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オモイオモワレ

1.
 用意しなくていいと言っているのに、生来の世話焼き好きなのか染みついた気質が抜けないのか。ダイニングテーブルに用意された食事は彩りの良い家庭の食事だった。彼女は卓上に並べられた皿と「冷蔵庫に酢の物があります」のメモを見て、嘆息を落とすとジャケットから腕を抜いた。少し砂埃の匂いのするジャケットはもうクリーニング行きだろう。自室とした一室のランドリーバッグにそれを放り込むと、冷蔵庫から缶ビールを取り出して一息に煽った。冷蔵庫の中の酢の物とはわかめと胡瓜の和え物で、大学生の好む趣味とも思えない。深夜二時にも近い時刻とはいえ、寝静まって起きてくる気配のない同居人はおおよそ華の大学生らしからぬ、のだった。



 警察庁公安が彼――福城聖に目を付けたのは、必然とも言えることであった。父の願いに報る忠義、母を奪った戦争への憎しみ、卓越した身体能力、現役医学生の頭脳。そのまま在野にあって埋もれさせるには惜しい才能で、在野にあって許される才覚ではなかった。
 思想とは、寄る辺のない人間へのであり、正義の心には正しい先導者が必要だ。福城聖は自身の減刑、父の保護と引き換えに北海道での今までの生活を捨て、公安に管理される人間となった。そしてその監督役になったのが、彼女というわけだ。
 監督役と言えど、福城聖は東京の医学部に転学し学生を続けているので、定期的に連絡を取って様子を見、彼を公安協力者として育成すればよいだけの話であった。それの様相が少し変わってきたのは、彼の監督役を初めて一年した頃。彼と、彼の父が「目的」のために争った男、ブライアン・D・カドクラの取引相手が来日する予定が立ったのだ。さらに、その際にどうやら福城親子を探しているようだという情報が入ったことが決め手となり、彼女は福城聖の護衛のため、彼の自宅として手配したマンションへ泊り込むことになった。
 とは言っても、昼夜問わず張り付くには無理がある。福城聖は多忙な医大生だったし、彼女は彼の他にも案件を抱えていた。そのため、日中は公安内でシフトを組み福城聖の警護を行い、夜間は業務を終えた彼女が福城聖の自宅へ帰宅するという流れになった。他にもっといい方法があったのでは、と後々に彼女も周りも思ったのだが、福城聖の警護に関する会議を行ったときは、その取引相手の来日に関する警護計画やその他の業務か重なって三徹をキメていた。そのため、まァどうにもならなかった。そして決定事項を覆す会議をする時間も、代替案を模索する時間もなかった。
 こうして公安勤務のアラサー女が深夜、男子大学生の住む部屋に帰宅するという世にもしょっぺー構図が出来上がったというわけである。皆様お仕事お疲れ様である。

 さて。一方の福城聖のほうは、自身が父と共に「目的」のために行った様々な犯罪やを見逃してもらう代わりに、身柄を公安預かりとする。そういう契約に是としたときから自身の面倒を見てくれている公安の担当者の女性に、ほのかに好意を抱いていた。初めは鉄面皮に表情の崩れない、あまり笑うことのない年上の女にいささかの萎縮と、若干の敵意を持っていた。それは、彼と彼の父の「目的」を馬鹿なことだ、と彼女が断じたからだ。
 確かに結果を見れば、父の行いには意味はなかったかもしれない。けれど、盟友との約束に従事し身を捧げた父の生き方を彼は馬鹿だとか愚かだとか思っていなかったし、思いたくもなかった。自分がそう思ってしまえば、父の味方でいる者がいなくなってしまう。その考えもあったと思う。
 しかし一年ほど彼女との面会という名の交流を重ねて、彼女が「馬鹿なこと」と断じたのは父の行いそのものではなく、自分の願いに聖を巻き込んだこと、その一点であると知った。聖の大学での成績は公安へ連絡がいくように手配されているが、その成績を見た彼女が目を細めて、「勿体ない」と一言呟いたのだ。

「君はこんな事件に巻き込まれなければ、立派な医師になってそれこそ君の母のように紛争地帯への派遣や、そういう地域へ医療をどうやって届けるか。そういう仕組み作りにも携われるような医師になっていたでしょうに。本当に、馬鹿なことを」

 大学の成績は、よかった。近所の道場で居合の稽古は続けていたが、近しい友人を作る気にもなれず勉強だけに打ち込んでいた。その現実逃避の結果を見て、彼女は至極残念そうに言った。

「……他にすることもありませんし、それだけのことです」
「君はわかっていないね」

 成績の表示されたタブレットから目線を上げ、彼女が聖を見る。喫茶店の窓から差し込む光を弾いて、彼女の睫毛がぬらりと光る。その目の下には薄く隈が浮かんでおり、手先にはささくれが目立った。聖と会うのは二週間に一度ほどだったが、いつもあまり寝ていないのだろうな、という印象を受けた。

「居合にしろ勉強にしろ。結果や成果を出すための努力をし続けることができることを、人は『才能』と呼ぶんだよ。
 君には才能がある、それだけだ」

 福城聖は、まァ有体に言って、惚れっぽい男である。例の事件前にも「かっこえぇやん」と高校生の女の子に褒められて、まんまと惚れてしまった。人当たりが良く顔も整っているために周囲から騒がれ慣れている彼は、彼自身を等身大で同じ目線から褒めてくれる人間に、女性に、弱かった。聖は何も言い返すことができずにぼんやりと彼女を眺めていたが、彼女はそれに気づく素振りもなく少し冷めたコーヒーを啜る。ややあって、気恥ずかしくなって目を逸らしたのは、聖だった。
 そうしていささかの萎縮と若干の敵意は、ほのかな恋心に反転した。
 繰り返すが、福城聖は、惚れっぽい男なのである。






2.
 作られてしまったものに手を付けなくても後味が悪い。書置きのメモには、用意した食事が多かったら朝食にするので残しておいてくれていい、と書いてあり、彼女が食べないという選択肢については考慮されていない。シャワーを浴びてから冷蔵庫の中の酢の物と卓上の煮物を食べ、ビールを流し込んだ。翌日――と言っても日が変わってはいるが、明日は十時までに出勤できればいい。三時前には自室の布団に引っ込み、目が覚めたのは八時を過ぎていた。既に部屋の中には福城聖の姿はなく、会話もしていない。しかし、ダイニングの卓上には彼女の分の朝食と思わしきお握りが二つと、コーヒーが入っているらしきサーモスの携帯マグも置いてあった。思わず頭を抱えた。
 これでは、大学生の男の子に自分の面倒を見させているヤベェ女の図だ。しかしそのままうかうかもしてられないので、手早く顔を洗って化粧をする。慌てて家を出る時間になって、福城聖が用意しておいてくれたお握りと携帯マグを掴んで部屋を出た。もはや、ぐうの音も出ない。駅で食べたお握りは梅干しが入っていて、美味しかった。男子大学生の趣味じゃないだろ、と思った。
 登庁すると、珍しく「ゼロ」が来ていた。別の部下と話していた彼は、登庁してきた彼女を見つけるとこちらへ近寄ってくる。

「久しぶりだな」
「ご無沙汰しております、降谷さん」

 担当案件の報告をいくつか上げ、降谷がそれに指示を出していく。よすぎるテンポで進む報告連絡相談を慌ててメモに書き留めていると、降谷がじっとこちらを見た。

「あれはどうなんだ、北海道から来た、例の」
「福城ですか。今は第二シフト班が日中警護に当たっているはずですが……」
「いや互いの親睦的な意味でだが」
「はあ……」

 今朝も彼に世話を焼かせてしまったことを思い出して胡乱げな顔をした彼女に、降谷は眉を持ち上げてみせる。あまりうまくいっていないのか?の問いに慌てて、そういうわけではない、と首を振った。

「なんといいますか、世話焼き気質なのか人がいいのか。少し困惑しておりまして」
「ああ。君が世話の焼き甲斐のありそうな人間だということは、なんとなく想像がつく」

 曖昧にぼかした言い方をしたのに、降谷にそう言われて自分が生活能力のない人間だと言われているのかと、思わずむっと降谷を見る。降谷は「っと、セクハラだったかな、今のは」と演技臭く口許を押さえた。

「まあ、俺は使えるものは何でも使えと思っているタイプだからだが、うまく世話を焼かれておくのも一つの手だろう」
「? そういうものですか」
「そういうものさ。興味対象が君である限りは、他には目が行かないし側から離れることもない。彼のように寄る辺のない人間には、思想や指し示す方向性、正しい正義、そして背後に庇う『誰か』が必要だ。その『誰か』に君がなったっていい」
「私は彼に庇われたいわけでは……」
「だから、そういう『使い方』の話、さ」

 降谷はさらりと言うと、懐で鳴っていた端末に応じながら行ってしまった。彼女はひとつ溜息を落とすと、デスクに掛けて本日の業務をチェックする。内勤が中心で、今日はそこまで遅くならずとも帰れそうだった。福城聖と、話をしなければならない。そう思った。



 帰宅したマンションのダイニングで、福城聖は卓上にレポート課題用の資料とPCを広げていた。いつもよりもずっと早く帰ってきた彼女を見て、彼は驚いた顔をした後で、「お疲れ様です」と柔く微笑む。食事はしたか、何か食べるなら、という彼を遮って、彼女は彼に座るように言った。

「単刀直入に言うけれど、私の食事など生活の世話をしなくてもいい。そういったはずです」
「そう、ですけれど。一人分でも二人分でも、手間は変わらないので……」
「それは君の都合でしょう」

 困ったように笑んだ福城聖に、彼女がぴしゃりと言い切ると聖はさっと顔色を変えた。なるべく冷静な顔を作って、彼を見る。若干心が痛むが、彼を他人にいいように使われるような人間にしないためにも、過度な世話焼きは諫めておく必要があると思った。

「君には不便をかけて申し訳ないと思っているけれど、私がここに間借りするのも一週間以内には終わります。君は別に、通常通りの生活を送ってくれればいいんです。過度に私に気を遣わなくても、世話をしなくてもいい」
「だけど……」
「君の本分は学生でしょう」

 諭すように言った一言に、聖はぐっと言葉に詰まる。彼女は「そういうことだから」と言ってダイニングの席を立とうとした、そのとき。

「……僕が心配なんだ!」

 ぱっと腕を掴まれた。反応が遅れたのは、相手が聖だと思っていたから、その油断に他ならないだろう。掴まれた手のひらは厚く大きく、皮膚には剣蛸のような硬さがあった。男の手のひらであった。
 聖は無垢な子どものような、さかしまに男のような眼差しで彼女を見ていた。彼の手のひらに掴まれた皮膚が、熱い。福城聖の眼差しに、その真摯さに目を逸らしたのは、彼女のほうだった。掴まれた腕を引き、「え?」と声を上げて体勢を崩した彼の懐に入り込み、卓上に叩きつける。ガツン、と大きな音がした。

「君の、感情でしょう」

 私に押し付けないで。
 彼の首元を押さえて唸るように言えば、福城聖の目が揺れた。割れる硝子のように揺れた瞳は、ややあって逸らされる。心が傷ついたときの所作だった。彼女は押さえつけていた彼の首元をゆっくりと離すと、「ごめんなさい」と小さく謝った。

「私、君が気に掛けるような、思うような、人間じゃない。だから、私のことなんて気に掛けないで」

 聖は目を逸らして、何も言わなかった。懐の端末が鳴り、大きな音がしたがと、安否を問うメールが同僚から送られてくる。それに椅子を倒してしまったのだと言い訳をしながら、自室に入って目元を覆った。
 自分は降谷のように、他人をうまく使うことなんてできない。正しく導くことなんてできない。だからせめて、何にも捕らわれることなく邪魔されることなく、生きる先が健やかであれと願うしか、できないのだ。
 
「それは『私の感情』でしょう……」

 自嘲の呟きは、彼女自身にしか、届かない。






3.
 聖は毎朝、近所の道場で素振りをしてから大学へ行く。なんならその前に三十分ほどランニングをするので、起床後に部屋を出るのは朝の六時ごろだった。今回の件で公安捜査員が警護につくという話が出た際には、申し訳ないのでその間はランニングや道場へ行くのを控えようかとも言ったのだが、公安捜査員らも元々は武道を嗜んでいる者が大半を占めていたのもあり、余計な気は回さなくていいと何度も言われた。
 今朝も聖がランニングに出ると、曲がり角からさっと現れたのは、ここ数日で何度か見かけた公安捜査員の男性だった。彼も一緒にランニングするつもりのようで、ウェアに身を包んでいる。

「おはよう」
「おはようございます」
「なあ昨日、大きな音がしていたみたいだが」

 珍しく並走してきたと思ったら、そう切り出されてぎくりとした。男は聖の表情を見て、はあと嘆息する。

「やはり君との諍い絡みか。なんだ、思い余って手でも出そうとしたか?」
「ぃエ?! いやいやいやいや、そういうわけでは!」
「アイツ真面目だからさ、ちゃんと順序は踏んでくれよ。傷害沙汰も勘弁だぜ」

 聖は知らないが、このとき一緒に会話を聞いていた公安捜査員の中では「傷害沙汰って病院送りになるのはどっちだ?」「そりゃあ福城君だろう」「アイツいつも容赦ねぇからなぁ」「それよりも賭けは俺の勝ちだぜ、次の飲み代忘れんなよな」「しかしまさかヘタレ……もとい真面目そうな福城君が手を出そうとしてたなんてなぁ」「彼だって男だやるときゃやんのさ」「ガッハッハッハッハ違ぇねぇ」というわりと最低な会話が交わされていた。ちなみに賭けには降谷零警視正も参加していた。他人事だと思ってサイテーである。
 じゃあな、と用事は済んだとばかりに速度を落として離れていった公安捜査員を見送って、聖はぐっと唇を嚙みしめた。昨日彼女に言われた「君の感情でしょう」という言葉は、正直めちゃくちゃ刺さった。致命傷気味だった。結局深夜遅くに帰ってくる彼女が、いつも目の下に隈を作って仕事に打ち込んでいるような彼女が哀れで、少しでも役に立ちたいだとか楽にしてあげたいだとか、心配だとか。そう思うことは聖の押し付けでしかなく、彼女自身はそれを望んでいないのだろう。それを一般的には「片思い」と呼ぶのだ。
 聖は道場で日課の素振りを終えると、シャワーだけ浴びて大学へ向かった。彼女が自室とした客間からは、ことりとも音がしない。まだ靴はあったのでいるのだとは思うが、聖が自宅にいる限り、部屋から出てこないつもりだろう。
 今回の件で彼女が聖の自宅に泊まり込むと聞いたとき、困惑したがそれ以上に嬉しかった。聖の自宅は元々捜査員が泊まり込んでの監視ができるように広めの部屋が借りてあり、初期は男性捜査員が泊まることも数度あった。それが今度は彼女がここに泊まるという話をしに来て、なんでこうなったのかわからないと首を傾げている彼女の目の下の隈は色が濃くて、目つきはぼんやりとしていた。「とりあえず、よろしくね」と言った彼女には、聖に対しての警戒心など欠片もない様子だった。退庁して戻ってきた彼女に「お疲れ様です」と声をかけたとき、少し困った顔で「ありがとう」と礼を言われたこと。じんわりと胸の内が温かくなる心地だった。
 冷静で真面目な彼女のことだ。聖の監視業務や協力者としての育成に彼女が手を抜くことはないだろうが、ああして気を許したような素振りをすることは、もうないのかもしれない。そう思うと悲しいのと同時に、どうしようもないやるせなさが身を襲った。結局聖自身の愛とは、きっと『誰か』に身を尽くすことにあるのだ。それを拒否されてしまっては、振られたも同然だ。
 そんなことを考えていると自宅へ戻ることも億劫で、気づけばゼミの研究室でいつもよりも遅くまで論文を読んでいた。スマホに着信した日中の警護シフトの捜査員からの「そろそろ帰宅しなさい」とのメールに、慌てて帰り支度を始める。時刻は二十一時を回っていたが、恐らく彼女はまだ帰っていないだろう。コンビニに寄って何か買って帰ろうか。
 そんなことを考えながら駅からの道を歩いていると、少し先でそのコンビニから出てきた人影を見つけた。彼女だった。顔色が悪く、手に提げたコンビニ袋からエナジードリンクのどきついパッケージが見え隠れしている。声をかけようか迷って逡巡していると、ふと彼女の後を追っていく別の人影が見えた。
 不審に思ってそのまま彼女とその人影を追っていく。駅から自宅までの道は徒歩十五分ほどで、その途中には夜間には人気のない月極駐車場の横を通る。まさか、どうようか。自分を警護している捜査員に相談すべきだろうか。そう思案している矢先に、前を歩いていたはずの彼女と、人影が視界から消えていた。ぞ、っと背筋を悪寒が駆け抜ける。思わず走り出すと、後ろから追ってくる足音が聞こえる。見れば、今日の警護をしている捜査員だった。

「どうした?」
「さっき前を宗原さんが歩いていて、それを男が付けていたように見えたんですが、いないんです!」

 それを聞いた捜査員は軽く舌打ちをして、インカムで他の捜査員と連絡を取り始める。最後に彼女を見た辺りで止まると、聖は周囲を見回した。道路脇にエナジードリンクの入ったコンビニ袋が放られており、それは確かに先ほど彼女が手にしていたものだった。月極駐車場の中に駆け入り、ぐるりと辺りを見回して彼女を探す。月極駐車場の奥にはフェンスの切れ目があり、その奥には住宅間の隙間の細い路地があった。だっと駆け出す。後ろで警護の捜査員が自分を引き止める声がしたが、構っていられなかった。







 昨夜は持ち帰った仕事をし続けて明け方に布団に入ったが寝付けなかったし、浅く嫌な夢を見たし、そのせいで仕事も散々だった。仕上げた報告書には誤字脱字が多いし、自分でも意味が分からない言い回しが多いし、捜査計画書も警備計画書も全くまとまる気配がない。挙句にはデスク上のコーヒーを溢して大騒ぎをし、盛大な溜息を吐いた降谷に「いいから帰れ」とオフィスを追い出された。せめてもの抵抗でPCは持ち帰ってきたが、仕事になるのだろうか。気休めのエナジードリンクを手にぶら下げながら、帰路を歩いていた。
 自分の集中力が散漫なのは、昨夜の福城聖との諍いが原因であるのは、明白だった。傷ついた顔をした福城聖のあの表情に、ここまでこちらが心を抉られるのであれば、それは彼女の覚悟が足りなかっただけの話だ。彼女は協力者として育成すべき青年に、努力家だと褒めれば気恥ずかしげに目を逸らすような、礼を述べれば嬉しそうに微笑むような青年に見事に情が移っていたし、正直かわいいと思っていた。憎からず思っているからこそ、彼を傷つけたことに彼女自身が傷ついているのだ。
 そうして、何度目かの溜息を落としたときだった。
 ガツン、と後頭部に衝撃が走り、視界がくわん、とぶれた。後頭部を何かで殴られたと理解したときには、腹を抱えられて引きずられていた。大きな声を出そうと思う前に口に何かを嚙まされて、再度腹を殴られる。はっ、はっと聞こえるのは男の荒い呼吸音だけだった。男は血走った目で彼女を見ている。見覚えがあった。数日前に検挙した半グレグループの中の一人だ。検挙時には現場におらず、行方を捜索していたはずだ。
 男は無言のまま彼女を引きずっていき、細い路地を抜けて近くの町工場の中へ連れ込んだ。工場には鍵がかかっておらず、恐らく元々目を付けてあったのだろう。引きずっていた彼女を工場の床に叩きつけると、荒い息のまま工場内をがさがさと漁っている。彼女を拘束するための縄でも探しているのか、それとも。殴られた衝撃で未だにめまいがする視界を持ち上げ、じっと男を観察する。上背がそこそこにあり、今の状態で相手に勝てるかどうかはわからなかった。それでも、このまま捕まっていていいはずもない。どうにか体を持ち上げようとした、そのときだった。

「宗原さん!」

 工場の扉が開き、飛び込んできたのは福城聖だった。どうして、と彼女が目を見開く間に、男の姿を認めた聖は木刀を構えて駆けだす。彼の声に驚いて同じく振り向いた男は、ひぃと小さく悲鳴を上げてから、懐から拳銃を取り出した。

「く、来るな、この女を、撃つぞ!」

 取り出した拳銃の銃口をこちらへ向ける。聖は一瞬ぐっとその場に踏みとどまり、木刀を構え直した。じり、と彼の履いているスニーカーの底が工場の床を滑る。男は荒い息のまま「木刀を捨てろぉ!」と叫んで銃口を聖へ向けた。瞬間。
 だっと聖が木刀を抜刀の構えにして駆け出した。男は大きく目を見開いたまま銃口を聖に向ける。ガァン、と自分に向かって撃たれた銃弾を身を屈めて避けると、聖はその下段構えのまま下から男の懐へ飛び込み、木刀を振り抜いた。渾身の力で振り抜かれた木刀が腹に当たり、吹き飛ばれた男が、工場の機械にぶち当たって大きく音を立てる。わん、と耳鳴りがした。

「……大丈夫ですか?!」

 機械に打ち当てられた男が動かないのを見て取った聖が、慌てて駆け寄ってくる。体を起こそうとしたがめまいがひどく、力が入らなかった。聖は彼女の様子を見て慌てて携帯で電話をかけている。恐らく彼の警護に当たっていた同僚たちを呼んでいるのだろう。

「すぐに救急車も来ますから、しっかりして!」
「きみ、なんで……」

 聖の頬には、撃たれたときに掠ったのだろう擦り傷があった。なんで聖はこんなことをしたのだろう、恐ろしくはないのだろうか。彼は彼女に銃口が向いているときは動かなかった。自身に銃口が向いてから、それを見計らってから、動いたのだ。興奮状態の男が銃を撃つだろうことがわかっていて、それでも。

「わたし、そんなことしてもらう、ぎり、ない……」
「そん……、俺が! したいんです!」

 呟いた彼女に、聖は咄嗟に言い返した。彼女の目は虚ろで、殴られた後頭部からは血が流れている。指先は相変わらずささくれでざらついて、泣きそうだった。

「俺が、あなたを好きだから、そうしたいんです……、そのことに、それ以上に、理由がいりますか?」

 自分の手を握ってくる彼は、聖は泣きそうだった。そんな顔をしないでほしい。彼女は小さく笑って、聖の手を握った。厚く剣蛸のある、今にも泣きそうな、男の子の手のひらだった。

「ないかも、ね……」

 その手のひらの熱さを覚えたまま、彼女の記憶はそこで途切れる。聖が自分を呼ぶ声だけが、耳の奥に響いていた。






4.

「それでも公安か!」

 目覚めて一発目は、鬼の形相のゼロからのそれ公!!だった。警視庁の風見さんから話には聞いていたが、くそ怖かった。ひぃぃん~~~と内心で泣きながら叱責を切り抜け、同僚から「まーでもこうやって囮を買って出てくれたから捜査の手間が省けたよな!」という心無い感謝の言葉をもらい、そうして検査のため病院で二泊している間に、福城聖との同居期間は入院明けには終了していた。件のブライアン・D・カドクラの取引相手が母国へ帰国したのだ。
 これでやっと自分の家に帰れる。二泊の入院中に買った荷物を片付けていると、個室だった病室のドアがノックされた。また降谷が何かの叱責か、それとも次の仕事を持ってきたのか、それとも同僚の誰かか。そう思いながら返事をして振り向くと、そこに立っていたのは福城聖だった。

「あ、今日が退院だって聞いて……」

 驚愕が顔に出ていたのだろう。気まずそうな顔をして彼は目を逸らすと、人差し指で頬を掻いてから「持つよ」と荷物に手を伸ばした。彼女は何も言い出せず、結局聖が彼女の荷物を持ってしまう。
 警察病院のナースステーションに軽く目礼をして、病棟から降りるエレベーターに乗る。タクシーを捕まえようとすると、聖が駐車場を指さして「車借りてきたから」と言った。

「なんで……」
「あの時も言ったけどさ、」

 駐車場へ向かって歩き出した背中に思わずそう問いかけると、聖は少し困ったようにしながらも、はにかんだ。彼女の荷物を片手に、こちらへ手を差し出す。剣蛸のある、分厚い、男の手のひらだった。

「僕がしたいんだ」

 そうやって微笑んで言った彼に、思わずぽろりと涙がこぼれた。急に目元を押さえた彼女に、慌てた聖は近寄って肩を抱く。どうしたんです、どこか痛い?なんて聞く彼は、心から彼女への心配に溢れていて、きっとコントロールできるものではないんだ、と悟った。
 彼女が彼に正しく健やかに生きてほしいという願いも、聖が彼女を哀れに思い役に立ちたいと願うことも、それ自体をまやかすことも消滅させることもできない。彼らにできることは、それを見るか、見ないのか。その選択のみだ。

「痛くない、どこも」
「じゃあ、なんで」

 心配そうにこちらを見る聖を見る。わかっている、聖はそれを見ることにした。私は? 彼女は自分に問いかける。指先で聖のシャツを握った。指先はささくれて、たおやかな女の指とはいいがたい。髪はぼさぼさで、化粧もまともにできていなくて、彼より年上の女で、彼は有望な医学生で、そして自分は。

「君が、誰かに使い潰されてほしくない。君が医師として、正しい道を歩いてほしい。
 ……私、君が、好きみたい、だから」

 我ながらティーンのような泣き事に、ほとほと嫌気がさす。俯いた彼女の手を、聖は無言で握っていたがややあってそのまま引いて、歩き始めた。無言のまま歩き出した聖の背中に、彼女は慌てて着いて行く。聖は無言のままで駐車していた車の鍵を開けると、その助手席に彼女を押し込んだ。「ふ、くしろ、くん」 上を向いて抗議の声を上げようとした彼女の肩を、聖がぐっと押す。噛みつくようにキスされたのは、そのときだった。

「ふ、…し、んッ」
「黙ってて」

 鋭く囁くような声音が、いつもの柔和な彼らしくなった。数度のキスの内に腰辺りの背骨を撫でられ、ぞくぞくした痺れが脳髄までを駆け抜ける。ぬっとりと柔く舌が彼女の舌を撫でて、軽く耳を指先で擽られたことに小さく「んっ」と喘ぎ声が漏れた。
 やっと離された唇から垂れた唾液を舐め取り、顔を赤く染めた彼女を見て、聖はふっと鼻で笑った。

「あなたが使えばいい」
「え?」
「僕が使い潰されてほしくないと思うのであれば、あなたが僕を使えばいい。あなたは、そういう立場の人でしょ」

 聖は開き直った態度でそう言うと、運転席に回り込んで車にエンジンをかけた。

「僕の家とあなたの家と、どちらがいいですか?」
「え?」
「『あなたが僕を使う』ということに関して、もう少し話し合いが必要かと思って」
「話し合いって……」
「僕があなたを好きなので、ぜひ使ってほしいという『お話し合い』です」

 聖はさわやかに笑ってそう言うと、車を動かし始めた。それは要するに、これから口説くという宣言なのでは、と思い至ったときには聖のマンションへの道を辿っており、その後彼女はまんまと部屋まで連れ込まれていた。
 後日談だが、その後顔を合わせたゼロには開口一番に「交際申告書早く提出しとよ」と事もなげな顔で言われた。思わず「セクハラです!」と叫んだが、「交際申告書は警察官の義務だ」と返された。
 悔しいことに、何も反論できなかった。






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