を見ている聖に近寄って「お待たせしました」と声をかけると、聖はぼんやりした目つきのままで彼女を見た。
「何を見てるんですか?」
「ああ、……うん。ここ、昔来たことあるな、と思って。……家族で」
「そうなんだ」
柵がなく、そのまま芝生の公園フィールドに通じているらしい造りのPAは、確かに子どもであれば喜んで駆け出すような風景だ。幼い聖が歓声を上げながら駆けていき、それを後ろから慌てて追いかける聖の父親と、見守る母親の光景が見えた気がして、ふと胸が辛くなる。
「この辺りは漁業が盛んだから、多分釣りをしに来たんだ。近くに有名な釣りスポットがあって、海もこんな風にきれいだった」
「そのときは、……ええと、たくさん釣れたの?」
「さあ、どうだったかな」
迷った末の問いかけに少し悪戯めいた顔で笑い、聖は眺めていた風景から目を逸らす。なんだかその様子がとてもいたたまれず、彼女は左腕に巻いていた腕時計を見た。
「寄っていく時間くらい、ありますよ。ホテルは時間が遅くてもチェックインできるし」
「いや、……でも」
「さっき母から電話があって、お土産を頼まれてしまったので。漁業が盛んなところなら、いいお土産があると思いませんか」
「…………敵わないな」
重ねて言った彼女に、聖は小さく微笑みを返し、「そう言うなら、行こうか」と車へ踵を返した。
昔聖が行ったという覚えがあるのは、八雲駅方面の中心地近くのようだった。次のインターで一度高速を降り、少し戻ることになる。だが、結論から言えば、聖が釣りをしたという場所を見つけることはできなかった。
八雲町方面に戻る途中で道に迷っているらしき老人を見つけてしまい、彼女を自宅まで送り届けていたのだ。送り届けた先ではその老人を探し回っていたようで、大変恐縮されてお礼を言われて、お茶とお菓子をご馳走になってしまった。老人から話を聞き、自宅がどこなのかを割り出すのに時間がかかったことと、老人の自宅が海岸沿いから離れていたこともあり、八雲の漁港近くにたどり着いたときにはもう日が暮れてしまっていた。
「日が暮れてしまうと、何もわからないね」
「ごめんなさい、私が余計なことを言わなければ」
老人が迷子なのでは、ということに先に気づいたのは助手席で周りの風景を見ていた彼女のほうだったので、少し責任を感じていた。聖は「そんなことないよ」と首を振る。
「僕だって見つけていたら気になったし、戻って話を聞こうって言ったのは僕だから」
聖はそう言ってから、日が暮れてからは人気のない漁港を見て、近くに車を停めて少し海岸沿いを歩こう、と提案してきた。道の脇には他にも停めてある車が数台あったため同じように邪魔にならないように寄せて停め、防波堤向こうの夜の海を見る。漁港なだけあり、夜釣りをしている観光客も少なからずいるようで、彼らの持っているライトの光が時折揺れて見えた。
「でも、一果さんのお土産が買えなかったから」
「ああ。函館の空港で買うので、大丈夫」
ざぶ、ざぶ、と水が寄せては帰っていく音が聞こえる。海辺は明かりが少なく暗く、隣の聖の表情はあまり見えなかった。どこか遠くで年若い誰かの歓声と、軽い破裂音、そして花火の匂いが柔く香ってくる。今日は天気が良かったし、海辺で花火をしているのだろう。その香りになんとなく郷愁を誘われて、ぬるいコンクリートの防波堤に肘をついてもたれかかる。ぼんやりと夜空を見上げていた聖は、彼女が珍しく姿勢を崩したのを見て取って、「どうかした?」と聞いてきた。
「いえ、花火の匂いってすごく懐かしさを感じるなって思って」
「そうだね」
まざまざと脳裏に思い浮かんだのは、昼間喋った従弟と実家の庭で花火をしたときのことだ。他の兄弟や親戚の子どもは少し年が離れていたこともあり、花火をしてきゃらきゃら笑っていた記憶があるのは一歳年下の従弟と、自分だけだ。
「一果さんも、小さい頃に花火とかした?」
「しましたよ。聖君も?」
「うん。家の庭でもしたし、父さんが海岸沿いまで連れて行ってくれて、そこでもやった覚えがある」
そこで数秒の間、聖は考え込むように少し黙った。漁港から見える星ぼしは、周囲に光が少ないこともあり、よく見える。
「面会したときにさ、父さんが謝ってきたんだ。『お前の夢を奪うようなことを強いた。申し訳なかった』って」
「…………そう」
「……別に謝ってほしかったわけじゃないし、父さんに謝られたから僕の何かが変わるわけでもない。でもそこで初めて、ふと僕はこの人を許せないと思った。
今まで一果さんや他の誰か、……例えば大阪の服部君が僕に対して『夢はどうするんだ』って怒ってくれたこと。それが初めて現実の質感を伴なって、目の前にある気がした。僕は、この人に、父親に『僕が』『何をすべきか』を強いられてきたのか、と。父さんが僕に謝罪をしたことで、父さんが僕に強いてきた事実は、現実になってしまった」
夜の海を背景に訥々と話す聖に、彼女は何も言えず聖を見た。いつもは柔和に細められる目線は、じっと暗く黒いコンクリートを見ている。
「けれどどう見ても記憶より痩せた父さんを見て、同時にきっとこの人を狂わせたのは僕の母さんの死なんだろう、とも思った。
母さんは海外への出張が多かったけれど、戻ってくる日には父さんは絶対に母さんを迎えに行っていた。二人は今から思っても、仲のいい両親で夫婦だったんだ。父が斧江さんと難しい顔をして話し込むことが多くなったのも、母さんが死んでしまってからだった」
「…………」
「確かに僕の中に父を憎く思う気持ちはある、父が嫌いなわけじゃないし、父さんがこれ以上どうにかなってしまったら、僕はどうしたらいいかわからない。こんなこと、父さんには話せない。
父を許せない、と思ったことと同様に、僕はずっと考えていた。父さんが謝ってきたとき同時に、こうも、思ったんだ。
……僕は。果たして父のように狂わないと言い切れるだろうか、と。
例えばもし、万が一君を亡くしたとして、僕は狂気に走ることなく、僕で、……いられるだろうか」
震える声でそう呟いて、聖は拳を握りしめた。そんな彼の顰められた視線に、苦しそうな眉間の皺に、彼女は何も言うことができなかった。何を言っていいかわからず、代わりに彼の小刻みに揺れる拳にそっと触れる。聖はそれを見て少し微笑もうとしてから、失敗したようだった。腕を取って、自分より数段背の高い彼の胸元に額を寄せる。乾いた唾を飲み込む素振りが、彼が泣くことを耐えていることを伝えてきた。硬く拳は、握りしめられている。
「私……、公安に勤めていることは、家族にも誰にも、言っていないの」
彼女も何度か唾を飲み込み、ようやくそう吐き出した。急に話し始めた彼女に、逆に聖は少し落ちついたようで、至近距離の彼女を見下ろしている。
「子どもの頃はああやって花火をして、はしゃぐような子どもだった。けれど就職して公安の仕事をして、家族にも誰にも話せないことが山のように増えていく。母や家族はきっと、昔の花火に目を輝かせた子どもと変わらない私だと思って、私に接してくれている。
けれど、私はもう、両親にも誰にも話せない秘密をいくつも抱えてしまった」
「…………」
「私は今後、聖君以外の人ともし付き合うことがあったとして、私の仕事のことや本当のことなんて、一言も話すことができないと思う。
君がお父さんに、父を恨んでいると、許せないと、話すことができないように。私も両親にこんな仕事をしていることは、一生明かせない」
そこまで言って、彼女はぐっと喉を鳴らした。
「……だからさ、聖君。
これは、私達二人だけの秘密にしようよ。私と聖君は、世界で二人だけの共犯者でいようよ。
……君がお父さんを許せなくても憎んでいても、君自身の愛情の深さが、例え憎んだお父さんと同じものだったとしても。それを私が全部許すよ。私だけは君の共犯者でいる、から」
その続きに、だから泣かないで、と言いたかったのか、ずっと一緒にいよう、と言いたかったのかはもうわからなかった。かき抱くように引き寄せられて、髪に、冷たい雫が沁みていく。
彼女にしがみ付き嗚咽を堪える聖は、まるで小さな子どものようだった。引き寄せられたまま、彼の服の裾をそっと握る。彼と、どんなに夜を一緒に過ごして体の奥まで暴いて、融け合うようなキスをしたって、眠る夢の中まで同じにすることはできない。
どれだけ愛を伝え合って眠った夜でも彼の夢も、彼女の夢も、思いも考えも愛情も何もかもは秘密で、お互いになること、お互いのすべてを知りえることは一生ない。それでも、きっと分かち合いたいから側にいるのだ。
生きる先を分かち合いたくて、嬉しいことや悲しいことや、怒りや憎しみや誰かを許せない自分の醜さやさらけ出すことのできない罪悪、そして誰かに幸せであってほしいと祈る気持ちを、分かち合いたいから。人は人と、一緒にいるのだろう。
強く抱きしめてくる腕からそっと抜けて、聖を見上げれば、彼は蕩けそうな目をして泣いていた。彼女はちいさく笑って、恋人の頬を濡らしていく涙を指先で拭う。
重すぎる愛がもし彼を苛むのであれば、きっと自分がその重みに耐えられるだけ、強かったらいいんだ。そう思った思考はまでる上司の脳筋ゴリラが乗り移ったようにも思えて、少しだけおかしかった。聖に会って初めて、誰かを他人をいとおしいと思うその感情を、胸を締め付けるその息苦しさを知った。星空みたいだ、と彼女は思っている。光のない海に、夜空はまるで降るようだった。際限なく、多く、深く。どこまでも。
その後二人でわんわん泣いてからようやく出発し、予約していた函館のホテルへ辿り着いてみれば、結局は深夜にも近い時間になってしまっていた。翌日の予定は聖の母親の墓参りのみだったため、二人がようよう起きて動き出した頃には昼近くだった。郊外の山間にある聖の母の墓を掃除をし、買ってきた花を供えて手を合わせる。
隣の聖は昨日の茫洋とした目つきが嘘のようで、いつもの柔和な彼に戻っている。聖が掃除道具や桶とひしゃくを片付けている間に帰りの飛行機の時間を調べていると、その聖が「あ」と声を上げて走り出した。
「ちょっと待ってて、すぐに戻るから」
そう言って彼は墓地から走って行ってしまった。監督役としては失格であるが、今の彼に出会った頃のような不安定さは見受けられない。彼女は追いかけようともしなかった。そういう自分の心理を傍から見て、ゼロはそろそろ、担当を外すと言ってくるかもしれないな、とぼんやり思った。お互いの執着は十分に強く、きっと聖が公安の庇護下から抜けることはもうないし、この手綱をこれ以上彼女が持っていることにデメリットが出てくる頃合いだろう。
少しして戻って来た聖は、原付バイクの鍵を持っていた。聖が彼女の手を引いて連れて行った先には、昔彼が乗っていたという水色のスクーターがある。
「北海道を離れるときに友達に譲ったんだけど、その友人が見えたから追いかけて、借りてきた」
聖はそう言って、彼女にヘルメットをかぶせる。
「ここから景色のいい山頂まで、裏道があるんだ。行こう」
「原付の二人乗りは交通違反だけど」
「ここ一帯ってこの墓地のお寺とか、もしくはうちのセスナ管理用の私有地なんだ」
聖はそう悪戯めいて笑うと、懐かしそうに原付のハンドルを握ってエンジンをかけた。諦めて、聖の服の裾を握る。原付は見るからによく手入れされており、大事にされていることがとてもよくわかる。聖が持ってきたキーについていたキーホルダーは、剣道の防具がモチーフのものだった。バイクを貸してくれ、と急に現れた聖に、今のバイクの持ち主は驚き、そしてさぞ安堵しただろう。今の聖に、3年前のような思いつめた痛々しさはない。
初めて会ったときの、泣いてはいないのに泣き腫らしたような聖の瞳を、覚えている。
内勤の多い彼女は、自身だけで一人の公安協力者の担当をしたのは、聖が初めてだった。初対面のとき、北海道からほぼ着の身着のままで連れてこられたばかりの聖は、迷子の子どもみたいに瞳をさ迷わた。濡れたように見える目は、茫洋として彼女を見た。光の見えない、薄暗い海の色だと思った。
少しずつ聖の心が回復していくのに、別に彼女だけが関わっていたわけではない。武道や剣道の心得がある捜査員も多かったし、彼らは今も聖に声をかけ、一緒に稽古していることもあるようだ。
努力がすべて報われるなんて思っていないし、聖だから努力が報われたとも思っていない。けれど方向性の修正をしながら研鑽を積み重ねることのできる聖は、確かに才能のある人間だと思う。そう言っただけで彼は刷り込みみたいに彼女に懐いたのだから、彼が受け取っていた愛情や関心の薄さに悲しくなってしまった。
福城良衛は決して息子を愛していなかったわけでも、誇りに思っていなかったわけでもない。けれど彼の一番の関心は息子ではなく、死んだ妻だった。そして妻を殺した戦争を止めるためと題された、斧江忠之との宝探しにのめり込んだ。その斧江との約束が、妻を亡くした福城良衛の逃避先になってしまった。皮肉にも、愛した妻との子どもさえ、巻き込んで。
そしてそんな聖を『悲しい』と感じた時点で、彼女も聖に少なからず、好意を抱いてしまっていた。ゼロは恐らく、その彼女の心情を見抜いていただろう。ゼロに恋心を利用されたのは聖だけではなく、彼女も同じだった。
風を切って、聖のバイクが山を駆け上がっていく。彼は少年時代、この山に登って遊んでいたという。そういういつかの少年の話を、たくさんたくさんいつまでも、聞いていたい。開けた視界には函館の街並みが広がる。その奥には光を弾いて輝く海がある。スピードを緩めて「見て!」と叫んで彼女を振り向いた聖の瞳は、眼前の海と同じみたいで、きらきらと眩しかった。
君にいつまでも笑って健やかで楽しく生きてほしい、私のこの感情が愛じゃないなら、この世に愛なんてない。存在しない。
「すごい!」と大きく叫び返して笑いながら、彼女はそう思った。いつかのどこかで愛が彼女を聖を、例え狂わしたとして。
それでもこの愛をやめないことが、きっと二人の生きることだ。
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