前回読んだ位置に戻りますか?

2. 『コウメイ』さん

 長野までの新幹線は一般席でも十分に快適だった。今回の出張は実験データテープの運搬と受け渡し、先方の施設長との軽い顔つなぎがメインで、昼前に長野駅に到着しデータの受け渡しと中身チェック、その後の会食を済ませて先方の研究室の方々へ挨拶をすれば、簡単に仕事は終わってしまった。早朝に会社の実験室から運搬用に梱包されたケースを受け取ってから来たので、既に所定労働時間は過ぎている。そこそこの値段の食事処で出された食事はおいしかったが量が多く、お茶をするにも腹がくちて、そんな隙もなさそうだ。
 とりあえず駅前から少し離れて、観光をすることにした。ちまちま調べていた結果、バスで十五分ほどのところに有名な寺があるらしく、とりあえずそちらへ向かう。境内も広く、参道には出店が揃い賑わっているらしい。今日は平日なのでバス乗り場付近に人気もあまりない。これなら参拝客も少ないだろう。さくっと観光してホテルへ戻り、明日も近場の観光スポットを少し見て、昼過ぎに帰路につく予定だ。卯ノ木のとってくれたラルジクラスの指定券は十五時前の乗車なので、昼食をとってお土産を買っていればちょうどいい時間だろう。
 
 ここまで来てやっと予定が整ってきたことに気をよくしたわたしは、とりあえず行き先として定めた寺院行きのバスへ乗るべく、ロータリーの横断歩道を渡ろうとした。と、向こうから車が走ってくる。その車が行ってしまってから渡ろうと足を止めれば、その車は律儀に横断歩道の前で停車をしてくれた。確かに最近取締が多いと聞くが、親切な車だ。目礼をしようと顔を上げ運転席を見ればどうにも見たことのある顔で、あちらもいささか目を丸くしている。しかし歩き始めた足は止められず、目礼だけをして横断歩道を渡りきってしまった。思わず振り向けば、ピンク色がかったその車は発進するところで、助手席に乗っているもう一人が何事か話しかけている影が見える。見間違いにしては、向こうも目を丸くしていたように見えると、先ほどの彼の表情を反芻してから、そういえば、彼は―諸伏高明は長野県警へ就職したのだったと思い出し、そんなこともあるかと納得をした。

 諸伏先輩―当時は周りに合わせてコウメイさんと呼んでいたが、彼は法学部在籍の先輩でわたしが入学したときにはもう四回生だった上、学部が全く違う。普通なら面識などない人だったのだが、入学当時にお世話になった学部の先輩が彼と仲がよく、その流れでコウメイさんとも知り合った。一般教養の授業などは学部の先輩が落としまくっていたため、課題などはコウメイさんへ聞きに行くことが多く、また彼自身も長男気質で大層面倒見がよかったので、わたしや周りの一回生共々、彼には大いにお世話になった。大学近くの居酒屋で一緒になって夜通し朝まで飲んだことも何度かある。
 卒業時に主席だったらしい彼がノンキャリ枠で長野県警へ就職したというのには驚いたが、コウメイさんはなんいうか、そういう他人には価値を計り知れないところが多々ある人物だったし、その程度の変わり者は周りに何人もいたので、そこまで気にしなかった。ただ東都から離れることになるので、簡単には会えなくなると少し寂しく思ったことを覚えている。
 わたしもその後留学し日本を離れたりして、彼の卒業後も数度は会ったがなんだかんだとそのまま疎遠になってしまった。学生時代、彼と交換した連絡先はまだ繋がるのだろうか。やってきたバスに乗り込みながら連絡してみようかと考えて、結局やめた。例え久しぶりに彼に連絡してもコウメイさんにも都合があるだろうし、そもそも会って何を喋ればいいのだろう。車窓から見える長野の町並みを見れば全く見たことのない『他の街』の町並みで、同じようにコウメイさんも他人のように思えてくる。
 こうやって勢いや乗りでその場の行動を起こせなくなることが、無謀や無鉄砲、向こう見ずな行動をしなくなり怠惰になっていくことがきっと大人になるということなのだろうと、そんな感傷的なことをつい、思ってしまった。もしさっき見たあの運転席の彼がコウメイさんだったとして、元気そうだった。それに以前と変わらず歩行者に道を譲るように模範的な人で、きっとまだ警察官なのだろう。よかった、と少し暖かい気持ちになった。昔も変わらず好感のあった人が今も元気でいてくれるのは、嬉しいことだ。

 十五分ほどの乗車ののち、大門前のバス停でバスを降りた。上へ登れば目的の寺院があり、長野駅方面へ戻れば土産物屋があるらしい。とりあえず参拝し、戻りもバスを使うか駅まで歩くかはそのときに決めることにして本堂へ続く道を進む。平日で、さらには昼も過ぎて久しいこともあり境内は人も少なく、かなり快適に見て回ることができた。途中の山門はかなり大きく、二階まで登ることができたので登ってみたが、眺望がよく長野市街がよく見通せた。というか途中で薄々気づいてはいたが、この寺院はかなり広いようで全部見て回るには時間が足りないだろう。明日一日かけてくるべきだったかもしれないと少し後悔してから、とりあえず本堂へ行こうとそちらへ向かった。本堂では『内陣参拝』と呼ばれる内部の観覧があるらしく、拝観料を払って中へ進む。少し日が傾いてきたといってもまだ暑いので、日差しのなくなる本堂内は少しひんやりとして、涼しかった。靴も脱いでしまっているので、ストッキングのみの足で板張りの床をぺたぺたと進む。菩薩像などを眺めながら進めば、『お戒壇巡り』という暗闇の回廊を巡る アトラクションのようなものがあった。特に整理の人もなく、好きに入っていいらしい。中には触れば極楽へ行けるという錠前がかかっているらしく、今も学生らしき数人のグループが中へ入っていき、派手に笑い声を上げている。少し迷ったが、折角来たのだからと自分に言い聞かせて暗闇への階段を下りてみる。思ったよりもかなり内部が暗く、思わず戻ろうかと思ったが後ろから階段を下り始めた人影が見えたので、仕方なしにそのまま進んだ。先を行った学生の話し声が回廊に反響している。階段を降りきった回廊内は本当に暗いのだが、右側の壁を伝って歩けばいいだけらしく、途中の錠前までもすぐだった。ただ、暗い回廊の中で虫か何かがいるのか、ストッキングに覆われた足に時折、何かがちらちらと当たる感触がする。あまりに繰り返しするので立ち止まってスカート辺りを確認したいが、後ろにも人がいるので急に止まるのは迷惑だろう。すぐに出口だしと言い訳をして気にしないようにして進み、見えてきた出口の階段を登ろうとする。と、数歩登ったそのとき、先ほどバス停でみたコウメイさんの顔がひょっこりと出口に現れた。驚いて、踏み出しかけていた足を階段から滑らせてしまう。ずるりと滑ったわたしの腕を、コウメイさんが素早く掴みそのままぐっと引き寄せる。どんと彼の紺色のスーツの肩へぶつかり、そのままコウメイさんの涼やかな声が木霊した。

「警察です。
 百聞は一見にしかずと言いますが、彼女の足元を撮影しようと不自然に差し出されたそのスマホ、盗撮の証拠以外の何物でもありません。なんなら、そのスマホの中身を見せていただきましょうか? どうやらご丁寧に、暗視レンズまでカメラに取り付けているようですし」

 コウメイさんがさらさらと述べた口上に、疑問符を浮かべて背後を振り返る。そこには先ほどわたしの後に回廊巡りの階段を下りてきた男性が、真っ青な顔でスマホを握り締めて立っていた。





 あれからわたしの同意の元、男性のスマホ内の写真が改められたのだが、結果としては、思いっきり写っていた。
 一応とはいえ社外への出張用としてスーツを着ていたわたしのスカート内部は、回廊巡りの暗闇の中からしっかりと男性のスマホ内に収められており、コウメイさんの言ったように、ご丁寧にもスマホに外付け式の暗視レンズまでつけての徹底ぶりで、階段部分ではすっかり無防備なわたしのスカート内部を撮ろうとちょうどスマホを差し出したところだったらしい。急に現れたコウメイさんに驚いてずっこけそうになったわたしに更に驚いてスマホを引っ込め損ねた男の犯行現場をコウメイさんは目撃し、現場でスマホ内の確認、即逮捕の見事な流れとなった、らしい。

「いやぁ、災難でしたねぇ」

 コウメイさんと同じ刑事部捜査一課所属だと名乗った上原刑事はお茶のペットボトルを差し出しながら苦笑いをしていた。わたしもそう思う。逮捕が決まった男性はそのままパトカーに乗せられ連行、わたしも被害届の提出と調書を作るのでとそのままコウメイさんの車に乗せられ県警へ直行。本来は所轄扱いの事件らしいが、わたしがコウメイさんの知り合いだったこととコウメイさん独断のおとり捜査じみたところがあったらしく、その辺りを鑑みてコウメイさん所属の県警本部まで連れて行かれた。

「諸伏警部もちょっとどうかと思いますよねぇ、知り合いとはいえ一般人の女性をおとり扱いするなんて。今、黒田課長に怒られてるみたいですけど」
「いやコウメイさん昔から、そういう手段選ばずなところありましたし…」

 正直慣れてます、とごもごも言うと更に気の毒そうな顔をされた。警視庁の佐藤刑事なんかを見ていると、捜査一課の女性刑事は表情の読みにくいクールなタイプが多いのかと思っていたけれど、上原刑事は随分親しみやすい表情のよく変わる人だ。嘘のつけなさそうな雰囲気に親近感さえ湧いてしまう。
 そうして上原刑事となんでもない雑談をしていると、ややあってからコウメイさんが一課長さんだという強面の人と一緒に奥の部屋から出てきた。

「この度はうちの諸伏が大変申し訳ございませんでした」

 そう言って強面の一課長さんが頭を下げるので、慌てて手を振って「気にしないでください」と繰り返す。コウメイさんも同じように頭を下げており、なんだか変な気分だ。されていることは学生時代と大きな変わりがないのだが、大人になって立場が変わると結果が変わってくるらしい。
 恐縮しきりの一課長さんに、わたしは必死に今回のことを公にするつもりはないこと、コウメイさんの突飛な行動は学生時代に見ていて慣れていること、普段も東都で事件に巻き込まれることもあり警察の人にお世話になっているので大変さはよくよく承知していることを繰り返し、なんとか頭を上げてもらった。

「諸伏、はしゃぐのもこれきりにしておけよ」

 話の最後に一課長さんはそうコウメイさんに睨みを効かせるとわたしにもう一度だけ頭を下げて捜査一課の部屋を出て行った。恐らく気を遣われたのだと思う。はしゃぐ?とわたしは疑問に思ったが、叱られていたコウメイさんも苦笑いして否定する様子もなかったので、事実なのだろう。

「えーと、お久しぶりです。コウメイさん」
「ええ、こちらこそお久しぶりなのにこんなことになってしまい…」
「あ、もう謝罪は結構ですので」

 再度謝罪を繰り返されそうな気配に待ったをかけると、コウメイさんはまた苦笑いをする。するりと腕時計を確認し、「ではホテルまで送りましょう」と申し出てくれた。
 雑談に付き合ってくれた上原刑事にお礼を言い、警視庁の方にもよろしくと承って長野県警を出た。コウメイさんは本当にホテルまで送ってくれるらしく、宿泊予定のホテルを言えばすぐに場所がわかったらしい。わたしが大きめの荷物を駅のコインロッカーに預けていることにも気づいて、そちらへも寄ってくれると言ってくれた。
 やはりというかなんというか、コウメイさんは駅のバスターミナルですれ違ったときにわたしの存在に気づいていたらしく、あの位置で横断歩道を渡っていたことから、わたしがあの寺院へ観光に行くことも見抜いたらしい。
 本来、今回の案件は所轄への応援の一環でコウメイさんの職務は現場の確認と所轄の担当者へのアドバイスやフォロー程度だったらしく、また犯人の目星さえ立ってなかったらしい。そもそも、そういった盗撮写真が販売されているという情報があり、それがどうもあの寺院で撮られたのではないか、という疑いはあったが写真の明度が低いので確証もなく、その辺りの確認も兼ねたいわゆる『下見に来た』という段階だったらしい。
 しかしバスターミナルでわたしを見つけ、寺院でも観光しながらふらふら歩くわたしの後をついて歩いてみたら、案の定怪しい男もわたしの後をついて歩いていることに気づいた。さらには回廊巡りの階段もついて降りていくので、出口で待ち伏せて見れば、スマホでわたしのスカート内を盗撮しようと差し出していたところだったという顛末。自分の運のなさというか、コウメイさんの読みの鋭い当たりっぷりに悲しくなってくる。

「今回利用してしまった私がいうのもなんだと思いますが、あなたのそのなんと言いますか……、隙だらけなところ。本当に相変わらずで。
 こんなことを言うのは差し出がましいと思いますが、知人として、非常に心配です」
「いやあー、…すみません。近所の子にも、隙があるから気をつけろとか、よく言われます…」
「そうでしょうね」

 深く頷き納得しきりのコウメイさんの様子に、だんだんと情けなくなる。利用したなど言うが、要するにコウメイさんがいなければ、今回わたしは回廊巡りで盗撮されてそれをネットで売りさばかれていたのだ。お礼を言いはすれ、恨む道理があるはずもない。その後ぽつぽつと近況を話すうちに車はホテルのロータリーにつき、コウメイさんが預けていた荷物を車から降ろすのを手伝ってくれた。ドアマンが近づいてきて、わたしの荷物を預かり予約の名前を控えていく。

「あなた、明日の予定は? 決まっていますか?」
「いえ、どこかを観光してから、十五時前の新幹線で帰るつもりですが…」
「なら」

 そう続けたコウメイさんは少しはにかんで、少年の笑みのように見えた。少しだけ恥ずかしげな、いたずらめいた顔。彼には少し年の離れた弟がいて、大学時代に一度だけ見かけたことがあったが、今の表情はその弟の彼に少し似ていた。

「明日の長野観光、お付き合いしましょう。今日のお詫び替わりということで」
「それは…、ありがたいですが」
「では決まりですね」

 コウメイさんは端的に言いすっと大人の笑顔に戻るとわたしの電話番号や連絡先を控え、明日の九時ごろに再度迎えに来ると言い置いた。後ろからドアマンがチェックインを促す声が聞こえる。コウメイさんはわたしがドアマンに気を取られている、その間にぺらりと手を振って、車に乗りこみ行ってしまった。
 なんとなく流された気分になったが、まあいいかと思い直して促されるままに受付を済ます。平日でしかも長野のオンシーズンは冬のようだから、ホテルも多少リーズナブルに取ることができた。もともと移動費は会社の経費なので、小旅行をする身としてはそのまま有休を使っていいという上司の申し出は大変ありがたい。
 通された部屋も一人部屋にしては狭くなく、ベッドもセミダブルほどの大きさだった。夕食はついていないので食べに出ることにして、手荷物だけ持ってホテルから出る。どの宿泊客もちょうど仕事が終わってホテルへ戻ってくる時間なのか、カバンを持ったビジネスマンらしきスーツの男性と廊下ですれ違った。壮年の欧米人に見えるので、商談かなにかだろうか。軽く会釈をして通りすぎ、階下まで降りる。
 駅前にはそばの店が多かったが、昼間のこともあって少し疲れたので油気のあるものが食べたくなり、悩んだ末に信州ラーメンの店に入った。味噌ラーメンと一杯だけと言い訳をしてビールも頼む。ふと沖矢氏からの『あまり飲まないように』というお小言を思い出して、罪悪感に苛まれているとタイミングよく彼から電話がかかってきた。まだ食事中だったので一旦保留にし、食事が終わったらかけ直すとメッセージを飛ばしておく。
 お会計をして店を出て、コンビニでお菓子と追加でチューハイの缶を買い足してから沖矢氏に電話をかけ直すと、彼はツーコールで出た。

「どうも。長野はいかがかと思いまして」
「いいですよ、すごく。今日は長野駅近くのお寺へ行ったんですが、すごく広くて。回りきれませんでした」
「おや、今は外ですか?」
「はい、信州ラーメンを食べてきました。おいしかったです」
「それはそれは。お酒も飲んでらっしゃる…?」
「はは、少しだけ」

 そう言うと、電話の向こうで沖矢氏が苦笑した気配がした。彼のお小言を守っていないからだろう。わたしも苦笑して、「本当に一杯だけですよ」と再度重ねた。

「もうホテルに帰るところですし、見逃してください」
「まあ、『一二杯に』と僕も書きましたしね。しかしあなたはなんというか……、お酒を飲むと隙が増える質にお見受けしますので、気をつけて。……他になにか、トラブルはありませんでしたか?」

 そう聞かれて、うっと言葉に詰まる。『トラブル』は確かにあった。大人しく昼間の盗撮騒動の顛末を話すと、電話の向こうで大きなため息が聞こえた。「本当に僕が一緒に行ければ良かったんですが……」と反省しきりの様子の沖矢氏に、慌てて大丈夫だと付け足す。

「明日はたまたまこちらで再会した大学時代の先輩が観光に付き合ってくれることになったので、大丈夫ですよ。警察官で、学生時代もよくお世話になった方なんです」
「ホォー、それは、男性ですか?」

 電話の向こうで少しトーンが落ちたように聞こえた沖矢氏に、思わずうっと言葉に詰まる。男性だとか言っていないのに、どうしてわかるんだろうか。『よくお世話になった方』と言ったし、そのニュアンスだろうか。思わずどう話を続けるか悩んだところで、電話の向こうの沖矢氏の声音が元に戻った。

「すみません、少し変な声を出してしまいましたね。男性と言っても、単なる先輩なのでしょう?」
「そ、そうです、一回生の頃に課題のこととかでお世話になったというか、お世話してくれた方で…。すごくしっかりした人なんです」
「警察の方だというし、それなら安心です。どうぞ、楽しんできてくださいね。ああ東都駅へは、迎えに行きますから」
「え、いいんですか?」
「はい。折角の誘いを断ってしまったお詫びも兼ねて。あとは純粋に、あなたの顔が見たいので」

 ごくシンプルに言われて、少し照れくさくなってしまう。話しながら歩いているうちにいつの間にかホテルに着いた。そのままエレベーターホールへ向かうと、後ろからもう一人ホテル内へ戻ってきたのが見える。エレベーター内で喋るのはマナー違反だろうと思い、ロビー近くへ引き返す。よく見れば階段を見つけたので、そんなに階上の部屋でもないしと、階段で部屋まで上がることにした。
 そのまま電話しながら部屋に戻り少しだけ沖矢氏から今日の町内の夏祭りについて話を聞き、論文作成に戻るという彼におやすみを言ってから通話を切った。
 買ってきたコンビニのお菓子とチューハイを冷蔵庫へ入れて、浴槽へお湯を貯め始める。沖矢氏はああして気にしていないと言ったが、本当は気になるのだろうか。わたしが明日、沖矢氏以外の男性と出かけることが。それがなんだかとても解きほぐせないことに感じて、とりあえずわたしは服を脱いだ。ほどけない引っかかりは一旦置いて、風呂に入ってチューハイ飲んで。
 一度、忘れてしまおうと。






 コウメイさんの明晰さは学生時代も変わらず、同じく学生時代も間の抜けていたわたしは、よくよく課題の入ったメモリを無くしたり変質者に追いかけられたりだとかして、コウメイさんに何度も泣きついていた。なぜだか彼は、わたしの行動がある程度予想できるようでよく『他山の石 以て玉を攻むべし』など、失礼なことを言いながら手伝ってくれていた。他人の失敗や誤りが自分を磨く糧になるという意味の慣用句だが、あんな風に自分に言い聞かせるように言わなくてもいいと思う。
 彼が卒業後に東都を離れて就職し、わたしもなんやかやとあって海外へ留学しそのまま卒業を迎えることになった。日本へ戻ってからは東都大時代の友人と連絡を取ることもなく、そもそも一年半ほどしか在籍しなかったので、個人的な思い入れも薄いように思う。沖矢氏に東都大の話を振られても覚えていなかったり知らなかったりすることも多いので、元からの興味も薄かったのだろう。
 だがコウメイさんとの思い出は楽しく、ありありと思い出すことができる。わたしはどうやら、随分彼に懐いていたようだ。
 翌日時間通りにホテルへ迎えに来てくれた彼は、前日と同じようにわたしの荷物をさっさと車に積み込むと、シートベルトをするように言って車を発進させた。昨日のスーツと違い、柔らかそうな素材のサマーニットを細身のボトムと合わせているので、少し若く見える。

「今日はどこを観光するか、決めていたんですか?」
「何も。コウメイさんが教えてくれるかと思って。あ……、考えておいたほうがよかったですか?」
「いえ。あなたらしい」

 コウメイさんは少し笑いを堪えるような声をあげて、言った。車はするすると市街地をの合間を縫って、山のほうへ向かって上がっていく。ずっしりと増えていく緑に、市街地を抜け山奥へと入っていく気配が感じられる。

「戸隠に行きましょう。車でないと行けない山奥ですが、今回は私の車ですから、都合のいい時間に帰ってこられる。奥社へ行こうと思えば二キロほど参道を歩きますが、中社までなら車で行けます。昼食は戸隠そばを食べましょう」
「お任せします」
「任されました」

 コウメイさんは最初からこうなることがわかっていたかのようにプランをすらすら述べ、車を走らせていく。彼の運転する車に乗るのは昨日が始めてだったが、きっと運転のうまい人なのだと思う。そういえば、沖矢氏も車の運転が上手だ。男性は空間把握能力が高い人が多いので、車と周りとの距離を測るのが得意なことも関係あるのだろう。

「なんか変な感じです。コウメイさんの運転する車に乗るの」
「学生時代はもっぱら電車で移動でしたし、私たちは基本的に近場の店でしか飲んでませんでしたから」
「まだあるらしいですよ、東都大の近所のあのチェーン店の居酒屋。知り合いに聞きました。あそこでよく朝まで飲んでたの、覚えてます?」
「ええ。あなたは朝までと言っても、よく寝落ちてたように思いますが」
「おっしゃる通りです」

 車は本格的な山道に差し掛かり、『七曲り』と書かれた屋根の下を潜っていく。コウメイさんが有名な難所だと教えてくれた。七曲りというが、実際のヘアピンカーブは八回あるらしい。大抵こういう回数表現の地名は多くサバを読むのに、少なくサバを読むなんて珍しいと笑ってしまう。コウメイさんは何度か走ったことのある道のようで、落ち着いてハンドルを回している。わたしにはきっと運転できない道だと見ながら思った。ハンドルを回す腕が疲れそうだ。

「結構この道で車酔いする方も多いそうですが、大丈夫ですか?」
「なんとか。すごい道でしたけど」
「下り坂はもっと怖いですよ」

 ヘアピンカーブを抜けて、山道を進んでいく。この道は戸隠バードラインというらしく、元々は有料道路で戸隠高原や飯綱高原への観光客誘致のために作られた道だとコウメイさんがつらつら教えてくれた。この七曲りの道もそこそこ有名でわざわざこの道を走らせてみたいと、バイク好きや車好きやが、観光にも来るのだとか。
 わたしはそこまで車に興味があるほうではないのだが、コウメイさんも車やら乗り物が嫌いではないようで、気持ちはわからないでもないなどと言っている。この車も国産車ではないようだし、車に興味やこだわりがあるのだろう。

 四十分弱ほどのドライブで目的の戸隠神社へ到着した。初めは中社の駐車場へ車を停めて、中社を参拝して境内を見て歩く。戸隠神社の祭神は天岩戸を開けた神様だということは知っていたが、それがひとつの神様だけでないことは知らなかった。相変わらず博識なコウメイさんがぽつぽつとしてくれる説明を耳にしながら、境内を見て回る。中社の辺りを見終わると、再度車に乗り込んで奥社へ向かった。

「よくテレビなどで見る戸隠の案内は、奥社のほうです。特に参道の杉並木は天然記念物にも指定されており、露出も多いんですよ」

 二キロほどの参道にはコウメイさんの言うとおり、大きな杉並木が連なっており、道は舗装はされてはいないがならされているので、歩きづらいわけではない。二キロだと、三十分くらいの道のりだろう。コウメイさんから最近あった興味深い事件の話や、上原刑事ともう一人の仲の良い同僚の話、最近とんと連絡のない弟くんの愚痴だとかを聞きながら参道を歩いた。奥社では天岩戸をこじ開けた『天手力雄命』という神様が祀られているらしい。奥社でも参拝してから少し休憩し、来た道を戻っていく。駐車場まで戻ったところでちょうどいい時間になったので、近くの蕎麦屋に入って昼食にした。

「そういえば、昨日は蕎麦は食べなかったんですか?」
「はい。昨日は油気のあるものが食べたくて、信州ラーメン食べちゃいました。おいしかったです」
「ああ、昨日は疲れたでしょうし」

 コウメイさんがさもありなんと苦笑する。わたしも同じように笑って、蕎麦を啜った。どこかで、食事を共にできる人は好感のある人だと読んだ気がする。昔からコウメイさんと食事するのに緊張したことはなかったなと、ふと思った。コウメイさんがそれに気づいて不思議そうな顔をするので、なんでもないですと首を振る。デザートにあんみつまで食べてしまったので、満腹になりすぎてしまった。

「まだ時間もありますし、少し涼みましょうか。近くに植物園がありましたから、そちらへ行ってみましょう」

 奥社から少し戻って、植物園の方へ入っていく。ここも植物園とはいうが、ほぼ森林公園のようなもので、建物はなくそのままの自然の景色が広がっている。少し歩いて開けたところにベンチを見つけ、どちらともなく示し合わせてそこに座った。

「最近、歩き疲れるのが早い気がするんです……」
「それはあなた、普段から運動をしないからでしょう。あなたのほうが若いんですから、何を」

 からかい気味にコウメイさんが言って、ベンチに崩れたわたしはだらりと頭上を仰ぐ。天気がよく、爽やかな晴天が広がっていた。コウメイさんとこんな風に再会して、こんな風に一緒に歩いたりするとは思ってもみなかった。そう言うと、コウメイさんからも「私もそう思います」と肯定の言葉が返ってきた。

「東都を離れてから少しして、あなたが留学を余儀なくしたと聞いて驚きました。ストーカー被害と聞きましたが……。一年の終わりごろからお付き合いされてた理学部の彼でしょう? その後、大丈夫なんですか?」
「ああ、ご存知なかったんですね。彼、死んだんですよ」
「それは……」
「私も日本にいなかった間のことなので詳しくは知らないのですが、事故だと」

 コウメイさんは言いよどみ、「にしても、あなたはよく変な輩を引き寄せますから」と言いづらそうにする。そんな顔をするが、昨日の顛末だって、わたしがいれば盗撮犯はきっと寄ってくると思ってわざとわたしを泳がせたのだろう。コウメイさんも悪い人だ、別に怒りはしないが上司に怒られても仕方ない。

「今はそういったこともありませんか? 失礼ですが、お付き合いされている方は?」
「いますが、普通……ではないですが、理堅い人でとても頼りになる方で」
「その、『普通』ではない、とは」

 コウメイさんの追求にわたしは少し困って、言いよどむ。それを悟ったコウメイさんは「失礼なことを聞きましたね」と撤回しようとしたが、わたしは首を振って、勢いのままに零していた。

「ねえ、コウメイさんがわたしと価値観の似た、感性の似た人だと思って話すんですが、この年になると誰かと付き合うときに、わざわざ付き合おうなんて、言わないじゃないですか。言わなくても、一緒に出かけたり身体的な接触があったりで、『自分たちはそういう関係なんだ』っておのずと作っていく、みたいな。
 それなのに、そういう一緒に出かけたり身体的な接触がなかったりするのに、向こうはこちらを『恋人』みたいに扱ってくるのって、どう思います?」

 一息に話すと、コウメイさんは珍しく鳩が豆鉄砲をくらったような、驚いた顔をしていた。ややあってコウメイさんは顔を取り繕う。ひとつ咳払いをして、言いづらそうに言葉を選んでいるのがよくわかる。

「それはその、……体の関係もなにもないということですか?」
「いえ、その、なんというか最初に勢いでしてしまいまして……。そのままなかったことにしてもよかったはずなのに、そうならなかったんです。向こうがアプローチしてきて、それでなし崩しに二回目で」
「……はあ」
「体の関係しかないなら、わかるんです。セフレというか。そういうことなら理解できるんですが、全くの逆で、彼がわたしに何を求めているかがわからなくて……。『付き合おう』って言葉があれば、関係が恋人だとわかるんですけれど、そんなことをわざわざいう年齢でもないでしょう」

 そこまで話をしてコウメイさんの顔を見れば、彼は大層困った顔をしていた。どうにもわたしはコウメイさんにらしくない顔をさせるのが得意のようである。
 少し向こうで、きょろきょろと周りを見渡しながらカメラを抱えている初老の男性が見える。観光客だろう。困らせてしまったコウメイさんから離れる口実を作るために、わたしはその初老の男性に近づいた。

「記念写真ですか? シャッター押しましょうか?」

 声をかけてみえば初老の男性は日本人ではなかったようで、驚いたようなハシバミ色の目が揺れる。慌てて英語で言い直そうとすると、その前に彼が口を開いた。

「でハ、お願いシマス」

 少しイントネーションが不安定だが、聞き取りにも喋るのにも不自由はないのだろう。わたしは頷くと彼からカメラを受け取って、奥の池と山を構図に入れてシャッターを押した。何枚か撮るとお礼にわたしも撮ってくれるというのでスマホを預け、コウメイさんのところへ戻る。お礼に写真を撮ってくれるそうだというとコウメイさんは少し驚いたようだが、すぐに気を取り直したように初老の男性に向き直る。男性は練習だと言って自分のカメラで数枚撮ったあと、わたしのスマホで写真を撮ってくれた。見ればカメラを持ち歩いて写真を撮っているだけあって、よく撮れている。観光客の男性は再度お礼を言ってから森の奥へ歩いていった。
 男性が行ってしまってから、コウメイさんとどう話せばいいかわからなくて、困って彼を見上げる。コウメイさんは大変困ったものを見る目でわたしを見下ろし、ため息を落とした。

「そろそろ、戻りましょうか」

 コウメイさんがいうのに頷いて、わたしたちは再度車に乗り込んだ。






 駅の売店で各所へのお土産のお菓子を買い込み、ジャムが何種類かあったので大叔父や哀ちゃんと食べようといくつかカゴへ入れる。沖矢氏も食べるだろうかと悩んでいると、コウメイさんからそれは甘さが控えめですよと声をかけられたので、結局そのジャムを買うことにした。ほかにも菓子をいくつか買い込み、改札へ向かう。卯ノ木が買っておいてくれた乗車券を発券機で発券していると、コウメイさんも入場券を買っていた。乗車するまで見送ってくれるつもりらしい。

「先ほどの話ですが」

 雑踏の中で急にコウメイさんが話し始めた。怪訝に思って見れば、彼もわたしを見下ろしている。

「あなたの恋人の話です。変な男なら、早めに別れてしまいない」
「それ、別の友人にも言われました」
「良識のある人間はそういうと思いますよ。ただあなたがそうしないのであれば、あなたにその男へ情があるんでしょう。あなたは昔からそうでしたね、変な男に引っかかるくせ気にもせず、へらへら笑っている。
 気付けば、その変な男のほうがあなたに本気になってしまって、手遅れだ。……彼は死んだようですが」

 特急車のホームまで来た。コウメイさんは冷ややかな顔でわたしを見ている。ふと、大学生のときも同じような顔で忠告されたことを思い出した。死んだ元カレと付き合い始めたころだ。

「周囲の人間は心配します。その忠告されたご友人もそうでしょうし、私も同じく」
「彼は、昔のあの人のような人ではありませんよ」
「そうだといいのですが……。駄目ですね、あなたはどうにも悪い男を引っかけてくるものだと、刷り込みされているようで。心配が絶えません。用事などなくてもいいので、また私に連絡をもらえませんか? 連絡先は変えていますか?」
「あ、そうですね、学生時代からは変わっているので……。ちょっと待ってください」

 コウメイさんの番号は変わっていないとのことだったので、私の端末から一度コールを入れる。彼はその番号をしっかりと登録してくれたようだ。そうこうしているうちに発車時刻も近くなり、慌てて荷物をまとめる。去り際に「じゃあ」と手を振るとコウメイさんも手を振ってくれた。

「ここにもあなたを心配している男がいることを、忘れないでくださいね」

 コウメイさんが大きな手をすらりと振っていう。わたしも手を振り返して車両へ乗り込んだ。ほどなくして発車のベルが鳴る。乗車券に書かれた座席を探して落ち着けば、もう列車は走り出していた。

「遅かったのね」

 背後から声が聞こえて振り向けば、卯ノ木が立っていた。乗車券の確認をしてもらいそれを鞄へしまうと、卯ノ木がこそこそと包みを渡してくる。包みは焼菓子のようで、まだかなり温かかった。

「さっき、近くの有名なパティスリーへ行ってきたの。こっそり抜けて買ってきたから、早く鞄へ隠して!」
「え、うん」
「まだ温かいけれど、冷めてから食べてね。そのほうが美味しいそうよ」
「ありがとう」

 お礼をいうと卯ノ木はひらめくように笑って、通路を足早に歩いて行った。少しして別の乗客を案内しながら彼女が戻ってくる。乗客が見たことのある人物だったので誰だろうと考えてみれば、以前一度紹介されたことのある卯ノ木の恋人だった。彼も今日この列車に乗るらしい。奇遇なことだと思いながら、メッセージアプリで沖矢氏に戻りの列車に乗ったことを伝える。メッセージはすぐに既読になった。昨日連絡した際の言葉どおり、本当に迎えに来てくれるつもりなのだろう。

「本日はご乗車ありがとうございます。切符を拝見いたします」

 列車が走り始めてすこしして、卯ノ木が社会人の顔をして切符の確認に来た。友人が働いている姿ににやけそうになるのを堪えて切符を差し出す。飲み物のサービスがあると言われたので、冷たいコーヒーをお願いした。初夏の陽気で汗ばむほどだったので、冷えた飲み物が美味しかった。別の席でもからからと音がして、卯ノ木が飲み物をサーブしていく。私はその音を聞きながら文庫本を開いた。東都で買って持ってきた推理小説だが、こちらではコウメイさんと再会したので出番は行きと帰りの列車の中くらいだった。
 なかなか分厚い文庫だったので、三分の二ほどまで読み進めたところで東都が近くなってきた。降車の準備をしなければと伸びをしていると、数時間ぶりに卯ノ木がこちらへやってきた。

「申し訳ないのだけど、あと十分しても『あの人』が起きる気配がなければ、代わりに起こしてもらえないかしら」
「『あの人』って、向こうの卯ノ木の彼氏さん?」
「そう。起こしてって言われてたんだけど、ちょっと手が離せそうになくて」
「わかった」

 頷くと、卯ノ木はほっとしたように通路を戻っていった。言われたとおり、十分待って彼が起きる気配がなかったのでそっと近づいていって彼の肩を叩く。彼はわたしの顔を見て胡乱げな顔をしたが、卯ノ木があらかじめ何か言っていたのだろうか。何かを思い至ったような顔をして、小さく礼を言って目を逸らした。窓際に置いていたコーヒーのカップを取って、中をかき混ぜるようにぐるぐると回すので、かすかな音がした。わたしは自分の席へ戻って、降車のために荷物をまとめていた。列車が徐々に減速していく。着いたら夕方に近いので、沖矢氏はまた夕食に煮込み料理を持ってこちらへ来るだろうか。それとも、大叔父がどこかへ食べにいくと言い出すだろうか。そうでなければ、夕食を何にするか哀ちゃんと相談しなければ。買ってきたジャムは、哀ちゃんは喜んでくれるだろうか。そんなことをぼやぼやと考えていた。そのときだった。

「ぐ、う、ぐぁ、がッ」

 濁った男性の、苦痛にもだえるようなうめき声が聞こえた。はっとして顔をあげれば、先ほど起こした卯ノ木の恋人が胸を押さえて苦しんでいる。彼は苦しみ呻きながら振り返り、こちらを見た。血走った眼をかっと見開く。震える指でこちらを指さし、白い泡がついた唇をぶるぶるとわななかせ何かを言いかけてから、彼の体はがくりと崩れ落ちた。その後数度足を大きく痙攣させてから、しんと動かなくなった。一番最初に悲鳴を上げたのは、私よりも後ろの席に乗っていたらしい、乗客の女性だ。

「きゃあああああ!」
「人が倒れたぞ!」

 騒ぎを聞きつけて、数人の乗務員が通路を駆けてくる。列車は減速を続けていく。なぜ彼はわたしを指さしたのか。恐ろしくなり思わず鞄を抱えると先ほどまではしなかった、かさり、という紙素材の音がした。おそるおそる鞄を見れば、鞄の中には薄い紙の袋のようなものが入っていた。さりさりと、粉末のようなものが揺れる音がする。見なくても音でわかる。薬包紙に包まれた『なにか』だ。どうしてこうなってしまったのか。足元が崩れていくような心地がした。






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