前回読んだ位置に戻りますか?

匙は投げられた

 取り付けたキーボートを叩く。サーバーへのアタックは、必ず今日、成功させなければなかった。物理的に取りつくには今日が一番警備が手薄なのだ。目的のファイルまで厳重に張り巡らさせたセキュリティを抜けていく。予め入手しておいた技術者の権限を使っているから、この技術者はきっと職を失うだろう。しかし、構うことはできなかった。自分はそれよりも大きなものを失ったのだ。
 あと少し、この先に格納されている。そこまで辿り着いたときに、仕様書にはなかったパスワードロックが掛かる。手に入れたDBサーバーの仕様書は最新のはずだ。ここにロックはなかったはずなのに、どうして

「そこのパス、教えてあげようか?」

 カツン、と靴の踵がリノリウムの床を叩く硬質な音がする。ぶわりとその瞬間に汗が噴き出た。そろそろと腰の銃に手をやろうとして、「馬鹿なことはやめたらどうだ?」と冷たい声がする。彼女は流れ落ちる汗をそのままに、きっと背後を振り向いた。しゃにむに掴んだ銃を彼に向ける。彼は、エラン・ケレスは、呆れたように溜息を吐くと自分の背後に控える他の部下に向かって手をあげた。

「あーもういいよ、いつものだし」
「しかし、ケレス様……」
「これ、いつもの彼女の『発作』だから」

 ケレスの言葉に部下たちは「はあ……」と煮え切れない返事をする。彼女は掴んでいた銃をぎゅうっと、音がするほど握りしめた。ケレスが冷たい目線を彼女へ送る。

「俺はこれから寝るところなんだ、キッカ」
「わかってるよ、だから来たのに」
「わかっているなら俺の手を煩わせないでほしいね」
「だって、だって……」

 彼女は銃を握りしめる。銃口はすでに下がっており、彼女はもう今回のミッションが失敗したことを悟っている。それでも、その口は醜い恨み言を溢すことを止められはしなかった。

「だって、旧ペイル社CEO(×4名)の居場所教えてくれないじゃないですか!!」
「当たり前だろう!!殺人が起こるとわかっていて被害者の居場所を教える馬鹿がどこにいるこの馬鹿!!!!」
「はぁあああああ!!殺されて当たり前ですけれど!!
 私から強化人士4号君とスレッタ・マーキュリーちゃんのラブコメ少女漫画奪ったクソババア(×4)ですよ!! ケレス様みたいな企業の坊ちゃまを護衛する面白味のない仕事と生活の中で、やっと見つけた私の希望、光、萌え、推しCP!!だったのに!!!!
 殺されても文句のないことをあいつらはしたんですよ!!!馬鹿ですか!!!!」
「馬鹿はお前だこの馬鹿!!!!」

 ケレスが握りしめた拳を彼女の頭に振り下ろせば、まさか自分の握った拳のほうが痛かった。当の本人は額の辺りを抑えはしたがぴんぴんしており、痛がるケレスを見てにやにや笑っている。ケレスは大げさに溜息を落とすと、自分の背後に控えていたブリオン社の護衛たちに、侵入者アラートの原因は判明したので、ここから退去するように命じた。彼らは互いに目くばせし合い、そそくさとサーバー室を出ていく。ブリオン社に限らず技術者はサーバー室の管理に引くほど煩いので、要らぬ神が降臨する前に早く立ち去りたいのだろう。それは彼女も同じだった。床を虫のように這って退散しようとするキッカの首を、ケレスがむんずと掴む。わめく彼女を掴んで一人だけ残っていた護衛に突き出せば、その護衛はひとつ頷いてキッカを受け取った。

「セセリアを呼んでくれ。多分喜んで引き受けるはずだ」
「承りました」
「恐らく丸洗いが必要だから、隅から隅まで洗い上げろと伝えるように。そいつ、数日潜伏してたから、風呂も入ってないだろう」
「はい、お伝えします」
「ハァ?!余計なお世話なんですが!!」

 ケレスの指示に彼女が喚く。ケレスは首元のネクタイを緩めながら手を「シッシ」と振った。

「行け」
「は」

 ブリオン社に付けられた護衛は、従順にケレスの命を遂行する。恐らくダクトを抜けてここまで侵入してきたのだろう。重役宛ての言い訳はどうするか、そんなことを思案しながらサーバー室を出ていく。髪をかき上げた手のひらを見てみれば、埃塗れのキッカを掴んだせいで同じように汚れていた。シャワーを浴びなければいけないのは、どうやら自分も同じだった。





 放り込まれた浴室で、セセリア・ドートに観察されている。セセリアが連れてきたメイドはブリオン社らしい実直なメイドで、率直に言えば熟練の女だった。

「いだいいだい、痛いってばいだあああ!」
「騒ぎすぎです、はしたないですよ。セセリア様を見習ってくださいまし!」
「そいつはそこで嘲笑ってるだけじゃんだだたたぁ!」
「私はケレスさんに、あなたの世話を仰せつかっているだけなんでぇー」

 散々に体中を磨かれて、這う這うの体で浴室を後にする。そもそも、どうして旧式に人の手で体を洗われなければならないのか。彼女がジト目で隣のセセリアを見れば、セセリアも同じように彼女を見下ろしていた。うっと呻いて、目線を逸らす。そもそも、他人の相手は苦手なのだ。
 セセリアに連行され、社内でケレスの使っている居室に放り込まれる。同じようにシャワーを浴びたケレスは送り返されてきた彼女を見て「ご苦労」と鷹揚に言った。セセリアは「躾はちゃんとしておいてくださいねぇ」なんて言って、さっさと帰っていく。彼女はケレスが出張に出ていた間の留守居役のため、まだ残務があるのだろう。

「さて、出張から戻って早々問題を起こしてくれたわけだが」
「エ…ケレスさんがババア達の居場所を教えてくれないのが悪いと思います」
「あのなあ、何を喜んで人殺しに加担せにゃならんのだ」
「ケレスさんだってあのババア達、嫌いなくせに」
「俺があいつらを好ましく思っていないことと、生き死にとは、別の問題だ」

 ケレスははっきりと言い切り、居間の絨毯に座り込んだままの彼女に背を向ける。取り付けられた冷蔵庫から水のボトルを出して戻ってみれば、彼女はいつの間にか絨毯の上に倒れ込んでいた。そっと近づき、その口許に手を当てる。健やかな寝息が聞こえていたため、ケレスは持っていたボトルを側のローテーブルに置いて、彼女の体を抱き上げた。そのまま自室のベッドに転がせば一仕事終えた気持ちになって、ケレスは揚々と水を飲み干した。

 ペイル社を後にする際に持ち出せたものは、そう多くなかった。ベネリット・グループの解体によりペイル社の資産は売却され、物の持ち出しは社名義から個人へ名義変更ができたもの、そして、もともと『エラン・ケレス』の持ち物だったもの。この二つに限られた。
 そしてこの女、キッカ・ラーラは後者であった。それだけのことだ。
 キッカは元々表情の少ない女で、余計なことを言わないところを気に入って重用しているSPの一人だった。だった、のだが、ケレスの護衛で訪れたベルメリア・ウィンストンの研究室で、運命の出会いを果たしてしまったらしい。
 強化人士四号と、スレッタ・マーキュリー。
 それは確かに、四号が処分された後に代役の代役として出席したインキュベーション・パーティーにて、はにかむスレッタ・マーキュリーを思い返せば、むず痒い気持ちにもなる。なるが、彼女の狂いようは、いっそ見事であった。
 いつものように彼女は部屋の入口にて控えていたはずだった。強化人士にはカメラ内臓コンタクトレンズを着用させており、集音マイクによって周囲の会話も漏らさず録画録音している。強化人士四号が体験したように、その身の回りを映し出すことが可能だった。第三者のケレスから見ても、ガンダムと目されるエアリアルに搭乗するスレッタ・マーキュリーが強化人士四号へ一定の好意を抱いているのは明白で、あの朴訥とした暗い男に誑かされる女がいたのか、それともこの自分の容貌のおかげか、なんて自賛をしてベルメリアと話をしていた。その矢先、「うううう、」という奇妙なうめき声と、ぼたぼたっと何かが垂れて落ちる音が聞こえた。
 キッカだった。入口付近でいつものように直立不動だったはずのキッカ・ラーラが口許を抑えて大粒の涙を溢していた。そしてその抑えた手のひらから滴り落ちているのは、血だ。すわ、何かの病気かバイオテロか、それとも暗殺かと、ケレスもベルメリアも身構える。

「ぐ、ぐぐ、ぐぁ、う」

 呻いたキッカが抑えきれないというように、口許を抑えていた手のひらを外す。ぼたぼたぼたっと、血の滴る音が大きく聞こえた。彼女の鼻から、大量の血が溢れており口許からは、涎を汚らしく垂らしている。

「……鼻血?」

 怪訝に思ってケレスは呟いた。ベルメリアは手元の緊急ボタンを押下したようで、小さく連続して呼び出し音が鳴っている。直に警備スタッフと共にメディカルスタッフもやって来るだろう。「ぐ、ぐへへ、ぐぐぅ」 そんな気味の悪い声を上げ鼻血を垂らしながらもじっと前を見据える彼女を不審に思って、ケレスは一歩、彼女の近づく。

「ケレス様、近づいては」
「俺のSPだ」

 ベルメリアに制止されたが、聞く謂れはなかった。じりじりと距離を詰め、彼女の目が見えるところまで来る。後ろではベルメリアも、ケレスを盾にしながら彼女を覗き込んでいた。

「ぐ、ぐへへ、ひ、こ、これが……」
「これが?」

 ようやっと人語を離し始めたキッカに、恐る恐るケレスは問う。キッカはケレスを見なかった、いや正しくは、目線を逸らさなかった。映し出されたモニタの中の、スレッタ・マーキュリーと何かを話す強化人士四号の記録映像から。

「これが、『萌え』の気持ち……」

 萌え:
萌え(もえ)とは、日本のサブカルチャーにおけるスラングで、主にアニメ・ゲーム・アイドルなどにおける、キャラクター・人物などへの強い愛着心・情熱・欲望などの気持ちをいう俗語。意味についての確かな定義はなく、対象に対して抱くさまざまな好意の感情を表す。(Wikipediaより抜粋)
 これが始めにケレスの脳裏に浮かんだ。フリーの百科事典と言えど、これだけの瞬発的に用語を解説できるなんて、さすが俺の選ばれし頭脳……とは後のケレスの言葉である。そのときの彼は、そんなことを考える余裕など、一欠けらも持っていなかった。なぜなら、目の前の存在が彼の知覚できる範囲の恐怖を上回ったからである。

「ぐ、ぐへへ、ぐふ、かわ、かわいいよ…スレッタちゃん、四号君も……。しょ、少女漫画って本当にこの世に存在、したんだぁ、うひっ、うふ、ぐふ、ふふふふ、だめ、しんどい、可愛すぎる、むり、尊い、四号君とスレッタちゃん、尊いよぉ、お姉さんの心、浄化されるよぉぉ、うっ、うっ、うう、私の心はこんなに汚いのに、う、この世にはこんなに、うう、尊いものが存在する、なんて、うう……」

 正しく大量の公式からの供給に当てられ、語彙を失ってしまった悲しいオタクであった。一説であるが、2000年代以前の昔から、過重労働と公式からの過剰供給を受けたオタクはこのように壊れるのだという。なんと哀れな……というのは後のベルメリア・ウィンストンの台詞である。この場では言葉を失っていた。俗にいう『絶句』というやつである。
 この時点でケレスの記憶は飛んでいる。次に目覚めたのは医務室で、周りには困惑顔のベルメリアとキッカを怒鳴り上げる警備課の課長、部長、そして怒鳴られても話を聞いておらず号泣とにやにや笑いを繰り返すキッカがいた。カオスである。エラン・ケレスは恐怖のあまり、再度気を失った。

「おかしい、ダウナーな感じで回想をしてみたのに、なんでこんな意味のわからん回想になるんだ」

 現在に戻り、頭を抱えるケレスである。その後、明らかに『萌え/推し』の道に進んだせいで壊れてしまったキッカはペイル社の警備局を解雇されたが、ケレスがそれを個人護衛として雇い入れた。目の前で目覚めてしまったオタクの生態が非常に興味深かったからというのが主な要因だ。彼自身も、繰り返される単調な生活に飽いていた。つまり気持ち悪くても理解の範疇を超えていても恐怖を感じるとしても、刺激がほしかったのだ。感覚としてはスナッフ類の鑑賞に目覚める高所得層や浮気物を漁る主婦層、裏返した石の裏を確認しておぞましい光景に叫ぶ小学生と変わらない心境である。びっくりするぐらい鳥肌が立ったとしても、ぎゃーぎゃー言って楽しみたかったのだ。
 それが、今では、こんな有様です。
 ケレスは寝室を見て、がくりと項垂れた。だから自分は反対だったのだ、四号を始末なんてしたら絶対に因果応報で戻ってくる。具体的には、四号を殺したせいで本来足るはずのなかったピースがぱちりと嵌ってしまう。なんかよくわからん虹色とか緑色とかに輝くエンディングを迎えてしまう。そんな気がしていた。だからあのババアども、止めたのによぉ……。
 ケレスは賢いので早々にペイル社からの脱出を決めてそのまま各種名義変更RTAをキメていたわけだが、自分名義ということは、その狂った護衛も連れていかなければいけないわけで。四号から五号へ『エラン・ケレスの代役』が変更された時点で元々以上に殺気立ち、にこりとも笑わなくなった彼女を、連れていけなければいけないわけで。
 エラン・ケレスは、あの護衛を気に入っているのだ。にこりとも笑わなかったところも、よくわからん趣味に目覚めて気持ち悪かったところも、仕事ができ気が利き、そのくせ自身のことには無頓着で自罰的ゆえに献身がすぎるところも、すべて。
 寝室に戻れば、彼女は相変わらずすやすやと眠っていた。先ごろまでのケレスの出張ではその身を隠して護衛に徹していたのだから、仕方がない。ブリオン社ではケレスの腹心とも言えるような部下は彼女しかおらず、彼もまた自身の価値を社会に、会社に、世界に知らしめているその道程の最中だ。ブリオン社からもどこからも、どうやって寝首を掻かれるかもわからず、また自分も適宜掻いていく必要もある。彼女はその野望のための相棒で、必要な道具のひとつであった。

「殺させなんか、しないさ」

 あのババアどもを殺して、それでどうする。キッカは彼女らの居場所を知れば、すぐにでも殺しに行ってしまうだろう。彼女は優秀な護衛でありSPであり、軍人だ。一般人と変わらない老婆四人を殺すなんてわけなくこなすだろうし、失敗なんてしないだろう。そして彼女は生きる目標を失うのだ。ケレス一人を残して。
 そんなこと、許すもんか。すやすや眠る彼女の隣に潜り込みながら、ケレスは呟く。絶対、絶対、許すもんか。推しを喪った悲しみを抱えるなら、俺の気持ちだって理解してもいいだろ。そう思うのだ。
 ただ、彼女の寝間着の背中を、ぎゅっと握った。






 目覚めれば、そこに彼女の姿はなかった。ぼやぼやと目を擦り、枕元の端末が消えていることに気づき、彼の優秀な脳味噌が高速回転を始める。
 枕元の通話端末を取るまで、コンマ一秒であったと後にエラン・ケレスは嘯く。

「セセリアーー!! あいつ俺の端末盗んで抜け出したぞ、探せーーー!!!!ババアを守れーーーー!!!!」
「もーケレスさーん、これ、何度目ですかぁ。うかうか寝すぎなんですよー」
「いいから、探せーーーー!!!!!!」



ちなみにこの後、ケレス様は腕の筋肉痛を患います。成人女性を抱えるなんて無茶しやがって……。

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